元の世界へ
「それにしても、君は変わった服装をしているね。この辺りでは見ない。夜の山は妖が活発になって危険だ。送ってあげるから、さあお家へ帰りなさい」
艮は椛の手を取って立たせるように促した。
その言葉に、椛はふいに我に返ったように艮の袖をぎゅっと握りしめ、縋るように呟いた。
「私、この世界の人間じゃないんです!お願い、元の世界に返して!!」
椛の必死の訴えに、艮の目が一瞬大きく見開かれた。
「妖を見たのは初めてかな?初めは驚くのも無理はない。けれど、この世には普通の人の目には見えないだけで妖は存在している。夜になると陰の力が増して、普段は感じられないものまで見えてしまうことがあるんだよ」
艮は椛の狼狽を、単なる恐怖から来る混乱だと受け取ったらしい。
縋りつく椛の頭を優しく撫でて言葉を継いだ。
「そうじゃなくて!本当に私は、別の世界から来たの!信じられないかもしれないけど、電車に撥ねられる瞬間、誰かに呼ばれてこの世界に連れてこられたの!」
艮だけでなく、他の三人も困惑した顔で椛を見返す。
その視線に、椛の声はさらに震えた。
「お願い。お父さん、お母さん、弟、そして友達がいる元の世界に戻りたいの。……あなた、神様なんだよね……お願いします。私を、元の世界に戻してください」
今日一日で有り得ないような体験を沢山した。
平凡な日々に退屈を感じたこともあった。だが今は分かる。
何度も命の危機を目の当たりにして初めて、平穏であることがどれほど尊いかを思い知らされた。
夢なら覚めて欲しい。
だが身体中の痛み、風のそよぎ、艮の掌の温もり──五感全てで、ここが確かな現実だと突きつけてくる。
たった一日なのに、元の世界が遠く懐かしいものに思えた。大好きな家族と友達がいるあの世界へ帰りたい。
まだまだやりたいことだって沢山あった。
友達と遊ぶ約束だってしている。当たり前に続くと思っていた日常的な未来。椛はそれを、必死に取り戻したかった。
「君、名前は?そして、どんな世界から来たんだい?」
艮は椛の言葉に耳を傾け、静かな声で問いかけた。
その落ち着いた声音に、動揺していた椛の心も少しだけ落ち着きを取り戻す。彼女は艮の顔を見上げた。
そこには、柔らかな光を帯びた黄金の瞳があり、まっすぐに彼女を見つめていた。
「……秋津、椛。どんな世界か──言葉にするのは難しい。けれど……私が着ているこの服が当たり前にある、“日本”という国から来たの」
自分の世界をどう説明すれば伝わるのか。椛は必死に言葉を探し、慎重に口にした。
「主。この女は、おそらく他国で神隠しにあい、流れ着いたのでしょう。この世に異なる世界など存在しません。あるのは、現世とあの世、そして地獄だけ。知らぬ土地に来て混乱しているのだと思われます」
冷ややかな声で言い放ったのは功曹だった。その鋭い視線が椛を射抜く。
「功曹の推論に俺も一票かな」
大吉が肩をすくめて笑みを浮かべる。
「それか……冥海から来たとか?」
「有り得ぬ」
功曹が眉をひそめて即座に否定する。
「いや、分からないよ。異世界なんて曖昧なものよりは、まだ現実的だろう?冥海は誰も制覇したことのない果ての海。幾人も航海に挑み、生きて帰った者はいない。なら、その海の向こうから来たと言われた方が、僕は納得するけどね」
功曹と大吉が互いの意見をぶつけ合う中、別の声が響いた。
「貴方たちは何を言っているのです。この方は紛れもなく、モミジ姫なのです!」
そう言って嘲るように微笑んだのは、艶やかな少女だった。彼女は一歩前へ進み出て、胸を張る。
「姿は以前と少し違えど……我々が姫の魂魄を見誤るはずがないのです」
「なんだと!?」
「馬鹿な……あの女は死んだはずだ!」
功曹と大吉が驚愕に目を見開き、即座に警戒の色を示す。
「主から離れろ!」
怒声と共に、功曹の蹴りが椛の腹部にめり込んだ。息が詰まり、椛は艮から引き剥がされて地面を転がる。
「主様、我らの後ろへ!」
大吉が即座に艮の前へ立ちはだかり、臨戦態勢を取った。
「やめるんだ、二人とも」
艮の声音が低く響いた。その静けさは怒りを含んでいるようで、場の空気が張り詰める。
「女性を足蹴にするとは、なんと無粋なことを。功曹、大吉……何もしていない者に殺気を向けるとは、嘆かわしい」
そう言うと艮は二人に歩み寄り、額へ軽く指を弾いた。
その瞬間、乾いた音が辺りに響く。
「いっ……てぇ……っ!」
「ぐおおぉぉっ!?」
功曹と大吉は同時に額を押さえ、涙目で地面に蹲った。
「……私の従者がすまない」
艮は椛に歩み寄り、そっと彼女の腹部へ手を当てる。
温かな光が流れ込み、蹴られた痛みがふっと消えていった。
椛が恐る恐る服をめくってみると──打撲も傷も、跡形すら残っていなかった。
「ここで立ち話を続けるのも何だ。私の社へ行こう。そこでなら、ゆっくり話せるだろう」
艮が再び椛へと手を差し出した。
「嫌っ!寄らないで!」
だが椛は、その手を激しく拒絶した。
その顔には、恐怖と混乱が露わに浮かんでいる。
「もう……やだ。どうして私がこんな目に……!帰りたい……元の世界に返してよッッ!!!!」
堰を切ったように、涙が頬を伝った。
何度も死にかけ、痛みを受け、知らない世界で命を狙われる。
恐怖、孤独、不安──押し寄せる感情が心の許容量を超え、椛の中で決壊した。
彼女は膝を抱え、顔を埋めて泣き崩れる。
「モミジ姫……どうか、ご安心を。我々がいるのですよ」
少女が戸惑いながら椛に手を伸ばした。
「私に触らないでッ!」
鋭い拒絶の声に、少女は肩を震わせ、静かに手を下ろす。
「ごめんね。混乱している君を無理に追い詰めたくはないけれど、妖が集まってきている。悪いが強制的に私の社まで来てもらうよ」
そう言うと艮は迷いなく椛の身体を抱き上げた。
椛の足が宙に浮いた瞬間、木々の陰から蠢く気配が次々と押し寄せる。
「紅葉姫だって?」
「馬鹿な、三百年前に人間に殺されたはずだろ」
「でもみろ、餓鬼がついてる」
「美味そうな魄だ。間違いない。おそらく生まれ変わりかなんかだろう」
「はぁ……はぁ、血を啜りたい……肉を喰らいたい……」
ざわめきが耳を劈く。椛の背筋を冷たいものが走り、思わず艮の胸にしがみついた。
「ひっ……!」
送り雀に襲われた時の恐怖が蘇る。全身が震え、息が詰まった。
「私の首に手を回して」
囁くような艮の声に導かれ、椛は両腕を彼の首裏に回す。
「餓鬼。君も一緒に来るかい?」
艮が少女に視線を向けると、少女は一瞬ためらったのち、小さく頷いた。
艮が指笛を鳴らす。
すると、白銀の毛並みを持つ巨大な狼が、闇の中から音もなく姿を現した。
艮がその背にまたがると、狼は大地を蹴り──夜空へと舞い上がる。
椛は初めて見る光景に目を見開いた。後ろには少女も共に乗っている。
「逃がすな!」
「全員でかかれ、あれは喰らうに値する!」
妖たちが木々の間から溢れ出す。牙を剥き、闇を裂いて追いすがろうとした。
「功曹、大吉。後は頼んだよ」
「「御意」」
二人はその場に立ちふさがり、追撃を阻むべく身構える。
妖怪たちの影が波のように押し寄せる中、椛を背に乗せた白狼は夜空を駆け抜けていった。
山を抜け、暗い世界の上を。
涙で滲む椛の視界に、初めて見る無数の星々が煌めいていた。