30話 帰ってきたよ
戦いの翌日。ポラリスはセレッソ、エルと共に神殿付属病院を訪れていた。
魔獣との戦闘で精神攻撃を受けたリヒトの見舞いのためだ。彼は今、軽めの幼児退行も起こしてしまっているという。
リヒトが不在の間は、エルがポラリスの主な護衛を務めている。
「リヒトさん、お会いしてくれるかしら……?」
ポラリスが唇からこぼした砂糖菓子のように甘い声は、いつもに増して儚げだった。隣にいるセレッソが、気遣わしげなまなざしを向ける。
「ポラリス様。私から不確定なことを申し上げるのも何だとは思いますが……。きっと、フローレスくんはあなた様にお会いしてくれますよ」
先導するエルが続けて言う。
「俺もロサさんに同意します。幸い今回リヒトが起こした幼児退行は、軽度の中でも軽度ですから。あいつもあなたに会いたがっていると思いますよ」
「そうでしょうか。なら、いいのですが……」
「ええ、大丈夫です。戦闘後もリヒトは、ずっとあなたの名前を呼んでいましたから」
「…………」
そう言われてポラリスは何も言えなくなった。必死で自分を呼ぶリヒトの姿を想像すると、胸が引き裂かれるような気持ちで一杯になる。
――私が出撃しろなんて命じたから。
やはり戦うとは傷つくということなのだ。歴史上起きたたくさんの事象がそう教えてくれているのに、それより未来に生きているポラリスはすっかり失念してしまっていた。
「アレグリア神殿長も、体さえ回復すれば守護騎士は続けられるほど軽度とおっしゃっていましたし……。でもそれだけの問題ではないことは、俺もわかってはいるつもりです。心的外傷に触れられて、心が無事でいられるのか……心を覗くだなんてエスパーか読心魔法の使い手でもない限り、他人にはできませんから」
病院のロビーでエルとセレッソとは別れる。ポラリスが見舞いをしている間は、二人には休憩を与えたかったのだ。ここからは病院の警備員とナースに付き添われて病室の前に向かった。守護騎士専用の病室だ。
病室へはポラリスが一人で入る。さすがに白いスライドドアをノックするときは、緊張した。
「はい、どうぞ」
かすかだけどはっきりと声が聞こえた。リヒトの声だ。
――よかった。声は出せるのね。
愛する人が声を出せる。そんな当たり前のことに感謝しつつ、ポラリスはおずおずと病室に入った。
外では警備員が数名待機してくれている。無論外敵への対策もあったが――万が一、リヒトが興奮して暴れる可能性がないとは言いきれないからだった。
守護騎士であることに問題はないというトリシャの言葉を信じるなら、そんなことはないはずだが、念を入れての措置だった。リヒトがそんな状態であることで、ポラリスの心に乾いた風が吹きすさぶ。
広く白い病室だった。かつてポラリスが入院していた病室と同じくシャワールームやテーブルセットが付いている。一方でベッドのサイズがどう見てもダブルサイズだった。
大きな白いシーツのベッドの端っこに、リヒトが寝ていた。いつもポラリスを守ってくれた体が、小さく見える。
「ポラリス……? 来てくれたの……?」
かすれたような声が、ポラリスを呼ぶ。
「リヒトさんっ」
それだけでポラリスはもう限界だった。
室内で走るのはマナー違反だと知っていながら、ぱたぱたと靴音を立ててリヒトの傍らに駆け寄る。赤い双眸から、自然と涙が大滝のように流れ落ちていく。思わずその場にしゃがみこみ、両手で顔を覆う。文字通り合わせる顔がない。でも会いにきてしまった。
「ごめんなさいっ」
「ポラリス……」
「私がっ、私が出撃しろだなんて命じたから……っ。だから、リヒトさんがこんなに傷ついてしまってっ」
くずおれて泣きじゃくるポラリスに、救いのように優しい声が降り注がれた。
温かい、許しを差し出す声が。
「大丈夫だよ、ポラリス。君が命じてくれたおかげで、僕は思いきり戦えたんだ」
言われてポラリスは「嗚呼」と思った。
これこそが、リヒト・フローレスという青年なのだと。
――ほんとうに、あなたは優しすぎる。
春の壮麗な花吹雪のように。
夏の涼やかな薫風のように。
秋の色づいた落ち葉のように。
冬の静謐に降る淡雪のように。
この青年烏は、どこまでも優しい。
「大丈夫だよ、ポラリス……」
リヒトの白く大きな手が、しゃがみ込むポラリスの髪をゆっくり、ゆっくりと撫でてくれた。
ゆっくり、ゆっくりと。
「僕はちゃんとここにいるよ、ちゃんと生きて、帰って来たよ……」
「はい、はい、リヒトさんっ」
「ごめんね。まだちょっと起きるのがしんどくてさ……、ご飯は何とか食べられてるけど。だから、いっしょに横になってくれる?」
守護騎士用の病室は、聖女が一緒にいられるようダブルサイズベッドとなっている。つまりここは、リヒトだけでなくポラリスのための部屋でもあるのだ。
ポラリスの答えに迷いはなかった。
「もちろんよ、リヒトさん」
靴を脱いで、リヒトの隣に横になる。待ち構えていたように逞しい腕に抱きしめられた。




