静寂のLANケーブル
誰にも見つけられない場所で、誰にも届かない声を上げている人がいます。
それは、もしかしたら“あなた”かもしれないし、かつての“わたし”かもしれません。
この物語は、一人の人物が静かに、けれど確かに“存在していた”記録です。
布団の中で、LANケーブルを握りしめながら、画面の向こう側に助けを求め続けた人。
誰にも気づかれず、誤解され、嘲笑され、忘れられていく――そんな人の、声なき日常。
ネット社会に生きる私たちは、匿名の言葉に傷つけられ、誰かの苦しみを“ネタ”として消費することに慣れすぎてしまったのかもしれません。
しかし、その向こうには、確かに生きている誰かがいる。
痛みを抱え、孤独に耐えながら、それでもわずかな希望を捨てきれずにいる人が。
この物語には、大きな出来事はありません。
ただ、今日もどこかで息を潜めて生きる「段田団吉」というひとりの存在を通じて、現代という時代の空気が、静かに、そして鋭く描かれています。
読んでくださるあなたにとって、この作品が“誰かの痛み”を想像するきっかけとなれば、それ以上のことはありません。
布団の中から天井を見上げる。
薄汚れたクロス、輪郭のぼやけたシミ、剥がれかけの照明のカバー。
首筋と背中がじんわり痛む。動こうとすると関節が鳴った。
隣の部屋から聞こえるテレビの音、廊下を上がる重たい足音、外の雨がトタン屋根にぽつぽつ落ちている。
部屋の床には埃が溜まって、足の裏がざらざらする。
昨日食べたカップ麺の容器が三つ、倒れたまま転がっている。
机の上にはパソコン、原付きのキー、開封されていない郵便が乱雑に積まれている。
スマホを握りしめ、布団に潜ったまま親指だけが動く。
SNSのタイムライン、掲示板のスレッド、誰かが書いた“今日生きててよかったこと”――
それをぼんやりとスクロールするけど、何も響いてこない。
画面の光が手のひらを青白く照らす。
布団の奥は湿っぽく、冷たさが身体の芯まで染み込む。
インターホンが鳴るかもしれない――
配達か、誰かが訪ねてくるかもしれない――
そう思うたび、全身が強ばって動けなくなる。
ただ、画面の向こうでだけ、世界は動いている。
スマホの光から、PCの青白い画面へ。
指先でキーボードを叩くリズムだけが、いま自分が“生きている”ことの証みたいに思える。
掲示板に長いレスを投稿する。現実の自分じゃ絶対に言えないことも、ここなら言葉が溢れてくる。
反論や賛同、皮肉混じりの書き込み。
一瞬だけ体が熱くなるような気がするけれど、手を止めれば、また部屋の冷たさだけが戻ってくる。
アニメグッズの予約ページを開いて、今月の残金を指で数える。どうしても欲しかったフィギュアをポチる。
注文完了のメールを見て、何かが満たされた気がした。
アパートの外でバイクのエンジン音が響く。配達か、誰か知らないけれど、とにかくインターホンが鳴らないことを祈る。
やがて遠ざかるエンジン音に、ようやく息を吐き出す。
原付きのキーを握りしめる。これに乗って外へ出て、遠くまで走れたら全部忘れられるんじゃないか――
そんなことを思う。でも、体は布団の中から動かない。
掲示板で、また小さな言い争いに巻き込まれる。「社会のゴミ」「消えろ」
画面を閉じて、壁際で膝を抱える。
雨音と、何も映らない画面の闇だけが、部屋に満ちていた。
掲示板での口論が、いつの間にか自分を的にした晒しに変わっていた。
ハンドルネームがスレッドのタイトルに踊る。
昔ふざけて書き込んだプロフィールも、過去のレスも、全部掘り起こされては「痛い」「きもい」「本当に終わってる」と並べ立てられる。
スマホの通知が止まらない。
「お前みたいなのがいるから日本がダメになる」
リプライの数だけ、身体が小刻みに震える。
言い返そうとした手は、指が震えてまともに打ち込めない。
“自分は大丈夫、何もしてない”と頭のどこかで繰り返すが、胸が痛い。
誰かが部屋を特定しようと動いているらしい。
アパートのボロさや、SNSでうっかり写り込んだ原付きや、グッズの写真――
それらが「特定班」の材料として晒されていく。
急いでアカウントを消すけど、もう間に合わない。
魚拓、スクショ、二度と消えない記録。
画面の中の自分が、自分じゃないものになっていく感覚。
布団の中で頭を抱え、目をぎゅっとつむる。
耳鳴りが激しくなり、心臓の音が全身に響く。
“何もできない”
ただ、外の雨音だけが少しだけ優しく、部屋の中に残っていた。
机の上に積み上がった郵便物の山。その中で、役所から届いた生活保護の更新通知だけがやけに目立つ。
封を切ることもできず、視線だけが何度もそこに止まる。
深呼吸をしても、胸が苦しい。
管理会社から電話が入る。「最近、騒音の苦情が多いので……」
原付きの音、夜中のキーボード、隣人が迷惑していると言われて、頭が真っ白になる。
「すみません」と小さく返すのが精いっぱいだった。
その日の午後、アパートのチャイムが何度も鳴った。
布団の中で身を縮めて、音が止むまで呼吸を止めていた。
警察からの電話も、非通知の番号も、全部怖い。
「ネットでの誹謗中傷について話を聞きたい」
自分は何もしていない、そう思い込もうとしたけど、手が止まらないほど震えていた。
生活保護担当者からも再度電話。
「今週中に訪問します。問題があると、支給が難しくなるかもしれません」
「はい」としか言えなかった。
原付きに乗ろうと外に出ると、駐輪場でヤンキーに呼び止められる。
「お前、ネットで有名だな」
からかうような笑い声。
部屋に戻っても、ドアの向こうでしばらく騒ぎ声が続いた。
自分の味方なんて、この世界に一人もいない――
どこにも逃げ場がないと思い知らされる。
夜が深くなるほど、スマホの通知は増え続けた。
知らないアイコンのDM、フォローリクエスト、見たこともないアカウントからの執拗なリプライ。
掲示板には自分の発言を集めた“晒しスレ”が建ち、拡散されていく。
昔、やり取りしたことのあるネット仲間まで、冷たい言葉や嘲笑に加わっていた。
アカウントを消しても、すぐに新たなアカウントが自分になりすまして動き出す。
なりすまし、晒し、どこかで“祭り”の空気が広がっていく。
「段田団吉」という名前が、ネットスラングとして一人歩きし始める。
小さなニュースサイトにも、自分のアイコンとIDが「問題ユーザー」として晒された。
深夜、PCの前で固まったまま、自分の名前で検索する。
出てくるのは、知らない誰かの罵倒、まとめ、キャプチャ、晒し。
何度もリロードする指が痛くなり、瞳が熱くなる。
自分の名前だけが、どんどん自分から遠ざかっていくようだった。
深夜の掲示板は、まるで悪夢のような速さでスレッドが流れていた。
「段田団吉祭り」と書かれたタイトルが、秒単位で伸びていく。
「死ね」「晒せ」「家を突き止めろ」
過激な言葉が躍る。画面の中で、誰かが住所を特定する画像を上げ、アパート周辺の写真が貼られた。
SNSやDMにも「お前を見てる」「逃げられない」といった脅しが次々と届く。
息を潜めてカーテンの隙間を覗けば、駐車場にスマホのライトがちらつくのが見えた。
外から聞こえる笑い声とバイクのエンジン音に、心臓がどくどくと鳴る。
部屋に戻ると、机の上にLANケーブルが投げ出されていることに気づく。
手が震え、無意識にそれを握りしめる。
“誰にも理解されなかった”という思いが、頭の中を埋め尽くし、涙が止まらない。
怒り、悲しみ、羞恥、恐怖――
全部が混ざって、どうしようもなくなり、部屋の中をぐるぐる歩き回った。
全てのSNSアカウントを消した。掲示板もブックマークから消した。
けれど、もう「段田団吉」という名前は自分の手を離れて、ネットの中を勝手に歩いている。
PCのデスクトップは真っさらで、ネットに繋げば恐怖が蘇る。
LANケーブルを引き抜き、PCの電源も落とした。
スマホも何度も電源を切った。だが、気になってすぐにまた点けてしまい、画面の通知の山にうんざりして泣き出した。
夜、外で誰かが廊下を走る。足音が部屋の前で止まり、息を殺して待つ。
部屋の空気はさらに重く、喉が詰まるほどだった。
「現実にしか逃げ場がない」と思って、玄関まで行ってみるけど、ドアの向こうの気配にすぐ怯んで引き返す。
PCの前に座り直し、LANケーブルをただ握りしめたまま、膝を抱えて動けなくなった。
朝になっても、カーテンの隙間から差し込む光は薄暗いままだ。
布団の中で身体を小さく丸めて、外に出る勇気なんてどこにもなかった。
冷蔵庫はほとんど空っぽ。
最後のカップ麺に湯を注ぎ、水道水で流し込む。
味もしないのに、喉だけがやけに渇く。
机の上に置いた生活保護の更新書類に手を伸ばす。
名前を書きかけたが、急に吐き気がしてペンを投げた。
原付きのキーを握って何度も回し、「これで遠くまで逃げれば全部終わるんじゃないか」と考える。
でも、玄関を開ける勇気が出ず、ただ床に座り込む。
インターホンが部屋に響き渡る。
誰なのかわからないその音が、すべての神経を逆なでする。
スマホは画面の明かりだけが灯り、電源を入れてはすぐ消すことを繰り返した。
身体の芯が冷え切り、気づけば何も感じないまま、時間だけがゆっくりと流れていた。
夕方、管理会社から電話が鳴った。
家賃の遅延、騒音、住民トラブル。強い口調で何度も詰められ、まともに返事もできず、「すみません」と繰り返すばかりだった。
生活保護の担当者からも再び電話がかかってくる。
「これ以上問題があると、支給停止も検討します」
その一言に、心拍数が跳ね上がる。
郵便受けには、開封しないままの請求書や警告状がどんどん溜まっていく。
玄関の外でヤンキーに呼び止められた。
「ネットで有名なんだって?」
肩を押されて、倒れそうになる。情けなくうつむいて、その場から逃げ帰った。
警察からも電話。「近隣トラブルについて事情を聞きたい」と告げられる。
どう返事すればいいのかも分からず、ただ震えていた。
夜になると、廊下から壁を叩く音が絶え間なく響いた。
部屋の中で全身が小刻みに震え、何もかもが自分を責め立てているような気がした。
夜遅く、廊下で複数のヤンキーが騒いでいた。
自分の部屋のドアが何度も叩かれる。「出てこい!」
怒鳴り声と壁を殴る鈍い音が、心臓の鼓動と重なる。
スマホには非通知の着信や脅迫めいたメッセージが山ほど届く。
「お前は終わりだ」
LINEもSMSも、全ての言葉が自分を追い詰めてくる。
布団に潜り込んでも、体の震えは止まらない。
突然、郵便受けがバタンと開いた。
外から本名が叫ばれ、ビニール袋に詰められたゴミが部屋に投げ込まれる。
悪臭が部屋にしみこみ、喉の奥が痺れた。
しばらくして、警察と管理会社の担当者がやってくる。
廊下でヤンキーたちと言い合いになり、自分の部屋のドアも強く叩かれる。
「事情聴取のため、出てきてください」
何度も呼ばれたが、動けないまま布団の中で息を殺した。
夜が明けても、部屋の空気は重く、手足の感覚が薄れていくのを感じていた。
警察も管理会社も去り、アパートの廊下は静けさを取り戻した。
だけど外に出る勇気は、どこにも見つからなかった。
部屋に投げ込まれたゴミ袋の臭いが、じっとりと染みついていく。
窓も開けられず、冷たい空気と悪臭の中で膝を抱え込む。
全部のカーテンを閉めて、照明も消した。
部屋は夜と同じ暗闇に包まれる。
PCもスマホも、全部オフにした。
LANケーブルを手の中で握りしめ、しばらく何も考えられなかった。
身体が芯から冷えきって、ちょっと動かそうとするたびに関節が痛む。
布団の中にうずくまり、目を閉じる。
「死にたい」「消えてしまいたい」
その言葉だけが、頭の中で何度もリフレインする。
涙も出ないほど、心が乾ききっていた。
助けを呼ぶこともできず、もう終わりだという確信だけが静かに残った。
布団の中、手にはまだLANケーブルが残っていた。
「やり直せるかもしれない」
ほんの一瞬だけ、そんな思いが胸をかすめる。
原付きのキーをポケットに入れてみる。
これに乗ってどこか遠くまで逃げられたら、全部変えられるかもしれない。
けれど玄関まで行く勇気もなく、立ち上がれない。
スマホで役所や支援団体のサイトを何度も検索した。
匿名で相談できる窓口。
「助けて」と小さな声で何度もつぶやくけど、結局メッセージを送ることはできなかった。
冷蔵庫の扉を開ける。
明日こそは買い物に行こう、と自分に約束する。
けれど心臓がぎゅっと締め付けられて、また布団の中に戻った。
外で犬の遠吠えが響く。
壁に揺れる影を見て、恐怖と孤独がかわるがわる押し寄せてくる。
「何かが変わるはずだ」と信じて朝まで起きていようとする。
でも、まぶたは重くなり、意識は浅い眠りに溶けていった。
朝方、カーテンの隙間から灰色の光が差し込む。
部屋の中は静まり返っていて、空気はどこまでも冷たく重い。
LANケーブルを指先で何度も撫でる。
それを首に当ててみると、まるで遠い世界の出来事のように思える。
声に出しても、涙が流れても、もう自分の耳には何も届かない。
呼吸は浅くなり、耳鳴りと頭痛だけが残った。
机の上に並んだ原付きのキー、お気に入りだったフィギュア、使い古したスマホ。
すべてが、“手放すための準備”みたいに整然としているように見えた。
窓の外でカラスが鳴く。
遠くの救急車のサイレンが小さく聞こえる。
どれも全部、どんどん遠くなっていく。
もう一度だけ布団を握りしめた。
「誰かに見つけてほしい」
そう願ったのかもしれない。けれど、もう体は動かなかった。
LANケーブルをかける。
意識が遠ざかる中、部屋の音も光も、すべてが静かに消えていった。
ふっと、すべてがほどけた。
気づくと、どこでもない場所に自分が浮かんでいた。
身体も、痛みも、あの部屋も、もう感じることができなかった。
残っているのは、ただ“記憶”の断片だけ。
遠くに、アパートの部屋が幻みたいに浮かび上がる。
布団、机、LANケーブル、原付きのキー――どれももう、手の届かないところでぼんやり揺れている。
生きてきた日々の断片が、無音の映像になって流れた。
嬉しかったこと、苦しかった夜、誰にも理解されなかった苛立ち。
それらが音もなく浮かんでは消えていく。
誰かの声がかすかに聞こえる気がしたけれど、それが誰なのか、何を言っているのか分からなかった。
ただ、「自分がたしかに生きていた」という感覚だけが、淡く残っている。
「なぜ生きなければならなかったのか」「なぜ死を選ぶしかなかったのか」
問いだけが、何度も頭の中で反響し、答えは出ないまま、少しずつ遠ざかっていった。
「どこにも行けなかった」「何者にもなれなかった」
絶望とともに、静かな安堵が胸の底に広がっていく。
記憶と感情は徐々に薄れていき、「自分がいた証」は誰にも気づかれないまま、深く静かな場所へ沈んでいった。
静かな場所。
もう痛みも、重さも、何も残っていない。
それでも、どこか遠くのほうで「自分が存在していた」手触りだけが、かすかに漂っている気がした。
誰にも届かなかった叫びや願いが、薄い波紋のように、ゆっくりと世界の隅へ広がっていく。
生前の部屋、LANケーブル、原付きのキー――
それらはもう現実には存在しないけれど、ひとつひとつに、自分の痕跡が残っていると感じられた。
たとえば、誰かが埃に触れたり、赤いヘルメットを見かけたりした時、ほんの一瞬だけ「ここに生きていた時間」が世界のどこかで重なるような気がした。
孤独と諦念の静けさのなか、それでも「生きた意味はなかったのかもしれない」と思う自分がいる。
だけど、どこかに「意味を託す」ような、かすかな希望も、消えずに残った。
「誰にも届かなくても、生きた時間はたしかにあった。」
そのことだけを、最後の記憶として静かに抱きしめる。
静寂のなか、“次の誰か”が、この世界で小さな光を見つける瞬間を、遠くからそっと見守る意識だけが残る。
ここまで読み進めてくださり、ありがとうございます。
この物語はフィクションです。
けれど、そのどこかに“現実”が滲み出てしまったかもしれません。
インターネットが生活の一部となったいま、私たちは「顔の見えない誰か」に言葉を投げかけ、また受け取っています。
それは便利で、自由で、ときに救いにもなりえる一方で、無意識のうちに誰かの心を追い詰めてしまうこともある。
「そんなつもりじゃなかった」と言っても、届いてしまった言葉は、戻ることはありません。
段田団吉という人物は、特別な人ではありません。
日々をなんとかやり過ごしている、どこにでもいるひとりの人間です。
彼が感じた痛みや恐怖、孤独は、誰の隣にも存在するかもしれない。
この物語に「解決」や「救い」はありません。
ただ、どこかで声にならない声をあげている誰かの存在を、少しだけ感じていただけたなら、それがこの作品のすべてです。
もしも今、この物語のような思いを抱えている方がいるなら、どうか――
どうか、自分のことを責めないでください。
あなたはひとりではありません。
そして、もしあなたが、誰かの声に気づける側にいるなら、その手を少しだけ伸ばしてみてください。
ほんのひとつの言葉が、誰かを救うかもしれません。
読んでくださって、本当にありがとうございました。