38話 膝枕
――そういえば、精霊さんのお名前を聞きそびれてしまったわ。
ポラリスは精霊が飛び去った後の窓を閉めた。
精霊たちにも個体を識別し互いに呼び合うための名前があるのだと、小学校の時授業で教えられた記憶がある。
「また、お会いできるわよね」
あおいろの光の精霊は、またリヒトにも会いに来ると言ってくれていた。そのうち自然に精霊とリヒトとの関係性もわかるだろう。
ポラリスは泣き疲れて眠ってしまったリヒトのほうを振り返る。その寝顔がとても穏やかなことにほっと安心した。
ポラリスは広いダブルサイズのベッドに上がり、枕元に正座で座る。一瞬だけの迷いのあと、リヒトの頭を持ち上げ自分の膝の上に載せた。はじめての膝枕だ。つややかな黒髪をさら、さらりと、指で梳くようにして撫でていく。
あらためて精霊に出会う前、リヒトの壮絶な過去を聞いたことを思いだす。
父の死と母の失踪、それに父親も種族も違う妹のこと……。
ひどい過去だと思う。苦しかっただろうとも。
だがポラリスは同時にこうも思ってしまっていた。
――リヒトさんのご両親は、リヒトさんを虐げていなかった。
――それだけなのに。そのことがとても、とても羨ましい。
実質両親不在のリヒトに対して、かなりむごい感情を抱いてしまっていた。ポラリス自身もひどいことだとわかっている。だから、決して口に出して、言葉にして言うつもりはなかった。言いたくはなかった。
変わって。
――虐げられることだけが、つらいことではないのね。
――リヒトさんにはリヒトさんだけの悲しみの色や形があるのね。
がんばることが辛くなるときだってあるはずだ。それでもリヒトはポラリスとまっすぐに向き合って、守ってくれている。愛して、くれている。
だからポラリスも応えたい。いや、応える以前に。ポラリスだってリヒトのことをめいっぱい愛している。 リヒトと一緒にいれば微笑みは豪奢なドレスになるし、落ちた涙だって美しい宝珠に変わる。
ポラリスはリヒトが大好きだった。
どれくらいの間、そうしていただろうか。
窓の外を、鳩のつがいが寄り添うようにして飛んでいく。時折病室の外の廊下から、人が行き来する話し声や靴音が聞こえてくる。この病院にはリヒトの他にも今回の魔物との戦闘による負傷者が十数名ほど入院しているという。次期聖女としてお見舞いに行ったほうがいいだろうか、あとでセレッソかエルに聞こうとポラリスは考えた。
「ん…………」
リヒトのまぶたがゆっくりと開かれる。その奥にある青い瞳には確かな輝きがあった。
「僕、眠っていたのか……」
「リヒトさん、気分はどう?」
ポラリスは優しく、砂糖菓子のように甘い声を降らせた。リヒトがいつもそうしてくれていたように。
「なんだか不思議だな……とてもすっきりした気分だ」
言われてポラリスは、リヒトの口調や表情が幼児退行以前の、年相応の青年のものに戻っていることに気がつく。
「そう……、良かったわ」
リヒトが唇の両端を持ち上げて、微笑みの形を作る。一拍置いて、その微笑みが自然なものに変わった。
「起き上がろうかとも思ったけど……君の膝から離れたくないからしばらくこのままでいいかな」
ポラリスはなおも膝に顔を埋めようとするリヒトの髪を撫でた。青年烏の白い頬が、薄紅色に染まる。まるで春に咲き誇る花の色のように。
しばらくじゃれあった後、リヒトがよいしょと上半身を起こした。よろめきやふらつきはまったくない。いたって健康体に見える。
「ポラリス。そういえば、あの精霊さんは?」
リヒトがきょろきょろとあたりを見回した。すでに精霊の姿はない。
「精霊さんは、また会いに来るとおっしゃっていたわ」
「そっか、またお会いしたいな」
リヒトが温かい笑みを浮かべた。
ポラリスがリヒトの状態が良くなったことを通りかかりのナースに伝える。医師による臨時の診察を受け、すぐさま退院が翌日に決定した。念のため、しばらくは無理をしないようにとの指示もセットで出る。
「リヒトさん……絶対無理するわよね」
「シナイヨ」
棒読みで返されて、ポラリスはもう、と頬を膨らませる。
そこで、あることをひらめいた。
「しばらくの間、リヒトさんには私の専属メイドリュネットちゃんとして一緒にいてもらいます」
聞いた、リヒトがくすっと笑う。
「君には敵わないな――了解」




