第8話「絶望と、希望」
――ジュインは、薪のはぜる音に背を押されるように、口を開いた。
「……私が今こうなったのは、あの時の出来事のせいなんです」
――それは、今から2年前。私が15歳だった頃のことでした。
当時ジュインは、母と、妹のクルムと暮らしていた。
この時、ジュインにはまだ大きな馬の耳も、蹄も、そして尻尾もなかった。何1つ他の人間と変わらない、普通の少女だった。
妹のクルムは、姉よりも明るく、他人を思いやれる優しい子だった。
父は2年前に病気で亡くなり、母ひとりの身で二人を養っていた。
貧しく、決して楽な生活ではなかったが、家族と過ごす日々はかけがえのない幸せだった。
だが――その幸せはすぐに崩れ去ってしまった。
1年後のある日、エデン地区で大規模な侵略が起こった。
それも襲撃者はただのゲリラではなく、カルペ・ディエムと呼ばれる組織であった。
――カルペ・ディエム。
第三次世界大戦後に現れた大規模テロ組織であり、数百から数千の兵士と、大量の兵器を保有していると言われている。
第三次世界大戦にて多数の人間が死亡したにも関わらず、人類が滅亡していないこの状況を「生き地獄」と捉え、「Don't trust tomorrow, end it all today.」(明日を信ずるな、その日にすべてを終わらせろ)の信念の下、「救済」と称して各地の村や町を襲撃、大量虐殺を繰り返している危険武装組織である。
この侵攻によりエデン地区はインターセプト対カルペ・ディエムの激しい攻防戦に突入。
最終的に防衛に成功したものの、1000人以上の犠牲者を出す大惨事となり、エデン地区衰退の原因のひとつとなった。
2人は激戦区だった家の付近から避難するように言われ、中央地区から必死に逃げていた。
「はぁはぁ……クルム! 早く!砲撃が来ちゃう!」
「お姉ちゃん待ってよ!」
2人は手を繋いでとにかく遠くへ逃げた。母は家の物をまとめてから逃げる、と言ってついてこなかった。
――刹那、後ろから爆音が響き渡る。
激しい砲弾とロケット弾の雨に建物は崩れ去り、瓦礫と化した廃墟だけが残った。
さっきまでいた所が焦土になる光景が、ジュインとクルムのあどけない瞳に焼き付いていた。
「あ……うそ……お母さん……?」
「お姉ちゃん……! お母さん……生きてるよね?」
クルムがジュインの服の袖を引っ張って呟く、家があった場所は、とっくに瓦礫に埋もれていた。
ジュインは避難所へ着いた後、クルムを他の市民に預けて家のあった場所へ走った。
「お母さん……お願い……生きてて……!」
涙がこぼれそうになった、それでも微かな希望を信じ、走り続けた。
――あの光景を見るまでは。
「ッ……!?」
ジュインの瞳に映ったのは、瓦礫になった家の跡と、側に大量に転がる「人だったもの」
あまりの多さに、マネキンの廃棄場とでも思ってしまう。だが確かに、血潮が巡っていた跡が垣間見えた。
そして、ボロボロの壁に寄りかかるひとりの体を見た途端、彼女は膝から崩れ落ちた。
「……嘘だ」
「嘘だ噓だ噓だ! そんなわけない!」
受け入れたくなかった。目の前にある血にまみれた亡骸が、あれほど愛していた母親だなんて。
「お母さん! お母さん! 目を開けてよ! クルムが待ってるんだよ!」
涙で顔がぐちゃぐちゃになりながら必死に母の体を揺さぶる。だが、もう熱はとっくに冷め切っていた。
「いやだよ……置いていかないでよ! お母さん! お母さん……」
「ひぃぅ……うわぁぁぁぁぁぁん! なんで! どうして!」
「返してよ! 返してよ! 全部全部返してよ!」
悲痛な叫びが、中央エデン地区の廃墟に木霊した。
誰にも届くはずない叫びが、響いていた。
――結局、ジュインは避難所に戻り、クルムを迎えに行く。
「お姉ちゃん……? お母さんは?」
「……」
「お姉ちゃん……!?」
何も言わず、クルムに抱きつく。
「クルム……お母さんはね……お母さんは、遠いところに行ったよ」
「え……?」
「……今日から、私たちで頑張らないと」
「そんな……お母さん……うぅ……」
とてつもなく、つらかった。妹が必死に泣くのを堪えているのに、あれだけ泣き喚いた自分が惨めに見えてしまって。
その後、管理局から僅かなお金と仮設住宅を援助してもらい、2人はなんとか生き延びた。
暗い日々が続いた、ジュインはクルムを養うために日雇いの仕事を掛け持ち、汗水垂らして精一杯働いた。
貧しく、食べ物に飢える貧しい日々。それでも、ジュインは幼いクルムを悲しませまいと、亡き母親の代わりに愛情を与えた。
家にいる時は、できる限りクルムの側にいた。食事の際も、寝る時も、常に一緒にいた。
「お姉ちゃん……おやすみなさい」
「クルム、おやすみ」
2人はギュッと、体を抱きしめながら、隙間風が冷える夜を過ごした。
薄い布団で寒いけど、2人で寝ればたいそう暖かかった。
――あの悲劇さえなければ、幸せな夜だっただろうに。
すっかり眠りについたジュインは、クルムに揺す振られ、目を覚ました。
「お姉ちゃん起きて! なにこれ……何か変……」
「んっ……何? どうしたのクルム……?」
「って……クルム!? なんなのこれ!?」
クルムの姿を見ると頭にはピンと立つ、馬のような耳が生え、尾骶部からは髪と同じブラウンの尻尾が生えていた。驚いてベットから飛び起きる、すると足に妙な違和感を感じた。
コツン――と素足から聞こえるはずのない硬い音。
「なにこれ……足が……!」
ジュインは自身の足裏が、サンダルのように薄い蹄で覆われていることに気が付いた。
それだけじゃない、慌てて鏡を見ると、妹と同じように大きな馬耳と尻尾が生えていた。
一晩の内に、普通の人間から特異な獣人へと姿を変えてしまった2人、原因は「ダアド病」と呼ばれる原因不明の奇病であった。
恐怖と混乱の中で震える姉妹は、お互いを抱き締め、夜が明けるのを待つしかなかった。
――だが夜が明け、待っていたのは救いではなく、絶望であった。
その姿を見た近隣の住人たちは2人の姿に恐怖し、思わず声を上げた。
「おい! ダアド病の感染者がいるぞ!」
「化物だ! あっち行け!」
「この悪魔め……ぶっ潰してやる!」
心無い罵詈雑言が飛び交い、石を投げる者までいた。
戦乱のエデン地区で突如として出現したダアド病に市民は恐怖し、「悪魔の仕業だ」とか「死神の遣い」と言い。戦争の恨みをすべてダアド人になすりつけたのである。
「お願い、やめて! 私たち、何もしてない……!」
しかし、彼女の声は届かなかった。
二人は人目を避けるため、フードを被り、路地へと逃げ込んだ。
訳が分からなかった、昨日まで普通に過ごしていた人々に蔑まれるなんて。
クルムは恐怖で震え、ジュインに抱きついて離れなかった。
「お姉ちゃん……なんであの人たちは、私たちにあんなひどいこと言うの……?」
「わからない……わかんないよ……!」
それからは、市民に見つからないように、隠れて過ごすようになった。
その日の食事すら困るようになり、ゴミを漁って腐りかけのパンを食べる悲惨な日々が続いた。
生きる意味など、とっくに忘れ去ってしまった。今はただクルムを守るために、もがき続けるしかなかった。
しかし――神は、それすら許してくれなかった。
いつものように、ゴミ捨て場で使えそうな物を探していた時。突然姉妹の前に複数の市民が現れた。
「おい、いたぞ! ダアト人だ!」
「怪物がノコノコ、この街を歩くんじゃねぇ!」
ジュインとクルムは一目散に逃げた。皮肉にも、変異の影響で身体能力が格段に上昇し、並大抵の人が追いつけないほどの速度で逃げることができた。
しかし相手は道を先回って待ち伏せするなどして執拗に2人を追い続けた。狭い路地を必死に駆け抜け、なんとか振り切ろうとするも、振り切ることができない。
「はっ……! はっ……!」
「このままじゃ……クルム! ここは一旦隠れてやり過ご……」
「……クルム?」
ふと後ろを見ると、一緒に逃げていたクルムの姿が見えない。逃げることに夢中なりすぎて、はぐれてしまったようだ。
「嘘でしょ……!? クルム、どこ……?」
「っ……!? しまった!」
あたふたしているうちに道を塞がれ、囲まれてしまった。ジュインは……想像することすら、耐え難い苦痛を受けた。
「くたばれ怪物め!」
「全部……全部お前のせいだ!」
気を失いそうな痛みが走り回る。必死に体を丸めて守るが、意味をなさない。
体中アザだらけになり、泣きながら許しを請いた。
「ごめんなさい! 許してください! もうやめて……!」
「黙れダアト人が! おい、アレ持ってこい!」
ひとりの市民が鋭く光る物を持って近寄る。ジュインは必死にもがいて逃げようとするが、ガッチリと体を押さえつけられ、動くことができない。
「嫌だ! やめて! 助けて! 放してよぉぉぉ!」
――ザシュ!
鋭い音と共に、血と何かが落ちた音がした。
「あああああああ! 痛い痛い痛い!」
耐え難い痛みに視野が暗転する、路地に残っていたのは、尾を切られた哀れな馬だけだった。
血溜まりに、体を濡らしたアザだらけの体が、静かに横たわっていた。少しして、目が覚めたジュインは絶望した。母と父がいる所に行けなかったことを。
「……なんで?」
「なんで私、生きてるの……?」
もう限界だった。これ以上、生きる意味なんて見いだせない。ジュインは誰かがこの路地に足を踏み入れ、終止符を打ってくれることを強く願った。
「誰か……トドメを刺してよ……もうつらいよ……」
――その願いが叶ったかのように、誰かの足音がする。
「……やっと」
「……やっと……死ねる……」
最後の最後に、願いが叶った。それだけが救いに感じられた。
ジュインは動けない体に、ほんの一瞬の痛みが走るのを待った。天の母と父に、会いに行けるよう願って。
倒れたジュインを覗き込んだのは、口をバンダナで隠した若い青年だった。
顔がよく見えないが、凛とした目で彼女を見つめている。早く楽にしてくれないだろうか、ただ待ち続けていた。
――でも、いつまで経っても痛みは訪れなかった。
その代わりに、青年はジュインの体を抱え、歩き始めた。
ジュインは訳もわからず、混乱していた。それと同時に、恐怖で体を縮こまらせた。死ぬよりも恐ろしいことをされるのではないか、そう思ったからだ。
「いや……こわい……」
逃げようと体をくねらせようとするが、傷だらけで少しも動かせない。怯えた瞳の彼女に、顔を隠した青年はふと立ち止まり、こう呟いた。
「……生きたいか?」
「え……?」
突然の言葉に思わず驚いてしまう。さっきまで、自ら死を望んでいたのに、生きる理由なんてなかったのに。
――どうしてその言葉が聞きたかったのだろう。
涙が、溢れて止まらない。本当に、久しぶりに人の優しさに触れた。
同時に、クルムの姿が目に浮かんだ。ここで死ねない、あの子に会うまでは。
ジュインは、まだ彼を完全には信じられなかった。裏切りが、どれほど怖く思ったか。
それでも、僅かな「希望」にすがりたかった彼女は、恐る恐る口を開いた。
「……生きたい」
その言葉を聞いた彼の顔は、微かに動いた。優しく、優しく、ジュインを抱えて歩いていた。
青年に連れてこられたのは、古びたバラックだった。彼はベットにジュインを寝かせて、ケガの手当てをした。
血で汚れた体をタオルで拭きながら、包帯を優しく巻いていく。
「……尻尾、切られたのか」
ボロボロのジュインに、青年は様子を伺いながら手当てを続けた。
「あなたは……誰?」
「……ただの落ちこぼれさ」
「なんで……私を助けたの?」
「知らない、けど傷ついた人を見ると、こっちの気分が悪くなる」
「……だからこうやって手当てをしてる」
そうして処置が完了した。痛んでいた傷口が、大分マシになった気がした。
「……腹、減ってるか?」
ジュインは小さく頷いた。すると青年はキッチンへ行き、野菜を素早く切り刻んだ後、鍋に放り込んで煮込んだ。
しばらくして、青年は一杯のスープを持ってやってきた。
「熱いから……気を付けて飲め」
そうしてジュインにスープを差し出す。ジュインはゆっくりとスプーンを手にとって、スープを口に運んだ。
少ししょっぱかったけど、野菜の優しい味がした。まともな料理を食べたのはいつぶりだっただろうか。
――温かいスープに、水滴が落ちて波紋が広がる。
「……! 舌、火傷したか……?」
「ううん……違うの……大丈夫……」
ポロポロと、涙が溢れた。こんなに優しくしてくれる人が、荒れ果てたをエデン地区にいたなんて信じられなかった。
ジュインは泣きながらスープを飲み続けた。その最中も青年が、彼女の背中をさすって慰めてくれた。
スープを飲み終わったジュインは、感謝の意でいっぱいだった。彼に何度も感謝を伝えた。
「本当に……ありがとうございます……! あなたがいなかったら、私……」
「礼はいい、ところで君、帰る場所はあるのか?」
「……無いです、私にはもう……何も……」
「……なら、私が面倒を見てあげよう。こんな粗末なバラックでもいいならね」
「本当ですか……!?」
「また外で野垂れ死んでもらっても困る、嫌でないならここにいてくれ」
「うぅ……ありがとうございます……」
「あの……お名前は……?」
「……名前は、言えない。誰にも知られたくないんだ」
「ではなんて呼べばいいですか……?」
「……適当に、君が好きな呼び方で呼んでくれ」
少しぶっきらぼうな言い方で、呟いた。
「……では、『マスター』と呼ばせてください」
「……マスター」
彼は少し困った顔をした。ただ少女を助けただけなのに、その子に「主人」だなんて呼ばれるのは恥ずかしい気がした。
「まあ、それでいい。君の名前は?」
「……ジュインです」
「ジュイン……か、これからよろしくな、ジュイン」
「こちらこそ、よろしくお願いします……! マスター」
それから、ジュインとマスターは生活を共にすることになった。ただ、賞金稼ぎをしていたマスターの稼ぎでは満足に暮らせないと判断して、インターセプトへ志願し、入隊したのだ。
――これが、マスターとジュインの出会いである。
「今思えば、奇跡でしたね。あなたに出会えたことも」
「……さぁね。それで、そのクルムは見つかったのか?」
「……いいえ、あの後も捜索はしたのですが……見つけられませんでした」
「生きてるかは……わかりません」
ジュインが、暗く呟く。
「どんな時でも希望は捨てちゃダメだ、その目で確かめるまでは」
「マスター……」
「信じよう、妹が、まだどこかで生きてることを」
しばらく2人は、身を寄せて焚き火を見つめていた。
――星空の下、希望を見つけようとする2人を、月が静かに見守っていた。