第1章6節 ~ 王妹 ~
「なんだって? 囚人が脱獄した?」
絢爛豪華な王宮内の一室。口の硬い侍女に爪の手入れをさせながら、キネア・リーバル・アンフィリアは怪訝そうに眉をしかめた。
赤みがかった髪の女性だった。視線は鷹のように鋭く、冷然たる美貌を持った女性だ。豪奢なドレスを纏い、紫色の紅を唇にさしている。肩には希少な白ネズミからとった毛皮。意外にも見た目は若い。二十の中盤に差し掛かったかどうかといった風体だ。
とはいえ、彼女の纏う気配は老練たる狐のそれであった。
現王ホロスの腹違いの妹であり、王宮という魔窟を生き抜いてきた若き女傑は、手入れされた爪の様子を気にしながら、
「囚人ねえ……いったいどの囚人だい?」
「今は亡きルーシェル王子の婚約者であったセネリア姫でございます」
「ああ、ルーシェルを手にかけたという小娘だね。まだ生きていたのかい?」
「そのようで」
王妹キネアの前には、痩身の男性が佇んでいた。
キネアを狐とするなら、こちらは狸とでも言うべきだろうか。ブラウンの髪を丁寧になでつけ、貴族の証であるインバネスを纏っている。神経質そうな容貌で、見かけよりも高齢に見える。三十くらいだろうか。貴杖の代わりに、鐔のないサーベルを小脇に抱えていた。
キネアの側近を務めているハイマン・ソル伯爵は、慇懃な口調で、
「つい先ほど、鈴を付けておいた兵より文が届きました。セネリア姫が、他の囚人と共謀し、脱獄。河に身を投げて逃げおおせた、と」
「おやまあ、中々に骨のある娘じゃないか。思わず手の者として欲しくなるねえ」
「お戯れを。それで……」
ハイマンはちらりと侍女を見た。侍女は心得たもので、一礼すると部屋を後にする。
伯爵は女傑に顔を寄せると、
「看守によると、セネリア姫が脱獄したのと同じ頃、砦の近くで近衛騎士団の副団長の姿が目撃されたそうです」
「副団長というと……」
「ユージス・ドーズ。リーディル皇太子殿下の右腕と呼ばれている若者です」
「おやおや、それはまた」
近衛騎士団と言えば、貴族の子女しか入ることの出来ない精鋭中の精鋭である。主に王宮の警護を行っており、事情がない限り外に出ることはない。
逆に言えば、それは事情があることを声高々に叫んでいると同じだった。
「皇太子殺しの大罪人が脱獄し、同じ頃に近衛騎士団の騎士が現れる……これは、ひょっとすると、ひょっとするかもねえ」
「と、申しますと?」
「わらわの甥っ子が、小娘の脱獄を手引きしたかもしれない、ということさ」
その言葉に、ハイマンは僅かに瞠目した。
「皇太子殿下が、でございますか?」
「不思議かい?」
「理由が見あたらないかと」
「実に単純じゃないか。男が女を求めに行く。理由は一つだろう?」
「……まさか、リーディル殿下はセネリア姫の事を?」
「一度は身を退いたようだけどね。しかし兄が死んだとたんに求めるなんて、わらわの甥っ子もなかなかに好き者のようだ。あるいは……」
「あるいは?」
「……いや、やめておこう。想像でものを語るのはよくないさね」
キネアは立ち上がると、大きな窓から眼下を見下ろした。キネアの執務室は王宮の西側にあり、窓からは手入れの行き届いた中庭と、見事な馬が立ち並ぶ厩舎を望むことが出来た。
女傑は、今朝がた凶事があった厩舎周辺を眺めながら、
「ままならぬものだね」
「……もうしわけごさいません。思いの外、近衛騎士団の守りが堅く。ルーシェル王子の暗殺以来、彼らも気を張っているようで。しかしご安心を、次の手は打ってあります」
「ほう、どんな手だい?」
「ご覧にいれましょう」
踊りに誘うように、ハイマンはキネアの手を取った。
「こちらへ」
◆ ◇ ◆
ソル伯爵がキネアを案内したのは、王宮の地下にある牢舎であった。限られた者しか知らない牢獄で、今は使われていない事になっている。
表向きは、だが。
「長居したい場所ではないねえ」
口元を毛皮で覆いながら、キネアは回廊を進む。
しばらくいったところで、剥き出しの鉄格子が嵌められた牢獄に行き着く。
牢獄に収監されていたのは、両手に木枷を嵌められた背の高い女性だった。やや浅黒い肌に、鋭い目つき。動きやすそうな短衣に身を包み、長い髪を結い上げている。理知的な相貌とは裏腹に、すらりと伸びた四肢からは、雌豹を偲ばせるような躍動感が伺えた。
「なんだい、この薄汚い女は?」
怪訝そうに眉をしかめるキネアに対し、ハイマンはさも愉快げに、
「先日、不届きにも我が屋敷の宝物庫に入り込んだ蛮族の盗賊にございます。我が屋敷の宝物庫では、飢えた石竜を放し飼いにしております。魔獣は、人の人智を越えた存在です。ですがこの者は、そんな魔獣から逃げおおせるどころか、短剣のみで二頭の石竜を殺したのです」
「魔獣殺し、だって?」
さしものキネアも、これには目を見張った。
魔獣を殺すためには、歴戦の騎士であっても徒党を組まなければならない。それをこの女盗賊は、たった一人で切り捨てたという。
おもしろい、とキネアは呟いた。
「女、顔をあげな」
キネアの言葉に、牢獄に中にいた女盗賊は俯いていた顔を上げた。始めは能面のような無表情だったが、キネアの顔を見るなりわずかに目を見開く。
「……これは不思議ですね、このようなところにキネア太后殿下がおられるとは」
「おや、わらわの顔を知っているのかい?」
「人並みには。それでなんのつもりですか? 処刑の日取りでも決まったので?」
「ほう、蛮族の盗賊と聞いて、どれほど粗野な口をきくのかとおもったけれど、なかなかどうして品があるじゃないか。……女、名は?」
「……ジュピエ」
「ふうん」
キネアはさも愉快げに笑うと、ハイマンに向き直り、
「それで卿、この女をどうするつもりだい?」
「魔獣を殺すほどの手練れ。ここで処分してしまうのはあまりにも惜しいと思いまして」
「……私は、あなたたちの悪事の片棒を担ぐつもりはありません」
ジュピエと名乗った女盗賊は、拒絶を表すように横を向いた。どうやら、さきほどの会話から状況を察したのだろう。身体能力だけでなく、知才にも優れているらしい。
ハイマンは満足げな笑みを浮かべながら、
「そのようなことを言ってもよいのですかな?」
「……なんのことです」
「弟のことですよ。フォルン、と申しましたか」
その言葉に、ジュピエは劇的に顔色を変えた。弾かれたように男性を見やる。
「生きているのですか!」
「ええ、生きていますよ。もっとも、生き延びられるかどうかは、貴方次第ですが」
その言葉の裏にある意味を、ジュピエは的確に悟った。
「……。脅迫するつもりですか」
「商談と言って欲しいですな。それに見返りは用意しましょう。貴方が我々の依頼を達成できた暁には、アルガン牢獄に囚われている弟に恩赦を出しましょう」
「……本当ですか?」
「誓って」
胸に手を当て、男性は誓約を述べる。
しばし沈黙していた女盗賊だが、意を決したように顔を上げると、
「……私は、何をすればいいのですか?」
「なに、簡単なことさね」
キネアは仄暗い笑みを浮かべ、言い放った。
「ちょいと皇太子を暗殺するだけさ」