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シンデレラ ~黒の断章~  作者: セラニアン
『復讐の章』
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第1章1節 ~ 投獄 ~




 第1章1節 ~ 投獄 ~





 ――魔法は、いつか解ける。




 セネリアは、改めてそれが真理であることを悟った。


「はぁ、はぁ……」


 朱絨毯が敷かれた回廊を、セネリアは必死で逃げていた。

背後からは、甲冑の擦れる嫌らしい金属音が聞こえてくる。


 回廊を駆け抜け、彼女は貴族の子女たちで溢れかえる舞踏場に飛び込んだ。



 折しもその日は、皇太子の婚約を祝っての大舞踏会がひらかれていた。豪奢な舞踏場では、めいめいに着飾った貴族の子女たちが宮廷楽団の奏でる輪舞曲に合わせ、一夜の恋の駆け引きを楽しんでいる。


しかしそんな華やかなひとときも、セネリアが飛び込んだ瞬間に終わりを告げた。


『キャァ!』


 セネリアの姿を見るなり、貴婦人たちは悲鳴を漏らす。

 少女の姿は、まさに壮絶というべき有様だった。豪奢なドレスの前面はべっとりと血に濡れ、銀色の髪にもどす黒い血糊がこびりついている。見目麗しい少女の相貌は、しかし恐怖と困惑に染まっていた。


 あまりのことに動揺する貴族たち。

 しかしセネリアは構わず、人混みをかき分けるように進んでゆく。


 間髪入れず、セネリアの後を追うように舞踏場の中に騎士甲冑に身を包んだ騎士たちがなだれ込んできた。先頭で騎士たちを率いていた黒髪の美丈夫が声を張り上げる。



「兄君を……ルーシェル皇太子殿下を弑し奉った大罪人だ! 誰か、捕らえよ!」



 その声に触発されるように、剣を携えた騎士たちが舞踏場に殺到する。優美な舞踏場は、一瞬にして阿鼻叫喚の渦に飲み込まれた。


 そんな混沌の中を、セネリアは駆け抜ける。


「どいて!」


 ドレスを纏った貴婦人を押しのけ、あるいは突き飛ばしながら、セネリアは走る。

 舞踏場を抜けたところで、セネリアは素早く柱の影に身を寄せた。声を押し殺し、騎士たちをやり過ごす。


 ふと耳を澄ませば、鐘楼の鐘が鳴り響いているのが分かる。

 彼女の脳裏に、わずか二月前の出来事が走馬燈のように思い浮かんだ。


 始めてといえる優しさに恐怖を感じ、慌てて逃げ出す自分。そんな自分の後を追いかけてくる栗毛の王子。自分の人生を変えることになった舞踏会での出来事――


 ちょうどあの時も、鐘楼の鐘が鳴り響いていたのをセネリアは思い出す。


 ある意味、今の状況はその時の再現にも思えた。

 しかし逃げている理由は、全くの別物だった。


『追え、追え!』


「……」


 騎士たちの足音が遠ざかってゆく。

 しばらくして、セネリアは堪えていた吐息をはき出した。胸元を濡らす血が生暖かく、気持ちが悪い。


「ルーシェル様……」


 肩を抱き、身を震わせる。

 泣いては駄目だ、とセネリアは自分に言い聞かせた。ここで泣いたら、自分の心はたやすく折れてしまう。


(心を折るわけにはいかない)


 継母や義姉たちによる執拗な虐待の中で彼女は学んでいた。いかに心の芯を保つことが大切かを。心が折れてしまえば、それ以上動くことが出来なくなってしまうからだ。


「とにかく城の外へ出ないと……」


 震える足を叱咤し、セネリアは柱の影から躍り出た。影を縫って走る。

 しかし運命とは、かくも残酷なものだった。


『いたぞ! 中庭に続く大階段だ!』

「……ッ!」


 石積みの大階段を下っていたところで、再び騎士に見つかる。


 月明かりの元、慌てて階段を駆け下りるセネリア。しかし履き慣れない靴のせいか、上手く走ることが出来ない。


 そして数秒後、まるで謀ったかのようにそれは起こった。

セネリアの足から靴が脱げ落ちたのである。


 姿勢を崩し、身を投げだすように転ぶ。彼女が転んだその場所は、奇しくも二ヶ月前、彼女の足から金の靴がこぼれ落ちた場所だった。


「く、ぅ……」


 身体を強かに打ち付け、セネリアはうめいた。転んだ拍子に口の中を切ったのか、唇から血が滴っている。



 ふと顔を上げれば、憤怒に歪んだ顔をこちらに向ける黒髪の美丈夫の姿が見えた。

 青年の名はリーディル。アンフィリア王国の第二王子であり、セネリアの義弟となったであろう美丈夫であった。


「……セネリア姫」


 リーディル王子は長剣を抜き祓うと、その切っ先をセネリアに突きつけた。


「どうして兄君を殺した。答えろ」

「違うわ! 私はやっていない!」


 セネリアは叫ぶ。――が、


「戯れ言を抜かすな!」


 王子は激昂した。


「私はこの目でしかと見たのだ! 貴様が血にまみれているのを! 貴様以外に、何人が兄君を殺したというのだ!」

「違う! 私はやってないわ! 気がついたらルーシェル様は……」

「黙れ、この女狐め!」


 剣先をセネリアののど元に突きつける。


「恥を知れ! 兄君は、真に貴様を愛していたのだぞ! お前を妃に迎えるため、兄君がどれだけの苦労をしたと思っている! 皇太子としての立場が悪くなるにもかかわらず、兄君は貴様の為に尽力していたのだぞ! それを貴様は、最悪の形で裏切ったのだ!」


「違う……何も、やっていないの……」


 血で濡れた両手で、自分の肩を抱きしめる。


「ルーシェル様……」


 堪えていた涙が、ついに決壊する。宵闇を淡くしたような紫色の瞳から、透明な雫が溢れ、頬を伝い、落ちてゆく。



 セネリアの心は、千々に千切れんばかりだった。


 自分を灰まみれの日々から救い出し、そして生涯の愛を誓ってくれた王子が殺され、あろう事かその犯人が自分とされたからだ。


(どうして私が、ルーシェル様を殺さなくてはならないの!)


 本来ならばそう叫びたい。そう叫び、あたり構わず当たり散らしたい。

 しかしセネリアには、もはやそれすら叶わなかった。一度流した涙は留まることを知らず、後から後からわき出してくる。何か言葉を発しようとしても、口から漏れるのは嗚咽だけで、意味のある言葉は一言たりとも出てきてはくれなかった。



「……くそ」


 むせび泣く少女を前に、リーディル王子は忌々しげに顔をゆがめた。

 複雑な表情で少女を見下ろした後、周囲の騎士たちに告げる。


「……兄君を手にかけた大罪人だ。捕らえろ」


 数人の騎士が、セネリアの両腕を掴み、引き立てる。

 もはや少女に抵抗する体力も気力もなかった。涙と共に、彼女に残されていた気概が全て流れ落ちたようだ。


 そのままセネリアは、騎士に連行されてゆく。

 それを見送った王子は、階段に落ちていた銀色の靴を拾い上げると、


「……くそ!」


 思い切り地面に叩き付けようとして、しかし、出来なかった。

所在なげに銀色の靴を握りしめ、うめく。



「兄君のいなくなったこのアンフィリア王国を、どうしろというのだ……」


 まもなくして鐘の音が鳴り止む。

 魔法の効果が霧散するように、王子のつぶやきもまた、虚空に消えていった。






     ◆ ◇ ◆






 セネリアという少女が救いの手を夢見るようになったのは、十二歳の頃だった。


 アンフィリア王国の有力な公爵家の一人娘として生を受けたセネリアは、その高貴な生まれとは裏腹に、辛い少女時代を送っていた。父の後妻となった継母と、その連れ子である義姉たちから、執拗な虐めを受けていたからだ。有力な貴族の出自ではない継母は、自分の娘たちに家督を継がせようと躍起になっており、その為にセネリアが邪魔だった。


 それでもまだ、父親が生きていたころはましであった。

 そのたがが外れたのは、セネリアが十二歳の時の事だった。狐狩りに赴いた父親が、運悪く出会った魔獣に襲われて死んでしまったのだ。


 それを期に公爵家を乗っ取った継母は、セネリアを社会的に抹殺した。

 表向きは流行病に罹ったとして。しかしその実、セネリアは屋敷内に監禁され、奴隷同然の日々を送ることになった。


 そんな中、セネリアが救いを夢見るようになったのは、ある意味当然のことだった。


 過酷な労働に粗末な食事。誰にも見向きもされないという孤独。寝床は朽ちた暖炉の中という生活の中で、夢を見ることだけが、彼女に許された自由だったからだ。


 そしてセネリアが十六歳になったとき、ついに待ち望んでいた救いがやってきた。



 魔法使いとの出会い、である。



 フウと名乗った女魔法使いは、セネリアの実母であった前ファンネウス公爵夫人と縁のある人物で、虐げられているセネリアを不憫に思い、助けに来たと言った。



『さあ、貴方をここから救い出してあげましょう。貴方を新しい貴方に生まれ変わらせ、貴方を幸せにしてあげましょう』



 それは少女が待ち望んでいた言葉だった。


 それからセネリアの日々は一転した。あれよあれよという間に、彼女はアンフィリア王国の皇太子に見初められ、皇太子妃として王宮に迎えられることになったのだ。


 その時のことを、彼女は生涯忘れないだろう。


 麗美なドレスに豪華な食事。なにより孤独であった自分を抱きしめ、愛を囁いてくれるルーシェル王子の存在。


 この時のセネリアは、まさに幸せの絶頂であった。



 ――が、しかし。



 絶頂に至った少女は、すぐさま絶望を知ることになった。







     ◆ ◇ ◆








 目の前の光景に、セネリアは自分が夢を見ていることを悟った。


 夢の舞台は、王宮の一角にある大広間だった。

 豪奢なシャンデリアに、山海の珍味が並んだ食卓。着飾った貴族の子女たちが、思い思いに談笑している。一流の楽師を揃えた宮廷楽団による楽曲が、広間に優雅な音色を染み渡らせる。



「姫」



 優しげな声がセネリアを呼ぶ。涼しげな目元に、整った目鼻立ち。深い栗色の髪を肩まで伸ばした王子が、セネリアに微笑みかけていた。


(ルーシェル……様……)


 声にならない声で、セネリアは最愛の王子の名を呼んだ。

 しかし夢の中の王子は気付かない。


 王子は、夢の中のセネリアに向かって手を差し伸べると、


「どうか一曲おつきあい願えますか?」

「ええ、よろこんで」


 夢の中のセネリアは満面の笑みを浮かべ、その手を取った。

 自然と人々が道をあけ、二人を舞踏場の中央に誘う。流れる舞曲。少女の身体が揺れる度に、銀色の髪が虚空を舞う。


 その光景を、セネリアは観客の立場から見せつけられていた。ルーシェル王子に対する切ない愛情と、夢の中の自分に対する羨望が混じり合い、セネリアの思考を激しくかき乱す。


「明日はいよいよ、僕たちの結婚式ですね」

「ではあまり踊り疲れては駄目ですわね」


 夢の中のセネリアは悪戯っぽく笑いながら、


「式の最中によろけてしまったら大変ですわ」

「なるほど。姫は美しいだけでなく、聡い」


 一曲で二人は踊りを止め、人々の輪から離れた。



 場面が切り替わる。舞踏場を後にした二人は、あてがわれた客室の中にいた。白い大理石で出来たバルコニーに出ると、王子は姫にかしずく騎士のように片膝をつく。


 皇太子は少女の手を取ると、その薬指の付け根にそっと口づけをした。



「この身、どれほど朽ちようとも、我が魂の寄り添うは、ただ貴女の御許のみ」


 それは古から伝わる、永遠の愛を誓う言葉だった。



「……ルーシェル様」


 感極まった様子で、少女は立ち上がった王子の胸に頬を寄せた。堅く抱き合う。

 むつまじい光景。


しかしそれを他者の視点から見せつけられたセネリアの心は、極寒の吹雪にさらされていた。



(どうして……あれが私ではないの……)



 確かに夢の中だとしても、ルーシェル王子の姿を見ることが出来たのは嬉しい。

 しかしルーシェルに抱きしめられているのは、セネリアであってセネリアではない。


 それがひどく悲しく、残酷だった。



(独りは寒い……)


 夢の中の二人は、どちらからともなく目を閉じると、顔を寄せ合った。

 しかしその唇が触れ合う寸前、一人の男性が近づいてくる。



「やれやれ、独り身の私には目に毒な光景だ」



 皇太子とその婚約者のいる客間に、勝手に入ることの出来る彼の名はリーディル。皇太子の弟であり、王族ではめずらしい黒髪を背中まで伸ばした美丈夫だった。



「あら、リーディル殿下」


 夢の中のセネリアはルーシェルから身を離すと、クスリと笑った。


「殿下ならば、思慕を寄せてくださる娘たちが大勢いるのではないのですか?」

「まあ、そうかもしれんが……」


 一瞬、リーディルの顔に複雑な色が浮かんだ。セネリアとルーシェルを交互に見つめた後、僅かに嘆息する。


 それをどう取ったの、ルーシェルは努めて明るい口調で、


「僕の弟君は、どうも女性の好みにうるさいようなんだ」


 意地悪げな笑みを浮かべる。対してリーディルは苦笑すると、


「私の眼鏡に敵う姫君が現れないのですよ」

「僕の姫に手は出すなよ?」

「……。もちろんです。兄君の怒りを買うのは恐ろしい」


 リーディルは肩をすくめると、ふと何かを思いだしたように、


「そう言えば、まだ私から結婚祝いの祝杯をあげていませんでしたね」


 酒杯を取りに、リーディルは一旦、部屋を後にする。

その後ろ姿を見送ったところで、セネリアはふいに肩にぬくもりを感じた。

横を見上げれば、こちらを優しく見つめてくる王子のまなざしがあった。


「ルーシェル様……」

「姫……」


 しばし見つめ合った二人は、口づけを交わすために静かに顔を寄せ――





『なぜ僕を殺したんだい、姫?』




「ッ!」


 視点が切り替わる。気がつけば、セネリアは夢の中の自分と同化していた。

 視界が赤く染まり、生暖かい血が両手と胸元を濡らしている。


 目を前に向ければ、胸に短剣を突き立てられ、床で事切れているルーシェル王子の姿があった。



「あ、あ、あ……」



 セネリアは後ずさった。目の前の光景が信じられない。



「ルーシェル……様……」


「お待たせしました、兄君、セネリア姫」



 その時、客間の扉が開き、銀盆を抱えたリーディルが戻ってきた。


「今年出来たばかりの葡萄酒とつまみを持ってきました。せっかくの夜です。ここはとことんまで飲み明かすと……」


 その言葉が最後まで紡がれることはなかった。

 場の空気が凍り付く。



「兄君……?」



 リーディルの手から銀盆が滑り落ちる。


 酒杯の壊れるけたたましい音をきっかけに、凍り付いていた場がようやく動き出した。


「兄君!」


 リーディルは倒れ伏す兄に駆け寄った。


「死んでいる……」


 しばし呆然としていたリーディルだったが、すぐさまキッと顔を上げると、


「貴様がやったのか、セネリア姫!」

「ち、ちが……」


 首を振るセネリア。しかしリーディルは少女を睨み付けたまま、


「では誰がこの部屋に入れたというのだ!」


 当然であるが、皇太子とその婚約者が使う客間に、やすやすと賊が入れるはずはない。扉の前には近衛騎士団の騎士が詰め、彼らの許しなくして部屋に入ることは叶わないからだ。それこそ入れる者と言えば、王子であるリーディルくらいであろう。


 故に、リーディルがセネリアを犯人と判ずるのは自然な事であった。

 もっともセネリアにしてみれば、全く身に覚えがない。


「私は……私は……」


 恐怖に駆られ、セネリアは身を翻した。これが夢の中であることも知りつつも、必死で逃げる。

 その様は、まるで魔法が解けることを怖れる小娘のようだった。


「違う……私は違う……」


 脳裏に焼き付いたルーシェル王子の死に顔を振り払うかのように、セネリアは逃げる。

 もちろんこれは夢であって、夢ではない。変えることの出来ない過去の再現である。逃げ切れない事も分かっている。


 しかしだからといって、立ち止まるという選択肢があるはずもなかった。



「ルーシェル様……」



 涙を堪え、セネリアは駆ける。

 ふと耳を澄ませば、残酷にも聞こえる鐘の音が―――







     ◆ ◇ ◆







「おら、誰が気絶して良いと言った!」

「――ッ!」


 頭から冷たい水を浴びせ掛けられ、セネリアは目を覚ました。


 そこは、まさに牢獄の見本とでも言うべき部屋だった。


 薄汚い石壁に、鉄格子のはめ込まれた小窓。天井には一本の木の梁があり、そこから仰々しい鎖が垂れている。鎖の先には無骨な手かせが付いており、その手かせによって、セネリアは両手を挙げた状態でつるされていた。


「休んでるんじゃない!」


 覆面を被った拷問官が、セネリアの背中目掛けて鞭を振りおろす。



「――――ッ!」



 焼きごてを押しつけられたような熱を伴った痛みに、セネリアは声にならない悲鳴をあげた。ボロボロのドレスに包まれた背中に、血がにじんでゆく。手かせによって擦れた手首からも血が滴り、少女の両腕を濡らしていた。


 ルーシェル皇太子暗殺の咎でセネリアが収容されたのは、アルガン牢獄と呼ばれる監獄であった。河に面して建てられた監獄で、その昔は蛮族に対する砦として機能していた場所である。今は王国に仇した罪人を収監する牢獄になっている。


 生きてここを出た者はいない、とまで言われるそこに、セネリアは大罪人として捕らえられていた。


 彼女が捕らえられてから、二週間あまり。すでに一週間近くにおよぶ拷問の日々は、確実にセネリアの心身を疲弊させていた。


 一応、貴族の出自であるセネリアには、身体を損なうような拷問や、死につながるような酷い拷問は成されていなかった。これが農民であれば、すでに耳や鼻や指が切り落とされていることだろう。彼女が受けたものといえば、鞭打ちや水攻めくらいだ。


 とはいえ、それでも拷問であることには違いない。



「吐け! お前が皇太子殿下を殺したんだろう!」

「違う……私じゃ……ない……」

「まだ言うか!」


 拷問官は何度も鞭を振るう。

 焼け付くような痛み。しかしセネリアの目から涙はこぼれない。


 幸か不幸か、セネリアは身体の痛みに慣れていた。継母や義姉からの執拗な虐待の中で、同じような目にあったことは何度もあるからだ。


 それよりも痛いのは心であった。


「ルーシェル様……」


 ぐったりと頭を垂れ、セネリアはつぶやく。


「チッ、しぶとい奴だ……」


 拷問官は苛立たしげに吐き捨てた。

 長く拷問官を続けてきた彼からしてみても、セネリアの精神は強靱の一言につきた。女子供でありながら、大の大人でも根を上げるような拷問に耐えているのだ。

 だからこそ、彼はいらだっていた。口を割らせることが拷問官の仕事であり、彼にとっての喜びでもあったからだ。


「本当は、囚人を必要以上に傷つけるなと上から言われてるんだがな。まあ、吐こうが吐かまいが、どのみち貴様は死罪だ。死体の顔など誰も見ないだろう」


 暗い笑みをうかべながら、拷問官は今まで使っていた鞭を捨て、別の鞭に持ち替えた。次いで、セネリアの肩を掴むと、力任せにこちらに顔を向けさせる。


 視界に飛び込んできたその鞭を見た瞬間、セネリアの顔が蒼白になった。


「それは……!」


 彼女の口から、始めて恐怖に満ちた悲鳴が漏れる。

 拷問官の手に握られていたのは、俗に『肉裂き鞭』と呼ばれる鞭であった。幾重にも別れた鞭の先端に金属の棘が縛り付けられており、相手の皮膚を打つと同時に、肉を引き裂いてゆくのだ。


 そんな凶悪な鞭を、拷問官はあろうことかセネリアの顔に向けようとしていた。


「もう一度聞くぞ。お前が皇太子殿下を殺したんだろう?」

「…………」


 ここに来て始めて、セネリアの中で楽になりたいという欲求が首をもたげ始めた。

 ただ首を縦に振るだけで良いのだ。それで自分は楽になれる。鞭で打たれることも、水の中に顔を沈められることもない。


 確かに、首を縦に振れば死罪になるだろう。

 しかし死など恐ろしくはない。


(むしろルーシェル様の後を追うことが出来るのなら……)


 甘美な誘惑が、セネリアの心を侵してゆく。

 死という名の救いの手。

 しかし後一歩のところで、セネリアの中で燻っていた何かが、決定的に燃え上がった。

 自らの意志でもって、救い手を振り払う。


(駄目……そんなのは許されない……)


 もし自分が死んだら、とセネリアは考える。そうなればきっと、人々は喜ぶに違いない。皇太子を殺した大罪人がいなくなるのだ。犯人が処刑されたことを祝って、盛大な宴を開くかもしれない。

 しかしセネリアは知っている。自分は、決してルーシェル王子を殺してなどいないことを。


 しかしそれを知っているのは、他ならぬ自分だけだ。



 ――そんな自分が、もし死んだら?



(全てが闇に葬られてしまう……ルーシェル様を殺した罪人が誰であるのかも分からなければ、ルーシェル様の敵をとる者もいなくなってしまう……)



 今まで感じたことのないような激しい怒りが、セネリアの中でわき上がる。

 彼女にとって、ルーシェル王子は紛れもない『王子様』であった。自分を不幸の底から救い出し、そして抱きしめてくれた恩人。たとえルーシェルが愛したのが自分の容姿だけだったとしても、セネリアにとってルーシェルは、最愛を傾けるべき男性であった。


 しかし、ルーシェルは殺された。もはや自分を抱きしめてくれた腕はなく、自分は再び苦痛と孤独の中に取り残されることになった。


 だからこそ、セネリアは許せなかったのだ。ルーシェル王子を殺した相手が。


(そうよ……私は、絶対に生き延びなければいけない……)


 ようやくセネリアは悟る。

自分は生きなければならない。泥水を啜ろうが、いかなる辱めを受けようが、生きて真相を明らかにして、そしてルーシェル王子の敵を討たなければならない。


 それこそが、灰被り姫と呼ばれていた自分を救い出してくれた最愛の王子に対する、自分の愛の示し方だと、セネリアは思った。


「生きてやるわ……」


 少女はつぶやく。静かに、しかし強く。


「生きてやる……」

「……なに?」


 拷問官はセネリアの顔をのぞき込み、そして後悔した。

 少女の瞳に宿っていたのは、壮絶な光であった。復讐を誓った者特有の、冷たく、そして近寄る者全てを焼き尽くすような仄暗い炎。少女の小柄な身体からは、魔性の獣もかくやと言った強烈な魔気が発せられていた。


「……なんだ、こいつ」


 拷問官は数歩後ずさり、しかしそこで顔を赤らめた。

 薄汚れた小娘の覇気にあてられたことが、彼の拷問官としての誇りを傷つけたのだろう。


「チッ、後悔させてやる!」


 脅えを振り払うかのように、拷問官は鞭を振り上げた。

 しかしその鞭が彼女の顔を傷つけることはなく、次の瞬間、粗末な甲冑に身を包んだ下級兵士が部屋に入ってきた。



「待て」



 兵士は拷問官を制止すると、一旦部屋の外に連れて行く。

 しばらくして戻ってきた拷問官の顔には、心底忌々しげな表情が焼き付いていた。


 拷問官はセネリアの手かせを外しながら、


「運が良かったな」

「……なんですって?」

「恩赦だ」

「……恩赦?」

「内々のお達しだが、新しい皇太子殿下が決まったらしい。その皇太子殿下直々の命令で、お前の罪を一つ軽くすることになったんだよ。まあ、といっても生涯幽閉だ。すぐに死ぬか、じわじわと狂い死ぬかの違いだろうがな」


 手かせを外され、支えを失ったセネリアはそのまま床に崩れ落ちた。

 鞭で打たれた背中がじくじくと痛む。何度も冷水を浴びせられたためか、身体が芯まで冷たくなっており、そして眠い。


 朦朧とする意識を、セネリアは必死で繋ぎ止めながら、


「……新しい……皇太子?」

「そうだ」


 拷問官は道具を手早く纏めると、踵を返した。

 床でうずくまる少女を一瞥すると、吐き捨てるように、




「リーディル皇太子殿下だ」




「……リーディル」


 セネリアの意識が闇に沈む。

 その直前、自分の中で何かが軋みをあげる音を、少女ははっきりと耳にした。




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