真実の愛
由貴子は、テレビのニュースから流れる声を聞いて固まっていた。
2歳の娘は、そんな由貴子の様子にも気づくわけもなく、おもちゃのピアノの鍵盤を叩いてきゃっきゃっと笑っている。
洗車を終えて、リビングに入って来た夫の「匡」は、首にかけていたタオルで顔を拭いながら言った。
「暑ーー!由貴子もアイスコーヒー飲むかー?」
由貴子は何も答えない。
「?…由貴子?」
匡が由貴子の顔を覗き込むと、由貴子はうつろな目を匡に向け、ぼろぼろと涙をこぼした。
……
ニュースから流れていたのは、1人のサラリーマンがホームから落ち、電車に轢かれた事故の事だった。
そのサラリーマンの名前と年齢を見て、由貴子は5年前まで付き合っていた男性の事だとわかったのである。
名前は「矢島 健」
父親が会社経営をしており、7歳年上の優しい男性だった。
……
「別れてくれ」
いつものように待ち合わせていた喫茶店で、健はいきなり由貴子にそう言った。
由貴子は思わぬ言葉に目を見開いた。
「…え?」
「何も言わずに別れてくれないか?」
由貴子は目を見開いたまま、何も言葉が出なかった。先週会った時は「君の両親に挨拶がしたい」と照れくさそうに言っていたのだ。…由貴子は、目を伏せている健を見つめる事しかできなかった。
「…すまない。」
健はそう言うと、レシートを取り上げ、黙って喫茶店から去って行った。
……
その後、由貴子は同じ会社の同僚だった「匡」に告白され、1年の交際の後、結婚した。
…そして1週間前、由貴子は2歳の誕生日を迎えた娘をベビーカーに乗せて、スーパーに向かっている途中、スーツを着て歩いている健とばったり出会った。…白髪のためか、健がかなり老け込んだように見えた。
…しばらくお互い立ち止まって、口を開かなかった。だが由貴子が先に微笑み、頭を下げた。
「お久しぶりです。」
そう由貴子が言うと、健が微笑んで頭を下げた。
「娘さん?」
「はい。2歳になります。」
「そうかぁ。…お母さん似の美人ちゃんだね。」
健が娘の顔を覗き込みながら言った。由貴子は笑いながら「ありがとうございます。」と言った。
「幸せそうだね。」
健は由貴子を眩しそうに見ながら言った。由貴子は顔を赤くして「はい!」と答えた。
「それは良かった。…お元気でね。」
「ありがとうございます。矢島さんも。」
「健さん」と言いそうになったのを慌てて言いかえて、由貴子は頭を下げた。健も頭を下げ、手を振りながら去って行った。
その時、由貴子の心に「優越感」のような高揚した気持ちが芽生えていた。
……
匡は、ぼんやりしている由貴子の隣で、携帯電話を耳に当てていた。インターネットで近所の葬儀場を調べ、片っ端から電話を掛けていた。
「ありがとうございます!はい!場所もわかります!本当にありがとうございました!」
匡は携帯電話を閉じて、由貴子に向いた。
「やっと葬儀場がわかったよ!すぐに着替えろ。車で送ってあげるから。」
由貴子は、夫の優しいその言葉に、泣きながらうなずいた。
……
由貴子は葬儀場の前に立っていた。…突然の通夜のためか、弔問客は少なかった。
中に入り、入口で名前を書こうとした時「由貴子さん?」という女性の声がした。
「?」
由貴子がその声に振り返ると、少し年の入った女性が自分を見て、目を見開いていた。
由貴子も目を見開き、慌ててその女性に頭を下げた。
…女性は健の姉の「奈々代」だった。
……
「来てくれて、ありがとうね。」
親族を避けるように奥の部屋に通された由貴子は、奈々代のその言葉に涙ぐみながら首を振った。
「健も喜んでると思うわ。…娘さんがいるんですってね。」
「!?」
由貴子は驚いて、濡れた目を奈々代に向けた。奈々代が涙ぐみながら言った。
「健から聞いてたのよ。先週くらいだったかしらね。…赤ちゃんをベビーカーに乗せて歩いている由貴子さんに会ったって…。」
由貴子はうつむいて、呟くように「そうですか」と言った。
「幸せそうだったって…。赤ちゃんも可愛くて、お母さん似だって。…そしてね…「それだけが救いだな」って呟いてたの。」
「?…それだけが救い?」
由貴子が顔を上げてそう聞き返すと、今度は奈々代の方がうつむいて、涙をこぼした。
「…健ね…。本当は由貴子さんと結婚したかったのよ。」
「…!…え?」
「今更、こんな話したって…申し訳ないけど…。健はあなたの事、本当に愛してたの。…でも、その頃、父の会社が倒産寸前で…とても結婚とかっていう状況じゃなかったのね。」
「!?」
何も知らなかった由貴子は目を見開き、両手で口を覆った。奈々代がうつむいたまま続けた。
「…結局、健が同業会社の社長の娘さんと結婚したことで、倒産は免れたんだけど…会社は吸収合併されたようなものだったから、健は会社でも家庭でも肩身の狭い思いをしてたと思う。子どももできなくて…健の方が悪いように言われてたらしいの。…ニュースでは「事故」ってなってたけど…実は「自殺」だったんじゃないかって、私思ってね。」
「!?自殺!?」
「ええ。健ね…電車がホームに入って来た時、前に立っていた人を避けてふらふらと前に出たんだって。…そして、倒れるように…」
奈々代はそこで言葉を詰まらせ、ハンカチで目を覆った。由貴子は思わず両手を口に当てた。涙がぼろぼろとこぼれ出した。
……
『何も言わずに別れてくれないか?』
その言葉は、健の本当の優しさだったのではないかと、迎えに来た夫の車の中で由貴子は思った。
健は自分の幸せより、由貴子の幸せを優先してくれたのだ。
『幸せそうだね。』
そう言って微笑んだ健の顔が、由貴子の脳裏に鮮やかに蘇る。
『「それだけが救いだな」って呟いてたの』
その奈々代の言葉を思い出し、由貴子は両手で顔を覆って泣いた。運転中の夫は、そんな由貴子をバックミラーで心配そうに見ながら、黙ってくれている。
隣のチャイルドシートに座っている娘が、小さな手を差し出して、由貴子の頭を撫でた。
「ママ、イイコイイコ」
娘のその言葉に、由貴子は娘の小さな手を両手で握り、泣き続けた。
(終)