2 これは夢か幻か
「……うぅ」
頭が痛い。こめかみがずきずきと脈打つ。桐吾はしょぼしょぼと目を開いたが、本当に自分の目が開けているのか、認識するのは非常に難しかった。なぜなら瞼を開けたはずなのに、桐吾の瞳には景色が映らなかったからだ。正確に言えば桐吾の目の前に広がっていたのは、ほとんど暗闇だった。ただ、桐吾は自身の居る場所が洞窟、もしくは横穴のような場所だということは辛うじて理解した。
視界を取り戻すように何回か強く瞬きをすれば、真っ暗闇と思われた空間の中に、わずかにぼんやりと光が差し込んでいる箇所を発見した。どこだか知らない場所に寝っ転がった状態になっていた桐吾は、よろよろと立ち上がった。だが、暗闇の中頭をぶつけるわけにはいかない。ここがどれくらいの高さの洞窟なのか分からないのだ。桐吾は中腰になりながらじりじりと光の方向へと、訳も分からずただ零れる光だけを頼りに歩んでいった。
「どこだよ……ここ……」
ようやくたどり着いた出口らしき場所から、後先考えず思い切り外へと踏み出した桐吾は、自分の目の前に広がる光景を信じられず、頬をつねった。確かな痛みが桐吾の頬に走った。つまり、これは桐吾にとっての現実なのだ。
振り返ると、桐吾がやっとの思いで抜け出したのは洞窟などではなく、巨大な大木の洞であることが分かった。大木といってもよく神社でみかけるような、ご神木だなんてレベルではない。大人が五十人両手を広げても、大木の周囲を囲うことはできないだろう。桐吾は唖然としたまま、視線を上へ上へと上げた。それでも、その大木の頂上を見つけることはとうとう叶わなかった。それどころか、大木の先端よりも先に白い雲が目に入ってしまった。それはつまり、大木の頂きは雲より先にあることを意味していた。桐吾はオフィスの窓から視界に入れることのできる、東京都に突き刺さるように聳え立つスカイツリーをぼんやりと思い出していた。
「なんだよ……これ」
桐吾は思わずよろよろと腰を抜かして尻もちを付いた。そしてそのまま、改めて大木から目を逸らし背後を振り返る。洞を抜け出して最初に目に入った光景。まるで夢か幻かと、桐吾が己を疑った光景。
一面に広がる、緑、緑、緑。桐吾は森の中にぽつんと佇んでいた。そんなはずはない。桐吾は充実した休暇を過ごす為に自分の部屋へと繋がる扉を潜り抜けたはずだった。桐吾のマンションの一室は都内にある。こんな森の奥の自然豊かな環境に住まいを持っているわけがない。
そして森自体も桐吾のよく知る日本の森林とは何もかもが異なっていた。一言でいえば非常に異質な森だった。もちろん、背後にある巨木がにょきにょきと生えている時点でここが日本のありふれた森林でないことくらい桐吾には分かりきっている。だがそれ以上に、大木の周辺もまた森林を違和感で溢れさせる要素で満ち溢れていたのだ。
背の高い木々が立ち並ぶ周囲。高い木々の頂き付近には、ツリーハウスの要領でいくつもの家のような形をしたものが見える。そしてその家と家の間には木製吊橋がたゆんでつり下がっているのだ。そんじょそこらの高さに設置されてはいない。通常、人間が上るような場所ではない、ありえない高さに家と橋が設置されているのだ。どうやって登ったのか疑問の絶えない高さであり、そこへ梯子で登るにしても無理があるだろう。そしてそこで生活をするにしても不便だとしか思えない場所である。巨木と言い、建築物といい、ここは日本ではない、と桐吾は結論付けた。それではここは、どこなのか。桐吾は自分の最後の記憶を引きずり出す。確実に、自分の部屋の扉を開けたはずだ。それなのに一転、訳の分からない場所に放り出されてしまったのだ。そう、桐吾にとってここは〝異世界〟でしかない。
「おい」
「っ!」
唐突に低い声で呼びかけられ、桐吾はびくりと肩を揺らした。上を見上げていた首を少し下げ、声の主の方向へ視線を向ける。
そこには見たことも無いような美丈夫が、桐吾を射抜くような視線で見つめていた。
金色のブロンドヘアと、碧眼と呼ぶにふさわしい、湖面のような澄んだブルーの瞳。すっと通った高い鼻筋と、切れ長の美しい形の瞳。男らしさを強調するようなつり気味の眉毛。
桐吾に向かって、日本ではそうそうお目に掛かれないような美丈夫は手を差し出した。色白の美しい掌だが、桐吾よりも一回りは大きいだろうか。あまりに自分の許容した光景以上のものを見せられて、桐吾は反射的にその手を掴んでいた。
そのまま片手でぐいと引っ張られる。百八十の背丈のある桐吾を軽々引き上げて、腰の抜けていた桐吾を大地の上に立たせる。それは目の前の男がそれほどの筋力の持ち主であることを、物語っている。いや、実力行使しなくとも分かりきっていたことだろう。濃紺に細やかな銀色刺繍の施された襟詰め服の上からも分かるほど浮き上がる筋肉と、ガタイの良さ。
「あ……どうも」
そして、立ち上がった桐吾は視線を上げた。桐吾にとって、誰かと視線を合わせるために顔を上げるのは久々だった。つまり、桐吾と相対している相手は少なくとも五センチ以上は背丈が高いのだろう。
「転移が上手くいってよかった」
よかった、よかっただと? 桐吾は頭の中で目の前の男の言葉を噛みしめた。この状況の一体どこに良い要素があるというのか、桐吾にはてんで理解できない。なにひとつだ。ブランド物のスーツは泥がついて、週初めまでにクリーニングが完了するかどうかも不明だというのに、この男ののんきな態度はなんなのだと、桐吾は次第にふつふつと胸の内から怒りが湧き上がってきた。
そして桐吾は結論付けた。
「これは夢だ」
「は?」
桐吾が面と向かって、自分自身に大声で言い聞かす言葉は、正面の美男の困惑を誘うに十分だった。
「夢だろ、夢。俺、最近仕事はりきりすぎちゃってたかなあ」
「おい」
「はいはい夢でしょ。玄関開けたら即寝落ちとか、かっこ悪すぎる。起きたときに風邪ひいてなきゃいいんだけどさあ」
「夢ではない、現実だ」
「――いーや、夢だね!」
夢であってくれ! 桐吾は叫んだ。桐吾なりの大声であったにも関わらず、桐吾に向かい合う男はぴくりとも眉毛を動かさず、二人の間には沈黙が落ちた。
そして十分なほどの空白が流れ、再度口は開かれた。
「現実だ。俺が、お前をここに呼んだんだ」
目の前の男について、桐吾が今、分かることはただ一つ。
――彼の耳は、桐吾の耳とは大きく異なり細く尖っていた。彼が、ファンタジーでいうところの〝エルフ〟であるらしいこと。つまり、彼の美丈夫は人間ではないようだ。