初恋
今日僕の妹は家を出る。
***
「ご馳走様でした。お兄さん料理お上手でびっくりしました。」
「お口に合ったようで良かったです。御存知の通り忙しい親を持ったので自然と上手くなってしまったんですよね。」
妹、静菜が婚約者を連れて挨拶に来ると聞き、僕はいつも以上に豪勢な料理で饗した。
というかほとんどが1回くらいしか作ったことがないものだったので多少不安があったが、自分でも驚くほど美味しく出来て一安心だった。
「兄の料理はどれも美味しくて、ついつい食べ過ぎちゃうのよね。」
ふふっと上品な笑みを浮かべる静菜。つられて僕も口元が緩んだ。
部屋一体が優しい空気に包まれる。
普段からこんな日常だったらどんなに安らいだだろうか。
「料理も洗濯も掃除も、全部兄がやってしまうから私は何も出来ないのよね。」
「本当に2人は仲が良いんだね。」
「んー…普通だと思うわよ。でも小さい頃からよく兄は私の面倒を見てくれてたわ。」
今度は綻んだような笑みを浮かべる。こんな静菜の顔は10数年一緒にいて初めて見た気がする。
「私も結婚前までには基本的なことは出来るようにならないといけないわね。」
「そんなに焦らなくてもいいよ。慣れるまでお手伝いさんを呼んでもいいんだし、静菜のペースで覚えていこう。」
僕はなんとなく居心地が悪くなり、食器を洗いにキッチンへと逃げ込んだ。
流れる水の音を聞きながら昔のことを思い出す。
僕と静菜は血の繋がった兄弟ではない。
僕が生まれてすぐ母と別れた父には、再婚する予定だった女性がいた。
母の記憶がなかったからか、僕はあっさりとそれを受け入れることができた。
しかし、父と再婚することなくその女性は事故で亡くなってしまった。
その女性の娘が静菜だったのだ。
静菜を引き取ると父か聞いた時僕は凄く嬉しかったのを覚えている。
仕事ばかりの父は寝る時くらいしか家に帰ってくることはなく、僕はいつもひとりだった。
そんなとき妹が出来ると聞いて、優しくしてあげようとかなにして遊ぼうかとか怖くて寝れないって言ったときは一緒に寝てあげようとか色々なことを考えた。
でも静菜が初めて家に来た時――――
「水出しっぱなしでなにしてるの?」
「え?うわっ!」
急に話しかけられ持っていたお皿を落としそうになってしまう。
振り向くとそこにはさっきとは打って変わって不機嫌そうな顔をした静菜がいた。
「そんな顔してていいのか?」
「彼は仕事があるから先に帰った。もう家族ごっこはおしまい。」
そう言いながら洗ったばかりのコップを手に取り冷蔵庫を開けた。
今までのは全て芝居。僕と静菜は仲なんか全く良くないし、笑って話をすることなんて有り得ない。
全ては静菜の結婚のためだった。
相手は父の会社の取引先の若社長。いわゆる政略結婚だった。
しかし誰が強制したわけでもなく、お互いに気に入った上での結婚だった。
少なくとも世間的には。
「こんな演技してまで結婚したいんだ」
心の中で思ったはずがどうやら口に出してしまったらしくきっと鋭い目で睨まれた。
「当たり前でしょう。父さんの、家族のためだもの。」
僕に対する態度とは違い、静菜は自分を引き取って育ててくれた父に感謝しているようだった。
たまに父が帰ってきたときは嬉しそうに最近の出来事を語ったり、一緒にくつろいだりする。
僕にもその10分の1でいいから懐いてくれれば良かったのに。
いや、それはそれで困るかもしれないが。
「そんなので静菜は幸せになれるの?」
「なるわ」
そう言った静菜の目は睨んでいるわけではないが力強く、しかしどこか弱々しく強く振る舞っていないと壊れてしまいそうな、そんな感じがした。
「今日はやけにつっかっかてくるのね。いつもは泣き虫なのに。」
ふっといつもの無表情な静菜に戻った。
いつもの、と言っても僕の前でだけなのだが。
「泣き虫って…何年前の話をしてるんだよ。」
「あら、そんな昔だった?つい最近のように感じるけど。」
僕は確かに泣き虫だった。
難しい家庭の事情のせいでよく静菜がからかわれ、それを止めに入った僕が泣いてしまい、逆に静菜に慰められる。
そんなことが日常だった。
「別につっかかってるわけじゃないよ。ただ大事な妹に幸せになってもらいたい兄心だよ。」
自分でそう言って内心笑ってしまう。
そんな心にもないことを。
「兄心…ね。まあ貴方が心配しなくても私は幸せになるから。」
そう言いながら持っていたグラスを流しに置いた。
「じゃあ私はそろそろ行くわ。」
玄関に向かう静菜を見送るため僕も後に続いた。
こんなこと今までにしたことなんてないが、最後くらいと思ってのことだった。
「貴方の見送りなんて要らない」と言われるかと思ったが、そんなことはなく靴を履いた後くるっと踵を返した。
「私から連絡は入れておくけど父さんによろしく伝えておいて。」
「最後くらい、可愛い妹らしく『お兄ちゃん』って言ってくれればいいのに。」
「残ってる荷物はまた取りに来るからいじらないでよ。じゃあ。」
僕の言葉には一切返事をせず玄関を出ていった。
ばたん、と閉まった扉の音と静まり返った部屋の中で僕はひとり佇んだ。
長かった。これでようやく終わる。
「ばいばい、静菜。」
僕の頬を暖かい涙が伝った。
「ばいばい、たったひとりの妹。」
今日は、今日だけはあの泣き虫だった頃の僕に戻ろう。
――さよなら、僕の初恋
***
初めて会った時この人がお兄ちゃんになるって言われて私は何かが気に入らなかった。
それがなぜなのか、子供だった私にわかるわけもなくこの人が嫌いなんだ。そう思った。
いい意味でも悪い意味でも素直だった私は
「貴方をお兄ちゃんだなんて思えない。」
そう言い放った。それがあの人の泣き顔を初めて見た時だった。
それからも私は冷たく当たり、何度も何度も泣かしてしまった。
それなのにあの人はいつだって妹の私を守ろうとしていた。
でもそれがまた気に食わなかった。
「僕の妹をいじめるな!」
そう聞くたびに胸が傷んだ。
私はなんでこんなにもこの人が嫌いなのだろう。
考えても答えが出るわけではなく、私は関わらないという道を選んだ。
それからは家では極力顔を合わせないように努めた。
顔を合わせたとしても、事務的な受け答えのみで済ませ長時間は一緒にいないようにした。
中学生になった頃、周りの友達はちらほらと彼氏が出来始め、私も何度か手紙やメールを貰ったことがあった。
しかしどんなに気持ちを伝えられても私の心は全く動かなかった。
学校でも人気のあった男の子に告白されたのを断ったときには友だちからおかしい、と責められた。
それでも私の心は動かなかったのだから仕方がない。
この年になって、と思われるかも知れないが、私は初恋もまだなのだ。
好きという感情がわからない。だから誰に告白されても付き合うという事がわからないのだ。
でも急ぐことでもないし、それでいいと思っていた。
「あっそういえばお姉ちゃんから聞いたんだけど、静菜のお兄さんモテるんだって。」
「私も聞いたことある!かっこいいもんね!」
「かっこいい…?あの人が?」
あんな泣き虫がモテるなんて私には信じられなかった。
と同時に再びあの気持ちが蘇る。気に食わない。
「静菜は妹だからわからないんだよ。かっこいいし優しいし。年上っていいよね!私告白しちゃおうかな。」
「え、ずるい!だったら私も告白する!」
気に食わない。気に食わない。気に食わない。
「ねえ静菜。今度私たちのことお兄さんに紹介…」
「絶対だめ!!」
気づいたらそう叫んでいた。
普段怒ったり叫んだりしない私が突然大声を出したからみんな目を丸くしてこちらを見ていた。
でも数秒後、みんな大声で笑い出した。
「なにそれ!静菜ってブラコンだったの?」
「全然お兄さんの話しないしてっきり嫌いなのかと思ってた。」
「まさかお兄ちゃん大好きだったなんて!」
みんなの笑い声の中私は固まっていた。
でも不思議と頭の中は冷静で、ひとつの答えを導き出していた。
そうかそうだったのだ。
――私はあの人のことを兄としてではなく、ひとりの男の子として見ていたのだ
でもあの人は私を妹として大切に思っている。
それは昔から痛いほどわかっていた。
だから私はこの想いを自分の奥底に封印した。
***
家を出て扉が閉まったのを確認して私はその場に蹲った。
そして蓋が外れたかのように涙が溢れ出た。
最後までちゃんと演技が出来ていただろうか。
いや出来ていたはずだ。今までだってそうしてきたんだから。
可愛くない、兄が嫌いな妹という演技を。
ここから離れたら私はもうこの家の人間ではなくなってしまう。
ずっと嫌だった妹でなくなれたというのにそれが他の人と結婚するからだなんて。
涙と一緒に封印していたはずの想いが溢れだしてきた。
伝えるどころか、想うことすら許されなかった私の初恋。
明日から私は新しい家族と幸せにならなければならない。
だから全部ここに置いていく。
「…大好き、でした。」