5 「助けてほしいんやろ?」
この世界に放り出された原因である精霊樹まで自分の足で戻ってきた桐吾は、ぐるりと精霊樹の周りを歩いてみた。やはり途方もない大きさの巨木であったため、一周するだけでも桐吾は一苦労だった。周囲の大地には太い根が地を這っているため、躓かないように慎重に進む必要があった。
それから桐吾は、ぶらぶらと、精霊樹の周辺を散策しはじめた。桐吾の視力ではよく分からないが、時折からころと木製の何かが揺れる音が聞こえる。それは高い位置に釣らされた吊り橋が揺れ動くたびに板同士がぶつかる音の様だった。時より、風に乗って声にもならない音のような笑い声が、地上に降り注いでいる。この大地から離れたはるか上空では、エルフの生活が営まれているのであろう。
桐吾は上空に目をやった。木漏れ日が、大地に降り注いでいる。これだけ木々が密集しているのであれば、地上は日陰に覆われてもおかしくはないだろう。けれど、ほどよく枝の隙間から日差しが大地に差し込み、地上に芽吹く花や木々は光の恩恵を受けられている。つまり、この森の木々は生やしっぱなしになっているわけでも、ありのまま自然のままになっているわけでもなく、きちんと剪定されているのだ。また、よく見ると、低い木々には小さなランタンがつけられている。夜はここに光が灯るのだろうか。
桐吾はそうやって一つ一つの物や事に目をやりながら、ゆっくりと森の中を歩いていた。やがて、歩き続けた桐吾は木の生えていない開けた広場のような場所に出た。どれくらい散策していたか分からないが、日が傾き始めている。桐吾がこちらにやってきたときには、朝の柔らかな日差しを受けていたような気がするから、半日程度は歩き続けていたことになるだろう。
広場は、ただ木々が刈り取られた場所というわけではなく、大きな切り株と、その周りを取り囲むように小さな切り株が数個配置されていた。それはまるで、雑多に置かれたテーブルと椅子のようだ。いや、テーブルと思われる大きな切り株と、椅子と思われる小さな切り株には高低差があることから、本当に用途としてはテーブルと椅子として使われるべき切り株なのだろう。だが、誰一人としてこの広場を利用しているエルフは居なかった。それが、この時間帯に利用する者がいないのか、それともそもそもこの広場がエルフたちにとって不要な場所であるのかは、桐吾には想像はつかなかった。
歩き疲れた桐吾は、一番手前にあった切り株椅子に腰かけた。尻をつけると、どっと体中に疲労が回る。それはスーツと革靴で、森の中を歩き続けたからではない。精神的な疲れがほとんどを占めていることに、桐吾はもちろん気づいていた。
桐吾はテーブル切り株に肘をついて、掌に顎を乗せた。途端、瞼が重くなって自然と瞳を閉じる。仮眠仮眠、と心の中で唱えながらうとうとと頭を小刻みに揺らし、薄ら意識の中で「その時」を待っていた。
どれくらい経ったのか、半分居眠り状態だった桐吾には分からなかった。だが、背後からさくさく、と誰かが歩いてくる音が聞こえた途端、桐吾はぱっちりと目を開けて、まどろみの中にあった意識は瞬時に覚醒した。
桐吾が姿勢を正すのと、桐吾の真正面にウィンヴィラーヒムが腰かけたのは、ほぼ同時だった。桐吾は食えない笑みを浮かべた。
「早かったやん。俺の予想では、一晩明けてから来るかな、思ってたんやけど」
「……俺がお前を見捨てないことを、読んでたのか」
「うんにゃ。半分半分やな。来なかった場合は、こっちから掛け合おう思てたで」
ううん、と桐吾は両指を組んで両腕を天へ伸ばした。背筋をぐっと伸ばしきると、丸まっていた背中からぐんぐんと血が巡っていく。ウィンヴィラーヒムは眉をひそめた。
「なぜ、俺が来ると」
「二つ、やな」
桐吾はにんまり笑って二本指を立てた。それは先ほどウィンヴィラーヒムが立てた二本指を彷彿とさせた。実際、桐吾自身も意識しているのだろう。ふらふらと、立てた人差し指と中指を左右に揺らしている。
「精霊樹をどうにかする案が思いつかんくて、異世界人を呼んだ。あんたらはそれを古来の魔法と呼んだ。魔法だなんてよお分からへんけど、よほど切羽詰まってるんやろなって。最終手段くらいの位置ちゃう? つまり、お前は俺をそう簡単には見捨てられへん」
図星だったのだろう。ウィンヴィラーヒムは、ぐっと顎を引いた。
「あとはな。お前、圧倒的優位な立場から俺に対して物を言ってたやん。人の足元見てたよな。召喚した異世界人はきっと、元の世界に帰りたいって縋りついて、血反吐吐きながら働いてくれるとでも思ってたんと違う? けどな、自分が交渉の場で圧倒的有利になっとると確信してるやつほど、頼り切っていたものに切られたとき、なりふり構ってられんのよな。今のお前みたいに」
「……っ」
よほど、桐吾にそこまで言い切られたのはウィンヴィラーヒムにとっては屈辱的なのだろう。ぎり、と下唇を噛んだウィンヴィラーヒムは黙ってうつむいた。それが、あまりに幼さの影が見え隠れしたものだったから、桐吾は思わず苦笑いを浮かべてしまった。最初は異世界という空気に飲まれ、ド迫力の美形に圧倒されてしまっていた桐吾だったが、いま桐吾の目の前にいるのは社会を甘くみきった、自分の立場にものを言わせるぼんぼん新入社員にしか見えなかったのだ。
「お前が王子だかなんだか知らんが、まず人にものを頼むときには言い方っちゅうもんがあるやろ」
ウィンヴィラーヒムは押し黙ったままだ。やれやれ、と桐吾は首を横に振った。
「まあ、俺が最終的にぶちギレて出ていったんは、別の理由やけど」
「別の、理由?」
「知りたいんやったら、まずは頭下げ」
ウィンヴィラーヒムは苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。そして、ゆっくりと、非常にゆっくりと頭を下げた。
頭を上げた時、ウィンヴィラーヒムの顔は歪み切ったままだった。それでも瞳の奥には戸惑いの色が濃く浮かんでいた。桐吾はこほん、ともったいぶってひとつ咳払いをした。
「ええか。俺は仕事においてひとつ、太い信念を置いとる。『現場で手ぇ動かす奴が一番偉い』。シンプルにこれやねん」
お前、俺の望むもんを突発的に誰かに作らせようとしたやろ、と桐吾はウィンヴィラーヒムを顎でしゃくった。ウィンヴィラーヒムは問答無用で頷いた。
「あれが、癪に障ったんや」
「お前の信念に反する言葉だった、ということか?」
桐吾は思わず目を逸らしたくなった。だが、根気よく、目の前のウィンヴィラーヒムと対話することを選んだ。真意を掴み切れていない彼との対話を、投げ出す選択を桐吾は取ることはしなかった。
「――お前は指示だすだけでええかもしれんけどな。無理やり仕事を押し付けられる側の気持ちになったことはあるんか? その後、押し付けた側に報酬や手当は出すんか? そいつが今抱えてる仕事はどうなるんや? 言葉出すだけならだれでもできんねん。けど前後も考えず、誰かに仕事を投げることが『仕事』だと考えとるやつは、正真正銘のド屑や」
ウィンヴィラーヒムは膝の上でぐっと爪を立てるほど拳を握りしめた。一方で桐吾は、机の上に自らの手のひらを置いて、指を組んだ。
「俺、王政国家で育ったわけでも、政に関わったこともあらへん。それ以前に経営にやって関わった事なんてないから知らんけど、お前。――もしかして王子として、国政みたいな執務を経験したこと、ほとんど無いんと違う?」
ウィンヴィラーヒムは決まりの悪そうな暗い顔で、口を歪めていた。
「……ああ」
「せやろ? せやから俺みたいな一般リーマンに足元見られるんやで。お前が俺を軽んじたように、今おれもお前のことむっちゃ軽んじてるもん。ぶっちゃけ、潜った修羅場の数なら俺の方が絶対ダントツで多いわ。確信持ててるもん」
あっはっは、と桐吾は声を立てて大声で笑った。特にそこには、エルフの王子を打ち負かしてやったぞ! という達成感があったわけではない。純粋に、この状況が面白くて笑いが堪えられなかったのだ。ウィンヴィラーヒムはやはり沈痛な面持ちでその笑い声を受け止めている。
「俺は、第二王子として生まれた。王位継承権第一位は長子にある。俺は国政に直接関わらせられないよう、仕向けられて、百年余りを過ごしてきた」
「あえて、そうさせられてたんか」
「それでいいと俺も思っていた。最低限、任されている地区の統治だけ行えばいいと。だが、精霊樹の異変は気になった。だから調べ尽くして、そして上奏した。陛下と、兄上である第一王子に」
時の流れや暦の考え方が桐吾の世界とエルフの世界で共通とは必ずしも限らない。だが、三千年の中で百年ぽっちしか生きていないこの若王子の苦悩と足掻きと、凝り固まっていた価値観が、だんだんと桐吾には分かりかけてきた。
「そんで、言ってみてどうやったん」
「一蹴された。余計な真似はするなと。王座を狙っているのかとも言われた。あとは、先ほど述べた通り。だれも緊急性に気づかない」
焦り、声の届かない苛立ちの嵐の中立ち止まりを受けた。強引な手段を取らざるを得なかった、一人ぼっちの王子、ウィンヴィラーヒム。
桐吾はじぃと、彼を眺めた。そしてちょいと小首を傾げた。
「で? 俺はどうすりゃええの?」
「……え?」
思い掛けない声がかかり、思わずウィンヴィラーヒムはとぼけた声を出してしまった。
「助けてほしいんやろ?」
ウィンヴィラーヒムは困惑した。動揺し、袖口の飾り釦を指で擦る。桐吾の言葉は彼にとって思いがけない許しの言葉に近かったからだ。
「奇妙な目で見よるなあ。コケにされた相手にどうして手を差し伸べるんだって思っとるやろ」
あまりにも素直な反応に、桐吾の調子も少しばかり狂う。
「ああ」
「あんたが、頭下げたからや。あんな、百自分が悪いって理解してても、部下や後輩、自分より立場が下の人に『ごめんなさい』ができる人間は、一握りもおらんのや。けどお前は頭を下げた。つまりお前はポンコツかもしれんけど、ろくでなしじゃないなあってのが、俺ん中での今の評価やねん」
ポンコツと呼ばれても、ウィンヴィラーヒムの心の中には怒りが少しも湧き上がることはなかった。目の前の柔らかな口調でずばずばと毒矢のような言葉を放つ青年の言葉を、するすると受け入れられている自分が、ウィンヴィラーヒムは信じられなかった。
「たぶん、人との交渉にも慣れてなきゃ、自分の立場ってのも分かってないポンコツ。けどさっき、事細かに事情を語ってくれたんのはほんとで、ちゃんと国についての熱い思いは持ってはるんやろなあって。どうせ助けなきゃ帰してくれへんのやろ。じゃあ最後までやり遂げようや」
ぐっ、と目頭が熱くなり、慌ててウィンヴィラーヒムは眉間を押さえた。
第二王子として生まれ、傅かれ続けた百年余りだった。自分が任された南地区の統治をルーチンワークのように行い、ただ施しを受けてきた。見守ってきた精霊樹の異変に気付いた時、そして誰もそれに言及しない時、百余年間の自分の人生の中に、どこからか歪が生じた。王国図書館で古文書を漁り、眠い眼を擦って、部下に記録させた精霊樹のレポートを読み続けた。王族である自分が何をやっているんだと、自分をバカにする声が時々胸中に木霊した。それでも自分の中に沸きあがった衝動を押さえつけることはできなかった。四苦八苦しながら王国議会にてまとめた報告書を読み上げる最中、中断され、自分の動きをすべて否定されたとき、なにをやっていたのだろうと全身の力が抜けた心地だった。手伝ってくれた部下の慰めも、なにも突き刺さることはなかった。
ウィンヴィラーヒムは涙の一粒も流さなかった。強く上瞼を擦り、やがて顔をあげた。
「――本当か」
ああ、と桐吾は威勢よく返答した。
「俺かてこんなところで路頭に迷いたくないんや。元の世界でガンガン仕事頑張りたいし、まだまだやりたいことだってある――ただし、条件はあるで」
桐吾はびしり、と人差し指をウィンヴィラーヒムに突き付けた。
「俺のペースに合わせてもらう。あんたらエルフに合わせたら、俺の命が尽きそう。やから、それが条件。わかった?」
「……承知した」
ウィンヴィラーヒムは切り株椅子から立ち上がった。桐吾の瞳の奥を覗き込むかのごとく、しっかりと視線を合わせた。そして深々と、腰から体を折り、一礼した。