第1章7節 ~ ライラクス離宮 ~
夢現の中で、セネリアは目を覚ました。
セネリアには時々、自分が起きているのか寝ているのか分からなくなるときがあった。
例えば少女の頃。朽ちた暖炉の中で震えながら眠っている時や、継母や義姉から執拗な虐めを受けている時などは、よくこれが夢であり、目を覚ませば幸せな生活に戻れるのだと思った。
またルーシェル王子に見初められ、王宮に召し上げられた当初の頃は、これが良くできた夢想の産物であり、目を覚ましたときには再び灰まみれの日々が待っているのだと思ったりもした。
「夢のような現実か、現実のような夢か……」
どちらにせよ関係ない、と彼女は思う。
セネリアは横たわっていた寝台から、たっぷり時間をかけて身を起こした。全身が鈍い痛みを訴えており、まるで砂漠を何日も歩き回ったかのようだった。喉がからからに渇き、息を吸うたびに胸が引きつる。
ふと横に目を向ければ、見事な組木細工の小卓に水差しがおいてあった。澄んだ清水になみなみと満たされている。牢獄で口にした泥水とは大違いである。
水差しの横には、血と汚れを洗い落とされた牙の首飾り。
「……あ」
ふいにセネリアの脳裏を、いくつもの情景が流れるようにかすめていった。牢獄での日々。シャトランジュ。四つ目の魔獣。見張り台から望んだ景色。
そして河へと落ちてゆく少年の亡骸と、それを成した自分。
「ふ、ふふ……生きてるわ……また私だけが……生きている……」
泣きたいほどに嬉しくて、絶叫したいほどに悲しかった。
◆ ◇ ◆
すすり泣くように笑っていたセネリアだが、しばらくして落ち着きを取り戻すと、寝台から起きあがった。
よく見れば、すべての傷が手当てされていた。身に纏っているのも、ボロボロのドレスではなく、ゆったりとした絹の寝間着である。
周囲を見渡すと、そこは広い寝室であることがわかった。先ほどまで自分が横たわっていたのは、天蓋つきの豪奢なベッドである。毛足の長い絨毯が敷き詰められており、一つ売り払うだけで農民が三代は遊んで暮らせそうな調度類が部屋を飾っている。
そんな調度類の一つ、革張りの長椅子には、黒髪の王子が横になっていた。
「皇太子……リーディル王子……」
身を焦がすような憎悪がわき上がる。
考えれば分かることだが、ルーシェル王子が暗殺された夜、ルーシェルと自分の部屋に入ることの出来たのは、自分を除けばリーディル王子だけである。しかもリーディルは第二王子……皇太子になるために兄を殺したとしても、何ら不思議のない人物だ。
(こいつが……ルーシェル様を殺した……)
血が出るほどに拳を握りしめる。
自分の奥底に眠る獣が、轟々と叫んでいた。
――殺せ! 復讐しろ!
「……」
セネリアは音を立てないよう気をつけながら、長椅子に近寄っていった。途中、壁に掛かっていた装飾剣を手に取ると、鞘から抜き払う。
鋭く重い両刃の大剣を、セネリアは腕を震わせながら振り上げると――
「やめておけ」
リーディルの目蓋が、ゆっくりと開かれた。
「その剣は、姫にとってはいかにも重い。下手に扱えば、自分の足を切りかねんぞ」
「……ッ!」
セネリアは跳び退った。弾みで大剣が振り下ろされる。
鈍い音と供に、分厚い刃が近くにあった低い木卓に食い込んだ。
慌てて大剣を引き抜こうとしたセネリアだったが、しかし未だ疲労の癒えていない少女の腕力では、堅い檀木に食い込んだ刃を引き抜くことは出来ない。
それでもセネリアは、力任せに剣を引く。
「やれやれ」
リーディルは立ち上がると、少女に手を貸し、大剣をテーブルから引き抜いてやった。その柄を、再びセネリアに握らせてやる。
思いもよらぬ王子の行動に、セネリアは顔を歪めながら、
「……情けを与えたつもり? それとも余裕の表れかしら?」
「ずいぶんと嫌われたものだな。一応、これでも姫の義弟になるはずだったのだが。そういえば、姫ではなく姉君と呼ぶべきか?」
「……笑えない冗談ね」
「ああ、そうだな。私もそう思う」
睨み合いが続く。もっとも睨み付けているのはセネリアだけであり、リーディルは涼しげな表情を浮かべていたが。
「ここはどこ?」
「私と兄君が使っていた離宮の一つだ。ライラクスの離宮という。王宮にほど近い」
「どうして私を助けたの?」
「姫は、私の姉君になったやもしれぬ人だ。どうして見て見ぬふりをすることができる」
「……貴方がルーシェル様を殺したの?」
「だったらどうする?」
かまをかけるように、リーディルは問い返す。
次の瞬間、セネリアの瞳に宿っていた黒い炎が、よりいっそう強く深く燃え上がった。
「こうするまでよ!」
甘美ともいえる憎悪に従い、セネリアは大剣を横なぎに振るった。技も何もない、ただ振り回すだけの剣である。
リーディルはやすやすとそれを避けると、
「兄君を殺したのは姫ではないのか?」
「違う、私はやっていないわ! 私でないのなら、貴方しかいない!」
「至言だ。だが……」
「黙りなさい!」
何度も何度も大剣を振るう。必殺の意志が込められた刃は、しかし何の力も伴っていない故に空を切るばかりだった。少女が剣を振っているというより、少女が剣に振り回されているといったほうが適切な有様だ。セネリアの体力ばかりが失われてゆく。
そして二十数回目の斬撃の後、セネリアの手から剣がこぼれ落ちた。
息も絶え絶えによろめく少女の身体を、リーディルが力強く抱き留める。
「はぁ、はぁ……殺して、やる……」
「いつでも相手になろう。だが、今は止めておけ。傷も疲労もまだ癒えていない」
リーディルはそう言うなり、セネリアを横抱きに抱き上げた。逞しい胸板に頬を寄せる形になり、セネリアは顔をゆがめる。
――ルーシェル様の居場所を奪った男に抱きかかえられている。
嫌悪感がわき上がる。
「離しなさい……私の身体に触れて良いのは……ルーシェル様だけよ……」
「許せ」
セネリアを抱き上げたリーディルは、そのままベッドに移動すると、少女の身を優しく横たえた。水差しから銀杯に清水を注ぐと、セネリアの口元に持ってゆく。
「声が掠れていた。乾いているだろう」
「……敵に施しは受けないわ」
「敵、か」
頑として拒むセネリアに、リーディルは諦めたように銀杯を小卓に戻した。
「剣を振るうだけの気力はあったのだ。自分でも飲めるだろう」
「……」
「そう睨んでくれるな」
視線に押されるように、リーディルは身を引いた。僅かに嘆息する。
「休むといい。今はそれだけだ」
踵を返し、王子は部屋を後にする。
一人残されたセネリアは、リーディルの入れた銀杯には触れようともせず、水差しに直接口を付けて清水を煽ると、
「おいしい……」
疲労と睡魔には抗えず、再び眠りに落ちた。
◆ ◇ ◆
「殿下」
「……ユージスか」
寝室の扉に背を預けながら佇んでいたリーディルは、横合いからかけられた声に生返事で答えた。セネリア姫と接していた時とはうって変わり、物憂げな様子である。
虚空をぼんやりと眺めながら、王子は自嘲気味な笑みを漏らす。
「笑える話だがな。セネリア姫に憎まれることが、こうも心乱されるものとは思わなかったぞ」
寂しげな笑みを浮かべるリーディルに、ユージスは顔をしかめながら、
「……よろしかったのですか?」
「なにがだ?」
「彼女を引き入れたことが、です。はっきり言って、殿下の立場を悪くするだけです。真実はともかく、彼女はルーシェル王子殿下暗殺の大罪人です。もしセネリア姫と殿下が一緒にいることを知られれば、殿下が彼女を使い、ルーシェル殿下を殺したように受け取られかねません」
「では、どうすればよかったというのだ?」
リーディルは複雑そうな表情を浮かべ、
「さきほどセネリア姫が見せた憎しみ、お前も見ただろう? あの憎悪は本物だった。真に愛する者を奪われた者でなければ、あのような憎悪を抱くことはできんだろう」
つまり彼女は無実だ、とリーディルはつぶやいた。同時に、セネリア姫が自分を疑うのは至極当然だろう、とも。
「なにせあの夜、近衛騎士団に悟られずに兄君に近づけたのは、姫を除いてはこの私だけだろうからな」
「ですが殿下はやっていません」
「なぜそう言える、ユージス? 確証はなかろう?」
「確証はありません。ですが確信はしています。へたれな殿下が、王などと言う責任ある立場に自分を追い込むなど考えられないからです」
「……お前、最近、私に対する風当たりがきつすぎやしないか?」
「自業自得です」
ユージスはばっさりと切り捨てた。
「それはそうと殿下。どうしてセネリア姫に、ご自分が無実であることを訴えなかったのですか?」
「いや、それは……どうしてであろうな……」
そうは言いつつも、リーディルはどうして自分が、セネリアの疑念を解かなかったのかある程度理解していた。
(期待していたのであろうな……たとえ憎悪の視線であろうと、彼女の目が、兄君ではなく私のみに注がれることが……)
もっとも、そんなこと言えるはずがなかった。
「それよりもユージス。この離宮の守りはどうなっている?」
「近衛騎士団の騎士四十名が、三交代で警護に当たっております。離宮の外に出ぬ限り安全かと。ただ……」
「ただ?」
「周囲の者がいぶかしんでいる可能性があります。ライラクスの離宮は、もともと避寒のための離宮です。過去、冬以外に使われたことはありません。それなのに、この時期に殿下が滞在され、さらに仰々しい警備を敷いたとなると」
「なにかがある、と思わせるだけということか」
「可能ならば、もう少し騎士の数を減らしたいと思いますが……」
「それはならん」
即座にリーディルは否定した。
「姫の守りが薄くなる」
「ですが!」
「お前も、セネリア姫の傷を見ただろう」
セネリアの手当をしたのは、リーディルとユージス、そして近衛騎士団に所属する女騎士たちであった。宮廷お抱えの医師や薬師がいないわけではないが、下手に事を大きくするわけにはいかず、近衛騎士団で内々に処理したのである。
ゆえにリーディルたちは、セネリアが牢獄でどのような目に遭い、そしてどのようにして逃げ延びてきたのか、ある程度だが察することが出来た。
「さまざまな苦痛や恐怖、屈辱を受けたのであろう。しかしそれほどの目にあっても、姫の心は折れてはいなかった。汚水を啜り、腐肉を喰みながら、生にしがみついてきたのだ。兄君の敵をとる、ただその為に」
使えぬ大剣をがむしゃらにリーディルに向けてきたことから、セネリアの復讐の念が如何に強いか分かる。
同時に、彼女がいかにルーシェル王子を愛していたのかも。
「私に剣を向けてきた姫の気概……おまえも一人の騎士として、感じ入るものがあっただろう?」
「……それとこれとは別問題です」
どこか憮然とした様子で、ユージスはつぶやく。
もちろんユージスとしても、ここまできてセネリア姫を見捨てる気はなかった。彼にとって忠誠を誓った主はリーディルであるが、しかしそれと同時にユージスは、貴婦人の意志と名誉を守ることを、騎士位を賜った時に誓約している。
もっとも、主の利益にさわりのない限り、だが。
「頼む、ユージス」
「……まったく」
ユージスは不機嫌そうに鼻を鳴らしながら、
「美姫は賢王を愚者たらしめる……殿下がそうならないことを祈るばかりです」
「なに、大丈夫だろう」
リーディルは苦笑すると、
「姫の寵愛は、兄君にしか向けられてはおらぬからな」
寂しげな笑みだった。