3学期になって山岡先生や塾の先生の為来春5校も掛け持ち受験を約束した真理は、演劇部の為変な本を喜劇仕立ての台本に仕上、劇と勉強、両方に励む
新しい年が明けた。みんなにとって輝かしい年であって欲しい。しかしそれより何よりこの世から醜い戦争が無くなって欲しいものだ。今だにロシアはウクライナを苦しめ続けているし、私達の目の届かないところで、様々の人々が今日も悲惨な状況の下で痛めつけられていると思うと、正月気分はすっかり消え去って、とても辛いし悲しい気持ちで一杯になる。
さて話を戻して、いよいよ武志君を始め、健太・沢口君も、もう少しで中学を卒業してしまうのだ。と云うことは私・美香・睦美・千鶴、おっと忘れた篠原女史に敦君が中学最終学年3年生になると云うことであり、高校受験や推薦にせよ、行く高校を決めなくてはいけない年がやって来る。
そこで先ずはその真っただ中にいる武志君は如何に暮らしているのか?
生きている、息をしている。普通に、少々ナーバスになっているだろうが、見た目は実に普通に見える。
「あったりまえだろう、そんなことで一々死んでたら、いくつ命があっても足りないぞ」と宣わく。
そりゃそうだ。でもすこーし心配。
おばさんに言わせれば、食欲も全然落ちてないし、夜の勉強も程々に済ませ、ぐっすり寝てるらしい。こりゃ本当に心配無用と言うことだ。
沢口君や健太に至っては、もう今度はいる高校生気分でいるらしく、バスケやテニスの練習に夢中なようだ。
そこで我がクラブの事も振り返ってみよう。うん、みんな行けたぞ松山君を除いて、あの2つの高校にそれぞれ、推薦が決まったのだ。これは何よりめでたいめでたい、自分の事のように嬉しいぞよ。
で、松山君はどうした?こちらも心配無用、音楽の大桐先生の推薦を受けて東京の旭高校へ行くことになったのだ。音楽教育ではかなり有名らしいが、運動と音楽には皆目無知な私にはどれほど有名なのか,トンと分からない。まあ、これも松山君の喜び方を見れば、かなりめでたいことに違いない。
ううーむ、あっちこっちでめでたいことだらけの中で残るは武志君だけなのだ。
「別に真理が受験するわけじゃないから、そんなに浮足立ってどうするの?」と母は言うけれど自分が受験しないから心配なのだ。
「わたしでなく武志君が受験するから心配なの。風邪は引かないだろうか、コロナは大丈夫か、お腹は壊してないかとかさあ。学力以外にも心配することは沢山あるよ」
「ふーん、まるで武志君のお母さんみたいね」
「そうじゃない、わたしは妹なの。妹の気分なの。それにわたしの知り合いはもうみんな行く高校、決まってるんだもん。私の一番応援してる武志君が決まってないというのが悔しくて」
「でもさあ、殆どの普通の中3の子は今からが受験の季節なのよ。あなたの周りの子たちの方が早すぎるの、悔しがることは全然ないと思うわ」
「そ、そうね、別に武志君が競争に負けてるわけじゃないのね。うーん少しは安心したかな。それより今度の劇何やるんだろう、早く山岡先生、決めてくれないかなあ。自分の劇にする物の決定が遅れても、決まったら最後、早く台本を仕上げろ、3学期は短いのだからと急かすのだから、困ったものだねえ」
「人はそう云ったものなのよ、大体が」母は笑った。
翌日その山岡女史と顔を合わせた。今日はてっきり「これを劇にしたいの大急ぎでね」と言われると思っていたら女史の顔色が冴えない。
「あのう、台本書かなくてもいいんですか?」
「うーん、それがなかなか決まらなくて。今模索中なの。あんまり決まらないもんだから、目の前にあった推理小説にしちゃえなんて変な考えが起こったりするの」
「えー、推理物ですって。それは今までにない発想ですね。今回も文芸路線かと考えていましたが」
「私も一応そうしようかなとは考えていたんだけど‥も少し時間をくれない、頭を冷やしてもう1度考えてみるわ」
「今度何をするのか決まった?」と篠原女史。
「うううん、何か先生、顔色冴えないし、煮え切らない豆みたいよ」
「分かるなあ、先生の胸の内。責任はあなたにあるのよ」
「へっ、わ・た・しに責任があるんですって。冗談は止めてよ。わたし、何にもしてないわよ」
「3年生、みんな推薦決まったでしょう。あれはね、来年あなたが必ず今、来てる高校のどちらかに行くことが必須条件だったんだもの。そのあなたがもう演劇はしない、演劇は中学までと言って、学年トップの成績を取ってしまうんですもの。これじゃあ幾らごり押しの山岡先生も何にも云えず只一人、悩むしかないというものよ」篠原女史のしれっとした言葉。
「何時そんな協定が、本人が全く知らないところで結ばれたのよ」
「誰が本人の目の前でそんな協定結ぶのよ、あなたの居ないことを確かめてから決められたのよ」
「でもあなたは知っている。何故何故、何故なのよ」
「へへっ、みんなの話を総合するとそうなるのよ。現3年生や、他の先生達の話を繋ぎ合わせると、こう言った話になるのよねえ。分かった」
「で、でも、そんなの本人抜きで決めるなんて酷くない」
「だから、この1年かけて山岡先生、あなたを説得しなくちゃいけないのよ。きっと彼女の頭の中は今そのことで一杯なの、3学期の劇の事なんか考えている場合かって所よね」
「ふうん、それで推理物って話になるのか・・・」
「え。推理物ですって。まさかシャーロックホームズでもやろうってことじゃないでしょうね」
「分からない、先生が何を考えているのか。早く決めてほしいわ、時間がないと言うのに」
山岡先生が私の所為で窮地に立ってる、本当だろうか?敦君にも聞いて見なくちゃいけない。
学校の帰り道、敦君と一緒になった。と言うか、待ち伏せしていたのだ、このわたしが。
「あ、真理ちゃん、台本もう書き始めてんの?」彼も尋ねる。
「ううん、と言うかまだ何をやるか決まっていないの。と言うのも山岡先生、全然元気なくて、それに何だかおかしいの。あなた、何か知ってる?」
「え、僕が。僕は何にも知らないよ・・本当だよ」
うーん、何か怪しい。もう一押しだ。
「敦君、やっぱり知ってるのね、彼女の浮かない顔色の原因を」敦、うろたえる。
「ぼ、僕、はっきり聞いた訳でもないし、単に3年の先輩の話を少し聞いただけだから」
「それで、どう云う話なの」
「3年の部員が全部、あの二つの高校に推薦入学出来たのは山岡先生の一方ならぬごり押しの所為だって話だよう、それだけだって・・・」
「ごり押しは何時もの山岡先生の十八番よ、それでどうして、あんな浮かない顔色になるのよ」
「そ、それは・・・」敦君は何とかごまかせる答えを探しているようだ。
「ごまかそうなんてわたしには通用しないわよ、この際言ちゃいなさい。後から分かる事なんだから」
「うーん、困っちゃうなあ、僕。きっと真理ちゃんを悩ますことになるんだと僕は思うんだ」
「そんなこと言われると余計気になって夜も寝られないわ、それに大体の話は篠原さんから聞いてるの。だからあなたに確認したいだけなのよ」
敦君の顔に安堵の色が色が浮かぶ。
「やっぱり知ってたんだね、君がさあ、どっちかの高校に行くことを前提に、今の中3全員を推薦入学させると言う取り決めに落ち着いたって事」
「ううむ、何時の間にそんな話になっていたんだろう?」
「去年の12月の初め頃、3年の部員、松山先輩を除いた全員と山岡先生、あの高校の先生たちが集まって決めたんだって話だよ。みんな劇を続けたいし、続けるならどうしてもあの二つの高校に行きたいと言ってさ、誰も辞退しないんだよ」
「ほんとに彼らは演劇がすきなんだねえ」
「でもさあ、みんな君がまさか中学で劇を止めるなんて知らないから、君があの2つの高校のどちらかを選ぶだろうと多寡を括っていたんだ。そして2学期のテストでさ、君がぶっちぎりの1番を取っただろう。そこで3年生もあれって気づいたんだ、君が演劇だけに興味が向いているんじゃないって事に」
二人の周りを冷たい真冬の風が遠慮会釈もなくヒューヒュー吹いてゆく。
「ふーん、それでも誰も辞退しようなんて考えないんだね、真理の好きな道を歩ませてやろうなんて考えは皆無なんだ」
「何しろもう高校の試験は始まっている所もあるし、一度手に入れた特権は絶対手放したくない、多分ね」
敦君の憤懣やる方なしと言った顔。
「そりゃそうだ。3年諸君の気持ちはよーく分かる。でもその時何故わたしを交えなかったかな、そうすれば山岡先生も悩む事もなかったでしょうに」
「山岡先生は君も大事、みんなも大事。なんとかみんなの願いを叶えてあげたい、君の方は何とかなるだろうとその時は思っていたに違いないんだ。でも、君の成績を見たり、お祖母さんの夢を実現したいなんて話を聞いたりして、これは君を演劇の道に進めるのは困難なのではと言う結論に至ったと言う事なんだよ、きっとね」
わたしも迷った。山岡先生はきっと私に演劇の道を進ませたいと願っている、わたしも劇を書く事も、演じるのも好きなのだ。一方でばっちゃまの夢を、この孫のわたしが成り代わって、この現世でやり遂げたい。家に帰って母に相談してみようか、母は何も迷うことなく画家の道を志したのだろうか?
「ねえお母さん、お母さんは何の迷いもなく画家の道を志したの」
母は県の美術展の出品作品の制作で忙しい。何しろお正月は我が家風おせちづくりやあちこちのあいさつ回りなどでほとんどの時間を取られ、小物は頼まれたものもあって描いてはいたが、大物には手も触れていなかった。
「え、何?」不意打ちを食らって母は絵筆を落としそうになった。
「お母さんは画家になるのに何の迷いもなかった?」
「迷い?そうよねえ、お母さんは絵を描く事位しかお祖母ちゃんに勝てるものがなかったから、それを極めようと思ってね、絵描きの仕事を始めたのよ。才能が1つしかないと言う事は、本当はとてもありがたい事なんだとこの年になって感じるわ」
「ばっちゃんは?」
「ああ、あの人はなりたい物ややりたい事が一杯あったけど、当時の社会情勢や家の事情によって、一番得策として親、兄弟から薬剤師になれと勧められて、その当時その土地に一つしかない大学の薬学部に入ったとか聞いてるわ。だから、私が画家になりたいと言っても、別に反対はしなかったわ」
「ばっちゃんはどんなものになりたかったのかな?」
「うーん、よく知らないわ。分かっているのは仙人になりたいって言う事ぐらいかな、ハハハ。でもこれは若い時の夢じゃないのよね
「今度会った時聞いてみようかな」
「なあに、何か迷ってるの?」
「うん、山岡先生はわたしに演劇の道を進んで欲しいの、それに、私が演劇の有名校に入るのを条件に3年の部員全部をその有名校に押し込んだのよ。それで今、わたしが化学者の道に進んじゃいそうなので、全然顔色も冴えないし、今度何の劇をやるかも決めてないの。私もどうすべきか分からないわ」
「ねえ、真理ちゃん、あなたはまだ中2よ、今決めなくて良いんじゃない。例え山岡先生の顔を立てて演劇に強い高校に入ったとしても、そこは普通の高校でもあるはずだから、普通の高校生として勉学にいそしめば良いんじゃないの」
「え、そう、そんな手もあるのねえ。うんありがとうお母さん、そうよねえ、わたし、まだ中2だもん悩む事ないわよねえ。お母さん、お母さんの描く水の画って素晴らしいわ、東村君じゃないけれど、大きくなって買える身分になったら是非買いたいと思うわ」
「なあに、真理ちゃんがおべんちゃらを言うなんて、気持ち悪いわ」
「おべんちゃらじゃなくてよ、今本当にそう感じたんだもの。お母さん、画家になって良かったわね」
翌日、学校へ出かけた。休み時間になった。山岡先生の元へ行く。山岡先生の顔が昨日よりもっと悪くなっているように感じるのは気の所為だろうか。
「あー、島田さんかあ。まだ本決まってないわよ、あなた適当なものを探して台本にしててくれない」
これは本当に重症だ。
「そんな訳には行きません、何時ものようにテキパキ決めて下さい、待ってます。それから・・わたし、高校の事ですが、あの演劇に熱心な高校へ行っても良いです」
山岡先生の顔にパッと生気が戻った。
「え、あなた、今何言ったの?」
「あの熱心な高校のどちらかに行っても良いです」
「本となの、本当にどちらかの高校に行ってくれるの?」
「ええ、でも、推薦は要りません、普通にテストを受けて入ります」
「推薦は要らないですって・・まああなたの実力からすれば推薦なんて要らないわよねえ。でも演劇部には入ってくれるんでしょう、そこが一番大事な点なんだから」
「一応、演劇部には先生の顔を潰すわけには行きませんから、入部します。でも、ずっとそう言う状態なのかは今の所不明です。演劇の道を究めるのか、祖母の意思を汲み取って化学者の道を選ぶのか,もっと良く考えて決めたいのです」
「だから推薦は受けない、普通の新入生として高校に行く訳なのか。でも言っとくけど両方とも、大学受験校としては余りパッとしないわよ、あなたが進みたいような大学に入った子は今まで一人もいないわ」
「構いません。二つともちゃんとした高校です。だから、ちゃんとした勉強をきちんと勉強すれば、きっとちゃんとした大学に入れます」
山岡先生はわたしの顔ををジッと見つめる。私も負けずに見つめ返す。
「分かったわ、あなたの申し出をありがたく受け取るわね。でも、もしあなたが矢張り進学校を受けたくなったり、横やりが入って無理となったら直ぐに知らせて頂戴、遠慮なんか要らないわ。今あなたがそう言ってくれただけで十分よ。ええ私にも教師としての自負があるわ、もしそうなったら、教師としてあなたの行きたい道を守って見せる。無理して栄南や今中高校に行かなくても良いの、本当よ」
「大丈夫ですよ、それより早く次の劇、決めて下さい」
「ああ、そうだったわねえ・・全く文芸物でもないし、ファンタジーでもおとぎ話でもないけど、ほら、気分がすぐれなかったでしょう?だからこの変な表紙に目が行ったのよ」
先生が取り出したこれも随分古そうな本。確かに気分が載らない時に目が行きそうな表紙である。
空飛ぶ絨毯の上にやせ衰えてはいるけれど、ひげ面に満面の笑いを浮かべ、片手を上に差し上げた白い帽子をかぶったヨガポーズの男。帽子には名探偵の文字。
「幸福の輪」とある。作者は多分その横に大書きされた法螺貝吹男氏であろう。
「これには実を言うと、但し書きがあるのよねえ・・」
「これは、一応名探偵と言う帽子を被っていると言う事は、探偵物、ミステリーなんですよね.詰まり犯人をばらすなと言う但し書きですか?」
「まあそう言う所かしらねえ。作者がマジシャンなものだから、種明かしをされるみたいで嫌なんでしょう。普通の作家ならそんなことわざわざ書かないでしょう?」
「あら本当,本の裏の方に書いてあるわ、未読の方には明かさないでくださいって」
「本の冒頭にも、秘密を明かさないでくださいって重ねて書いてあるの。読者の幸福のためにですって」
「へええ、何かしつこくて胡散臭いですね、見かけは面白そうだけど」
「まあ、中身も作者には悪いけど大分胡散臭いわよ。でもたまにはこう言ったものもやりたいと思わない?」
「うーん、どうしてもと言われれば、先生の鬱々とした気分を少しでも晴らした本ですから、これをシナリオに致します。でも犯人を明かしてはならないんでしょう」
「これは見ての通り、古い本なのよ。40年も前に書かれたものだから、構成を少し変えるとかすれば、良いと思うわ、それとか題を少し変えるとか」
「少し考えさせてください、作者の気持ちを余り傷つけないようにしなくてはいけませんから」
「それはそうね、良いように考えて頂戴」
本を読んで見る。一言でいえばオカルト物だ。オカルト物とマジックを一緒にしたようなものだが、後半には断食と言うばっちゃんが大好きな言葉が出て来るし、実際に主だった者が全員実行することになる。はっきり言って前半は可成り面白い。推理物だと思って読むから、一体彼女はどうしたんだろう?彼は誰に殺されたのだろうと言う乗りで読んでるから、こりゃ、中々複雑な推理物に違いないと思う。しかし真ん中へんで??となる。最後に、あ、成程ねとなる。うーん、これを劇にするとなると折角のわくわくな前半を削らなくてはならない。後半の断食修行の所だけをシナリオにしよう。
うーん構成を変えなくてはならないのか、これは新興宗教の跡取りを巡るある種の陰謀である。ありそうな話だ。でもこれを作り上げた人、詰まり開祖になる人は余り欲がない、欲がないから欲にとりつかれた周りの人間が蠢く。
わたしも推理物は好きだ。踊り、生け花、茶道等等、そこを舞台とした推理物が山ほどある。この本が取り上げているのは新興宗教だ。うーんこれは、この犯人の狙いの一つは、断食修行に参加した者、自分たち以外は全員、死亡させるのが目的だ。だからこそどう見ても行き倒れ寸前のヨガの修行中の一行にしか見えない彼らがその指導者に選ばれたのに違いないし、実際に作中にそう書かれている。だから前半に出て来る死んだか死んでないのか分からない人たちの意味が最後になって明らかになる訳だ。
しかし、現代だったらそれは成り立たない殺人行為だ。まあ、スマホなどの器具は修行の妨げになると、一括にまとめて何処かに預ける事になるだろうが、世話をしている農業を営む夫婦の所には電話はあるわ、いざとなれば元気そうな夫婦だもの、歩いて山を下り警察なり、医者の所に報告して助けを求めることができるだろう。いや、たとへ40年前にしてもこの夫妻がいては全員死亡と言うのは不可能じゃないだろうか?スマホはないとしても電話はある。山の上であったとしても、いや山の上だからこそ電話は必需品だ、絶対にあるに決まってるし、夫婦には健康で丈夫な両足も揃っているんだもの。よって全員の殺人は不可能と言う事でケリをつけた。大金と権力欲に目が眩んだ犯人側と、少し間が抜けてお人良しのもう一方のライバル、本来なら彼こそ新興宗教開祖の孫にあたるから、彼こそ後を継いでも誰も文句は言わないと思えるのだが。ええいこの両方共女にして、取り巻く人間が欲にまみれている事にしちゃえ。これはこの両方の騙しあいってことで物語を作り上げれば、偉大なるマジシャンで作家である彼の但し書きに逆らわないでいられると言うもの、だとわたしは思うのだが?
さて我がクラブの部員は今何人いるんだ?
多少の出入りがあったものの、2年は男子3人女子5人、1年は男子4人女子4人となっている。これは中々の大所帯になっているんだ。フムフムこの登場人物の男性を一人増やし、競争相手の孫を女にしたから
多分、人数的には合ってるはず。
ナレーター
今から数十年前でしょうか、ここは福井の若狭に位置するとある山奥の小さな村がありました。その一軒の空き農家を目指して修験者の代々木坊とその弟子明王丸、美蝶3人がが新興宗教の信者で案内人の魚住に連れられってやって来ました
魚住
やあ、長旅お疲れ様です。飛んだ事になりましたね、まさかあなた方がこの断食会及び次期この桜華霊の跡取りを決めるとかいう、その指導と審判員をして下さるよう頼まれるなんて思いもしなかったでしょう
代々木坊
いや、断食会はちょくちょくあちこちで頼まれていますので、それはもう慣れっこなんですが、その結果で後継者を決めると言うのは、まあこれは責任重大でして、こんなことは初めてですな
美蝶
それであなたも参加する訳?
魚住
勿論ですよ、僕の愛する瑠璃子さんが後継者に決まれば、もう、僕達は結婚出来なくなるんですよ。それに何より、瑠璃子さんの体が心配だ。うーん、そういえば彼女、何だか今までも断食みたいのをやったことがあると言ってたような・・・
明王丸
あそこですな
魚住
はいそうです、私達はこのように年齢順に番号札を首にぶら下げていますので、これからは1号、2号と呼んでください。それに、緊急時以外私語は禁じられています。なお後継者候補の瑠璃子さんと茂子さんは札は下げておりません。赤い帯をしているのが瑠璃子さんで黄色の帯が茂子さんです
美蝶
でも、瑠璃子さんは後継者になる事、嫌じゃなかったのね
明王丸
うーん、やはり莫大な財力と何百万人の上に立つ魅力には敵わないと見える
魚住
そうですね・・瑠璃子さんの心も迷っています。ここで後継者に選ばれなかったら諦めもつくと思いますので‥
代々木坊
私に手心を加えよと言う事ですな。まあ少しならば手心は加えられましょうが、明白な勝負になれば、これはどうしようもないことですね
魚住
それは致し方のない事です。さあここです、お入りください
暗転
男女魚住入れて10名、全員白い着物、女2名を除いて白い帯を締めている。赤い帯の女と黄色の帯の女を中心に男2名女2名がそれぞれ座っている。瑠璃子は「幸福の輪」をしっかり握りしめている。
番号札2を付けた男、井谷が立ち上がって、農家に入って来た4人に軽く頭を下げる。一同、落ち着いた所で井谷一歩前に出る
井谷
えー、では本日より21日間の断食の行を行います。この修行は言うまでもなく自己を試練するとともに長年の間汚れた体を清めるのが目的です。ここに集まった方たちは霊会の中から選ばれた人達ですが、今は
そう言った日々の事は忘れ、無の境地になり心霊に接する断食を行う事になる訳です。その断食の指導は高名な修験行者である代々木坊先生にお願いしてあります。先生は日本の山と言う山、滝と言う滝で行を積み習得された行者様の中でも特に権威の高い方であられます。今回は桜華霊様直々のご依頼でここに来られていただきました。では先生、行に当たっての注意などお話しください
代々木坊ひょろりと立って1歩前に出る
代々木坊
わたしは別に高名などではありませんし、権威なども一切ありませんが、ひょんなことから、皆さんとお付き合いすることになりました代々木坊で、ここにいるのが1番弟子の明王丸、次に2番弟子の美蝶です。彼らも一緒に断食を致します。
最初の3日間は3度、お粥を食べていただく,体が慣れたところで水だけの断食に移ります。21日はかなり長いと思います。その間毎日わたしが体を見て、この方はこれ以上無理だと判断したらストップをかけ、断食は中止し、又お粥からだんだんと元に戻します。皆さんは私語は禁じられておられるとか、何かありましたらメモなどに書きお見せ下さい。その他の細かいことは、その都度申し上げる事として終わりとしましょうかな。あ、そうそう寝る前に、必ずこの便秘薬を飲んで下さい。美蝶さん皆さんにお渡しして
美蝶、リュックから薬のビンを取り出し、各自に一ビンずつ手渡す
代々木坊
こんなもの必要ないとお思いでしょうが、断食に便秘は付き物、必ず飲んで下さい。万が一寄生虫等が居たら大変な事になりますから。こんなもので宜しいでしょうか井谷さん、いや、二番さんでしたな
井谷
はいありがとうございました。先生方は客員ですから、私たちに構わずご自由にお話しください。でも皆さんはこれから断食行の始まりですから、一切の私語は謹むように。瑠璃子日導のようにこの会の聖書である「幸福の輪」を読んだり、茂子日聖のように瞑目して過ごすようにして下さい
話し終わらない内に戸ががらりと開いて男女が入って来る
女(大きな声で)
やあ、とうとう始まりましたか、さあ先ずはこの小粒の梅干を一つずつ、召し上がれ。これは普通にとっても酸っぱいぞー
女梅干を配る。
男(小さな声で)
それからこの重湯のようなものと具のない味噌汁を一杯ずつ、どうぞ。これは全然酸っぱくありませんので、安心して召してくんろ
男が持って来た重湯と味噌汁の入った鍋の一つを女に渡し、男女はそれぞれ一杯ずつ椀に盛り、銘々に渡して行く
女(妻)
本当にこんなもんで21日間も断食やってて良いんですか。はー、これに比べて家の亭主ときたら、本当に贅沢三昧なんだから、酒は灘の酒、刺身は魚政、干物は魚一なんて文句ばっかしだ
夫(恥ずかしそうに下を見ながら)
いえ、時々しか言いませんよ、たまに酔った時に思わず言ったかも知れません。只ほんとにこれからは絶対文句は言いません、たとえ酔っていたとしても言いません。ハイ、本当に
代々木坊(咳払いをしてから)
ええ、梅干しもお粥もゆっくり良く嚙んで、味噌汁は少しずつ召し上がられるようにして下さい
食事が終わると夫婦はお椀や皿を片付け出て行く
代々木坊(立ち上がって)
あまりじっとしてるのも体に良くないですから、外の散策等なさったら良いでしょう。気分転換にもなりますし、しばし断食の事も忘れられるかも知れません
みんな思い思いに立ち上がり、戸口から出って行く。茂子は取り巻き達と一緒に出て行くが,瑠璃子は手に幸福の輪を持ったままじっと座っている。それを明王丸がでれっと見つめている。それに気が付いて、美蝶が軽く肘鉄をあてる
暗転
ナレーター
それから4,5日経ちました。ここは農家の外、美蝶が散歩の途中、古くてちょっと汚い小さな小屋を見つけました
美蝶
汚い小屋、でもなんか足跡があるわ。誰か入ったのかしら
美蝶、戸を開け中を調べる
美蝶
あらこの大きな袋は何かしら(袋を開ける)本が入っているわ、幸福の輪って書いてあるわ。あの瑠璃子さんが肌身離さず持ってる本ね。前にどうして死んだ人が生き返るのか不思議で、その秘密を知りたくて色々調べてみたのよね。その結果どうもその秘密は聖書にあるとにらんで、あそこの聖堂でてみたんだけどあの本とは随分違って、この本随分分厚いわね、一冊貰っておこう。沢山あるんですもの、良いわよね
小屋を出ると7番を下げた女性とぶつかる
伸江
あ、御免なさい、2番目の・・
美蝶
私は美蝶よ、7番さん
伸江
わたしは小田伸江、私が話しかけたって事は内緒ね。本当の事言うとあなたが一人だったので、もう黙っているのに我慢できなくなって追いかけて来たの。わたし、食べないことより喋らないでいる方がずっと苦しいの。もう5日でしょう?気がおかしくなりそうだったわ。ああこれで生き返ったみたいよ、ねえ、これからここで話をしないこと
美蝶
ええ良いわよ、その方がわたしも良いわ。では聞くけど、メンバーの中に歌手の笹川清美そっくりの人がいるじゃない、あの人航空機時事故で死んだと聞いたけど
伸江
あああれはね・・桜華様が及び戻しになって生き返ったの。彼女だけじゃないわ、私を除いた女性みんなが桜華様によって生き返ったのよ。勿論みんな大金を収めたり会の何事にも熱心だから・・ここだけの話、何かこの裏には秘密かトリックが隠されていると思う、絶対に。わたしなんかこんなメンバーに加わる資格はないんだけど・・ある人の為にメンバーに加えてもらったの。この行が終わって、身も心も綺麗になってから結婚するのよ。でも随分お腹は空くのよねえ。持つかしら
美蝶
ええ、わたしもふらふらよ
伸江
昨日から水だけになったわ。わたし、この中では太っている方でしょう、それが一番最初に降参してしまったら恥ずかしいわ
美蝶
何だか今度の断食はとても大変みたいだとか代々木坊先生もおっしゃられていたし、一番弟子の明王丸さんも何だかもうげっそりやつれているから
暗転
ナレーター
農家から少し山の方に入った所に、木陰になっていて清水も湧く、夏にはもってこいの場所がありました
背景、岩と岩の間から水が流れている。美蝶が見つけ走り寄る
美蝶(手ですくって水を飲む)
ああ、氷のように冷たくて、それになんて美味しいのかしら。伸江さんにも後から教えてあげよう
近くで魚住が倒れて唸っている。美蝶が駆け寄る。
美蝶
どうしたんです、気分が悪いんですか?
魚住
ハハハ、なあにね、お腹が空いたもんで、ほらそこの赤い実を一つ取って食べてみたら、気分が悪くなって
美蝶
代々木坊先生がおしゃったでしょう、木の実は毒性の強い物もあるから口にしないようにとね
魚住
ええ、そういわれていたんですが‥何か敵の奴らが,いや何でもないです、ただお腹が空いてたもので
美蝶
さあこっちに来てこのお水を飲んでごらんなさい。生き返るわ
魚住
ああ本当だ、生き返ったよ。ありがとう美蝶さん
暗転
ナレーター
ここは農家の中の一室です。今は代々木坊一行だけが居残って集まっています
美蝶が幸福の輪の本を読んだりひっくり返したりしている
代々木坊
おや、それは幸福の輪ではありませんか、どうしたのです。誰かに貰ったのですか
美蝶
いえ、実は裏の小屋の中に袋に入れてあったものです、とても沢山あったんで一つだけ持って来て見ました。これは私たちが前に手に入れて、魚住さんに取り上げられた幸福の輪と内容は同じですが、こっちの方が相当分厚いみたいです
代々木坊
どれどれ成程分厚いなあ。私たちが気になって調べた印刷所によると、私たちが初めに手に入れたのは試し刷りの方の本で、こちらが女性が持って来たと言う紙で印刷した本刷りとか言うものだろう
明王丸
うん、これは厚い、確かに分厚くて見ばは良いようだ。あ、そうこれは瑠璃子さんが肌身離さず持っている物と同じ本だ(うっとりとして中を見つめる)
代々木坊
うんそうだな、あの人は不思議な人だ、断食が始まって以来、日ごとに健康そのものと言った感じです。そう言えば、茂子嬢も瑠璃子さん程ではないが、彼女も全然参っていない、二人とも信仰心が余程強いとしか考えられないなあ
美蝶
やはり最後は魚住さんの言う通り、先生の手心判断で決まるのかしら
明王丸
もしかしたら二人とも量の違いがあっても、何かしら食べ物を取っているんじゃないでしょうか、それしか考えられないよ、この俺だってダウン寸前なのだから
代々木坊
それは言えるが、それがどうやっているのか、全然分からない。昔戦の時、籠城をして食べ物が無くなった時は壁を食べたと聞いているが、当時の壁はフスマ等、不味いが食べようと思えば食べられるもので出来ていたらしいからな・・
明王丸
もしかしたらここの壁も食べられるかも知れない(壁を覗き込む)いや、とても不味そうだ
美蝶
そう言えば、この前魚住さんが赤い木の実を食べて、気分が悪くなって倒れていたわ。でも中には食べられる木の実もあるから、それを事前に調べておいて、それを茂子さんか瑠璃子さんに教えて食べさせているのかも
代々木坊
それは十分に考えられる.大将が勝つのが肝心だからな。木の実をこっそり与えていればあまり元気にはならないかも知れないが、断食は持ちこたえるだろう。うーんそれでも、瑠璃子さんの溌溂とした元気の良さはそれだけとは到底考えられない
暗転
大部屋に全員揃っている。離れたところに、伸江、3番の男性が薄い布団に寝かされている。
代々木坊
えー、本断食は今日で終わります、長い間、本当に大変でしたでしょう。明日よりお粥から順次体を慣らし三日で二十一日の行が終了。元の体調に戻れば心身ともに澄み渡り、以前にも増した健康を得る事が出来ます。いやー、ぶち明けた話、今回のはホトホトきつかったです。大体夏の断食は・・まあ皆さん、よく辛抱なさいました驚嘆すべきは・・いや、わたしの話はここまでです
井谷(何故かがっかりした様子で)
えー、よってこれから私語も解禁です。自由に話して結構です。
皆ひそひそと話をするが如何にも大儀そうである
代々木坊
美蝶、ちょっと小田伸江さんを見てくれないか、私は井谷さんと話があるから
美蝶、伸江の所に行き、伸江を覗き込む
美蝶
どう、具合は
伸江
何だか目が霞んできたわ
美蝶
お粥、ちゃんと食べられたんでしょう
伸江
ええ、お代りもしたわ。でも全然駄目、元気が出ないの。あ、それより狩野局長はどうしてる
美蝶
ああ、あなたの好きな1番若そうな人ねえ。今にも倒れそうだけど、大丈夫よ
伸江
変ね、あの人そんなに若く見えて。あの人はあの中で一番年かさなのよ
美蝶
そう、それは魚住さんだと思うけど、兎も角年かさに見える人も若い人も、みんなちらちら瑠璃子さんの事を気にしてるのは確かね
伸江
もう、私が本の印刷の為、あれこれ走り回ってあげたのに。あの人初めは普通の紙で製本し、次に分厚い紙を持たせてこれに印刷するようにと、私に頼みこませたのよ
美蝶
でも出回ってるのは薄い、普通紙の方でしょう。私、あなたたちの聖堂にある売店で手に入れたのも普通紙の方だったわ。瑠璃子さんが何時も持ち歩いているのは、あなたが印刷業者に持ち込んだ後の紙で印刷された本の方ね、一体それ、どんな意味があるんでしょうね
伸江
あのう、お願いがあるんだけど、あの清水の水を飲みたいの、汲んで来てくれる?
美蝶
良いわよ、待っててね
暗転
石清水の場所
美蝶がビンを取り出し水を受ける。足が滑って前のめりになって清水の流れに幸福の輪を落とす
美蝶
あっ、幸福の輪を落としてしまったわ、まだあの本の謎も解けないのに。この水の流れは何処に通じているのかしら、ちょと残念。あら、人が来たわ、ここに隠れて様子を見ましょう
美蝶、木の陰に隠れる。茂子を囲んで笹川清美と連れの畠山が現れる
清美
茂子様、何とか断食やり遂げましたね、ほっとしました
畠山
あれだけの木の実ではとても大変だったでしょう。それなのに、それを私たち迄分けて下さるなんて
茂子
ええ、それは当然です。何とかみんなが見つけておいた木の実を食べて命を繋ぎましたねえ、井谷さんにもお礼を言わなくちゃ
清美
井谷さん、随分瑠璃子さんにヨロメイテいたけどね。でも最後には茂子様の方に味方するに決まってます。それから、ちょっと3番の田中さんには木の実の事教えないで悪い事したけど
畠山
あの人無理やり行に参加したのよ、向こうの小田さんと同じ
茂子
今は仲良く布団並べてダウンしてるのね、少し可哀想
3人去って行く、次に4番の札を下げた男と6番の札を付けた女がやって来る
4番の男
やっと終わりか、コメを運んだり、何だか知らないけど、大きな袋を小屋に押し込んだり、瑠璃子様の為とは言いながら、腹ペコの身には辛いよ
6番の女
でもそれは腹ペコの時より、ずっと前の事だわ。それに断食の時だって少しだけど、おこぼれ貰ったでしょう
4番の男
ああ、あれは凄いな。おこぼれでもありがたかったよ
二人、立ち去る。瑠璃子と魚住が現れる
瑠璃子
あなたに言われた通り、井谷は私に夢中にさせたから、だいぶ体力なくしてるわ
魚住
さすが瑠璃子だ。彼奴たちはこの行が始まる大分前に来て、体に良い木の実が何処にあるか、体に悪い木の実はどれかを調べていて、それを口にし断食を乗り越えようとしているんだ。だなもんで中々断食で参らないんだ
瑠璃子
でも元気な方は絶対私の方だわ
魚住
うーん、あの一行をこの計画に引きずり込むのに、俺は名前を変えてあの小娘に近づき、井谷や桜華様に頼み込んで、この行の指導や審判を頼み込んだだが、少しやり過ぎてしまったかも知れない。俺がお前を是が非でも後継者にしたいのがばれない様にするために、俺がお前と結婚したがって手心を加えてほしいと申し出たんだ。本来ならあの茂子等はとうに参っているはずで、あの世行き一歩手前と言う算段だったんだ。それにあのくそ坊主の一行もへたばるのにあと少しの筈だったんだけどなあ。まあ見た目は断然お前の方が溌溂として、輝いているけどさ
暗転
農家の夫婦が鍋2つとお椀や梅干を持って、家に入って来る。みんな揃っている。伸江と3番の男は皆と離れて寝ている。女はお椀を配り亭主に鍋を持たせ、先ずはお粥を注いでいく
農家の女
やあれ、又みんなお粥さんから元の体に戻して行くらしいけど、こんなもんで元の体に戻れるのかねえ
夫
ホントだ、こいつ、あんたらが持って来た痩せライスだが、こいつはうちの鶏も食わんし、スズメも啄もうとしないぞ。これでほんとに大丈夫かね
妻
まあ今日は味噌汁があるから、気に入ったら後からおらんとこに来て、味噌汁でもお替りして腹の足しにしてくれや。さっき行者様が来て、何か紙のようなものを混ぜるように言われて混ぜておいたよ。何か元気が出る薬だとか言われたけんどさあ。俺には分かんねえ、お前分かるか?
夫
はあ、紙みたいなもんで元気出るとは、俺にも皆目分かんねえな
味噌汁も次ぎ終わって夫婦は出て行く。皆、粥をすすり、味噌汁を飲む。代々木坊が立ち上がる
代々木坊
えー、皆さん本来ならば21日間の行が終わりましてから発表するのが当然でありますが、ちょっと緊急な事態が発生いたしまして、2日ほど早いのですがここで私の判定を発表したいと思います
少しざわめく。
代々木坊
わたしはご存じの通り桜華様の依頼を受けて、断食行の指導を続けて参りましたが、色々行き届かないところが・・・いや、行き届かないどころではないドジの踏み通しでご迷惑をかけて来たようです。この緊急事態にはもっと早く気付かなければなりませんでしたが、なんせ凡庸の私、お許し下さい。さて、桜華様から依頼を受けたもう一つの事、それはこの行の中で最も良く耐え抜き、心身ともに優れた者を一人だけ報告せよとの事。夕べ色んな報告を受けまして、ここにその一人を選び出しました。もし、意義のある方は申し出て下さい。えー、その人は清宮茂子嬢です
少しざわつくが直ぐ静まりかえる
魚住
先生、お待ちを。失礼ですが、先生の判定に反対します
代々木坊
ほう、どんな点でしょうか
魚住
今ここで見ても判る通り茂子様は可成り衰弱仕切っておられます。これは誰が見ても瑠璃子様の方が心身ともに優れておられると思われますが
代々木坊
そうですな、誰の目にもそう見えますな、だが瑠璃子嬢は残念ながら大幅なルール違反をしておられるんで、その資格がないんです
農家の夫婦がコップと水の入った瓶を持って入って来る
妻
さっきの味噌汁の中に入れた紙と同じ物と水を持ってきてやったぞ
夫
あのコメ、ああそうだ、あんたが持って来たコメ(夫は4番目の男を指さす。4番目の男、ビビる)あれを食べてたんじゃ全く持って回復しないだべ、それよりこっちの方が消化も良いし、栄養たっぷりだと聞いたぞ
夫はコップに水を入れて配り、妻が紙のようなものを配る。
4番の男
わ、わたしは狩野局長に言われた東リ、コメを運んできただけです。農家だからコメは確か十分あるはずなのにおかしいと思いはしましたが、お粥にはこれを使うように頼みました
夫婦
うんだうんだ、その通りだ
座は一層ざわめく。夫婦は出て行く
代々木坊
私たちは断食の日から痩せライスを食べていたんです。皆さんは私たちの来る前からこの痩せライスを食べていたことになるので、余計に辛い事でした。さて先の紙のようなものですが、こうやって食べても良いし、この水に溶かして飲んでも良い。実はこれはこの弟子が裏の小屋から随分前に見つけて一冊失敬していたものを、泉の中に落としてしまったんです。所が、昨日、ここにある池に上手い事流れて来たんですね。表紙は水に溶けない糊が使ってあって何とか無事でした。そこで我々が小屋に行って調べた所、この幸福の輪の本が前より半分以上減っていました。それを水に溶かすと味もしっかりついた栄養ドリンクになりましたので、先ずは小田さんや田中さんに飲ませました。尋ねて見るとその本は局長、我々が魚住と思ってた人物に命令されて、小田さんが印刷所に運んび込んだものでした。そしてこの本は、そうです、瑠璃子さんがここに来てからしっかりと肌身放さず握りしめていたものです。
瑠璃子
ええ、そうですわ、私は狩野に言われたように、みんなに見つからない様、こっそり幸福の輪を食べていました。でも、聞くところによると、茂子様だって木の実を取って食べていたというじゃありませんか。それはどうなるんですか?
茂子
はい、申し訳ございません、その通りです。あまりの空腹につい木の実を取って食べてしまいました
清美
でも本の僅かです。その僅かなものを茂子様は私達にも食べるように勧められたので、実際は本当にごくごく少ししか口にされていないのです
畠山
本当です。もし断食がも少し長ければ私達も伸江さんのようになっていたと思います
代々木坊
ハイハイ、それは昨日、この美蝶があなた方の話を陰でこっそり聞いてしまい、良く分かっています。痩せライスとのことを鑑みまして、それは無かった事にしましょう
美蝶
厳しい事を言うと私と伸江さんが女性の中でパスしたと言う事になる訳だわ
明王丸
ま俺たちは部外者だからダメだろうけど、伸江さんが厳格に言えば、次期桜華霊の跡取りに近いと言う事ですな
さっきから起きだしていた伸江がそう言われて立ち上がる
伸江
と、飛んでもないわ、わたし、この行が終わったら狩野さんと結婚出来ると言われて、全然知らないと言いながら栄養満点の本を作り、この行にも参加したの。それに桜華さまの跡取りなんてとても務まりません。ご辞退させてもらいます
6番の女
じゃあ、この狩野さんと結婚する気なの
伸江
狩野さんが本当に好きなのは瑠璃子さんで、わたしは騙されて手伝わされていたのがはっきりして、目が覚めました。この際これもご辞退させてもらいます
こそこそ逃げようとしている狩野を明王丸が捕まえて、真ん中に打ち据える
明王丸
あんた、本来ならここにいた半分は餓死ししていたんだぞ。まあ本来それが目的だったろうが、そうは上手く行かなかったな。さあ、みんなに辛い思いをさせて悪かったと誤ってもらおう
井谷
ちょっと待った。もう一人へたばっていた奴、田中はどうしたんだ、木の実も本も食べずよく頑張った、女ならあんたこそ次期跡取り候補になってもおかしくない
田中(起き上がって、真ん中に来る)
へへへ、実は私はある出版社に頼まれて、この団体の跡取りの内情を探る目的で参加した者なんですよ。それが跡取りだなんてちと話が上手すぎますよ、せいぜい狩野局長の後を継がせてもらえませんか?
全員ずっこける
幕
時間もない事だし、この本は幼気な中学乙女が読むには耐えられないと言うか、女心を無視して書かれているので、一体こいつらどうなってるんだという思いの方が強くて、省略に省略を重ねてこうなった。
いくら山岡先生が心乱れて手に取ってしまった本とはいえ、これは酷すぎる。
それにこの作者には悪いが、断食を時々行うばっちゃんに一応聞いてみる事にしたら、何か話が違うような
感じがする。
「うーん、そうねその痩せるライスだけど、普通はその食べられる本のように、カロリーは低カロリーでも実際はある程度のカロリーはあるし、必要なビタミンやミネラルは入っているから、それだけ食べてても死なないと思うわ。それから断食には便秘薬が必要不可欠ね(原作には全く書かれていない)それに断食には夏場が適してんのよ、その行者さんが言うように夏場だから今回の断食は大変だ、辛いと言うのは、間違ってるわね・・・・・」
と続くのだが、私が断食するのでないから以下省略。只台本にはちゃんと盛り込んでおいた。
しかし、長所もある。それはこの劇には余り衣装代がかからないこと、何しろ代々木坊一行は汚い旅姿に頭に業者らしく白い長鉢巻をを巻いていれば事が済む。他は農家の夫婦は着飾る必要なし、断食するメンバーは白い着物と帯、白と黄色、赤、それだけだ。
背景の方も同じ。農家の中は衝立一つあれば良しとしよう。小屋はそれらしく入り口を作ってもらわなければならいが、水が染み出て流れる泉は美術部員だったらお手の物だろう。お椀お鍋も頭をひねるようなものではない。これは何より山岡先生好みと言えそうだ。
出来上がったものを山岡先生に提出する。
「あの本、中学生向きではありませんでした。何より乙女心を完全無視してます。幾ら作者が女心を知らない人だとしても、いささか酷過ぎます。この人、女性と言うものを全く知らないのでしょう。よって本の秘密を明かさないで下さいと言う願いも無視しました。と言うか、内容も設定もかすってはいるけれど、と言う程度で済ませましたので、ハイ」
腹が立っていたので一気にまくし立てた。
「そうねえ、そうかもねえ。何しろ表紙が面白くて買ったようなものだと思うわ。まあ御腹立ちの気持ちを抑えて、よく台本にしてくれたわねえ」
「はあ、時間がないと思いまして。人数も部員の数に合わせました。ちょっと言葉が足りないところもありますが、それはその都度直して行くとして、一先ずこれでお願いします」
「じゃあこれ預かるわ」私のノートは山岡先生の手に収まった。
翌日、さっそく配役の発表。これがなかなか決まらない。散々もめた後決まったのは先ずは代々木坊、これは全員の賛同を受けて敦君、これは順当だ。明王丸は出来るだけ体格の良いものをと言うわけで1年の大山君に決まった。狩野は悪人ではあるが代々木坊の次に重要な役だ、私としては本来なら敦君にやってもらいたいと思っていたのだが、彼の体が2つないので南都君に決まり、井谷の方は岸部君に決まる。農家の夫婦の夫は1年の町田君。狩野の手下の岩井は田口君、最後を飾る田中には森山君。これで男子は決まった。
次は女子。茂子には北山さん、これはすんなり決まる。瑠璃子、これが問題だ、原作では絶世の美女のように書かれている、そういう役にあこがれている篠原女史にとっては願ったりかなったりの役だが、出番と言うか、セリフが少ない。美蝶や伸江の方が出番も多く、セリフも多い。千々に乱れる篠原瑠美奈。でも汚い恰好や男に振られる役なんてやっぱりいやと瑠璃子の役を取る事に。そこでわたしだがその汚い恰好の美蝶の役が回って来た。篠原女史を除いて、みんなが私が良いと推薦してくれたのだ。私としては農家の妻役か伸江の方がやりがいがあると思っていたが、みんなの推薦を受ける事にした。よって妻役には村中さん、伸江を林さんが演じる事になった。
残る女3人とナレーターを一年の女子で分ける事になったが、これは色々揉めた末、じゃんけんで決着をつける事になった。
やれやれ無事にここまで来たぞ、あとは稽古をやるだけだ。が、もう1月も20日を過ぎている。急がねば2月なんて直ぐ過ぎ去ってしまう。
しかし、配役に揉めた割には、やってみると結構みんなピッタリのはまり役になっていた。敦君の代々木坊は言うまでもなく、もしかしたら彼は本当に修行僧ではないかと思うほどだったし、南都君も好い男ぶった悪人役を演じている。念願の美女役を演じる篠原女史だが、確かにセリフは少ないが無言の中につんと澄ました感じと、男たちを手玉に取ろうとする悪女ぶりも伺わせて、彼女が我がままだけでない役者としての成長を見せてくれる。
北山さんはその性格通り、おっとりと優しい茂子を演じ、素のままで良いとみんながそう思っただろう。
わたしがやりたいと思っていた伸江も無難に林さんが演じる。もう少し山岡先生のハッパを浴びればもっとうまくなるに違いない。何しろ伸江はこの物語の隠れヒロインなのだから。
一番きっと見るものを湧かせてくれるのはこの凸凹夫婦じゃないだろうか。2年の村中さんが演じる威勢が良いと言うか傍若無人と言うか元気な妻と、いかにも尻にひかれていそうな1年の町田君。二人がとても初めてとは思えない息の合った演技を披露してくれたのには、私がやりたい役の一つだったので、少し焼けてしまった。いや本当に。
もう一人の魚住と対極にある井谷を演ずる岸部君だが魚住のように持てもせず、策士でもなく、役者としては遣りづらいし見せ場もなく、実にそんな役を引き受けてくれたけれど、なかなかどうして、この会の部長とした堂々とした言い回しでお偉いさんぶりを見せてくれた。これには山岡先生も陰でこっそり彼を誉めざるを得ないだろう。
1年の男子、残りの二人、狩野の手下の田口君、内情偵察の男を演じる田口君、まあ出番は少ないが、特に田口君はこの劇の大事な最後を締めくくる役なのだからもう少し頑張って欲しい。勿論山岡女史も不満顔。もっともっと稽古が必要だ。
揉めに揉めた一年女子、揉めた割にはすんなりと役に溶け込み、目立たない役を目立たなく、しかし断食を行っている雰囲気を出して演じているのには感心する。
本当なら、ここいら辺りで武志君の所にでも転がり込んで、この言わせてもらえればヘンテコリンで、女心と言うものを(特に日本の女性の心)解していない作家の本を劇化しなくてはいけない苦労を、聞いて欲しいのだが、そうは行かぬ、武志君の公私合わせての高校受験は確実に近づいているのだ。うーん、これは誰に聞いてもらおうか?そうだ、男がだめなら女がいるさ。美華ちゃんがいるじゃないか。
「あーら真理ちゃん、あなたが私の家に来るなんて久しぶりじゃなくて」
「そうね何か月振りかしら。今さ武志君、受験が控えているじゃない、だから私の愚痴を吐き出す相手が居なくて」
「ふーん、そうね幾ら武志君がお人好しでも、受験には勝てないよね」
「まあ、彼奴の事だから、行けば聞いてくれるだろうけど、そこまで私は見境のない女じゃない。よって、ここは美香殿に白羽の矢を立てたとと言う訳じゃ」
「へー、それで何の用なの?」
「え、何の用かと尋ねられても・・・ただ、愚痴を聞いて欲しいだけなの。さっきからそう言ってるじゃないの」
「ただ黙って聞いてれば良いの?」
「まあ合いの手位は入れてよ、それが聞き手の役目なんだから」
「中々聞き手も難しいのね。まあ仲間内では私が一番暇だし話し易いと見て来たんだろうから、話してみんしゃいその愚痴と言うのを」
「うん、まあわたしさあ、演劇部の台本書いてるじゃない?」
「ここで合いの手だね、ええっと、それがどうした、どうした」
「もっと真面目にやってよ」
「え、これじゃ駄目なの、合いの手でしょ。これ定番よ」
「そうなの、変なの。まあ良いわ。その渡された本と言うのが幸福の輪と言う本でさ」
「良さそうな本じゃないの」
「それが‥まあ筋は別に変じゃないんだけど出て来る人がねえ,何ていうのか皆おかしいのよ。でもさ、年のいった人なら分かるけど、まだ若い乙女がよ、好きでもない中年のおじさんにキスされて、抵抗もしないで平気の平左なの。普通なら、何すんのよ、失礼にもほどがあるって頬の一発二発ぶん殴るとこでしょう。まあ中身の話もそう言った所なの。何となくさ、むしゃくしゃしてさ誰かに聞いてもらいたかったのよ」
「まさかそれをそのまま劇にしたんじゃないでしょうね」
「全然そんなの初めからカットよ。内容も大幅変更。先生はあまり読みもしないで私に渡したんだと言ってたけどどうかしら。表紙の絵が面白かったからですって」
「表紙の絵が面白かったからですって」
「確かに表紙は面白いのよ、空飛ぶ絨毯に乗ってるヨガ行者がこんな風に手を挙げて・・そんなのどうでも良いの、この作者は女の子の気持ちがさっぱりわかっていなくて本を描いたところが問題なの。あなたどう思う?」
「そうね、彼、他にどんな本書いているのかしら?」
「良く知らないわ。ただ男女の事を除けばさ、ま色々あるけど内容としては普通の内容になってるから、そこはちゃんと劇にしたつもり。40年も前の本だから、みんな元の小説がどんなものか知らないで、一生懸命演技の練習してるわ」
「じゃあ、良いじゃないの、又3月に真理ちゃんワールドが見られるのね、楽しみ楽しみ」
「そうかな、それでいいのかな?美香ちゃんは良いと思うのね、元の小説はどうあれ」
「でもこの劇の題は何というの?」
「小説の題が幸福の輪と言うの、だから山岡先生もそのまま、幸福の輪と言ってるわ。でも変えた方が良いのかしら、美香ちゃんはどう思う?」
「え、私。私は真理ちゃんの好きにする方が良いと思う。うん、これ答えになっていないけどさ、私武志君じゃないから」
「そう来たか・・・うーんそうね、やっぱり変えた方が良いと思う.じゃ今日、寝ないで考えよう、これに相応しい題を。じゃ、今日はありがとうね」
美香邸を後にした。1月も下旬になろうとしていて風が物凄く冷たい。
あー、これが武志君のようにお隣だったらどんなに良かったろうに。とちらりと思う。でもそうは言ってはいられない。気を取り直して、もう一度山岡先生が製本にしてくれたシナリオを読み返す。気乗りしてないから、ちょっとおかしい所やちぐはぐな所もある。何時もなら先生が「もう少し内容を整理した方が良いんじゃないの」と突き返す所だろうが、自分が選んだ本の不味さや日にちがないと言う事で、目を瞑っているんだろう。
この問題の幸福の輪は、瑠璃子にとっては聖書と言うよりは正しく命の本だったんだ。だからこそは四六時中肌身離さず握りしめていたんだ。うーん、うーん、ここをアピールして「我が命の幸福の輪」なんて如何なものだろうか。よく知らない人が殆どだろうから、この題から想像して、もっと深刻な話だと早合点する人達が大いに違いない。ま、それがねらい目なんだけどね。
翌日先生に申し出る。
「え、何、我がが命の幸福の輪ですって」
「はい、瑠璃子にとってはこの本は、精神的な意味合いではなく正しく命を繋ぐものであり、他の人から見ればこの会の聖書を何時も手放さない姿は、これぞ次期後継者と思わせるものです。どちらを取っても命、一つは肉体的な物,もう一つは自分の命運をかけるもの。よって我が命の幸福の輪になる訳です」
「分かったわ、あなたが書き上げた台本なんだもの、あなたの納得する題名にしましょう」
部員に題名が矢岡先生から発表され、その訳も話された。
これが発表されて一番喜んだのは瑠璃子を演じる篠原女史だった。
「良かったー、今一セリフが少なくて少しがっかりしてたんだ。でもさ、我が命のの我がは瑠璃子のと言う意味よねえ、それはこの本当の意味の主人公は代々木坊ではなく、まして美蝶でもない、この私目が演ずる瑠璃子と言う事なのよねえ」と大はしゃぎ。
「そうよ、あなたが張り切ってこの劇を引っ張って行ってもらわなくちゃこの劇は駄目になってしまう、頑張ってね!」
と言うわけで今日の稽古はやたら張り切る篠原さんに振り回され気味に終わった。
稽古が終わり、敦君とも別れ、マンション4階の我が家に向かう。
アレ、誰かいる。いや誰でもない、あれは皆でまるで腫れ物に触るようにしている武志君だ。
「よっ!」と彼が声をかける。
「どうしたの、もう直ぐ私立の高校試験が始まるんじゃないの?」
「ああ、直ぐだよ、明日だよ」
「へ、明日。それなのにこんな所で何してんのよ。いや待て、もう十分やってしまった、あんな高校、チョロイ、チョロイ。ここいらで真理のお守でもしてやろうかと殊勝な考えに至ったと言うのかな」
「お前じゃないんだからさ、チョロイと言う訳には行かないけどさ、何と言うか、ここの所、だーれも
俺に声一つかけくれないんだ。顔合わせても精々おはよう、さいならだけだよ。お前だって俺を避けてるみたいだし、嫌になっちゃうよな」
「そ、それは、あんたが受験を控えているからじゃないか。何時ものようにべちゃくちゃ喋っていたら、折角今まで覚えたの忘れてしまうんじゃないかとみんなが心配してるんじゃないか。みんなの親切心なんだから。私も昨日、あんたに聞いてもらいたかったけど、代わりに美香ちゃんの家に押しかけて行ったんだよ.おかげですっごく寒かったなあ,行き帰りがさ」
「それは俺の所為ではない」
「まあいいや、立ち話もなんだから中に入ろう。でもおばさん、あんたが何処に行ったのか心配しないかな。あんたがさ、ノイローゼになって六色沼にでも飛び込んだんじゃないのとかさ、この寒空に春山公園辺りをほっつき歩いてるんじゃないのとかさ」
「まさかな、そんな事考えちゃいないよ。それにお前んとこに行くって、言って来たんだよ」
「なあんだ、そうなの。それでずーとここで待ってわけ。私ね、今度の劇の事で敦君と途中まで話し込んでいたんだ。本来ならもっと長くなりそうだったけど、今日は塾があるんで切り上げて帰って来たんだよ。後から彼が迎えに来るから、急いで支度をしなくちゃ。この寒さの中、待たせると悪いじゃん」
「そうか、塾か、俺も行かなくちゃならないんだ。直前の注意事項何てのがあるんだ」
「そう、まあ上がりな、大したもんはないけど、おにぎりとかカレーとか焼きそばぐらいは用意してあるはずだから、一緒に食べようよ」
「うん、じゃあ、お邪魔しまーす」中へ入る。
「あらお帰り。武志君!大丈夫なの,こんな所で油を売って」
「大丈夫よお母さん、彼、自信満々なのよ。武志君もこれから塾なの、一緒に食べて行くわ」
「そうそれを聞いて安心したわ。焼きそばとお握りを作っておいたから、沢山食べて行って」
お茶も添えられた。久しぶりに武志君と食べる軽食は楽しくもあり、この上もなく美味しく感じられた。
今年の冬はとてもおかしい、物凄く寒い日があると思うと、今度は春を思わせるような日がやって来る。その狭間で生き物は、動物も植物もおたおたしながら生きて行くしかない。
この中途半端な日々の中で劇の稽古は続く。設定は夏と言う事に原作ではなっている.その証拠に頻りに原作では、こんなに体力が無くなるのは夏に行うからだ、と力説しているけど前に聞いた通り、ばっちゃんによると、反対に夏の方が断食は向いているとか。まあ素人考えでも冬の断食は寒くて敵わないと感じる。原作者に逆らう事も出来ないのでそう言った所はカット、カット。でも服装は夏なので、公演の日が暖かい日であって欲しいと願う。
皆それぞれに演ずるのが好きな連中だから、日ごとに上手くなって行くのが分かる。台本を書いた者にはそれが何よりの喜びだ。
だが、皆の不満も出て来る、先ずはナレーターから、余りにもセリフが少なすぎると言うのだ。確かに少ない、背景や状況をナレーターに言わせても少ない。だが、単純な背景と状況なので目いっぱい増やしても大したことはないので、諦めてもらうしかない。次に当然ながら、篠原さんからは内容的には狩野、井谷、明王丸に好かれているみたいだが、実際にはそんな気配は感じられない、と言うものだ。うーん、そこの所は本当は演技でカバーして欲しいのだが、彼らの恥じらいもあって、中々演じきれないでいるのだろう。
「仕方がない、明王丸の大山君には彼女を見る度に「瑠璃子さん素敵だなあ」とか「瑠璃子さんを見てるとドキドキしてしまう」とか言ってもらう事にしましょう。それから伊谷の役の岸部さん、彼は本来は茂子の方を推してるんだから、そんなことは言えない。だから瑠璃子がウインクしたり、流し目を使ったりする度に何かアクションをしてもらいましょうか?どんなものにするかは岸部さんに任せるわ。それから南都君演じる狩野だけど、もともと瑠璃子のお目付け役なんだから、一々態度に表す必要はないと思う。まあ、愛情はそこはかとなくね」
これで篠原女史が納得したかどうかは分からないが、一応引き下がった。
私からも一言。
「あのー、農家の夫婦なんだけど。二人が登場するシーン、あそこは井谷が威張ってみんなに話しているのを無視して入室して観客を笑わせる大事な所なのよ、だから真ん中に立っている伊谷を押しのけ、彼よりも数倍大きな声で、遠慮会釈なしで奥さん役の村中さんは喋って欲しいの。モチ、夫役の町田君は尻に敷かれた亭主の感じでお願いしたいわ」
「じゃあ、岸部さんがしゃべり終わるのを待たないで良いのかしら」
「モチよ、その方がずっと面白いと思うわ」
他の部員も賛成の意向。
北山さんからも意見が出る。
「あのう、みんなで出て行くシーンですね、私も当然出て行くんですが、その時原さんや上町さんも一緒です。車椅子推してもらった方が自然だと感じるんですが・・・」
「私もその方が自然だと思うわ、だって二人とも茂子を尊敬してるし慕っているんですもの」
これも皆、当たり前と受け止められる。
大体が皆セリフが少ないと言うのが大半だったが、私語禁止のを言い渡された芝居だもの、仕方ないじゃないの。
今日は久しぶりに沢口君に会った。増々背が伸びたようだ。その内我が父上を越してしまうに違いない。まあ我が父にとっては、むやみに背が高いのは何の益ももたらさないが、バスケットをする身には大いなる利益をもたらすに違いない。
「やあ、元気そうだね。新しい劇やるんだろう?楽しみだな、きっと見に来るよ」
「ありがとう。これが中々決まらなくて大変だったの、原作は軽ーいものなんだけど、そこに登場するのが中学生には、ちょっと理解に苦しむ人がやや多くて嫌になっちゃった」
「ハハ、島田さんでも苦労することあるんだ。所で武志、どうしてる?」
「ええ、元気なんだけど、みんなが彼を腫れ物みたいに扱うからちょっぴり寂しいと言ってるわ。でも今が一番大事な時だから、我慢我慢」
「そうだね、俺も電話してやりたいけど、今は遠慮しとくよ」
「私立はこの間試験があってパスしたみたいだけど、本命の月見北高はまだだから、それまでは彼も私達も辛抱しなくちゃいけないわね」
「そうだねえ、、もう少しだよ。その間に俺にできる事あったら、何でも言ってよ、武志に相談するみたいに気軽にさ」
「うんありがとう、困ったことあったら助けてね、頼りにしてるわ」
「塾の帰りは大丈夫?今まで武志と一緒だったんだろう?」
「ええ、でも今は敦君と一緒に行ってるの、だからそれは心配ないんだ」
「成程ねえ、敦君がいたんだ。今こそ俺の番だと密かに手を上げようかと思っていたんだけど、計画倒れだなあ、残念」
「高校、もうバスケの練習、行ってるんでしょう?大変よねえ」
「まあ、それが目的で向こうも取ったし、こちらも入ったんだからさ、それはちっとも苦にはならないよ、むしろ楽しいかな」
「そうか、楽しいのよね、バスケ、大好きなんだから」
「うん、早くレギュラーになって島田さんに応援に来てもらわなくちゃいけないからね、頑張るよ」
「バスケの強い人ばかりが集まってるのか。遣り甲斐はありそうだけど、そこで光るのは並大抵の努力では駄目でしょうね。それこそ私でも出来る事があったら言ってちょうだい、私だけでなく仲間もみんな応援するから」
「うん、そう言ってくれるだけでも嬉しいし、元気出るなあ。今日学校に来て良かったよ」
もっと話していたかったが、何時ものように周りの目線攻撃が凄かったので、ここで別れた。
そんな夕方、この頃ではすっかり馴染みになった感のある敦君と共に塾へ行く。塾に着くと塾長の根津先生に捕まった。
「あっ、島田さん、少し話があるんだ。まだ授業には時間があるし」
やーな予感。
「君さ、今度3年だろう?」
「はい、わたし、もう強化クラスに入ってますよ、言われた通り」
「それは分かっているけどね、君さ、あのクロバー学園に行きたくないかな」
ガーン、クロバー学園と言えば女子高の中では一番の受験校だ。
「嫌です。もう行く所決めてますから」
「へっ、決めてるって?それ何処」
「今は内緒です。でもある人を助けるためにそこの高校に行かなくちゃならないんです。それは動かしがたい約束です」
「あのね、高校は中学とは違って、と言うか中学も大事だけど、もっと人生を決める大学に直結するところなんだよ。人助けの為に高校を選ぶなんて聞いたことがない」
「でも大丈夫です。おんなじ高校です、私頑張って希望する大学に入ります」
「ふうん、希望する大学にね。理系に行きたいんだろう?」
「ええ、そうです。目的がありますから」
「お祖母さんのやれなかった事をやるんだとか聞いたよ」
「バ、いえ、祖母がやりたいと思っている事をやるんです。でも高校は関係ありません」
「うん、君は頑固だねえ。ま、人助けと君が言った言葉だがねえ、俺達否私達も助けてほしいのだよ、ここの塾の為に、クローバー学園に行って欲しいのだよ」
「少し考えさせて下さい。この次までに答えを出して来ます」
「そう願うよ、その約束した人だってクローバー学園を持ち出せば、きっと諦めるに違いないよ」
教室に入る。村橋さんと目が合う。彼女もクローバー学園を進められた口なのか?
「何を塾長と話していたの?」
「うん、まあ、今後の事よ。あなたは話さなかったの」
「3月になれば、色々煩いでしょうが、今はわたし、何も言われてないわよ」
「そう、先生達、あなたの事忘れているんじゃないかしら」
「何を忘れているのよ、はっきり言って」
「クローバー学園て知ってる?」
「知ってるもなんも、あのクローバー学園でしょう?」
「多分ね。他にもあるのかしら」
「そのクローバー学園がどうしたのよ」
「ねえ、あなたそのクローバー学園に行ってみたいと思わない?」
「そうね、行ってみたいとは思うわよ」
「ほうら、彼らは私でなくあなたに尋ねるべきだったのよ、クローバー学園に行ってみたいと思わないかとね」
「ちょっと待って、先生が、あの塾長があなたに言ったのね、クローバー学園に行きたくないかって」
「ええそうなのよ」
「それでどう返事をしたの」
「わたしどうしてもある高校に入らなくちゃいけないの、だから嫌ですって返事をしたわよ。そしたら人助けだったら、自分たちの為にクローバー学園に入るべきだと言われたわ」
「それで何と答えたの?」
「そう言われれば、塾の先生達にも恩義があるし・・もう一度考えてみます、としか言えなかった。だって約束は一人だけど、その後ろには、いや前にもかな、兎に角大勢の力なき人たちが関係して来るんだもん」
「モテるものは辛いか。ここの評判を高めるためには、何が何でも有名校に沢山入ってもらわねばならないのよねえ、で、先ずは入学確実なあなたの意向を聞いてみた、と言う訳ね。先生、ビックリしたろうな、あなたが入りたくないって言って」
授業が始まって、話はそのままストップ。
「塾って入らせる学校が大事なのね、その子の成績を上げたり、解らない所を解らせたりすることより」
翌日、母に聞いてみた。
「そうね、それはそうだけど、その結果良い学校に入りましたと言う証拠を世間に発表しなくては、塾生を集めることが出来ないじゃない。塾も人助けでなく、商売なんだから」
「ふーん、そうか。じゃあ、良い学校にパスしさえすれば、嫌なら入らなくても言い訳だ」
「まあそう言う事になるわね」
「お母さん、私が人助けの為、色んな高校を受験しても怒らない?」
「人助けのため?」
「一つは山岡先生の為に演劇に力を入れている学校を受験するの。本来は推薦だから受験しなくて良いんだけど、演劇をずっとする訳じゃないから、普通の受験生として入りたいと思う。次に塾の先生たちの為に大学受験で有名な高校を受験する、これって駄目?お金かかるわよね」
「まあ二つ位なら普通だと思うから、別に良いんじゃない」
「ああ、良かった、お母さん怒るかと思った。この間、ここのマンションのローンが大変だとかなんとか、電話で話してたでしょう、少し心配で・・」
「あれは友達があれこれ羨ましがるから、そうとでも言わなきゃ収まらないでしょう。別にあなたの受験料に困る程ではないのよ。お父さんの給料だってあるし、お母さんの画もぼちぼち売れてるから」
「そうだよね、この頃お母さんの画、評判良いよね。安心した」
次の塾の日、塾に着くと,早速塾長先生がやって来た。
「やあ、島田さん、この間の話、考え直してくれた」
「はい、考え直したんじゃなくて、水平思考で考えてみました」
「水平思考で・・一体どんな風な解決方法があるのかね」
「ある塾では高校でも大学でも、そこの成績優秀な子に、トップと思われる学校を幾つも受けさせるとか。まあその子たちが何処に行くかはその子が決める、でしょう。でも表向きには有名校に、その塾から何人も入ったように見えます」
「まあ大抵の所がそうやってるね。ああ君も多数の高校を受験してくれるのかな」
「それは駄目です。お母さんが二つ位なら受験しても良いと承諾してくれたんですから」
「沢山有名校を受験してくれるんだったら、ここの費用はゼロ円と言う事で良いよ」
「はあ、で、どの位受ければ良いんですか」
「公立が一校だろう、それに私立があと2校、合計4校だな。他に君が行かなくちゃいけない高校もあるか」
「分かりました、受験日が重ならない限り、受験受験に日々過ごします」
「うん君なら大丈夫、全部合格だ。ただ交通費は嵩むだろうけどね」
塾長は満足そうに笑いながら言い添えた。
「問題は解決した?」と村橋さんが尋ねた。
「うんまあ解決したのかなあ、沢山受験することになったけど。あなたもきっと沢山受験しなくちゃならなくてよ、来年の今頃。そうだ、物部君も馬場君もだわね」
「何が俺達もなんだ」
「来年の受験よ」
「ああ、私立の王子高を受けろと言われたよ」と物部君。
「俺、何にも云われてないよ」とは馬場君。
「2月か3月になったら言われるかもよ。でも物部君は1校だけ、島田さんは沢山だって」
「男はほとんど中学の時決めたのが多かったんで、有名校は公立か王子高だけなんだ」
「と言う事は月見高と王子高を受験するのね」
月見高は男子校で公立とは言いながら毎年東大合格者を輩出し、昔は東大合格者数では全国のトップを争っていたとか。
「まあ、自信はあるけどね」物部君は胸を張った。
直ぐに先生が入ってきて勉強が始まった。
本当に今年の冬程皮肉れた冬はない、高低差が激しいのだ。でも今までここいらでは聞いたこともないマイナス13度がやって来ると言うではないか。我が家の小さなベランダのプランターや鉢たちもググっと出来るだけ住まいの方に寄せられ、上から寒さ除けの被いがかぶせられた。
でもそれ程の寒さは遣って来ず、ただ猛烈な風が吹きまくった。
ばっちゃんはこの寒さ予報と強風に踊らされた人間の一人だった。まずこの経験のない寒さから(何しろ温暖な長崎育ちだから)大事な植物たちを守るため、殆どを軒先の下に移動。それから梱包用のビニルで覆いつくした。ふと気が付くと去年お隣のそれは素敵なアジサイが酔客に折られたのを頂いて差し芽にして、何とか育ってくれたものが残っていた。ばっちゃんはそれをここなら大丈夫だと考え、大きなピラカンサスの下に置いたのだった。
翌日、大寒波は来なかった。だけど風だけは物凄い。ばっちゃんは風が苦手と言うより、嫌い、怖いのだ。
風が収まった後、はっとしてアジサイの鉢を探した。どこにもない。来る日も来る日も探したそうだが見つからなかった。雨でも降ってくれたら、アジサイの事だからその吹き飛ばされた所で根付いて呉れるかも知れないと、雨が降ることを天に願ったそうだ。でも無慈悲な天はその小さな願いを聞いてはくれず、かえって冷たい風を毎日プレゼントしてくれた。
「もうこのビニールは要らないわね」と気を取り直し、大寒波予報の後始末をした。何かビニールの橋に引っかかっているものがある。わずかに緑の葉の面影を残し、すっかりしょぼくれた我がアジサイ。
もう駄目だろうとは思ったが鉢を探して植え、水をたっぷり与えたが,未だアジサイ、応答なし、とか。
これは、何とも言えず悲しくもあり、少し滑稽な話だ。ばっちゃんにとっては大悲劇だけどね。
演劇の方はあの話し合いの後、ずっと良くなた。山岡先生もご満悦だし、シナリオを描いた私としても大分理想に近くなっている。
岸部君は堂々としながらも、茂子と瑠璃子に心が揺れ動くのを旨い具合に醸してると同時に、瑠璃子のウィンクによろけたり、ずっこけて見せるなど笑いも十分とる作戦だ。農家の夫婦何かは前とは比べ物にならない位で、村中さんの大声に反対に小さくなる町田君の取り合わせは絶妙と言って良いほどだ。もしかしたらこのまま、夫婦漫才にでもなりそうな雰囲気だ。
北山さんの申し出があってからというもの、1年の女子、原さん、上町さんとの流れが良くなり、二人が茂子に仕えていることが良く分かるし、茂子が二人を気遣っているのも判る。それに合わせて瑠璃子側の6番目の女役の小川さんや田口君も瑠璃子にへつらうように演じて、彼等が何も言わなくても、十分その役がどう云う者かが伝わって来る。これならセリフが少ないと言う文句も出まい。
背景は今度も美術部が引き受けてくれた。重要な「幸福の輪」の発見場所である古い小屋が問題だったが
そこは美術部と云うか、顧問の先生の考えで無事、思った通りに仕上がった。つまり、入り口と浅井奥行きのある小屋。湧水が流れている絵はこれは難なく仕上げられ、あとは殆ど美術部の出番は今回はないと思われる。
衣服部は男物の白い着物が不足していたのと女性用のモンペを1つ作ってもらった。もし協力してもらわなかったら、自分たちで何とかしなくてはいけなかったので、衣服部様様だ。
こうしている間に、どうやら武志君たちの公立の高校の入試が始まり終わった。
その日、やはり敦君と劇についてあれやこれや論議しながら帰って行った。つまり、篠原さんの演技がオーバー気味で、どうしても他の人たちの演技もついついオーバーになるのは仕方ないとして、これでは茂子、北山さんの存在が薄れてしまう懸念が生じてしまうのを何とかしなければと云うものだったが、中々いい案は思い浮かばなかった。
「うーんそうね、まさか茂子の方も狩野に色目を使ったり、ウインクさせたりするのは、おかしいけど余りにも節操がないと思われるわねえ」
「そ、それは、ちょっと茂子には似合わないかなあ」
「優しさが茂子の武器なんだから、それを使って何かできないかしら」
「そうだな、誰かがケガしたとか・・」
「グッアイデアね、おつきの畠山か笹川が指にとげが刺さって痛がってるのを、いたわりの言葉と共に棘を抜いてやるとか、何とか挿入したらいいんじゃない」
そうこうしてる間に分かれ道に来た。
「明日、山岡先生に相談してみるわ」
「うん、じゃあ、又ね」
敦君と分かれマンションに向かう。エレベーターが開く。我が家のドアの前にいたいた、武志君だ。
「おっ」と彼が手を挙げる。
「終わったのね」
「うん、まあね。後は合格発表を待つだけ」
「そうね、待つだけね。中に入ろう」
家の中に入った。「ただいまあ」の声で母が顔を覗かせた。
「あ、今日は武志君も一緒なんだ。そうか、今日で高校の試験終わったのかあ。まあ少しゆっくりしたら」
「はい、明日からちょっと体を動かさなくちゃ、もうしばらく運動していないから,もう体がこわばってこわばって石みたいになってるみたいです」
「そうでしょうね、もともとスポーツマンだったんだからそう感じるのは当り前よ。こんな真理なんかと話し込まないで、本当は六色沼なんかをランニングする方が良いんじゃない?」
「ハハ、実はさっきまで少ーしだけ走って来たんです。でも、まだまだすっきりしないなあと思って、あ、真理と話してないからかなと考えて、真理の帰って来るのを待っていたんです」
「ふーんそうなの。まあ、友達と話すのも久しぶりなのね」
手洗いとうがいをして、二人に合流。
「何々、ランニングしても心が晴れず、真理の所にやって来たとか聞いたぞ」
「心が晴れぬとは言ってないぞ、ただすっきりしないと言ったんだ」
「あのさ、私、来年の受験さ、色々あっちこっち義理立てしなくてはならくて、4つか5つ、受けなくちゃならないんだあ、たった2校で体がなまったなんて言ってたら、始まらないよ」
「ギョッ、お前どうしてそうなったんだ」
「まずさ、演劇部員を全部引き受けてもらうため、山岡先生が演劇で有名な高校に私を人身御供に致しますと約束したらしいの。約束はしたものの、私が高校に行ったらもう演劇は遣らない、科学者になるために勉強すると言ってるんで、物凄く悩んで、3学期に遣る劇も決まらない状態だったの」
「でもそれはお前の所為じゃないだろ」
「そりゃそうだけど、来年の事もあることだし、仕方なしにその高校に推薦でなく、普通の受験生として入って、一応その演劇部に入ると約束したの。普通の受験生としては入ればいつ辞めても言い訳だし、必死で勉強すれば行きたい大学にも入れるじゃない」
「ま、それはそうだけど・・で、どうして4つか5つなんだ?」
「それがさあ、あるうひ、塾うに行ったら 塾長があ言う事にゃあ クロバー学園に君行きたくないか と聞くじゃない」
「それで」
「そうよ、相槌っていうのはそういう風に打って欲しいんだよなあ。美香の相の手、あれはてんで駄目だ」
「今、美香は関係ないだろう」
「そうね、そこで私は嫌ですと答えた」
「へーそれで引くような塾長じゃないだろう」
「当たりー。ある人を助けるんで、名もなき高校を受けるん
なら、私達、塾の先生を全員を助けるために、クロバー学園を受けて欲しいとね。そこで面倒臭くなって、塾が受験して欲しい高校、受験日が重ならない限り受ける約束してしまったんだ。ただ2月から、塾の費用は要らないんだって」
「あったりまえだろう、そんなの。お前、塾の宣伝に使われてんだよ、少し貰っても良いくらいだ」
「お母さんがお金に困っているんならね」
そこに母が紅茶とサンドイッチを持って来た。
「そうね、まあ今のとこ、真理にすがらねばならない程、困っていないかもね」
「そこは塾長、ちゃんと調べてあるわよ。ま私が言いたいのは、受験2つくらいでおたおたすんなあ、って事よ」
「べ、別に俺はおたおたしてないよ。明日から元気はつらつの武志に戻るぜ、うん」
「みんなにも言っとくよ、武志君はもう昔の武志君に戻りましたとね」
「あ、おばさん、このサンドイッチ、すっごく旨い、まるで買って来たみたいだ。大変でしたでしょ、作るの?卵はフワフワだし、トマトもキュウリもちょうどいい塩梅。少しレタスがしなってるかな、でもこのハムでそれをカバーしてるかなー」
「ヘヘヘ、実はこれ、さっき来たおばさんの友達がお昼ごはんの代りに、沢山持って来てくれたの。我が家のランチ用には、と言っても私だけの昼ご飯だけど、焼きそば作ったから、サンド余ったのね。だから気にしないでドンドン食べて」
「うん、さっきのランニングでお腹空いてて助かったなあ。紅茶も旨いし」
「紅茶はちゃんと私めが入れましたのよ、ホホホ」
「はいはい、お母さんありがとう」
こうして武志君の高校受験は終わったのだった。外はもう真っ暗になっていた。
翌日、放課後早速山岡先生の元へ向かう。昨日の敦君との話し合いの結果の報告だ。
「まあ、一応後半に茂子の優しさが少し出てきますが、瑠璃子のアピールが強すぎますので、茂子の方ももう少しイメージを強くした方が良いという風に、昨日、帰りに谷口君と話し合った結果一応落ち着きました。そこで前半に、代々木坊たちが部屋に入る直前に、棘が刺さっていたがる畠山を『わたし、刺抜きがとても上手なの,痛くない様に抜いてあげる』棘を抜いた後『ほうら、痛くなかったでしょう。何時でも言って頂戴、棘が刺さったら』この2つのセリフを入れて見たらどうでしょう」
「そうね、わたしも茂子の影が薄いなと思っていたの。早速、これ入れましょう、北山さんと上町さん、きっと喜ぶわ。彼女らも渇望してたはずだから」
確かに二人は喜んだ。篠原さんの怪演に圧倒され、すっかり影が薄くなっている茂子側、ここぞとばかり少し大げさかな?と思えるくらいに演じるようだ。
嬉しい事に武志君は念願の公立校にパスすることが出来た。ここは皆でパッとお祝いをしたい所だが、我々にはもう直ぐ恒例の期末試験なるものがぼちぼち、そのイヤらしい姿を見せようとしている時期だ。ここはグッグと辛抱してもらって、一人、いやもとい、ご卒業なされる3年の皆様にセルフお祝いをお任せして2年生組はご辞退させてもらいましょうか。。
健太から電話がかかる。
「なんだ、真理は参加しないのか?他のみんなはそりゃ試験が怖いから分かるけど、真理は1日や2日、勉強しなくても平気なんじゃないのか」と健太さまはおこるけど、私だって人の子だい、試験と聞いて遊んではいられない。まして物部君が虎視眈々と1位の座の奪還を狙って日々勉学に励んでいると言うのに、どうして遊んでいられようか。
「駄目なものは駄目なの。私は我ら女子のテスト総合点1位の座を守らなくてはいけないんだ。もう一人の女子が頑張ってくれれば良いのだけど、彼女、も少し、両親にお尻をひっぱたいてもらわないと動かざること山のごとしなんだから、ここは私が一人でも頑張るしかないんだ。それともお主、物部氏の手の者か?」
「なんだよ、その物部氏って?」
「私の男のライバル、私の前のテストの総合1位だった人よ」
「へー、物部氏って好い名前だな」
「はい、じゃあ分かったかな、時は金なり、さようなら」
ウムを言わせず、ガチャリと電話を切る。
そう言う事で、又夜の勉強の時間がやって来た。母がばっちゃんから送ってもらったとか言う生姜湯をお湯に溶いてくれるのが、寒い冬の夜にはとてもありがたい。その他にも秘密兵器も送られてきている。これを飲んで、偏差値が上がったとか、思いもしなかった大学に入れたと言う受験生の子供を持つお母さんたちの声があふれる優れモノだ。これも時々飲ませてもらった。うん、成程、少々甘過ぎるキライはあるが、なんか頭の中の靄が取れて行くみたいで、すっきりはっきりする。体にも良いらしく、やる気と元気が出る。夜はぐっすり眠れるし、これは絶対良い、毎晩飲ませて欲しいものだと母に告げた。と言う訳で毎晩この甘すぎる秘密兵器がわたしの手元に運ばれることに相成った。
へへへ、こんな秘密兵器を携えた真理様にはあの物部氏もギブアップだねえ。
勿論部活の方もまだ試験休みには間があるので、稽古が続く。成果は日々現れ、結構笑いが取れるシーンが多くなる。
私も負けていられないので、明王丸の瑠璃子のでれっとする場面には肘うちを大げさにやり、瑠璃子の読んでた本と聞き、彼が「瑠璃子さーん」と本に覆いかぶさる所でも、ここも肘鉄を打つことにする。相手の大山君にも大げさに痛がってもらうように頼む。他の所もオーバーアクションで行くことにした方がこの劇には向いているようだから、思いっきり、何もかもオーバーに演じてみた。
成程、これは楽しいし、今までにない味の劇になりつつあるようだ。
「ううーん、これはこれで傑作だわね」とは山岡先生の意見だ。
では敦君は?彼はこのドタバタの中、如何にも修行僧らしく真面目腐ってやってもらう事に決めていた。
一人ぐらいは真面目でこちこちの人間が居なくては、劇全体が引き締まらないし、真面目さがあっての笑いであり、笑いも引き立つ。
ここで問題がある。例の幸福の輪である。いや、それを作っている紙、水に溶け、見た目は厚ぼったい紙、そのままでも食べられると云う、代物。これは中々手に入らない。みんなの意見を聞く。
「ウェハースはどう、あれなら水にも溶けるし、そのまま食べられるわ」
「まあ、普通はそんなものよね。ただそのままではウエハースって判ってしまうわ」
「それに普通に売ってるものは小さすぎない」
「生春巻きの皮だったっら半分に切れば丁度良い大きさになるんじゃない」
「え、生春巻きってなあに」
「確かタイ料理なんかに出てくる半透明の春巻きだと思うよ」
「どこかで食べたことあるような」
「私のお母さん、料理好きだから時々作ってくれるわ。わたし大好き」
「でも、あれ水に溶けるかしら」
「そうね、溶けたら最高だけど・・」
そこで私はこの作者がマジシャンであることを思い出した。
「ねえ谷口君、あなた手品できる?」
「えっ、ぼ、僕が、手品が出来るかって?」
みんなの目が彼に集まる。
「下手で良いの、春巻きの皮を水に溶かす振りをして、小さく丸めて手の中に隠して、さもコップの中に溶かしたように見せるのよ。大体水は舞台では使わないから、コップは空の訳だし、本来溶かすことは不可能なのよ」
「うん分かった、僕やってみるよ。上手く行ったらご喝采、かな」
敦君の珍しい冗談に皆が笑った。
「じゃあ、ご飯も味噌汁も実際にはないわけね」村中さんが尋ねる。
「でも舞台では、さも入ってるように重そう持ってくるように演じて、ご飯も味噌汁もちゃんと普通によそおってね。まあ、小梅ぐらいは本物で良いかしら。それに最後に配る紙切れも生春巻きを切って配った方がいいと思う」
これで最後の難問も解決した。もし味噌汁やお粥の本物を登場させるとしたら、料理クラブにまで頭を下げなければいけなく所だ。
服装は足には3人とも体操着のスラックスの上にゲートルを巻き、上はグレーのテイーシャツかセーター、はたまたシャツに決めていた。本当は白にしたい所だが、修行して回っているのだから、白い物も汚れて草臥れていてグレーになったと言う設定だ。よって出来るだけ古くて草臥れている物を探して、身につけねばならない。これは新品の者を探すよりも(何なら買えばいいのだから)とても大変だ。家中引っ掻き回しても中々見つからない。そこで母が画家仲間に声をかけ、着古したペインティング時に着る服を何枚か集めて来てくれたので、やっとめでたくも大、中、小、3人分確保できた。いやはや、古くてどちらかと言うと汚いものを用意するのって、思う以上に難しいものなんだな。
それから、初めの予定通り、頭には晒しを半分に切ったものを巻いて、修験の者らしく見せる。
農家の夫婦は妻は如何にも農家の主婦らしく日よけ帽をかぶり、もんぺ姿にエプロンという出で立ち。夫は頭に麦わら帽子、白っぽいシャツ、カーキ色のズボンに長靴。まあこれでご勘弁を願おう。
その他は白い着物だが、女性のは前にやった劇の時使ったもので十分だったが、男物はなかったので今回の為に衣服部に作ってもらった。もんぺも頼んであったので、本当に有難くもあり、やっと間に合ってヤレヤレと言うところか。
服装が出来た所で一先ずやってみよう、と言う事になった。
服装と云うものは不思議なもので、それを身に着けただけでその人物になった気分になるものらしい。
付ける前と付けた後では気分だけではなく、みんなの演劇が一層充実したものとなった。
これで美術部の背景などが加われば言う事なし。勿論今回も、校長先生公認(仕方なく)の元、講堂へ最低限邪魔にならない様に設えられた。
うむ、これで心置きなく期末試験の準備に取り掛かれるぞ、と思う間もなく。試験は始まってしまった。
それにしても今年の冬は可笑しいぞ、4,5月のような日があると思えば、又直ぐ激寒の日々に叩き込まれる。そんな最中の期末試験だ。
「又真理ちゃん、1番だね、絶対だよ」と帰り道敦君が声をかける。
「さあ、分からないわ。今度の物部君の猛勉強ぶりは目を見張るものがあったわ。それもこの間の2番になった時からですもの。うーん、いくら秘密兵器の差し入れがあったとしても、あの打ち込み方には中々勝てないかも」
「そう、そんなに凄いの、物部君」
「凄いと思うわ、聞く所によると、お風呂に入る時間もへずってるんだって」
「その位しなくちゃ真理ちゃんには敵わないって事か」
「だからさ、わたしも必死に勉強しなくちゃ彼に悪いでしょう。まあ、お風呂は減らせないけど、それなりに一生懸命にやったわよ。でも、悔しいけれど負けるかも知れない。負けたら良く遣ったねって、拍手して次こそ負けないからって、言うしかないなあ」
「もし勝ったら?」
「うん、そしたら、彼にわたし、秘密兵器使ったからねって言おうかな」
「その秘密兵器って何なの?」
「ああ、それはね、ばっちゃんが受験生や物忘れが多くなった人達にとても良い、と送ってくれた物だけだ
けど、それを飲むとほんとに頭が冴えわたるのが判るの。中国では金を積んだ馬車より、その秘密兵器を積んだ馬車の方が価値があると昔は言われたそうよ。ま、中国の例えは何でも大袈裟だからね。書いてある通りに効くんだったら、ばっちゃんはとっくの昔に仙人に成っていただろうけどさ、ハハハ」
「ふーん、彼が自分も飲みたいって言ったら?」
「勿論、ばっちゃんに連絡して取り寄せてあげるよ、代金はちゃんと頂くけどね」
「あのさ、真理ちゃん。真理ちゃんは勉強できるだろう、それなのに僕たちを演劇の高校に推薦入学させるために、有名大学への進学校に行かずに、僕たちと同じ高校に行くと聞いたよ、ホントなの?」
「そうね、それは少し違うな、そこの高校の試験を受けて入ったら行くのよ。勿論、初めは演劇部に入る約束だけど」
「そう、それで君は良いの?真理ちゃん、化学者になりたいんでしょう」
「だから推薦でなく、普通の高校生として行くのよ。演劇も決して疎かにはしないけど、勉強にはもっと頑張るわ」
「真理ちゃんだったらクローバー学園にだって入れるのに」
「塾の先生みたいなこと言うのね」
「塾の先生に言われたんだ、クローバー学園に行けって」
「そう、、でも嫌だ、ある人を助けるために行かなくちゃならない所があるって言ったの」
「先生、がっかりしたろうね」
「そしたら、その人を助けるんだったら我々も助けるべきだと言って来た」
「それで」
「仕方がないので塾が受験させたい高校を日にちが重ならない限り全部受けると言う事になったの」
「ええっ、一体幾つ?」
「うん、大体5校くらいかな」
「大変だねえ」
分かれ道に来た。「じゃあね」と軽く手を挙げ、我が家に向かう。まだ2月なのに角にあるお屋敷の大きな白木蓮のつぼみが大分膨らんでいるように見えるのは、真理の目の錯覚だろうか?
試験は終わった。
部員たちは劇の事はほっぽりだして、真理が今回も物部君を抑えて1番になるか、それとも彼が巻き返すのかと毎日ソワソワしている。
勿論劇の稽古は講堂の壇上の上になった。
「さあ、あと残す所、僅かよ。気を引き締めて行きましょうね」と山岡先生の檄が飛ぶ。
「ほらほら篠原さん、そこの所、伊谷が最初の訓示を述べる所から、井谷氏を誘惑しようと流し目使ってみて。最初からどんどん攻めるのよ。井谷の方も瑠璃子と目が合うと、デレデレした雰囲気、もう少し出してみて、遠くから見ても判るようにね」
篠原女史もはっとして、前より大げさに流し目を使う。岸部君もそれに応じて訓示を述べながら、フラフラ、デレデレと云う動作を大きく示す。
「はいはい、村中さん、もう少し声のボリュウムを挙げた方が良いわね。思いっきり大きい声で喋ってみて頂戴」
村中さんががなり声をあげて喋る。
「うーん大分良くなったわ。あ、町田君は普通に喋ってね、何しろ蚤の夫婦なんだから」
次々に先生の注意の声が響く。特に今度から部の中心となる2年生には手厳しい。
「ねえ、林さん。伸江はお喋りがとても好きなのよね。だから、私語が禁止されてがっかりする様子や、黙っていても喋りたいと言うのを態度で示さなくちゃだめよ」
先生の指導は一々もっともな事ばかりで、誰もが納得する物ばかりだ。
「山岡先生の監督ぶりは素晴らしいね、特に今回はなるほどと感心するばかりだよ」
帰り道に敦君がそう言った。
「ええ、わたしもそう思うわ。先生が劇にこんなに打ち込んだのは初めてかも知れない。3学期の初め何か何を劇にするのか決めてなっかったし、そんなものどうでも良いと言う感じだったのがウソみたいよ」
「1年の頃は演劇部の悪い噂で部員が集まらなくて、長澤さんと云うスターが居ても、彼女が居なくなったらその後どうなるのかと言う心配があっただろう。それが君と云う存在が出来て、台本は任せられるし、そのお陰で演劇部の人気が上がり、部員が沢山集まってそう言った心配がなくなった。所が肝心の君が勉強が出来過ぎて、他の部に取られる心配が出て来た。その一方で君の評判が学校以外にも知れ渡り、演劇の有名校から声がかかる。でもそれが先生の心の負担になったんだなあ。だって部員は君を除いて演劇校に行きたいと思っているのは明らかだし、高校側は君一人が欲しい。君の成績は今や男子を抜いて飛びぬけて一番になちゃう、そんな子を演劇の高校に行ってくれとは言えないし、教師として行かせたくない。先生、悩んだよなあ、でも松山先輩を除いて全員推薦を受けてしまった、君を来年その高校に入れさせるのを条件に。顔色悪くなるの当り前だよね」
今日は風もなく、日差しも沢山あって天気予報では5月並みの気温だとか。この分では桜もずっと早く咲き出しそうとか。
「もし君の提案がなければ、先生、いや、今回の劇だってどうなっていたんだろうね。一切の悩みが無くなて、今回初めて先生、演劇に向かい合う事が出来たんだよ。本当はもっと先生、君に感謝すべきだよ。そして僕たち部員全員も」
「そんなことないよ、本来は、もし推薦がなければ、みんな自分の好きな高校に自力で受験して入ればいいんだもの。そうすれば、山岡先生も悩む事なかったのよ。今思えば、あの高校の先生たちが見学にやって来たのがいけなかったんだ。敦君もそう思わない」
敦君は暫し晴れ渡った空を眺めていた。
「あの時は嬉しかったよ。あの有名な高校の先生たちが劇を見に来てくれて。でもあれが無かったとしたら
・・・真理ちゃんと二人で高校に見学に行ってたんだ。でもみんなは喜んだよ、本当に、夢みたいだとね。そりゃ、自力で入ろうと思えば入れたかもしれないけどさ、推薦で入れる方が良いに決まっているよ」
「そう、そうなのね。それならば良いけどさ。わたしもそうならば嬉しいわ」
分かれ道に来た。
「ほら、もう桜のつぼみが膨らみ始めているわ、今年は春が早いのかしら」
「年々春の訪れが早くなってるみたいだね」
ここで別れた。
2,3日して試験の成績表が張り出された。早速篠原女史が偵察に乗り出した。事前に彼女には物部君の猛勉強ぶりを言い聞かせておいたが、それがどれほど彼女の耳に届いたのかは全く持って不明だ。
彼女が帰ってきた。私の傍に近づく。
「へへへ、どうだったと思う?」
彼女、私をじらす戦法に出た。
「だから言ったでしょう、今回は無理だったって」
「へー、あなた、あれで無理だなんて良く言えたわね。そりゃ物部君も頑張ってあなたを追い詰めたけど、
殆ど満点のあなたに適う訳がないわ。でもほんとに僅かな差だったわよ」
「そう、僅かな差か。まあ今回は秘密兵器の差と言う事にしよう」
「なあに、秘密兵器って」
「あー、ばっちゃんに送ってもらったお守りよ、お守り。あなたも成績アップ、願うなら、少々高いけど、ばっちゃんに頼んでとりよせるけど?」
「えー、お守り。そんなんで成績上がるの」
「信じる者は救われるって言うでしょう」
「でもお守りでしょう?そんなんで成績上がるのかしら」
「フフフ、これがあれば頭が冴えわたるのは確かよ、他ならぬわたしが言うんだから」
「まあ、そんな時が来たら、他ならぬ島田さんに是非頼もう、かな」
部でもわたしが追いすがる物部氏を僅かな点数差で勝ちったと言う話でもちきりだった。
山岡女史も少し不安げな表情で時々私の様子を伺っていた。帰りがけにその女史から声がかかる。
「ねえ、あなた、本当にだいじょうぶなの?」
「え、何がですか?わたし、何かへまやりました」
「へまねえ、へまでもやってくれたら、少しは安心なんだけど、実際は完ぺきに近い」
「わー、嬉しい。わたしの今日の演技、そんなに良かったですか?」
「分かってるくせに。今度のテスト、皆殆ど満点に近かったわ」
「あ、今度のテスト、すこおし、易しくなかったですか?」
「そんなことないわ、難しいと思った人もいたのよ」
「そうですか、すみません」
「それより、あなた、、塾からクローバー学園受験するように勧められているようね」
「ええ、はい。誰か告げ口する人がいるんですね」
「あなたの行ってる塾、何人も行ってるのよ。あなたの事は直ぐ耳に入るわ」
「そうなんだ。それで?」
「それでって事ないでしょう、あなた本当にクローバー学園受験しないの?」
「あ、それは耳に入っていないんですねえ。わたし、クローバー学園受験します」
「えっ何ですって、受験するんですって」
「はい、その他に有名受験校を2校と公立、それから先生の行ってた高校、合わせて5校ですね」
「5校も受験するの」
「試験日が重ならない限り受験します」
「そ、それで、それでどうするの?」
「どうもこうも、塾の先生たちも助けなくちゃならないし、演劇部の為には見学に来てくれた学校のどちらかに行かなくちゃならない。そういう訳でこういうことになったんですね」
「あなた、私の事は良いのよ、遠慮しなくて。行きたい所に行きなさい、あなたの将来をもしダメにすることになったら、わたし、教師失格だわ。その方がずっとずっと罪深い事だわ」
「ありがとう、先生。まだあと1年あります。全部受けて見て、それからもう1度考えても好いじゃありませんか。それに塾代2月から要らないんですって」
「そうね、それからもう1度考えれば良い事よね、ハハハ」
先生の笑い声には全く持って元気がなかった。
塾へ行った。物部君の顔色が凄く悪い。それどころか何だかやせ衰えてもいるようだ。
「わたしさあ、あなたばかりに負担かけたくないと、今度の試験、必死に頑張ったのよ。3学期は中間無くて期末だけでしょう、クリスマスもそこそこに、正月はなし、モチ節分何てそんなもん知らんとばかりに勉強に明け暮れたわよ。ああ、でもあなたには敵わないし、今度も物部ちゃんにも負けちゃった」
村橋さんが傍にやって来て、隣に腰掛ける。
「わたしもわたしなりに頑張ったわよ、みんなが必死で頑張ってるの知ってたから」
「うん、でも、物部ちゃんのやつれようは異様よねえ」
「ええ、少し心配、体、大丈夫かしら?」
「ねえ、物部君、あなた、どこか体悪くないの」
物部君が振り向いた。
「何処も悪くないよ、心配するな」と私達二人を睨む。
「そう、だったら良いんだけど、何だか凄く痩せたみたい」
「そうよ、そんな物部君初めて見たわ」
「ご飯もそこそこに済ませて頑張ったのに、女なんかに負けてさ、情けなくて落ち込んでいるのさ」
「まあ、女なんかだって。わたし、頭に来たわ、わたしも次こそ頑張ってあなたに勝って見せるわ」
「わあ、村橋さんの本気モード、その意気その意気。ありがとう、物部君。彼女わたしが幾ら発破をかけても、今一盛り上がらなかったのに、あなたの侮辱の言葉で目が覚めたわ」
物部君「ふん」と言うと私達から目をそらして前を向く。先生が教室に入ってきた。
塾が終わった。物部君の言葉には賛同しがたいが、その窶れ方はちと心配だった。
「ねえ、もし、あなたが僅かの差で総合点が負けてしまったのが悔しいと思っているのなら、その心をちょっぴり軽くしてあげれるわ」
物部君、帰り支度をしていた手を止めて、じろりとわたしを睨む。
「何だよう、何が軽くなるって」
「わたしさ、今度の試験、魔法の粉を使ったんだ」
「何言ってんだ、魔法の粉?そんなのあるかよ」
「ヘヘヘ、実はあるんだな。ばっちゃんに送ってもらったんだ。甘くてさ、いや、甘過ぎるんだな、これが。でも飲むとさあ頭が冴えわたるのが良く分かるんだ。認知症の人に本当は飲ませてあげたいんだけど宣伝下手のばっちゃんにはなかなか売れない。そこで次に目を付けたのが受験生。わたしは受験生じゃないけど、学業と部活の演劇に精出してる孫の為、少しでも役に立てばと送ってくれたんだ」
「それで勉強の方、どうだった?」
「だから今回、わたしが僅かの差でトップになったのは、少しはこの魔法の粉の所為かもって話。もしあなたが私に負けた事にショックを受けてるとしたら、それはその魔法の粉の所為よ、全然気にすることなくてよ、それだけ」
物部君、じっと私の顔を見つめる。
「お前、まだそれを飲んでるのか?」
「最初のうちはプレゼントだったけど、今はちゃんと代金払って飲んでるよ」
「そうか、少しは心が軽くなったよ、ありがとな」
3月になって、塾では今年の入試状況をチラシに入れたり、大きな紙に書いて外行く人達に見えるように張り出した。
又、成績優秀な生徒も呼ばれ、お前たちも頑張って有名な受験高校に入れるようにと檄される。特に中2の者には目標とする高校が言い渡されて、その高校を目指して先生もそのノウハウを教えるから、君たちも今まで以上に頑張るようにと言い含められた。
村橋さんも馬場君も他校の生徒達と一緒に呼び出されていた。
「私もクローバー学園か、次の聖白雪高を目指すように言われたわ。勿論公立の月見女子もね」
「本当は月見女子だけでも十分なのにね」
「その代わり、塾代3割引きですって」
「まあ、そんな所よねえ」
私と村橋さんは顔を合わせ、力なく笑った。
その3月になっても気温は一向に定まらなかったが、花たちは騙されやすいのか、3月に入った途端、あの角の白木蓮はその白い花びらをちらりと覗かせ初め「ああ綺麗」と思う間もなく、全開し、茶色になって散ってしまった。桜もそれに負けず劣らず、あっちこっちで開花の情報が聞こえ、マンションの前の六色沼公園の桜も咲きだした。今年はもう規制がないと言うのできっと昔みたいな喧騒が戻って来るに違いない。
公演の日も近付いて来た。今回はコロナの為の規制もない、平常道理にとの公のお達しがあったので、杉並の祖父母が身に来ると言う。イザナギのばっちゃんは「見に行きたいのは山々だけど、そのために店を閉める訳には行かないわ」と辞退した。まあ、写真でも沢山撮って送ってあげよう。前回までは武志君やバスケの部員に、ビデオや写真を頼んでいたが、これからは同級生の女子が引き受けてくれるそうだ。
武志君始め沢口君、健太様も義理堅く見学に訪れるとか。そうそう、今年卒業したクラブの面々もその学校の先生ともどもやって来るとの連絡があった。それともう一人、我等が美声の松山君も顔を出すらしい。
そこでだ、今回はちゃんとした女性役だ、おまけに殆ど出ずっぱり。実にめでたいと言いたい所だが、何しろ修行僧の弟子、聞こえは良いが人目から見たら乞食僧、その女弟子であるから、その恰好たるや推して知るべしだ。他の登場人物が真っ白な着物姿であるから余計その汚れっぷりが目立つのだ。折角足を運んでくれた祖父母はきっと落胆してるに違いなかった。
まあ、他の連中は何時もの事だから気にもしていないだろうが。それに照明と音楽、擬音は何時もの通り旧3年生が受け持ってくれることになっていたので安心だ。
いよいよ幕は上がった。静かなる第一章、ここは笑いもなく、ドタバタもなく過ぎて行く。
問題は皆がそろう第二章から。優しい茂子。それを慕う二人の女性で始まった。喋りだしそうになる伸江、
どちらかと云うとスパイ的な役の森山君はノートを出してメモをとる。
そして瑠璃子だ。大袈裟に井谷にアピールを見せ、それに又大袈裟に答える井谷。二人の息がぴったり合って上出来だ。しかし威厳も忘れない井谷、一歩前に踏み出し、咳払いとともに訓示を述べる。代々木坊が次にひょうひょうと断食についての説明。又井谷が瑠璃子の色香にふらふらしながらも、威厳を保ちつつ、断食に入る心得と合図の談話。そこに割れんばかりの大声で村中さんと小さく体を縮めた夫の町田君の登場。みんなの笑いを取ることに成功。
勿論瑠璃子を眺め、ウインクされデレッとなる明王丸にわたしは大袈裟に肘鉄をくらわす。それに答えて大袈裟に痛がる彼。ここも爆笑を得る事が出来た。
次に小屋のシーン。「汚い小屋ねえ」と呟き、セリフにはないが自分の姿を見回し「似たり寄ったりか」と溜息一つ。ここも笑いが起こる。
さてさて、その次のシーンだ。別に何の変哲もないシーンなんだが、観客からの掛け声に笑いとどよめきが起こった。
見つけた聖書、幸福の輪をここも大袈裟に上げたり、ひっくり返したり、はたまた大きくゆすってみたり。ここ迄は何の問題もなく進んでいく。代々木坊がしゃべり、小屋から失敬してきた本が代々木坊から明王丸に渡る。その本を受け取り、思わずうっとりと「瑠璃子さーん」と一言漏らす明王丸。
その時だった「おいお前、お前の目は節穴か。俺だったら絶対美蝶が良い」と云う声が上がった。又次の声が上がる「俺も美蝶の方が数倍も好きだ、なあ武志」
おまけに拍手迄あちこちから起こる。ううむ、この声は健太と沢口君だ。どうしてくれようぞ。
そこへ又声がかかる「ドンマイ、ドンマイ。次行こう」武志君の声だ。
この声で笑いと拍手に包まれた場内がぴったり元に戻った。ヤレヤレだ。勿論その後に続く明王丸が農家の壁を食べられるか試す場面も笑いをよんだけれど、健太の掛け声には及ばなかった。
ならばと張り切るのは、泉の所の傍で木に隠れて通る人たちの話を盗み聞きする場面だ。勿論稽古の時から大袈裟に驚く様子や感心してうなずいてはいたが、健太なんぞに負けてはいられない、思いっきり隠れていると言いながら、手を広げたり、肩を上げたり、大きく頷いたりしてアピールした。
篠原さんも負けじと客席めがけてウインクしたり流し目をサービスして、ご機嫌取り。
しかし何と言っても農家の夫婦の出番は笑いも巻き上がるが、断食行と云う本当は重い場面を打ち破り、箸休め的な良きアクセントとなっていて、ほっと見ている側に安らぎを与えていると感じた。勿論最後のスパイ的存在の田中がズーズーしい申し出を、いかにも当たり前のように言ってみんなをずっこけさせる一番最後のシーンは、何度も何度も練習を重ねて来たので、みんな思いっきり派手にずっこけたのだった。
劇は笑いの中に終わった。
来期は私達2年が3年になり、このクラブを盛り立てて行かねばならない。わたしは敦君にその部長になってほしかったのだが彼曰く「それはないだろう、台本から細々した事まで今まで真理ちゃんがやって来たんだ。これからも真理ちゃんが中心でやって欲しい、ぜひ真理ちゃんにキャプテンをお願いしたい」それを聞いてた皆も賛同してしまったので、仕方なくキャプテンを引き受けてしまい、まずはこの劇の最後のご挨拶を述べる事となった。
「えー、今日は観劇ありがとうございました。本来はここで終わりとする所ですが、ここにこの春卒業しました旧3年の先輩達が、この劇の裏を支えてくれました。先輩達、それから背景と衣装に尽力を出してくださった美術部と衣装部の皆さん、どうぞ舞台に登場下さいませ」
どやどやと皆が舞台に上がる。
「はい、ありがとうございました。ここで一つお願いがあります。みんなで校歌を歌いたいと思いますが、是非ここは松山先輩にマイクを取って歌ってもらいたいのです」
ここまで言うと一斉に拍手が起こった。
「では僭越ながらお世話になったこの中学校と、僕にもう一度音楽は素晴らしいと言う事を思い出させてくれた演劇部に感謝の思いを込めて校歌を皆さんと一緒に歌わさせてください」
彼も私達も一生懸命歌った。きっと武志君も沢口君もそして健太様も一緒になって歌ったに違いない。
塾は特に、この特別クラスでは今までよりもハードなプログラムになった。内容もぐっと高度なものとなり、それにつれてみんなの目も険しくなって行くようだ。
「あのさ、島田さん」
そんな時、物部君から声がかかった。
「え、何?珍しいのね、あなたから声をかけられるなんて初めてだわ」
「うん、俺も声かけたくなかったけどさ、背に腹は代えられないからな」
「で、何なの」
「この間君が言ってた魔法の薬、あれ欲しいんだ。君だけが飲むなんてずるいよ。それにこの頃授業,難しくなって来たから頭の方が少し疲れ気味なんだ」
「ああ良いわよ、是非飲んでみてよ。で二人ともこの塾ご推奨の大学受験の有名校に受かりましょう」
ばっちゃんきっと大喜びするよ、とは言わなかったけれど、心の中ではばっちゃん、良かったねえとニッコリ笑った。
「と言う事は俺は王子高、お前はクロバー学園と言う事か」
「一緒の高校行けなくて残念ね、寂しい?」冗談交じりに聞いてみる。
「はっ、全然。お前こそちやほやする男が居なくて寂しいだろうが」
「へへへ、私の行く高校、ちやほやするかしないかは分からないけど、男はちゃんといるんだな、ま、受かるかどうかは分からないけど」
「何時からクロバー学園、男も取るようになったんだ?」
「だって、クロバー学園、受験はするけど、私が行かなくちゃならないのは別の高校なんだ」
「何だって、お前が受ける4つの高校の中には女子高しかないはずだぞ、一体お前何処が本命なんだ」
「本命と云うか私に来て欲しい高校が2つあるの。そのどちらかに行かなくちゃ行けないんだ、ある人の名誉と云うか信用にかかわる問題なんだ。ところが塾は塾で、先生を助けるつもりで4つの高校を受けろと言うじゃない。大変よねえ、5つも掛け持ち受験するのって」
「うーん、成程、魔法の薬がいる訳だ」とんだ所で物部君が魔法の薬に納得したようだ。
おかげでこの男のライバルである物部君とのこれまでの距離も大分縮まり、それまで殆ど挨拶も交わすこともなかった第二の男である馬場君とも少し会話をするようになった。
友は男女関係なく多いに越したことはない、と私は思う。それがこれからの宿敵になろうとも。と言うか、この馬場君と言う人物、あの夏休みの自由研究以来、ずっと心のどこかでひっかかり、気になってしようがなっかったんだ。彼こそ本当の意味でライバルに違いない。彼が本来の自分に目覚めた時、どのように飛躍していくのか少し怖いような、又楽しみでもあるような、そんな期待を抱かせる存在である。
短い春休みに入った。さっそく電話が来る。初めにかけてきたのが睦美からだった。
「あーら睦美ちゃん、テニスの練習で忙しいんじゃないの?」
「それがさあ、健太さんがさ(様では無くなっていた)電話かけろって煩いんだもの」
「け、健太さ・ん・が。分かった、この間の劇をもう少しでぶち壊す事になっていたかも知れなかった、あの掛け声の件でしょう。でも、あれで笑いも取れたし、武志君が収束してくれたから、私は気にしてないわよ。むしろ篠原さんが少し傷ついているかも。彼女は彼女なりに目立つように大袈裟にやっていたんだから」
「違う、違う。彼、そんなことで気を遣う人じゃないから、全く」
「へー、ま、それはそうだろうな。彼にしちゃあ珍しく殊勝な心掛けと思って、少しは見直したと思ったんだけど。で、その健太さんが何で電話しろって煩いの」
「この間、男3人だけで高校進学のお祝いをしたでしょう」
「そうだねえ、それがどうしたの?何か変わった事でもあったの、武志君、何にも言ってなかったけど」
「つまらなかったんですって、なーんにもなくって」
「まあそうだろうね。あ、又又分かっちゃった。あの時さ、試験勉強中に健太さんが電話してきてさ、わたしだけでも出席しろと煩かったの。でもわたしも人の子そこは丁重にお断りしました。その所為でその会が
面白くなかった、盛り上がらなかったと文句を言ってるのね」
「ふーん、彼が試験勉強中のあなたにそんな無理難題な事を頼んだの」
「そうよ、私は女性の権威の為、どうしても物部君に負ける訳にはいかないと断固として彼の要望を撥ね付けざるを得なっかったのよ」
「女性の権威の為ねえ・・」
「分かった。じゃあそのように睦美ちゃんから良く言って聞かせて頂戴。では又ね」
「え?違う、違う、全然違う、わたしが電話したのは・・あれえ、何だっけ」
「そんなのわたしに聞かれても・・その他に何か思い当たることは‥もうない。健太のことで思い当たる事はなーんもない」
「あんたが変なことべらべらしゃべるから感じんな事忘れてしまったじゃないの・・あ、思い出した、あのさ、その高校進学を、みんなで祝って欲しいんですって、今度こそみんなで」
「うん、そんな事だろうと思っていたけどさあ、睦美ちゃんが健太さんなんて言い出すから、少しからかって見たのよ、ハハハ」
「もう健太さんを健太さんと呼んで何がおかしいのよ」
「健太様からキャプテン、そして健太さんになったのよね。ふーん、考えればちぃっともおかしくない。睦美ちゃんの言う通りだ」
「まあそんな事より遣ってくれる訳?」
「そりゃあ勿論他ならぬ健太さんや武志君、沢口君の為是非是非やらせて戴きます。篠原さんは沢口君に久しぶりに会えるというので舞い上がるでしょうし、美香ちゃんは武志君におめでとうと言いたいに決まってるし・・千鶴ちゃんが問題よねえ。ま、彼女のスケジュールに合わせましょうか。モチ敦君とわたしとあなたは問題なし。これから電話してみるね」
例年ならまだ花見には早過ぎる時期だが、今年は何もかもがサッサと咲いては散って行ってしまう。桜も先週の土日が見ごろと言ってたが、あいにくの雨。残念がる宴会好きの多くの人たち。
だが、我々学生の身にはそれは関係のない事。その雨の降った次の次の日に集まることが決定した。
丁度千鶴ちゃんも卓球強化練習の合間だったので、お店からの差し入れの総菜を山程持参。他の女子はおにぎりとサンドイッチを作って持ってくることになった。敦君はクーラーボックスに飲み物をドッサリ運び込んで来た。場所取りは御呼ばれの旧3年の男性軍に任せて、六色沼公園の真ん中あたりの一番好い場所に落ち着いた。
先ずは言い出しっぺと言う事もあって健太が挨拶を。
「ヘヘヘ、良い天気だ。あー、あー、本日は晴天なり」睦美がわき腹を突っつく。
「早くー」
「ううん、わ、分かってるよー。きょ、今日は俺達のためによう、何だっけ.ええいめんどくさい、兎も角色々ありがとうな。さあ始めよう、俺さあ、このために朝からあんまり食べないで来たんだ、もうお腹が減ってお腹が減って」皆がどっと笑う。
「山下には悪いがちょっと待て、まずは乾杯からだろう」と沢口君。
クーラーボックスから皆それぞれ好きな物を選ぶ。
「じゃあ、真理から乾杯の掛け声してくれよ」と武志君。
「それじゃ、我らが頼もしきオノコ3人のこれからの高校生活が輝かしく楽しいものであることを願って乾杯ー」
「さあ、もう食べて良いわよ、健太さん」皆がぎょっとして睦美ちゃんを見つめる。
「わたし、何か変なこと言った?」彼女、それに気づいて尋ねる。
「いいや、べ、別に」皆が首を振る。
「さあ食べようぜ、こりゃ旨そうだ」健太だけがそんな事には全く無関心だ。
「あのさーこの間さー」篠原女史が切り出す。やな予感。
「あの劇の途中で声入れたでしょう?あれはもしかしたらあなただったの?」
「ああ、あれは俺と沢口で声を入れたんだ。だってよお、ほかの女は真っ白い着物を着てるのに、真理だけが何処から拾って来たのか分からないような、だぶだぶで汚れまくった服着てさ、あんまり哀れで、声の一つでも掛けなくちゃ可哀想だろう?」話す間にも彼はおにぎりをもぐもぐ口に放り込む。
「そう、そうだったんだ。わたし、あれは私への嫌味かなって思ってさ」
「あの中で知ってるのは篠原さんだけだったし、内容的にも瑠璃子の魂胆、見え見えだったからねえ」
沢口君が言い添える。
「あの時は場内が笑いと拍手で溢れ、少しの間頭の中が真っ白になったけど、武志君のドンマイドンマイ先に行こうの声で場内が静まって良かったわ」私も少し参加。
「でも、敦、お前本当に演技上手くなったなあ。将来が楽しみだよ」
ここも武志君が話を切り替えてくれた。重ね重ねありがたい武志君の存在だ。
「それにあなた方三名の将来も楽しみだし、千鶴ちゃんのこれからの活躍も楽しみ。わたしたちのグループは楽しみに満ちているのね」
先日の雨で大分散ってしまった桜の花だが、まだまだ見ごろ。公園にはその花を見物する人で暇がない。
私たちの御馳走の上にも風吹く度に桜吹雪が舞い落ちる。勿論沼の水面の上にもピンク色の絨毯が広がって行く。
次回に続く
尚、幸福の輪は作者 逢坂妻夫氏の「しあわせの署」迷探偵ヨギガンジーの心霊術を参考に
させていただきました 福富小雪