3 エルフ王子と救世主
「率直に言う。お前には、この国を救ってほしい」
桐吾はあの後、すぐに隙を見て逃げ出そうとした。異世界と非人類。あまりの衝撃と、その元凶と呼べる相手が堂々とやってきた。仕事でハプニングやトラブルにはいくら慣れっこといえども、桐吾にだって許容範囲というものがある。だが桐吾は、目の前の暴君のような男に気を取られていたため気づかなかった。彼の後ろには一人の女エルフが控えるように傍に立っていたのだ。臙脂色の詰襟に同色のパンツ姿、少しだけつり上がった猫目の瞳が勝気な印象を持たせる、光り輝く銀髪の美人だった。くるりと背を向けた途端、その女エルフにがっしりと羽交い絞めにされてしまった。やめろ、はなせともがいてみた桐吾であったが、女エルフはびくともしなかった。女性ということで少々手加減したが、抜け出せる自信があった桐吾は愕然とした。そしてこのまま流れに任せるのが良いと判断した桐吾は、ずるずると引きずられてどこかへ連れていかれたのであった。
一体どこに連れ込まれるのだ、ここは一体どこなんだ。ぐるぐると頭の中で疑問符が飛び交う桐吾は、気が付けば大きな屋敷の前に佇んでいた。男エルフがなにやら門番のような男に二、三言声をかけ、門番は深々と頭を下げた。
その屋敷は、木々の生い茂った森の中ではより一層輝く真っ白な壁面の眩い、まるで西洋に存在するどこかの国の小さな城のようであった。濃紺の三角屋根とのコントラストも美しい。いくつかの小さな塔が主となる屋敷を取り囲んでいる。塔の壁には蔦が這い、森に溶け込みながらも存在感のある、そんな屋敷。もし海外旅行で訪れて、この光景を目の当たりにしたのであれば、桐吾はいたく感動しただろう。だがこの状況である。桐吾はただ圧倒されるだけで終わり、屋敷の中に無理やり引きずられていった。
玄関ホールを通り抜け、どこかの小部屋に連れ込まれた桐吾は、そのまま女エルフに投げ飛ばされた。咄嗟に受け身は取れなかったものの、なにか柔らかいものが桐吾の体を受け止めた。濃紺の布地とベロアのようなすべすべした肌触りが特徴的な、クッション性に優れたソファだった。
無慈悲にも投げ捨てられ横になった桐吾は、ずりずりと体をソファの上でくねらせ起き上がり、柔らかなソファに深く腰を掛けた。偉そうな金髪の男エルフは、真正面の同素材のソファにゆったりと幅広く腰掛け、女エルフは控えるようにその背後に立っている。
「俺に、救世主にでもなれって?」
桐吾はスーツのポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭った。この際、ここにくるまでの強引さや、非人道的な扱いを受けたことはすべて無かったことにしてもよい。そして、これが現実でもなんでもどうでもいい。桐吾にとって大事なのは、無事ここから脱出することだけである。つまり夢だろうと現実だろうと、元の桐吾の世界に戻れるのであれば、この人の話を聞かない見た目だけはやたらいいエルフの話をじっくり聞いてやろうと思ったのである。
「あながち間違いではない」
「マジかよ」
「察しているかもしれないが、ここはお前の居た世界とは異なる世界だ」
これは桐吾の気質でもあったが、最近の流行りはチェックするようにしていた。ファッションから食、文化まで。サブカルチャー方面には疎い桐吾であったが、最近のエンタメは異世界で転生して世界を股に掛けたり、スローライフを送ったり、とにかくそういったものが強いという認識はあった。
「あ? 待って、俺ってつまり、元の世界で死んだの?」
「何故だ。死んではない。お前の魂も肉体もそのまま、こちらに呼び寄せた」
「へえ、そういうのもありなんだ」
その手のジャンルに詳しくないから、そういう展開もありなんだ、と桐吾はまた一つ学びを得た。
「じゃあそのままそっくり、俺が元の世界に帰ることもできる?」
「できる」
「はーよかった、じゃあ早く返してくんない? 俺、休日はしっかりメンテナンスに当てたいんだけど」
ふわ、とあくびを一つ噛みしめて、安堵から余裕な態度を示した桐吾だったが、目の前のエルフは、その希望をぴしゃりと叩き落とした。
「それは無理な願いだ。先ほども言ったが、こちらの願いを聞いてもらうのが先だ」
「は?」
桐吾はにらみを利かした。利かしたところで自分よりもはるかに体格の優れた威圧感のあるエルフに何一つダメージが与えられるとは、桐吾自身考えてはいなかったが、勝手に巻き込まれて異世界に連れてこられて、引きずられて、従順になれという方が無茶である。
偉そうなエルフは足を組んだ。長い足は、組んだとて十分に余っている。足元のロングブーツは、男エルフが身に纏う紺色詰襟の色味より、少しばかり黒を落とした色合いで、そこに黄土色がかった金属が装飾品として縁どられていた。
「俺の名はウィンヴィラーヒム。この国、ヴェールラーレーゲンに住むエルフであり、この国の第二王子である」
「俺は波瀬桐吾。ただのしがないサラリーマンです。で、王子様。その俺に何の用なの」
「この国の滅亡を防ぐために、国に、活気を取り戻してほしい」
あまりにも漠然とした願いに、桐吾は眉間にしわを寄せた。両腕を胸で組み、胡散臭い願いに拒否反応を示す。
「活気ぃ? 活気って何、具体的に言ってみてよ」
そしてただの一般サラリーマンが、異世界の活気事情とやらに突っ込めるとも到底思えない。それが桐吾の見解だった。
ウィンヴィラーヒムは桐吾の態度に不服そうに片方の眉だけ吊り上げる。まるで、自分が命じれば「はい」という返答が必ず返ってくると信じて疑っていなかったような目をしていた。桐吾はその態度に、ひくり、と顔面をひきつらせた。仕事で多くの人たちと関わってきた桐吾だ。こんな態度をとる人間とももちろん幾度も対面してきた。だからこそ知っている。これは一番相手にしたくない仕事だと。
「お前は、先ほど自分が這い出てきた大木を見て、どう思った?」
「あんなデカイ樹、俺の国には無いよ。というより地球上にも存在しないね」
「あれはスローキェプト、通称『精霊樹』と呼ばれている、エルフが生きるために必要な大木だ」
「ふうん」
「具体的に述べると、あの樹が万が一枯れたとすれば、すべてのエルフの命はそこで絶えるだろう」
「は!?」
衝撃的な告白に、桐吾は目を見開いた。まるで淡々と、昨夜の晩御飯のメニューでも告げる口調のくせ、語られた内容は桐吾の理解の範疇をはるかに超える衝撃的なものだった。
「なにそれ、あの『精霊樹』とやらとお前たち、一心同体なわけ?」
「というより、あの精霊樹が放つ〝マナ〟が、俺たちの命を繋いでいる。俺たちはあの精霊樹が長い年月を経て育んだマナを大気中から受け取って生活している」
つまり、人間が呼吸して酸素を肺に送り込んでいるようなものか、と桐吾は理解した。いや、完全に理解はできていないのかもしれないが、話を進めるためにそうであると前提を置くことにしたのだ。
「それで、あの精霊樹がどうしたってのさ。別にいますぐ枯れそうってわけでもないじゃない」
桐吾は先ほどの見かけた精霊樹を脳裏に呼び起こしていた。青々とした緑色の大きな葉が、大ぶりの太い枝に生い茂り、幹と幹の間を着飾っていた。たとえばこれが枝に葉が一枚も付いていないだとか、幹がやせ細り、樹皮が剥げ落ちているだとか、明らかに弱り切ったと素人目にも分かるのであれば、桐吾も渋々納得したかもしれない。だが素人目にしても精霊樹は今にも朽ち果ててしまうようなピンチに陥っているとは思えなかった。
ウィンヴィラーヒムは桐吾の見解をしっかり否定するように首を横に振った。
「違う――昔はもっと色鮮やかだった。ピンクや黄色、白の大ぶりの花々が木の枝に咲き乱れ、いつも香しい柔らかなにおいが漂っていた。それも一年中、だ」
常春の象徴だったのだ、季節が廻り、たとえ深々と雪が積もり森が白一色に染まっても、あの精霊樹だけは満開の花を咲かせていた。ウィンヴィラーヒムはそう続けた。
それは異常事態だな、と桐吾は思案する。全く取り合うつもりもなかったというのに、深刻なエルフの話しぶりに、つい聞き入ってしまうのはこの桐吾という男の気質故と言うべきか。
「長く生きる同族にも聞いた。花が全く咲かない状態になった精霊樹など、見たことは無いらしい。……数十年前から花びらを散らし、今はご覧の有様になったというわけだ」
「ひとつ確認しておきたいんだけど、エルフって何年生きるの」
「長くて三千年だが」
三千年。地球でいうところの紀元前だ。桐吾は目を見開いた。
「さんっ……って、お前は今、いくつなの」
「今年で百二十になる」
桐吾の頭の奥でねじがはじけ飛びそうになった。思考回路を停止してしまいそうになった桐吾は、慌ててかぶりを振る。わき道にそれた話題を正しい道へと戻すため、桐吾は仕切り直した。
「で? 話を戻すけど、それでなんで俺を呼んだんだよ」
「先日、先端にあった一枚の葉が枯れて地面に落ちていた。このまま、ゆっくりゆっくりと時間をかけて、この大木は枯れていっているのではないか。俺はそう考えた……精霊樹はほかの木々とは違い、光や水で育つのではない。精霊樹が必要としているのは、〝異種族のエネルギー〟だ」
「……ん?」
桐吾は異種族という単語に引っかかりを覚えた。
「そこで俺は考えたのだが、精霊樹に必要なエネルギーを……」
「ちょ、ま、まさか! 俺を生贄に精霊樹を復活させようとしてるってわけ!」
「そんなわけないだろう」
ウィンヴィラーヒムは桐吾を一刀両断し、バカにした。鼻で笑い、嘲笑った。桐吾はウィンヴィラーヒムの一言に、冷たい感情を見つけた。だが、ここで食って掛かっても仕方ない。押さえろ、押さえろと心の中で唱えながらも、しかしながら桐吾の中に一度浮かんだ懸念は消えることはない。桐吾の頭の中には、自身が蔦でぐるぐるまきに縛り上げられ、精霊樹の目の前に吊るされた己の体のイメージが鮮明に浮かび上がっていた。骨と皮になるまで、縛り上げられて養分とされるのではないか。嫌な考えというものはこびり付いてしまえば離れにくいものだ。
「俺と、この国が本当に欲しているのは、〝異種族の活気〟だ。活気を、この国に呼び込みたい」
「……活気、ねえ?」
「この森は静かだろう?」
静まり返っているわけではないが、喧騒の中に無いのもまた事実であった。だが桐吾の中のエルフの森のイメージ通りとも思えた。静けさの中に、エルフたちのかすかな笑い声と、小鳥たちの囀り、風に揺れる木々の葉音が森の中に響いている。美しい森の光景だ。
「しかし昔は違ったと聞く。少なくとも、俺が生まれる前は交易等でこの森を他種族が行き来することがあったらしい。精霊樹は、生命力を無理やり吸い取っているわけじゃない。エネルギーやマナと言った活力は、微々たるものながら外発していくものだ。他種族のそれらを、精霊樹は栄養分として吸い取っていた……幾数年もの間、だ」
桐吾にはイメージできなかった。他種族といわれても、まず地球にはエルフすら存在しないわけで、どのような交流があって、そしてこの静まり返った緑豊かな森をどんな風に行き交っていたのか、想像は不可能であった。桐吾に今できることは、この一国の王子という立場のエルフが、わざわざ頼りがいの無い人間にこんこんと現状を話しているのを、おとなしく話を聞いてあげることくらいだ。たとえ、彼の者が桐吾のことを「使う気」満々だとしてもだ。
「それで。そんなに必要性が分かってるなら、なんで今こんな状態なわけ? 交易はどうなったの?」