あか
赤は好きだ。
椛もとい紅葉の赤。
山化粧に彩られた赤が夕陽の朱に染められるのもまた、味わい深く、とても好きだ。
赤は嫌いだ。
血の色。痛みを伴う色。
人が憤った時、顔は赫く染まる。命が流れる証。恐怖と死を連想させる、忌まわしき赤。
「大丈夫かい?」
身体を押さえつけていた重みがふっと消え、耳朶を打つのは驚くほど優しい声音だった。
「……はい。ありがとうございます」
助けられたことに礼を言いつつ、椛はそっと瞼を上げる。
目に飛び込んできたのは──月明かりに照らされた惨憺たる光景。
紅葉の赤ではない。
無惨に倒れ伏した獣の血が地に広がり、飛沫が木々や石畳にまで散っていた。
椛の呼吸が急に荒くなる。指先から体温が奪われ、胸が締め付けられていく。
──あの時と同じ。赤。赤。赤……。
硬直した頬に、ふいに温もりが触れた。掌だ。驚くほど優しく、温かい。
「驚かせてしまったね。ごめんよ。……君はとても目が利くようだ。まだ見ない方が良かったかな」
視線を上げた椛の目に映ったのは、灰色の着物に身を包んだ男だった。
その姿を見た瞬間、まるで稲妻が全身を駆け抜けるような衝撃に襲われ、思わず息を呑む。
──この人だ。
確証は無い。それでも夢の中で影になって見えなかった顔が、手の温もりと声音の優しさが、彼だと告げていた。
「モミジ姫……?泣いているのです?」
椛に抱かれていた少女が腕の中から顔を上げて、不思議そうに問いかける。
言われて初めて、椛は自分が涙を流していることに気付いた。
「あ、あれ……?なんで……涙なんか」
高校生にもなって人前で泣くなんて、恥ずかしい。慌てて手の甲で涙を拭う。
それでも涙は止まらない。安堵か恐怖か、それとも別の何かか分からない。
ただ、彼を見た瞬間、胸が強く締め付けられ、心の奥底から自然と涙が溢れていた。
「おや、左耳と目を怪我している。それに、瘴気に当てられて一時的に視力が奪われているようだね」
男は椛に目線を合わせるように、片膝を着いてそっと椛の左頬に触れた。
温もりと同時に、ぞくりと背筋が粟立つ。人ならざる気配が、至近で感じられたからだ。
「あ、あの……あなたは?ここは、どこなんですか?さっきの、あれは……」
胸の痛みも懐かしさも押し殺し、困惑のままに椛は彼の手を取り畳みかけるように問いかけた。
男はわずかに目を見開き、次の瞬間──。
「おい、女!艮様に気安く触るな!」
怒声が割って入り、椛は肩を震わせた。
いつの間にか、男の両脇には二人の影が立っていた。短い髪を跳ねさせたバンダナ姿の吊り目の男が、鋭く睨みつけてくる。
「君。ただの人間じゃないよね?そこの餓鬼といい、餓鬼共が護ろうとする得体の知れない奴が、主様に近付かないで欲しいかな」
言葉遣いは柔らかいのに、笑みを浮かべながらも底意地の悪さが滲むもう一人の男。
椛を助けてくれた少女は、熊手の拳形をつくり歯をむき出しにして彼らを威嚇した。
「功曹、大吉。そんな事を言うものじゃないよ」
艮と呼ばれた男が穏やかに制すると、二人は決まり悪そうに口を噤む。
「まず、私の名は艮。北東を司る神として山を見回り、死した魂を黄泉路へ送る者だ。ここは、私が管理する山の一つだよ」
淡々と答える口調は優しい。しかし言葉の意味は、椛の常識をあっさり越えていた。
──神?黄泉へ送る?人間じゃ……ない?
心臓が強く打ち、椛は息を飲んだ。
「そして先程の狼は妖、送り雀と呼ばれるもの。夜の山で鳥の声を聞けば、人は惑い転倒し、そこを送り狼が襲う。夜雀とも言われ、人を盲目にするんだ。……君の左目が見えなくなったのも、夜雀のせいだね」
そう言って、艮は再び椛の頬に触れ、指先で左目をなぞる。
淡い光が彼の掌から零れ、瞬きの間に闇が払われる。閉ざされていた左目に、鮮烈な光景が戻ってきた。
「……っ!」
息が詰まる。まるで夢か幻のような現象。
目を見開く椛を前に、艮はただ微笑んだ。
その笑みが優しいと同時に──恐ろしく思えた。