4 交渉決裂
ウィンヴィラーヒムは右手に指を二本立てた。長く、節の目立たない、ぴんとまっすぐに伸びた指だった。
「問題は二つある。一つは、エルフは商売っ気がないということ。交易は商売だ。しかしエルフは金儲けに興味はない。自己もそうだが、相手の利益も気にしない。そんな交易は長い年月を経て不要と認知され、いまやこの国に誰も立ち寄らなくなった」
ただ同然でものを売買していたということか。ぼったくりされ続けてきたんじゃないか、と桐吾は訝しんだ。
「二つ目は、こんな状況になってもまだ大丈夫だろうと楽観視しているエルフが多い。エルフは長生きな分、問題についても長期的に考えすぎる傾向がある。だが俺は少しでも早く動かねばならない問題だと認識している。それを議会で提議しても、話の分かる者はいない」
ふうん、と桐吾はウィンヴィラーヒムを眺めた。桐吾としては彼の考え方には非常に共感を持てたし、少しばかりは好感を抱いた。なぜならばウィンヴィラーヒムの考え方は桐吾の仕事に対するスタンスや考え方と似ていたからだ。
桐吾には譲れないものが多数ある。その一つが仕事へのスタンスでああった。目に見えた問題が浮き彫りになっているなら先送りにせずにさっさと動き出すべきだ。後に回せば回すほど、百害あって一利なし。もごもご言う暇があったら手を動かせ。そして後回しにした責任が取れないなら役職に就くな。ストイックな桐吾の考え方を突き通すのは多大なる障害も伴う。だが彼はそれをも込みで仕事に向き合うのが好きだった。
「そこで俺は、これ以上先送りにするのは危ういと判断し、古来より伝わる転移魔法により、異世界から御子を呼び寄せようと思い立ったのだ」
「……それは、なんで」
「古来からの言い伝えだ。御子は、賢者としてエルフに知恵を授ける。長きを生きるエルフには考えも付かない天啓を与えると。ならば、それを頼るほかないと思った」
だが、桐吾の好感があろうとなかろうと、桐吾の気持ちには変わりなかった。
「ねえ、今の話を聞いても無理だよ。無理なものは無理。あんたらの手伝いはできない。異世界人に何を期待しているのか知らないけど、俺はなんの特殊能力も持ってない」
桐吾が言うや否や、それまで後ろで控えていた女エルフが突如としてかっと顔を赤らめ、大きく口を開いた。
「貴様、さっきから殿下に対してなんだその口ぶりは! 殿下にこうして直々に任務を命じられること、それも国を救うなどという大仕事を拝命できること……どれほど光栄なこどであるのかわからぬのか!」
「わかんないよ。俺、この国の人じゃないもん」
腹から声を張り上げられ、怒鳴られても、桐吾の心は凪いでいた。そして、ウィンヴィラーヒムと今一度視線を合わせた。ウィンヴィラーヒムは背後の女性が一括りにした銀髪を振り回し、桐吾に無礼を働いても、何ら気に留めていないし、彼女を止める素振りは一切見せない。それは、ウィンヴィラーヒムもまた、背後の女エルフと同じ考えを抱いていると言っているようなものだった。
「そもそも、なんでそんな態度なわけ? この屋敷へ来るのだって引きずられてさ。あの場で話してもよかったじゃん。こうしてそっちのテリトリーに引きずり込んで、無理やり頼み込んでおいて、頭の一つも下げやしない。なんなの」
桐吾の心は先ほどから変わらず、凪いでいた。だからこそ桐吾の口から零れ落ちたのは、純粋な疑問でしかなかった。
その疑問にどう受け答えするのか、桐吾としては見ものだった。だが、桐吾の期待はすべて裏切られた。
くつくつと、喉の奥を鳴らすような音で、目の前の男は笑ったのだ。まるで、桐吾の言葉が心底可笑しいと、言わんばかりに。桐吾を見下した色を隠しもしない瞳で、あからさまな嘲笑を向けながら、目を細めたウィンヴィラーヒムは、桐吾を「人」として見ていなかった。
「どうして、お前に頭を下げる必要がある。お前は俺の望みを叶えない限り、元居た世界に帰れないのに。お前に残された道はただ一つ、俺の言うことを聞くだけだろう」
ああ、なるほどね。
桐吾の心にすとんと落ちてきた理解は、単純明快だった。これを受けなきゃお前に後はない。目の前の男はその現実だけを突き付けてきたのだ。
そうと決まれば桐吾の心が決まるのは早かった。桐吾は何も言わず立ち上がった。嫌がらせに、スーツに付いた泥をその場でぱらぱらと払ってやった。綺麗な幾何学模様の折り込まれたラグマットに泥が落ちるのは、少しばかり桐吾の心を爽快にさせた。
「さっきから聞いてりゃ、好き勝手言うね。お前の考えは理解できた。じゃあね」
桐吾は軽く右手を上げると、小部屋の出口へと向かった。扉へ向かうという選択を取ることに対して、桐吾はなんら躊躇いを抱かなかった。
途端、慌てだしたのは後ろのエルフ二人だ。ウィンヴィラーヒムは去り行く桐吾を追うように声を掛けた。
「待て、どこへいく」
「どこへって……どこでもいいでしょ。もうお前とは関係ない。お前の言いなりになんか、ならない」
振り返る義理はさらさらなかったが、桐吾はこの選択を取ったことで、あの傲慢な表情がどれほど変貌したのかと好奇心に駆られ、扉のノブを握りしめながら半身の態勢で振り返ってみた。
女エルフは、立ち尽くしたまま口をぱくぱくさせている。こういったとき、即座に止めに入ることが選択肢に入らないくらいには、明らかに動揺していた。対してソファでふんぞり返るとまではいかないものの、偉そうな態度のウィンヴィラーヒムは、じっと桐吾を見つめていた。何の感情も読み取れない無表情であった。
「俺の話を聞いていなかったのか。お前は俺の力なしでは、元居た世界に帰れない」
「聞いてたよ。目ぇ開けて寝られないもん、俺」
歌うように、楽し気に。桐吾は応じた。
「それでいいよ。帰れなくていい」
「……あっちの世界に未練はないのか」
「まさか! 生まれ育った故郷だよ。帰りたいに決まってるじゃん。けどね」
桐吾はにっこりと微笑んだ。一瞬の曇りもない、晴れやかな笑顔で。
「お前の言うことなんて、聞きたくない」
ぎゅっと握りしめたドアのノブを、軽くひねった桐吾に、再び制止の声が掛った。
「わかった。降参だ」
「……降参?」
ウィンヴィラーヒムは静かに両手を挙げ、わざとらしくお手上げを表明するかのようなポーズをとった。呆れ果て、組んでいた足を大きく開いている。まるでそれは、子供のわがままを聞いてあげる度量のある親のような態度のようであった。
「望むものは、なんでもやる。部下に一日で用意させる。それでいいだろう」
「――はあ?」
桐吾の手はドアノブからぱっと手放された。衝動的にくるり、と背後に向かって詰め寄ると、ソファに座りっぱなしのウィンヴィラーヒムの胸ぐらを掴んだ。女エルフは怒涛の展開に付いていけないのか、唖然としてその様子を見ているだけしかできない。
片やウィンヴィラーヒムは、そこでようやく、蔑む以外の感情を生み出した。驚き、目を丸くしている。まるで、予想していなかったかのように。か弱い人間ごときが歯向かうなどと、思っても見なかったのだろう。
ああ忌々しいと、桐吾は奥歯をぎりぎりと噛みしめた。このままでは歯が削りきってしまうのではと身体が勘違いしてしまうほど力強く歯ぎしりをした。間近で見れば見るほど、肌に傷一つ痣一つない美しい顔だ。苦労の一つも浮かび上がってこない、非常に苛立たしい顔だ。
「クソ野郎、国とともにくたばってしまえばええねん。お前に従うくらいなら、俺もくたばったほうがマシや、このボケが」
低く、低く体の奥の深いところから毒を吐き出した。驚いたままのウィンヴィラーヒムは、桐吾を見つめたまま口をミリも動かさない。今度は桐吾がウィンヴィラーヒムを投げ捨てるように、ソファに向かって掴んでいた手を思い切り離すと、今度こそと言わんばかりに駆け出すように小部屋を飛び出した。
うろ覚えながらに元来た道を戻る。桐吾は廊下を大股で歩いた。肩で風を切り、そのままの勢いで屋敷を出る。森の匂いが鼻をくすぐる。ちぃちぃと小鳥が囀り、さわさわと葉音が揺れる音が聞こえる。
桐吾は歩き続けた。目の前に広がる異世界を、自分の足と意志で歩き続けた。