第1章4節 ~ 魔獣 ~
両肩を抱きしめ、セネリアは石のベッドの上でうずくまっていた。何度か聞こえた少年の悲鳴はすでに止み、静寂が牢獄を支配している。
しかし沈まぬ太陽がないように、いつまでも続く静寂があるわけはない。
フォルンが連れ去られて一刻の後。鍵が回される乾いた音と共に、セネリアの牢獄の扉が僅かに開かれた。その隙間からぼろくずのようなものが入ってきたかと思うと、そのまま床に倒れる。
それが牙をあしらった首飾りをかけた少年だと気付くなり、セネリアは弾かれたように駆け寄った。
「フォルン!」
「……あいつ、めちゃくちゃしやがって」
思わず目を覆いたくなるのを、セネリアは堪えた。
フォルンの身体は、悲惨の一言だった。服はほとんどが破り捨てられ、殴られたのか、身体の至る所が青く腫れている。
「ごめん……ねーちゃん……」
フォルンは弱々しい声で、
「ねーちゃんのこと……ばれちまった……」
フォルンがそう言うのと、扉が荒々しく開かれるのは同時だった。
セネリアの顔から血の気が引く。
「へへ、なんだ、いるじゃねえか。ほんとうの別嬪がよ」
獲物を前にした蜥蜴のように、その巨漢は舌なめずりした。その瞳に宿る下劣な光が、男の欲望を如実に伝えている。
セネリアはフォルンを抱きしめながら、
「あなたがこんな酷いことを……この下郎が……」
「ハッ、俺が下郎ならテメエは下女だな」
男は嫌らしく笑う。
「まあ、どっちでもいいぜ。すぐによくしてやるからな」
「きゃあぁ!」
男はフォルンを引きはがすと、そのままセネリアを床に押し倒した。
背中の傷が再び擦られ、セネリアは苦悶の声を漏らす。
しかし巨漢は構わず、少女のスカートに手をかけると、
「へへ、良い表情じゃねえか」
「いやぁ!」
汚らわしい手で太股を触られ、セネリアはいよいよ悲鳴を上げた。男を押しのけようと手を伸ばす。
しかし彼女の力では、倍以上の体格はある巨漢を押しのけることはできない。
(力が……欲しい……)
セネリアの目尻に涙が浮かぶ。
そうこうしている間にも、男の手は動いてゆく。最愛の人にすら許していない純潔を汚そうと、男の手は太股を通り過ぎ、上へと進んで行く。荒い呼吸。グルル、という狼が喉を鳴らすような音も聞こえてくる。
――え? 狼?
「グルルル……」
『…………』
空気が凍り付くとは、まさにこのことだった。
「うそ……そんな、まさか……」
男の身体越しに、セネリアは見た。
扉のところで佇む黒い影。長い毛並みに、鋭く伸びた爪。子羊であれば一飲みにできそうな顎。一見すれば黒狼のようだが、しかし狼が一対二個の目しか持っていないのに対し、この獣は二対四個の瞳を持っていた。
「鐘狼だ……」
フォルンがつぶやく。
刹那、夜をそのまま切り取ったかのような魔獣は床を蹴り飛ばした。一番大きな獲物を狙ったのか、セネリアにのし掛かっていた巨漢に飛び掛かると、そのまま噛み付き、部屋の隅まで引き摺っていった。
「ガアァ!」
「ぎゃあああぁぁ!」
獣の牙が、容赦なく男を引き裂いてゆく。いくら巨漢であろうと、魔獣にあらがうことは出来ない。
床を転がった巨漢は、僅か数秒で肉塊と化した。
「ねーちゃん、逃げるよ」
魔獣に食い荒らされる男を呆然と見つめていたセネリアは、小声で放たれたフォルンの声にハッとなった。
フォルンはぼろぼろの身体を引きずりながら、セネリアの側に寄ると、
「あいつは鐘狼……レンディルフっていって、食欲が底無し沼みたいな魔獣なんだ。いつも飢えてて、獲物をみるとすぐに飛び掛かってくる」
「どうしてそんな魔獣がここに……」
「わかんないけど、ここにいちゃまずいよ。人一人なんてすぐに食べて、次の獲物を探しだす。あいつらは、食事中は他のことが全く眼に入らなくなるから、逃げるなら今しかない。……さあ、はやく!」
「わ、わかったわ」
グチャグチャと臓腑をえぐられる男を尻目に、二人は牢獄を抜け出した。
よろめくフォルンに肩を貸しながら、セネリアは薄暗い廊下を早足で進んでゆく。
しかしいくらも行かぬうちに、背後から獣の荒い息づかいが聞こえてきた。
「ねーちゃん! 来た!」
「分かってるわ!」
二人は己の身体に鞭打ち、支え合うように走り出す。
しかし魔獣の脚力は人間の比ではない。
十秒か、二十秒か……気付いた時には、魔獣はセネリアたちの背に追いすがっていた。
「ガアァッ!」
鐘狼は強靱な四肢で床を蹴り飛ばすと、獲物に飛び掛かった。フォルンの方に狙いを定めると、凶爪を振るう。
「あぁ!」
背中をえぐられ、フォルンはもんどり打って倒れた。
組み敷くように、黒狼がその上にのしかかる。
「フォルン!」
「ガアッ!」
「ッ!」
駆け寄ろうとして、しかしセネリアはそれ以上動くことが出来なかった。
獲物を横取りされると思ったのだろうか。鐘狼は、その四つの瞳全てでセネリアを睨み付けていた。狂気じみた瞳を向けられ、セネリアの身が竦む。フォルンを助けたいと思うのに、しかし身体がいうことをきいてくれない。
ふと、セネリアの脳裏に、聞きなじみのある声が響いた。
『逃げてしまいなさい』
囁いたのは、紛れもなく自分の声だった。
『さっきフォルンが言ったでしょう? 黒狼は、獲物を喰んでいる間は、他の獲物を追おうとはしないらしいわ。絶好の機会よ。今のうちに逃げてしまいなさい。あなたは死ぬわけにはいかないのよ』
(それは……)
今更ながら、死の恐怖が身体を支配する。
呼吸すらできない沈黙。それを破ったのは、意外にもフォルンであった。
「ねーちゃんに……手を出すなぁ!」
フォルンは首飾りを引きちぎると、魔獣の眼球めがけ、人差し指大の牙を思い切り突き立てた。水袋の潰れるような嫌な音が響く。
「ガアァァァアァァ!」
さしもの黒狼も、目を潰されて平然とすることは出来ないようだった。痛々しい咆哮を上げ、廊下を転げ回る。
ようやくセネリアの身体の支配権が、セネリア自身の手に戻った。
「フォルン!」
少年を抱き起こす。フォルンの背は血にまみれていた。
「おれはいいから……ねー、ちゃん……にげ……」
「勝手なこと言わないで!」
セネリアはフォルンに肩を貸すと、身体に鞭打ち、走り出した。
そこで、非常を知らせる甲高い呼び笛の音が監獄に響き渡る。セネリアたちの脱獄に気付いたのか、それともさきほどの魔獣の咆哮を聞きつけたのか……おそらくその両方だろう。牢獄内が一気に騒がしくなる。
「外へ出るにはどうすれば……!」
入り組んだ通路を前に、セネリアは歯噛みした。とはいえ止まることも出来ず、闇雲に走り回る。すでにフォルンはぐったりとなっており、ほとんどセネリアが引きずっている状態だった。
「あれは……!」
しばらく行ったところで、セネリアは思わず目を輝かせた。
通路の奥に見える扉の隙間から、まばゆい光が漏れ出ていたのだ。
「あと少しよ、フォルン!」
「ねーちゃん……おれ……」
「がんばって!」
セネリアは扉に駆け寄ると、そのまま押し開けた。久方ぶりの日光を浴び、思わず目がくらむ。
セネリアは目を細めながら陽光の中へと飛び出し――しかしそこで、絶望を味わった。
「うそ、そんな……」
目を見開く。
セネリアたちがたどり着いたのは、城壁の上に設けられた見張り台であった。見張り台は川を臨む形で突き出しており、それ以上、どこにも行くことができない。
しばし逃げ道を探していたセネリアだったが、フォルンの容態が悪化していることを察すると、その場でフォルンを横たえた。
背中の傷を見る。
平行に並んだ三本の傷。えぐられた肉の合間から、どす黒い血が止めどなく溢れていた。
「ひどい……」
セネリアはいそいでスカートの一部を引きちぎると、フォルンの傷を押さえた。
――が、血は止まらない。
「フォルン、がんばって!」
「な、あ……ねーちゃん……」
フォルンは弱々しい声を上げた。握りしめていた首飾りを差し出す。
「これ……」
「しっかりして、フォルン!」
「これ、とーちゃんの形見なんだ……お守りで……良くないものから身を守ってくれるって……貰ってくれないかな……」
「しっかりしなさい!」
「頼むよ……」
差し出された牙ごと、セネリアはフォルンの手を握った。少年の手は冷たく、もはや命の息吹を感じることは出来ない。
フォルンは小さく笑うと、
「罰があたったのかな……シャトランジュでずるしたから……もう一度やったら、きっとおれ、負けちゃうよ……」
「だめ、フォルン! しゃべらないで!」
「ねーちゃん、強いよ……だからおれの分まで……」
少年の灯火は、そこまでだった。
「フォルン、フォルン!」
「……」
どれほど呼んでも、亡骸は答えない。
しばらく呆然と少年を抱きしめていたセネリアだったが、だんだんと大きくなってゆく呼び笛の音に顔を上げた。
耳を澄ませば、荒っぽい看守たちの声が聞こえる。
――脱獄だ! 女と子供が逃げたぞ!
――どこいきやがった!
――見ろ、血だ! 見張り台に続いているぞ!
(逃げないと……)
しかし……どうやって……?