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31話 贅沢なこと

 リヒトの腕に包み込まれて、ポラリスはようやく彼が生きてくれている実感が沸いてきた。


「へへ、捕まえちゃった」

 

 悪戯を成功させた子どものように、彼が笑う。これも幼児退行の症状だろうか。


「捕まっちゃったわ」


 だから彼女も、泣いたまま笑った。リヒトがポラリスを迎えに来た晩も、病室でこんな風に泣いた。


「ポラリスの体、あったかいね」


 ぴったり体を密着させて、互いの体温を分け合う。リヒトの体がしっかりと鍛えられていることが服越しにもわかって、ポラリスはこんなときなのにどきっとしてしまう。

 しばらくそうしているうちに、ポラリスの気持ちもだんだんと落ち着いてきた。


 大好きなリヒトが生きている。

 ここにいてくれている。


「……僕こそごめん。ちょっとだけだけど心が幼くなってる、子ども返りしているって言われた」


 リヒトは自身の幼児退行をひどく悔いているようだった。

 ポラリスが実際リヒトと会話をしてみたところ、表情と口調があどけなくなったかな? くらいにしか思わないくらい軽いものに感じられたけれど。


「ううん。リヒトさんは何も悪くないわよ……。幼児退行を起こすくらいにつらかったでしょう?」


 ポラリスが昨日聞いた医師からの話では、数ある心的外傷を強く刺激されて、心が自身を守るために幼くなってしまったとのことだった。


「うん。でもポラリスも悪くないよ?……悪いとすれば、きっとそれは攻撃してきた魔獣だよ」

「……それは」


 言いよどむポラリスに、リヒトは耳元でささやく。


「僕はね……、君が君を責めているのを見るとつらくなるんだ」


 その声はどこか請うような響きを帯びていた。たとえるなら、人の子が神様に純真な祈りを捧げるような。


「ポラリス。僕は君が大好きなんだ。がんばる君も大好きだけど……本当のところ、ただ君が生きていてくれていればいい。たとえ君の顔がぐちゃぐちゃになってもそばにいるよ」


 リヒトがずいぶんと思い切ったことを言い出す。


「私も、私も、です。あなたが言葉が喋れなくなったら、私が口になります。音が聞こえなくなったら、私が耳になります。目にも肌にも何にでもなります……」


「なら、僕は君の心臓になろうかな。君のためなら命だって差し出せるんだ」


 いつか、彼が言った言葉が蘇る。


 ――君が生きるというなら生きられるし。

 ――君が死んだらきっと僕も死んじゃうんだ。


「リヒトさん……それは、だめだよ。命だけは大切にしてよ」


 ポラリスはリヒトの片手を両手でぎゅっと包み込んだ。


「ポラリス……」


「リヒトさんが私に生きてさえいてくれればいいというのなら、私もリヒトさんが生きていてくれればいいの……。ね、お願い……」


 二人の人の子が、互いに互いのことを必死に祈る。

 実に切なくも美しくて愛おしい光景だった。


 いつの間にか、リヒトの綺麗な青い瞳からも涙が流れ出す。


「ポラリス……、ごめん。僕、つらいんだ。魔獣の攻撃で、たくさんつらいこと思いださせられた。だからいま、すごく弱気になってる。僕の前から君もいなくなってしまうんじゃないかって、すごく、すごく心配なんだ。心が削れていくのがわかるくらいに心配なんだ」


 やはりリヒトは心にひどいダメージを受けていた。

 まだポラリスは知らないつらい記憶を呼び覚まされて、リヒトは静養が必要なくらい追い詰められていた。


「ええ、ええ……。つらいわね……。でも大丈夫、私はいなくならないよ」

「ありがとう、ポラリス……」

「ええ、ええ……。ね、話は変わるのだけど」


 ポラリスは話題を変えることにした。


 自分責めをやめられないポラリスと、自己犠牲をやめられないリヒト。どちらも変なところで頑固な部分があるから、これ以上話していてもらちがあかないと思ったのだ。


「うん」


 リヒトがごしごしと手の甲で涙をぬぐった。


「しばらく私も泊まり込みでここにいていいかしら? その、こんなに大きなベッドもあるし、トリシャ神殿長からもそういうものだからと許可がでました」


 ここでいう『そういうもの』とは、一蓮托生とか、比翼の鳥、連理の枝とかのことを指す、とトリシャは言っていた。なんとなく恥ずかしいのでリヒトには内緒だ。


「そっか。一緒にいてくれるの?」


 リヒトの顔がぱあっと明るくなる。


「ええ、もちろん」


「……それじゃあ、お願いがあるんだけど、いい?」

「いいわよ」


「僕に昔どんなことがあったのか……聞いてくれる? 嫌ならいいんだ。実はつらいことについて話すことは癒やすことだってお医者さんたちからも言われているんだ。暴露療法っていうらしいんだけど」


 きっと子どもの頃、リヒトが自分の誕生日に泣いていたことにも通じるであろうことだった。

 ずっとずっと前から不在の、リヒトの両親の真実にも通ずるであろうことだった。


「私が……聞いてしまってもいいのね?」

「聞かせるなら、君しかいないよ。愛しいポラリス」


 ポラリスは覚悟を決めた。リヒトを戦闘へ送り出すときと違って、今度は二人で生きるための覚悟だ。


「へへ、ありがとう。僕……こんなに贅沢しちゃっていいのかな?」

「いいんだよ? だってあなたも私に贅沢させてくれているじゃない」

「えへへ」



 二人でお昼にチキンのバジルソースパスタとグリーンサラダをいただいた。若葉のように緑色が映えていた。


 食後、再び二人並んでベッドに横になる。

 食べてすぐに寝ると牛になるとか言うが、ポラリスは綺麗に無視した。どうせ痩せすぎているのだから、ちょっと牛のように太るくらい何の問題もない。


「ポラリス。きっとこれから僕が話すことで、君を傷つけてしまうかもしれない。聞くのがつらければ耳をふさいでくれて構わないよ」

「はい」


 ポラリスは素直にうなずく。どんな内容が飛び出すかわからないからだ。リヒトからすれば何でもないことでも、ポラリスの視点からすればとんでもなくつらくなることだってあるだろう。


 これからリヒトが、自分のつらい過去について話す。できることならすべてを受け止めてあげたかった。


「じゃあ、父さんのことからかな……」


 リヒトはゆっくりくっきりと、話し出した。

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