第2話「絶望した世界で」
――エデン地区の外れで火花が散っていた。
灰色の大地に響く断続的な銃声、叫び声、爆発音。
乾いた空気に混ざる火薬の臭いと、鉄のような生臭さが鼻を刺す。
資源を狙うゲリラ部隊の奇襲に対し、インターセプトは迎撃部隊を差し向けた。マスター率いる931小隊もまた、その最前線にいた。
ジュインは戦場を駆けていた。
風を切るように、大地を蹴り、敵陣を駆け抜ける。
その速度はまさに戦場を駆ける騎兵のごとく――敵に照準を合わせながら、正確に、冷静に引き金を引いていく。
アサルトライフルが火を吹き、空薬莢が宙を舞うごとに敵兵が倒れていく。
ジュインは臆病な性格だが、戦場に出ると目の色が変わる。
仲間はその鋭い目を、まるで獣のような目だと言う。極度の緊張と恐怖、そしてアドレナリンによる一時的なトランス状態なのだろうか。
「そこっ!」
鋭い反射で横合いから現れた敵を撃ち抜き、再び前を向いたその瞬間だった。
ヒュウゥゥ……という、耳障りな飛翔音が空を裂いた。
「――ッ!?」
何かが降ってくる。ジュインの本能が叫んだ。
「おい! 早く伏せ……!」
目の前にいた味方の兵士が振り返る――
次の瞬間。
――ドガァン!
音よりも先に、衝撃が走った。
迫撃砲の榴弾が炸裂し、目の前の兵士が、まるで砂の彫刻のように砕けて消える。
体が爆ぜ、謎の塊が赤黒い霧のように舞い上がった。
「え……? あ……なに……これ……」
熱い。
何かが顔に、服に、髪に降りかかっている。
視界が赤い。ぬるぬるする。
先ほどまでなんともなかった銃声や爆発音が、ジュインを恐怖のどん底に突き落とした。
彼女の耳が、本能的に怒涛の音を遮断する。
「あぁぁっ……」
動かない。動けない。
呼吸が浅くなる。指が震える。
頭の中が真っ白に、空白になった。
「ジュイン! 伏せろッ! 砲迫に晒されるぞ!」
誰かの叫び声が、意識を殴るように響いた。
はっと息を呑み、ようやく戦場の音が戻ってくる。
銃声、爆発、悲鳴、混沌。
しかし、それも長くは続かなかった。やがて銃声は遠ざかり、静寂が戻る。
――戦闘は、終わっていた。
だがそこに広がっていたのは、勝利ではなく地獄だった。
積み重なった、かつて生きていたもの。
壊れた人形のような姿の味方。
生き残った者も赤に染まり、呻き、震え、泣き叫んでいる。
中には、狂い、笑い出す者さえいた。
目の前の現実は、あまりにも異常で、あまりにも凶悪だった。
ジュインの心を、何か鋭利なもので貫かれたような感覚が走る。
「夢……? 夢だよね……夢って言って……!」
それでも、彼女は泣かなかった。
涙すら出ないほどに、彼女の心は硬直していた。
――この日を境に、ジュインの心には決して消えぬ傷が刻まれた。
戦闘が終わり、ジュインとマスターはエデン地区の前線基地に帰還した。
血だらけになったジュインはすぐに仮設されているシャワールームに入った。
シャワールームの床に、血と泥が混ざった水が流れていく。ジュインの手が震えるたび、その雫が赤く染まっていた。
まるで自分がどこかから出血しているように思えた。
いや、本当にどこか裂けているのかもしれない。
そう錯覚するほどに、身体中が痛く、重かった。
洗い流しても、どこかにまだ血がこびりついている気がして、何度も、何度も、体をこすった。
だけど――
鉄のような、生臭い匂いは完全には消えてくれなかった。
(……もう、いいや……)
彼女はようやく湯を止め、バスタオルを引き寄せた。濡れた髪を雑に拭きながら、バラックに戻り無言でベッドに潜り込む。
今日はもう何も考えたくなかった。ただ眠って、すべてを忘れたかった。
だが――
気がつけば、また戦場に立っていた。
紅い霧、爆音、肉が爆ぜる音。
あの時の光景が、より鮮明になって迫ってくる。
仲間が吹き飛ぶ、叫び声、紅い塊が降る。
その中で、なぜか自分だけが無傷だった。
『――なんで、お前だけ……』
耳元で声がした。
『なんで、お前だけ生きてるんだよ』
心が締め付けられる。息が荒くなる。
視界が歪んで、足元が崩れ落ちて――
「うわぁぁぁ! はっ……! はっ……」
ジュインは、叫びながら飛び起きた。
心臓が破裂しそうだった。呼吸が苦しい。
額にはびっしりと汗。震える手で自分の体を抱きしめる。
――まただ。また、眠れなかった。
最近、ろくに安眠できた日がない。
まぶたを閉じるたび、死と隣り合わせの現場が蘇る。
誰かの死、血飛沫、断末魔……それらすべてが、ジュインの若い心を削り取っていた。
「なんで、私だけ……生きて……?」
そうつぶやいた瞬間、涙があふれた。
堪えきれず、ベッドの上で頭を抱える。
「あぁぁぁ……! なんでなんでなんで!!!」
「どうして……私だけ……」
仲間を守れない、自分の無力さが怖い。
明日、死ぬかもしれないという現実が怖い。
誰かをまた失うのが、たまらなく怖い。
――そのときだった。
「……ジュイン?」
ドアの向こうから、優しい声が響いた。
反応する暇もないうちに、マスターが部屋に入ってきた。
――バラックの外まで、声が響いていたのだろうか。
ジュインの顔を見るなり、マスターの表情が曇る。
ぐしゃぐしゃに泣いて、肩を震わせている彼女を見て、何も言わずに駆け寄った。
その腕に、ジュインは飛び込んだ。
言葉より早く、心が反応した。
「う、あああああ……っ!」
声にならない叫びと一緒に、すべての感情があふれ出す。
マスターの胸の中で、子どものように泣きわめいた。
暖かい体温と、ほのかに残る優しい匂い――
それが、どれだけ安心できたか。
どれだけ、求めていたか。
「大丈夫……ここにいる。もう大丈夫だ」
マスターは彼女の背を抱きしめ、そっと頭を撫でた。その手の温かさが、少しずつジュインの震えを止めていく。
この地獄のような日々は、いつまで続くのだろうか。
けれど今だけは、せめてこの温もりにすがっていたかった。
――せめて、今だけは。