1 扉の向こう側
整備されたアスファルトを、コツコツと軽やかな音を立てながら、美しく磨き上げられた革靴で歩く。
天から糸を垂らしたようなピンと伸びた姿勢は、その男の堂々とした佇まいをより強調させ、彼のために仕立て上げられたのであろう皴の一つも寄らない、体にフィットしたスーツは、この高層ビル立ち並ぶオフィス街に置いて、なんら見劣りさせないものであった。むしろ、使い込まれて味の出ているレザーのオフィスバッグを握りしめて歩く彼は、通りすがる人々の目を惹いた。腕に光るシルバーの腕時計はどこぞの異国の有名時計メーカーのものだろうか。けれど袖口からちらっと覗く銀色は、決して嫌味に映らなかった。むしろその装いと、そして彼の顔立ちからして、その手首に巻き付いていることが正解であるとしか思えないほどに、マッチしていた。
前髪を左右に流し、緩くパーマを利かせた栗茶色の髪の毛が、彼が歩を進めるたびに揺れる。ぱっちりとした深い二重の下には形のよい少したれ目のアーモンドアイ。不自然ではない程度に口角の上がる唇は、今にも流行りの歌でも口ずさみそうだ。
都会のど真ん中、いわゆる”できる“オフィスワーカーなど、ごまんと街を練り歩いている。そんな街中でもひときわ目立つ彼は、ご機嫌なままで自らのオフィスビルの自動扉をくぐり抜けた。似たり寄ったりな高層ビルが立ち並ぶ中でもひと際新しい、天まで伸びる真四角の箱。入口に立つ警備員には声を掛けながら一礼。そして受付には軽く頭を下げて愛想のいい笑みを浮かべる。内ポケットから社員証を取り出し、エレベーターホール前のセキュリティゲートにかざすと、流れるような動作でそのまま首に引っ掛けた。
彼は高層階用のエレベーターに乗り込んで、エレベーター内のモニターに映し出された数字が上昇していく様をじっと眺めていた。そんな彼の鼻筋のすっと通った爽やかな横顔を、ちらちらと女性社員が覗き見ているのも、彼は分かったうえでそ知らぬふりをした。
ポーン、と軽やかな電子音とともに、階数を告げるアナウンスが流れる。そっと足を踏み出し、塵の一つも目立たない廊下をつかつかと歩いて、お目当ての執務室エリアへの扉に手を掛ける。彼は静かにフロアへと足を踏み入れた。
「あっ、波瀬さん!」
扉付近のデスクに座っていた社員が、彼を見かけるやいなや声を掛ける。近辺に響いたその声は、パソコンや書類と睨み合ったり、雑談に応じていた社員たちの注目を、一瞬にして彼に集めるには十分だった。
「波瀬さん。聞きましたよ。森山商事の件」
「俺も聞いたぞ、やったじゃないか、波瀬」
波瀬桐吾、彼に対して男女問わず、浴びせ掛けられる称賛の声たち。桐吾はにっこりと微笑んだ。
「あの難攻不落と言われた森山の専務を説き伏せたって、聞きましたよ」
「ええ、あのいっつも険しい顔してる人だよね? 気難しい上に、こちらの欠点は的確に指摘してくる凄腕の……」
「そんな人を攻略して、案件もぎ取ってきたんすよね! さすがっす、波瀬さん」
次から次へと桐吾に掛けられる声に、桐吾はただ、
「ふふ、どうもありがと」
とだけ返してひらりと手を振った。過度な謙遜はしない。今社員たちから浴びせられた称賛の声は事実であり、まっとうな評価だからである。桐吾にとっては受け取るべきに十分に値する言葉だからだ。それに対する謙遜は下手をすれば嫌味に受け取られるかもしれない。だとすれば桐吾がここで返すべき適切な回答は「お礼」だけである。
桐吾は周りの声に軽く返答しながら、自らのデスクがある西側窓際へと向かう。綺麗に整理整頓されたデスク前のオフィスチェアに腰かけて、パソコンを立ち上げるやいなや隣に座っていた同僚の諏訪が、小粒のチョコを差し出しながら桐吾に声をかけてきた。
「いやあ今日も大層な人気っぷりですね波瀬様」
「なに。何が言いたいの」
パソコンの画面に体を向けたまま、目線だけでじろりとにらみつける桐吾は、先ほどまでの爽やかさから一転、面倒さを億尾も隠していなかった。だがそんな桐吾の突き刺さる視線を受けても、同僚の諏訪はたじろぎもしない。差し出したチョコを桐吾のデスクに積み上げながら、へらへらと笑っている。
「お前、ほんっと切り替え早いな。俺に対してあの優しい笑みの一つもくれないの」
「あげないよ。同期同部署にそんな気遣い不要でしょ」
「まあな。お前のその、人によって面構え切り替える能力は本当に尊敬するよ」
桐吾は外出中に溜まってしまったメールをチェックするために、メールソフトを立ち上げながら、諏訪のなんでもない雑談を話半分で聞き流していた。
「お前にこんなずけずけ言っても、周りの目には〝仲良し〟〝気の置けない関係でフランクな波瀬さんもまた素敵〟って目でしか見られないから、別にいいでしょ」
「ひええ、お前ってほんと怖い怖い」
「本当は怖いだなんて思っても無い癖に」
「あ、ばれた?」
ははは、とひょうきんな様子で、ずけずけした桐吾の毒を軽く笑い飛ばす諏訪に、桐吾は、はあ、とため息を吐いた。
「それより今日の案件の件、オレも聞いたよ。すげーじゃん」
「別に、ふっつーに準備してけば問題なかったよ。みんなが脅すから何かと思えば、ぜんぜん。リサーチしていけば専務の態度もなんてことないし」
「その『普通』のレベルが、お前と他とは違うんだよ」
そんなことないだろ、と言い連ねたくなる気持ちを桐吾はぐっと抑え込んだ。これ以上はいけない、と自身に言い聞かせる。単なる水掛け論になるに違いない。桐吾はかっ、と胸やけのように熱くなった内側の火照りを冷ますように再度ため息を吐くと、オフィスチェアに座りなおして、溜まりに溜まった未開封メールの開封作業を開始した。
カフェスペースでブラックコーヒーを受け取り、はるか遠くの地上を見下ろせるガラス窓に、向かうように置かれている、柔らかな生地のソファに桐吾は腰を下ろした。舌を擽る酸味が心地よい。沈みかけた夕日は、ビル群を柔らかく照らしている。
この会社に身を置いて五年目。今年で二十七になる桐吾は、足を組んでその眺望をぼんやりと眺めていた。何年も見続けてきた景色だ。見飽きることは無いが、そこにひどく感動することももちろんない。それでも視界に入る家や車は、ミニチュアのようにサイズが小さくなっていて、それでもそこには確かにひと区画ひと区画に人々の生活が息づいていると思うと、不思議な感覚になるのは毎度のことだった。
定時を迎え、いつもであれば次の日の仕事に向けての前準備のために残業をすることがほとんどではある桐吾だったが、本日は金曜日。来週の月曜日は特段急ぎの用事は入っていなかった。スケジュールアプリを確認し、ついでに部下や先輩のタスク確認もして、念入りに自らの来週のタスクを組み立てる。お疲れ様です、と言って席を立つと、週末の夜ということあって、同僚たちが声をかけてくる。いつもだったら誘いに乗る桐吾だったが、今日は朝から一仕事終えたことで、体をゆっくり休めることを優先したかった。決して付き合いが悪いわけではないので、すみません今日は勘弁してください、とほんの少しおどけて両手を擦り合わせると同僚たちは無理せずに、と大人しく帰してくれる。これもまた、桐吾が日頃からほどよい距離感で会社の同僚たちと接しているが故のコミュニケーション術であった。
金曜の夜こそ、ぱっと飲みに行きたい派が多いのか、それとも金曜の夜から日曜の夜までじっくり自分の時間として使うために早く帰る人が多いのか。どちらの派閥が多いのだろうと、一定のリズムで揺れる電車に立ち、つり革に捕まりながら取り留めのないことを桐吾は考える。ぴんと背筋を伸ばし、腰が湾曲しないように腹筋に力を入れる。それだけで草臥れた隣の同じサラリーマンよりも、見栄えがよく見えるのは知っている。トンネルに入った途端、窓ガラスに映る自分の顔をまじまじと桐吾は眺めた。朝となんら変わりなく、ばっちりと決まった顔の自分が映っていた。満足して、桐吾はそっと瞳を閉じた。
自宅は駅から徒歩五分。桐吾は帰宅してからのスケジュールをぼんやりと頭に思い描いた。まずはさっさとスーツを脱ぎ捨てる。もちろんこれはただの比喩表現であって、ジャケットもスラックスも、きちんとハンガーに引っ掛けた後、丁寧にブラッシングする。それから撮り溜めていたサッカーの試合を、この間購入した大画面のテレビで映して、きんっきんに冷蔵庫で冷やしているビールをジョッキグラスに流し込むのだ。晩御飯は昨晩すでに仕込んであるから手間をかける必要なし。オートロックのキーをセンサーにかざし、自動扉がゆったりと開くのを待って、わずかな隙間から滑り込むように桐吾は中へと入った。
桐吾にとって許せないものは、自分にとって不可侵であってほしいものを侵された時である。だから、飲み会だって断った。このひと時は桐吾にとって月曜までのいわば至福のひと時と言っても過言ではないのだ。桐吾はその時間に浸るために下準備をしっかりと行った。そしてその時間は間違いなくやってくるはずだった。
鍵を回し、ドアノブに手を掛けるその寸前まで、桐吾はそう信じ切っていたのだ。
「――え?」
ノブを下に下げ、手前に扉を開く。いつも行っているなんてことない作業。その開かれた隙間から眩い閃光が桐吾の瞳を刺す。だが、その時点で咄嗟に扉を閉める選択肢を選べなかった桐吾は、いつも通りにそのままドアを開け放ってしまった。
そして桐吾は、部屋から溢れ出る光の大洪水に体を包まれた。
「な、なにこれっ、ちょっと」
驚き、目をつむってノブから手を離す。だが桐吾の行動は何もかもがワンテンポ遅かった。光の洪水はまるで桐吾を吸い込まんとばかりに、桐吾の体を光の溢れる部屋へ部屋へと引きずり込んでいく。当然、身構えていなかった桐吾に何の抵抗ができるわけもなく、目を閉じたままの桐吾はそのまま光の中へと投げ込まれるかのように落ちていった。
ぱたり、と静かに桐吾の部屋の扉は閉まった。