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青空百景 おひさまのにおい

作者: 朝香

【一】


思えば小さい頃から、彼の名前を馬鹿にしていた私の方に問題があったのだ。



私と彼は片田舎の出身で、近場に他の遊び相手が居ないせいか、いつも二人きりで遊んでいた。

同い年だったが家同士が少し離れていたため、出会ったのは確か3歳を過ぎてからだ。正確な時期は覚えていない。

とにかく、かなり小さい時から私と彼は一緒だった。


遊びの中では常に私が優位で、彼に何でもやらせた。

ままごと、虫取りや穴掘り、川遊び、草花摘み、そのどれもが私の発案から行われ、私の満足または飽きによって終了した。

遊ぶといっても、私が彼に命令して仕事をさせることもままあったので、彼がそのうちどれくらいを純粋な遊びだったと思っていたかは怪しいところだ。

つまるところ当時の私と彼の関係は、友人関係ではなく主従関係だったのだ。


私が彼を支配する口実にしていたのが、彼の名前だった。

彼の名前は風斗。北野風斗。

この名前そのものには何の問題もなかったが、私の名前とその由来が対極に据えられたせいで、彼は迷惑をこうむることになってしまった。


私の名前は深山陽子と言うのだが、物心ついてまもない頃、母に名前の由来を尋ねたことがあった。そのとき母から「おひさまって意味だよ」と説明を受けたために、幼い私は自分を「太陽のような子」だと自惚れている節があった。

しかもそこへ、うまい具合に「北野風斗」が現れた。

北野風斗と深山陽子。容易に『北風と太陽』の童話を連想させる名前ではないだろうか。


そんなものだから、私は自分を太陽に、北風を彼に見立てるままごと遊びを覚えてしまった。そうして遊ぶうち、すっかり北風と太陽の構図を自分たちの間に重ね合わせてしまっていたのだ。


「北風はわるいやつなんだよ!おじさんのこと寒くして、人がいやな気持ちになることしてるもん!」

「僕何もしてないもん……」

「私はお日様だから良い子だよ!私の方がえらいんだよ!」

「うん……」


このようなやり取りは日常的なものだった。

旅人に寒風をぶつけて凍えさせ、無理やり服を剥ぎ取ろうとする悪党・北風。

見かねて暖かな空気を与え、旅人の心まで陽気にさせ穏便に服を脱がせた、優しい太陽。

私が二人の関係を見る前提はここにあった。


言葉とは怖いもので、事実が異なっていても何度も同じ言葉を浴びせられるうちに、洗脳にも似た状態が訪れることがある。

彼もそのタイプだったのだろう、もともと自己主張が控えめで押しに弱い所があった彼は容易に私の言葉に飲み込まれ、命ぜられるままに私の奴隷役を務めていた。


「次はクローバーをいっぱいつんできて!私がそれでお姫さまのかんむりを作るから!」

「もうつかれたよ、ようこちゃん、お家に帰ろうよ」

「ダメ!フウトのよわむし。かんむり作るまで帰らないもーん」

「作るのてつだう、てつだうから、できたら帰ろ?」

「わかんなーい!」


小学校に上がってからも、放課後はいつも二人きりだった。濃い橙に染まる夕日を背にしながら、私たちは毎日陽が暮れるまで遊んでいた。



【二】



幼少期の私は非常に自己主張が強いタイプで、常に目立ちたがるような子供だった。

子供としては、それなりに評価されていたと思う。褒められたくて何事も一生懸命やるし、学級委員なども進んで立候補する。周囲はそんな私を「しっかりもの」だと思ってくれていたようだ。


簡潔に言えば、その評価はありがたいけれど間違っている。

私は女王様扱いされることに快感を覚える性質なのだ。私の命令に従ってくれる人がいること……それが何よりも気持ちよかった。

1番になれば大人がちやほやしてくれるし、学級委員はクラスの王様だ。だから私は頑張っていたし、偉ぶっていた。後述するが、体型の割に運動の成績もよかったのは、山で遊びまわっていたおかげだろう。

子供時代の私にとって、大人は神様のような立ち位置だったので張り合うことがなかったし、片田舎の家ゆえに都会の洗練された競争社会に放り込まれることもなかった。そういう環境では自分がお山の大将だということにも気付かない。

幼稚園での(皆に呼ばせていた)あだ名は「おひめさま」だったし、小学校のクラスでは独裁者のごとく振る舞っていた。そして、それがごく当たり前のようになっていた。


しかし、とうとう私の子供じみた行いが報いを受ける時がやってきた。中学に入学後しばらくしてからのことである。


入学してからの数週間は、私はいつものように積極的に学級委員に立候補し、いつもの調子で顔なじみのクラスメイトに話しかけていた。


「やっほー!和田っちも同じクラスだねー。あんまり遅刻とかしないでよ、私が怒られちゃうしね!」

「うん、深山さんも凄いね、また学級委員やるんだもん、頑張って……」

「えー、まあ、いつもやってるし、自分的にも天職かな? って、思っちゃってるからさ!頑張らないと!」

「そっか」


そのクラスメイトは、他のクラスの友人に会うと言って忙しげに教室を出て行ってしまった。暇になった私は、新しい顔ぶれに声をかけようと周囲をきょろきょろと見回した。


私が通っていた中学校には半分ほどの割合で他の小学校出身の生徒が進学してくる。背が伸びて大人になり、皆で同じ制服を着て、放課後の部活動でワイワイ楽しく過ごす場所。私にとってそこは新たなステージであり、大人への第一歩を踏み出す新天地だった。

“新天地でもみんなのリーダーになるぞ”。そういえば、入学時にそんな野望を抱いていたような気がする。だからこそ、私は知らない匂いのする教室でも物怖じすることなく行動し、慣れない環境に戸惑っている(と思っていた)他のクラスメイトに差をつけようと試みていた。


結論から言ってしまえば、その試みは不成功に終わった。

他人を下に見るような会話ばかりしている私を、他の小学校出身のクラスメイト達がどのような目で見ていたかは言うまでもないことである。

『勘違いブス』――卒業時にアルバムに書かれたこの文字が、最も的確に私を表した言葉だと思っている。


中学を卒業してずいぶん経ってから気付いたことがある。実際の中学校は、私が想像していたような所とは全く違っていたのだ。


中学生は自分たちのことを一人前の大人だと思っているけれど、今思えばこれ以上なく子供らしい存在だと思う。

子供特有の無遠慮さや残酷さを失わず、それでいて、大人に近付こうと必死で背伸びしている、それが中学生という存在だ。

そして、そんな子供たちの持つ様々な価値観、思春期に突入する心の揺れ動き、恋愛、学力や運動能力の差…それらが出会いと衝突を繰り返す中学校は、とにかくいろいろな要素が不規則に混ざり合ってできている場所だった。


その話が私とどう関係しているかというと、中学校には小学校と全く違う文化が出来上がっていて、“よく褒められて目立つ子がリーダーになる”という、今までのやり方が通用しなくなっていたのだ。つまり、私のような人間が中学生たちのリーダーになれるはずがなかった。

では先生という大人から見た生徒としての私はどうかというと、なんともやりづらい生徒に分類されていただろう。目立ちたがるばかりで実力もカリスマも無い、かといって問題児ではないので矯正させる甲斐もない、目障りな生徒だからだ。


中学校に生まれた新しい文化の中には、思春期特有の大きな流れもあった。

中学生は無性に異性への興味が湧く年頃だ。彼らが若干持て余していたそれが、好ましい容姿の異性に対する賞賛だけでなく、醜い者たちへの蔑みやバッシングという形で表面化していたのだ。

女子は、根暗で不細工な男子をゴミ屑か何かの様に扱っていたし、男子は不細工な女子へ積極的に嫌がらせを加えていた。そして私も、その標的になった。


ここではっきりと認めておこう。私は醜い容姿を持って生まれてきた。

小学生までは、そんなことを気にも留めず楽しく自分勝手に振る舞っていたし、それが許されていた。私自身恋愛やお洒落などに全く興味が湧かなかったから、自分の外見について考えるきっかけも生まれないまま、ますます醜い容姿は悪化していった。

体重は中学1年生当時で90kg前後といったところである。身長も171cmあったので、とにかく大柄だった。

外遊びで日に焼けた肌に脂っこい汗が乾いて、体の露出している部分は大体てかてかと光っていた。髪の毛は母親が切るのを面倒くさがっていたので、ちりちりの油っぽい毛を長く伸ばして後ろで一つに束ねていた。もちろん、体型だけでなく顔貌も酷い。

今思い返してもなお、おぞましい姿だったと思う。こんな姿で自分を女王か何かと勘違いしている女が身近にいたとしたら、私でもやはり軽蔑していただろう。今は、その軽蔑に気付くことができただけでも良かったと思っている。


当時の私はただ注目を集めることに必死で、実際に周囲がどう自分を見ているのかなど、全く気にも留めていなかったのだ。だからこそ、“その日”が来るまで、私の振る舞いは治ることがなかったのだ。



“その日”は唐突にやってきた。



その前にまず、私がいたクラスのことを話しておこう。

男女20人ずつの40人クラスで、卒業アルバムで調べたところ、軟式テニス部を中心とする運動部の生徒がやや多い構成になっていた。確かに、スポーツが得意で明るくにぎやかな生徒が多かった。主張が強くアグレッシブな生徒が多かったとも言える。そのおかげで体育祭では好成績を残すことができたらしいが、私は体育祭を休んだので関係無い。

今まで話していなかったが、私が入学した一年C組には風斗もいた。風斗は大人しい生徒が多いと噂の弓道部に入り、噂通り落ち着いた雰囲気の弓道部で3年間を過ごした。

そして“その日”は、彼が入部届を書いていたところに、たまたま私が出くわしたことから始まったのだ。


入学して一か月ほど経っても友達が増えず困惑していた私は、学校ではあまり話さない風斗にも声をかけようと思い立ち、自分の部活も決まらないまま、彼の手元にある入部届を見て話しかけた。


「弓道部入るの?」

「うん。見学に行ってみたら、静かで優しい人が多い気がしたんだ」

「もう見学に行ったの」

「何回か行ったよ。陽子ちゃんは、どこか行った?」


驚いた。

風斗はいつまでも私の後ろをついて回る奴隷だったはずなのに、私の知らない間に新しいコミュニティに入ろうとしていたのだ。

逆恨みもいいところだが、私はそれを裏切りだと感じた。彼が抜け駆けしてたくさん友達を作ろうとしていることに、無性に腹が立った。だから、つい皆の見ている前で、「北風と太陽ごっこ」を再開してしまったのである。


「はぁ? 私がどこ行こうと自由だし。お前には、教えなーい」


にやにやしながら風斗を見下ろすと、風斗は一瞬驚いた表情になり、すぐさま事情を察して緊張したそぶりを見せた。

今まで人前で風斗に絡むときは、軽くからかう程度に留めていた。けれどその時は、不安と困惑で満たされそうな心をいつも通りの行動で慰めようとしたのだろう。一種の防衛本能が働いたのだ。しかし、いかんせん強く発揮されすぎた。私は彼に対して、二人きりの時にするような、いや、それよりずっと酷い奴隷扱いをしてしまったのだ。


「風斗お前、文字汚いよなー!もっと練習しなよね!」

「ごめん。殴り書きだったから少し乱れていて……」

「殴り書きの物を先生に渡すのかよ!ほんっとうに、ほんっとうに、使えないねぇー」


風斗が記入していた入部届を取り上げてひらひらさせると、彼は目立つことを嫌ってか、うつむいて顔を赤らめた。当然、聴衆はあからさまに蔑むような目で私を見ていたのだが、その時点では気付かなかった。

皆の怒りを買う原因は他にもあった。

成長した風斗はなかなかに整った顔立ちの美少年になっていたのだ。すらりとした体格に色白な肌を持つ彼は、クラスの女子から密かな好感を買っていたらしい。そんな彼に対して、私は明らかに『身分違い』な行動をしたことになる。


そして、私は決定的な一言を放った。

「ほらー、お前は北風だから、なんかいつも埃くさいじゃん? 家の掃除ちゃんとしなよね! 私は太陽だから、おひさまの匂いが……」


「ちょっと」


私の罵りはそこで中断された。クラスの支配者層にいる女子が割り込んできたのだ。


「深山さん、さっきから何言ってんの?意味わかんない。つうかさ、お日様の匂いってダニの糞とか死骸の臭いなんだけど、知ってた?」


その言葉でクラスが若干ざわついた。

「えー、汚い!マジ?」「あ、聞いたことある!なんか匂いかげなくなるよねー」「うっわ、じゃあ深山ダニじゃん! ダニのニオイするんだろ?」「汚ねぇな」


ここぞとばかりに、クラス中から罵声が浴びせられる。


「北野君に謝りなよ」「謝罪しろ、シャザイ!!」「つうかお前、いつも偉そうにしててウザいんだよ」「ブスが出しゃばってんじゃねぇよダニ子!」


何が起こったか理解できず辺りを見回しながら呆然とする私に、女子は見下すような視線を向け、男子は「ダニ子」とあだ名を付けて笑った。


そう。まさに自業自得である。さんざん名前で他人を馬鹿にしてきた私が、今度はあだ名を使っていじめられるのだ。


私はその日から卒業までの間、まるで世界が反転してしまったかのように暗く沈んだ日々を送ることとなった。

無視は当たり前で、実習で作ったものを捨てられたり、ノートに下品な落書きをされたりすることもたまにあった。中学生が持つ、子供らしい無邪気な残酷さと、大人の陰湿で表面に出てこないいやらしさ。その二つが最悪の形で表れていたように思う。

誰にも相談せずに過ごす3年間は地獄のように長かった。

教師はどうせ「可愛い」生徒の味方だと思ったし、親には心配をさせたくなかった。何より、私自身が中学生という“大人”の立場に固執していて、自分は小さな大人なんだというプライドが、大人に頼ることを許さなかった。


溢れんばかりの根拠のない自己愛から打ち捨てられて、改めて冷静に自分の周りの環境を見てみれば、自分がいかに恵まれ、甘やかされ、許されていたかが痛いほど伝わってくる。


ある日何気なく、普段は存在すら気にしなかった姿見の前でじっと自分を見つめると、そこにははちきれんばかりの醜い怪物がいた。

パツパツに張った頬は赤黒く上気し、額にいくつかにきびが出来ていた…普段から脂っこいものを食べるのが好きだったせいだろう。口は自然な状態でも卑屈に歪み、右端がやや下に下がっている。ぼってりと肉が垂れた一重まぶたはもともと小さい黒目を半分ほど隠している。


「……気持ち悪い」

いつしかそれが自己評価となった。



【三】



風斗は、私から酷いことを散々されてきたにもかかわらず、孤立する私に唯一声をかけてくれていた存在だった。彼と三年間クラスが一緒でなかったら、私は不登校になっていただろう。

彼は「お日様の匂いはダニの匂い」という言葉についてかなり気にしていたようで、自分が言ったわけでもないのに何度も謝罪をしてきた。


「本当にごめんね。ダニって言うのやめろって、皆に頼んではいるんだけど」

「……いいよ。別に」


中学校に入って半年も経つ頃には私はすっかり“陰キャラ”になっており、口数も激減していた。常に俯いてぼそぼそと喋る私の変貌っぷりに、彼も驚いていたに違いない。だからこそ、謝る必要のない、当然の報いである私への迫害に対しても、彼が矢面に立って謝罪を繰り返しているのだ。


自分でも、侮辱されることに慣れていないからこんなにも打たれ弱いんだと、よく分かっていた。風斗に与えてきた屈辱を全部集めて返されたら、私はきっと怒りで狂い死にしてしまうだろう。彼はそんな凄まじい量の屈辱を受けてもなお、粛々と日常を送っていたのだ。


羨ましい。

私は風斗に感謝しながらも、いまだに嫉妬を捨てきれないでいた。彼の持つ美しい顔と控え目な性格は、女子から『かわいい男子』扱いされるのに最適なパーツだった。彼は女子から愛され、男子からもごく当たり前に好かれる、クラス内でのマスコット的ポジションを得ていったのである。こんな羨ましい人生があるだろうか。

そんな彼とは対照的に、私は日々を悶々と過ごすことになった。

風斗が声をかけてくるたび、一瞬の思考の旅に漕ぎ出す。私があんな風に美形だったら、昔みたいに振る舞っても大丈夫だったかな? 風斗なら、まだ私の言うこと聞いてくれるかな? 

依然として女王様気分の抜けきらない思考は、私を日常的に苛んだ。やりたい放題な女王様だった自分にはもう戻れない。今度は私が奴隷なのだ……



【四】



思い出話は高校進学時からがっくりと減ることになる。私と風斗は違う高校へ進学することになったのだ。彼は駅を二つ分隔てた市街地にある私立の進学校へ、私は自転車で通える距離の県立高校へ進学することになった。


私のいじめはというと、高校では分をわきまえてダニはダニらしく、極力目立たぬように過ごしていたからか、周囲の反応は腫物扱いに留まっていた。

中学生時代よりほんの少し痩せて、パンパンのデブから普通のデブ程度には収まった体に、地味な灰色のセーラー服をあてがう。肩までの長さに切った髪を黒いゴムで束ね、おしゃれのつもりで黒いヘアピンを一つ、前髪にさして家を出る。


通学路を通っていると、たまに彼とすれ違う事があった。地元の駅までは同じルートを通るのだ。彼はそこから電車に乗り、私は駅を通り過ぎていく。ただ、彼は普段徒歩で駅に向かうので、すれ違っても一緒に登校することなんてまず無かった。

しかし、その日は違っていた。


「あ、陽子ちゃん。おはよ」


風斗が声をかけてきた。そもそも、声をかけてくるのはいつも彼からだ。


「おはよう……」


私立高校の制服は、身長が伸びてすらりとした彼に似合うビリジアンのブレザーだった。赤いネクタイや校章もセンス良くまとまっている。いつの間にか髪を染めて垢抜けた彼は、まるでアイドルかモデルのような雰囲気を放っていた。デザイン性の無い、少しサイズの大きな制服を着た私とは、まるで違う世界の人間に見えた。


「俺も今日は自転車。あっ、最近元気?」

「普通」


今日は自転車で寄り道してから駅に行くらしく、途中まで会話しながら登校することになった。


「風斗は、最近、変わったね」

「ああ、髪でしょ?ノリでやったんだけど、母ちゃんに叱られちゃってさぁ」

「せ、性格も明るくなった」

「そう?ああー、でも確かに昔よりノリ良くなったわ」


なんだか、喋り方まで垢抜けていた。昔の風斗という色眼鏡で彼を見ることは、もう難しいのかもしれない。

それきり会話が途切れたまま、駅についてしまった。


「……あの、陽子ちゃん」

「な、何」

「今日さ、無理して一緒に登校したのは、話したいことがあったからで……」


彼突然神妙な顔で話を始めた風斗に、びくついてしまう。

「早く言って」

必死に昔の自分を抑えながら急かした。


「ダニじゃないよ。お日様の匂いはダニの匂いじゃないらしい」

「え?」

「陽子ちゃんの匂いは、お日様の匂いは、いい匂いなんだよ」


まさかの一言だった。拍子抜けして自転車を漕ぐ足がもつれ、慌てて自転車を停止させる。

ぽかんと口をあけたまま風斗を見ると、風斗は嬉しそうな表情を浮かべていた。


「それだけ言いに、自転車で登校してきたの?」

「そうそう、どうしても気になってたから!言えてよかったぁ、これでもう“ダニ子”じゃないでしょ?」

「うん……」

「だから元気出して!昔みたいにさ。……あ、駐輪場埋まっちゃうわ。そろそろ行く。じゃあまた!」

「あ、ありがと……」


声が届いたか届かないか分からないまま、彼は去っていってしまった。


「ありがとう」


だからもう一度声に出して、はっきりと言ってみた。



【五】



あの会話以降、一緒に登校することも、挨拶以外の言葉を交わすこともぱったりとなくなってしまった。

風斗は私の呪縛を解いたことで、一緒に彼自身も解放されたのだろう。「幼馴染にダニがいる」という恥が無くなって心が軽くなったのか、すれ違う彼の顔は以前にも増して爽やかに見えた。

会話が無くなったことについて、私はあまり気にしていなかった。風斗が違う世界の住人であることは、中学の時からじわじわと、そして最後の会話をした時にはっきりと分かっていた。それに、「お日様の匂いはいい匂い」だと言ってくれた風斗にこれ以上望むものは無かった。

風斗が有名大学に進学して上京した後は、いよいよ交流が無くなってしまった。私も風斗が通っていた高校の付近にある介護の専門学校に進学して、日々忙しく過ごしている。


専門学校での日々は、苦労の連続だ。お年寄りに少しでも気持ちよく過ごしてもらうために、“奉仕の精神”で臨まなければならない。奉仕なんてとんでもないと、昔の私なら首をちぎれるほど横に振って嫌がっただろうが、今の私はその理念に沿うべく頑張っている。それは、中学高校を奴隷として過ごした痛い経験がもたらした、ごくわずかな良い変化だった。

勉強も実習もできる限り真面目にやっているが、それは誰かに褒められたいからではなくて、真面目にやらないとお年寄りに気持ち良く過ごしてもらえないからだ。自分第一で考えなくなった所は、風斗がもたらしてくれたたくさんの良い変化の一つだろう。

ちなみに疲れたときは、風斗の心遣いを思い出して奮起するようにしている。無関係な他人相手にするのさえ大変なことを、彼は憎んでもおかしくない相手に実行していたのだ。すこしきつく当たられてへばっているようでは、そんな風斗に顔向けできない。

顔といえば、高校時代から専門学校に進学して今に至るまでに、私は随分やせた。もちろんまだまだ太っているが、普通のデブからぽっちゃりさん程度にはなれたのではなかろうかと、時々姿見を見てはにやにやしている。顔の肉が取れると実は二重だったことも分かり、現在唯一のチャームポイントだ。

髪をこげ茶に染め、化粧も覚えて、化け物から人間に近づいていくのはなかなかに楽しい。母にも褒められた。専門学校に入ってからはわずかながらに友達もできて、少しずつ前向きに変わってきた気がする。

今の私を見ても、風斗は私だと気付かないだろうな。

私から見た風斗だけでなく、風斗から見た私も、もう違う世界の住人だ。


精いっぱい吟味してバイト代で買った服の中から、ホワイトベージュのワンピースを選んで濃紺のカーディガンを合わせる。実習がない日くらいはお洒落をして行きたいのだ。

ふんわりとパーマをかけたロングヘアを束ねて、白いシュシュを飾る。黒いヘアピンひとつでお洒落した気になっていた昔の自分が恥ずかしい。かといって、今の私も胸を張るほどではないけれど。


地元の駅前に自転車を停めて、二つ先の駅まで電車を乗り継ぎ、専門学校へ向かうバスに乗る。私はバスに揺られながら、かつて風斗が通っていただろう中心街の街並みを眺めた。

私たちの家がある片田舎に比べて随分華やかな場所だ。私も専門学校に通うようになって初めて、こんなににぎやかな場所だったのだと知った。ついでに、私のアルバイト先もここにある。


ここには山も川も花畑も無いが、遊ぶ所なら溢れるほどにある。ゲームセンターもカラオケもオシャレなカフェもあるこの中心街を、風斗はどうやって通っていたのだろうか。登校するときはどの店も開店前だ。きっと下校するときに友達と寄り道していくのだろう。もしかしたら、彼女とデートしていたかもしれない。


そのまま、風斗がいる遠い遠い東京にも思いを馳せる。いったい、どんなところだろう。東京へは修学旅行で行ったことがあるが、遊びに行くのと住むのとでは全く感想が異なるだろう。

どんなふうに過ごして、どんな勉強をして。どんなふうに、生きているのか。

こんなことを時々思うけれど、会いに行こうとか、メールをしようとは思わない。私が行動しなくとも、風斗ならばきっと幸せになるからだ。風斗自身も努力するだろうし、周りもそれを助けてくれるだろう。


一瞬、想像の旅に漕ぎ出す。

風斗がいる大学は建物の綺麗さでも有名だ。スカッと晴れた空のもと、青い芝生の上でお洒落な大学生たちが毎日語り合っているのだろう。

放課後はサークルや飲み会に出かけて遊ぶけれど、勉強も怠らない。すらっとして美形な風斗は浮くことなくその風景に馴染んでいるはずだ。

きっと、きらきらと輝くような日々を送っているんだろうな。可愛い彼女と、優しい友人と、頼れる先生に囲まれて笑う風斗を想像して、少しだけ幸せな気持ちになった。

 


今思えば彼は、いや彼こそが、「おひさま」だったのだと思う。

暖かく見守り、心に着込んだ服を自然と脱ぎたくなるような、そんな気持ちにさせる人。


風斗とともに過ごしてきた15年余りを思い出す。私に振り回され、奴隷扱いされても静かに従っていた風斗。クラスの中でただ一人、「陽子ちゃん」と呼び続けてくれた風斗。ダニ子の呪縛を、私以上に気にかけて、解こうとしてくれていた風斗。彼の優しさは長い時間をかけて私を解放してくれた。

数えきれないほど酷いことをしてしまった私だけれど、彼の優しさをかつてのように傲慢に扱い、再び昔の私に――まるで「北風」のように横暴な私に――戻るようなことは絶対にしない。


やがてバスは風斗が通っていた高校の前を通り、あのビリジアンの制服が目に飛び込んできて、私はそっと目を閉じた。


私はたぶん「おひさま」にはなれない。だから、せめて今度は、静かに彼の幸せを願いながら生きていきたい、そう思うのだ。


[終]

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