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36話 エレベーターの精霊

 ――いけない、いけない。




 ポラリスはまた宿舎を訪れていた。うっかり大事な参考書を居室に忘れてきてしまったのだ。


 近年一度は教科書等のデジタル化が進んだ。ポラリスも学習用タブレット端末を所持している。だがアナログ形態での学習の大切さが見直され、ポラリスの通う高校でも副教材として紙のワークブックや参考書を指定する教師が多い。


 何ならその副教材からテスト問題が出題される子とも少なくない。だからたかが参考書を忘れたではないのだった。ただでさえポラリスはいろいろあった関係で、学校を長く欠席してしまっている。出席できなかった分の授業内容を、自主学習で取り戻さねばならなかった。


 ――リヒトさん、大丈夫かしら。


 リヒトの幼児退行は軽度とはいえ、本人はかなり気にしている様子にポラリスは思えた。


 守護騎士のふるまいは聖女にも影響する。リヒトは自分のせいでポラリスの評判に傷が付かないかひどく心配しているのだった。


 その点神殿長であるトリシャは守護騎士を続けさせるのに問題ないとしていたが、やはりこの手の病はかかった本人にしかわからないものもある。


 さきほど荷物を取りに来たときとは違い、今はポラリス一人だ。エルとセレッソには外の玄関前で待機してもらっている。


 ポラリスはいつものとおりに階段で四階に向かおうとして――うっかり、というか誘い込まれるようにしてエレベーターに乗ってしまった。異音がひどいいわく付きのエレベーターである。


 ――どうして。いつもなら絶対乗らないのに。


 特にエレベーターのほうも立入や使用禁止となっているわけではないから、異音以外は特に問題ないのだろうと勝手に判断する。そもそも実際に異音を聞いたこともないのだ。


 ――でも、嫌な感じはしないわね。


 見たところ使用頻度が低いこともあって、エレベーターの内部はとても綺麗だ。とりあえず何かあったら途中の階で降りようと、ポラリスは意を決して四階のボタンを押そうとして。


「お嬢ちゃん、次期聖女かい?」


 若い男性の声が突然聞こえた。ポラリスはひゃっと声を上げる。なんとなく、リヒトよりは年上そうな感じだな、なんて思う。


 焦って周りを見回すが誰もいない。いたらいたで怖い。エレベーター内部には非常時に管理会社と通信でるスピーカーもあるが、そこからでもあるまい。ホラーだ心霊現象だ、あんまり嫌な感じはしないけどとポラリスが戦慄していると。


「ああすまない。驚かせてしまったね。僕の言葉がわかるかい?」


 清涼感ある男性の声が、落ち着いた調子で言う。


「はい……。一応はわかります」


 ――多分、人間ではないわよね。


 あまり意識してこなかったが、神殿では神秘現象が発生しやすいという。ならこの声も、人ならざる存在が半紙かけてきているのだろうか。さっきも思ったが、悪霊など悪い存在ではなさそうな気がする。


「私は確かに次期聖女ですが……あなたは、何者でしょうか? すみません、こういった形で会話するのが初めてで」


「ああ、そうかそうか。いや、ごめん。実は僕の言葉がわかる人と出会うのが、だいぶ久しぶりなんだ。だから嬉しくてつい一方的になってしまった。僕はいわゆる精霊さ。変な悪さをする気はないから、そこは安心して欲しい」


「精霊さん、ですか」


「そう、精霊。今はエレベーターに囚われているけどね」


 ひとまず『彼』が何なのかはわかった。


「精霊はエレベーターやコンピューターといった機械類に囚われてしまうことがあってね。今までも乗ってきた人に話しかけていたのだけど……異音として聞こえてしまうみたいだったんだ」


「あ、それで……」


 異音の正体が思わぬ形でわかった。怪我の功名という奴だろうか。


「ならあなたをエレベーターから自由にすればいいのでしょうか?」


「もちろん、それも望みだけど。僕にはもう一つ頼みがあってね」

「なんでしょう?」


「リヒトに……、リヒト・フローレスに会いたいんだ。言葉が通じなくてもいい、ただそばに行ってやりたい…………」


 急にリヒトの名前が出た。ここは神殿職員のための宿舎なのだし、ここに住まう神殿騎士であるリヒトの名が出ること自体はおかしくなかった。でも、どうしてリヒトなのだろう?


「リヒトさんは今病院で入院されているんです」

「……どういうことだい? 怪我か、病気か?」


 ポラリスは簡単にリヒトが出撃することになった経緯を話した。この精霊がどちらかといえば善良な存在だと察しがついたからだ。

 自分が命じたせいで、精神攻撃という怖い目に遭わせてしまったこと、若干の幼児退行を起こしてしまっているということも。


 話した直後、数秒間静寂が満ちた。


「そうか……、魔獣に……」

「ごめんなさい、私のせいで」

「いや。そりゃあ出撃したのは君が原因だっただろうが、リヒトが精神攻撃されたのは違う問題だろう?」


 リヒトが言ったのと同じようなことを言われた。さきほど決めたこともあり、ポラリスはそれ以上自分を責めるような発言を控えることにする。


「ただリヒトの心が幼くなっている件に関しては……もしかしたら僕が力になれるかもしれないな」

「本当ですか」

「実際リヒトと会ってみないとわからないけどね……。その前にエレベーターから出ないと」

「どうすればいいでしょうか」

「ああ、君はまだ魔法を使えないのか。僕と話ができるあたりすぐにできそうだけどな」


「なら、現聖女のハンネローレ様ならできるかもしれません。お呼びしますね」

「ああ、ハンネローレなら安心だ。助かるよ」


 ひとまずポラリスは四階に向かった。

 ちょうどハンネローレの守護騎士であるクレメンテが廊下にいて、エレベーターから出てきたポラリスを見て驚いていた。

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