呼ばれし者
漆を塗ったような、どこまでも濃い闇だった。
何もない空間に、椛はただひとり浮かんでいる。地に足が着いていないという感覚が、底知れぬ不安を増幅させた。
まとわりつく生ぬるい空気が、蛇の舌のように肌を撫でる。
「……人間だ」
「上等な──魄を持った娘だ」
「美味そうだ」
「こい。こい」
「美味そうな魄を持った子」
生暖かい空気がするすると這い寄り、蛇のように椛の身体に絡みつき、締め付ける。
「……く、るしい……」
形のない何かに首を絞められ、必死にもがく。
四方八方から囁き声が降りかかる。それは人間の声ではなかった。湿り気を帯び、骨の髄まで染み込むような、おどろおどろしい響きだった。
「……これは、アイツの生まれ変わりか」
驚きに染まった声がひとつ。
「本当だ……あの女の生まれ変わり」
「喰い逃した最後の生き残り……」
「忌まわしき人間どもに殺されおって」
「今度こそ、あの女の価値も分からぬ愚かな人間に殺される前に──」
「喰らってやろう。我らの力とするために」
「ああ、それが良い」
「そうしよう」
周囲の闇がざわめく。椛は手足をばたつかせ、必死に抵抗した。
目には何も映らないが、確かに何かがすぐ傍にいる。しかもそれは、椛に害を成すものだと、本能が告げていた。
「……いや……離して……離してよッ!」
ここが生か死かすら分からない場所なのに、椛はただひとつ「死にたくない」と強く願った。
そのとき。
「私の女に、触れるな」
背筋をざわめかせる囁きとはまるで異なる、猛々しい声が闇を谺した。
「また……邪魔をするか」
「神の分際で禁忌を犯した愚か者が」
「最後の生き残りすら護れぬ頓馬め」
「人間を殺し、凶神に堕ちた悪神が」
不気味な声の主たちが口々に誹る。
「黙れッッ!」
猛り立つ一喝が響く。
直後、眩い閃光が闇を切り裂き、影一つなかった空間に、無数の異形が浮かび上がった。
それは、妖怪と呼ばれるものたちの群れだった。
椛の身体を締め上げていたのは、蟒蛇の尾。
閃光が走り、蟒蛇の尾が断たれる。
重しが外れたように椛の身体は宙へと浮かび上がり、妖怪たちの頭上を越えていく。
さらに高みには、巨大な戦斧を片手に構えた男が、妖怪たちを見下ろしていた。
巨人族かと見紛う体躯。電柱三本分はあろうかという柄の戦斧が、その腕に軽々と握られている。
「金神め……また我らの邪魔をするか」
「まあいい。いくら邪魔しようと、お前は現世へは行けまい」
「金神は恐ろしい……だが現世のお前は恐るるに足らず」
「その女は……やがて現世に飛ばされるのだろう?」
「ならば、現世で待つとしよう。喰らうのは、その時でもよい」
嘲笑を残し、妖怪たちの姿が闇に溶けていく。
残されたのは、燐光を纏う金神と椛の二人だけ。
「……女。名はなんという」
「……秋津 椛」
不思議なことに、金神には一切の恐怖を感じなかった。
名乗ると、巨躯の影がわずかに揺れた。
「そうか……もみじ、か」
慈しむように名前を呼ぶ声。その声音と影に隠れた表情が、夢で見た男と重なる。
「あなたは──」
続く言葉は、再び押し寄せた闇に呑み込まれた。
金神の姿はすでになく、椛の意識もまた、音もなく深みに沈んでいった。