こだわりとネガティブ・ケイパビリティ
最近ではよい意味でも使われるようになったが、仏教語では執着といわれ修行の妨げとなる言葉である。何事にも【こだわり】を捨てることができれば悩むことなく過ごすことができるのであるが簡単にはいかないのが現実である。【岡目八目】という言葉があるが、傍から見ているものにとっては何でもないことが、当事者にとってはそうはいかないことがたくさんある。何でこんな無駄なことに時間をかけているか、見ていてイライラしてしまうことがある。そしていつも必ずあるのであるならば割り切ってしまえばよいが、いつも起こるとは限らず気まぐれなところもある。また日によってこだわることが違ったりする。こだわっている者にとってはその前で立ち止まり、そこからなかなか抜け出せない状況になっている。他人が解決しようにも当事者が解決しなければ意味をなさない。そしてこだわっている者とつき合うなかで、そのしんどさは根本的には自分のペースで物事が進まないところから来ていると思うようになった。よく相手の立場に立つことが大切であるといわれるが、煎じ詰めれば想像力を働かせ人が今何を考えているのか、思いめぐらしてみて初めてわかるような気がする。これはまさしく【同行二人】の境地ではないかと考えるようになった。弘法大師さんにはその解決策はわかっているが、一緒になってその人とつき合うことでその人自らが解決策を見いだしていく。その人一人だけ歩いていては、解決策は見いだせない。それは寄り添うということにつきる。寄り添うとはただそばにいるだけではない。まなざしが必要である。ここまでたどり着くのに20年以上かかった。
自閉症の娘と一緒に私が関わるようになってほぼ25年が過ぎた。娘はまもなく33歳を迎えるが、私が中学校にいる間はほとんど関わることができなかった。今でこそようやく中学校の教師の大変さがマスコミでも取り上げられるようになったが、私が勤務していたときもやはり大変だった。いじめのことは今ほど問題になっていなかったが【校内暴力】や【非行問題】などたくさんの問題があった。陰湿なものは少なく外に出る形のものが多かった。今では万引きをしても個人情報の関係で、学校に直接連絡することはないが、日曜日の午後などは量販店から学校に連絡が入り交番に生徒を引き取りに行ったことが何回もある。引き取る際右手の人差し指の指紋を採られた。警察官に人差し指の上から押され指の端から端までしっかり指紋を採られたことを覚えている。日曜日に学校に私がいたのは部活動をしていたからである。部活動については今だいぶん取り上げられて問題になっているが、教師がするのは当たり前の時代であった。私自身運動は余り好きでなかったので、できればやりたくなかったが拒否できるような雰囲気はなかった。文化部もいくつかあったが、それは年輩の教師が顧問するもので、若い男性の教師は運動部を持つのが当たり前の時代であった。部活動の練習が終わりぼちぼち帰ろうかと思っていた日曜日の午後5時過ぎ。こんな時間に職員室の電話が鳴るとたいていは万引きの引き取りの電話であった。それから、警察署に引き取りに行き、学校につれて帰った後家庭に連絡して保護者に迎えに来て貰った。保護者と早く連絡が取れるときも多かったが、携帯電話のない頃であったので、午後9時頃になって連絡がやっと取れるようなこともあった。せっかくの日曜日をこんな風にして過ごしたことは一度や二度ではなかった。休日の日曜日ですらこんな状態であるから、他の日はおして知るべし。土曜日も休日でなく今はなくなった半ドンであった。部活動で朝練習をしていたこともあり午前7時には登校していた。放課後もやはり部活動は毎日あった。どの部もやっていたし強い部ほど長時間練習をしていた。今でこそ休養の重要性をいわれるが、その当時は休んでいたりすると白い目で見られることがあった。定期考査の3日前は部活動禁止となっていても、部によっては大会が近いという理由で普段通り練習をしていたところも多かった。試合でよい成績を残すことが生徒の高校進学につながるという時代でもあった。すべての生徒が部活動に邁進していたわけでもないので、そこからはみ出た生徒は非行と呼ばれる問題行動に走ることが多かった。【つっぱり】と呼ばれてエネルギーが余っていた生徒が多かったので、【対教師暴力】などの暴力事件も多かった。問題があると会議が持たれ保護者を呼びだして指導すると午後10時を過ぎるようなことはざらだった。また、中学3年生ともなると進路の会議や進路事務があり、調査書など家に持ち帰って仕事ができないので、時計の針が12時をまわってから帰るようなこともあった。
中学校に居ると娘と関われないと思った私は、養護学校(平成19年度より特別支援学校に変更)に異動することを考えた。昭和54年に養護学校義務化がされてから15年がたっていた。養護学校教諭の免許状は持っていなかったが、養護学校にいる教師の半分近くが免許を持っていない時代であったので私も何とか異動することができた。養護学校は知的障害の学校であったので自閉症のことはあまり考えられていなかった。その当時自閉症の診断がついていた子どもは30%ぐらいであった。自閉症(発達障害)と知的障害は診断の軸が違うので別のものなのだが、その当時は知的障害教育の中で取り組まれていた。だから自閉症の子どもの多くが不適応を起こしていた。知的障害教育の基本は、下学年適応や繰り返しであった。視覚に優れた自閉症の子どもはたとえ言葉が発せなくても見てすぐにわかるので、同じことの繰り返しは苦痛であった。人と視点が違い自分の興味・関心が偏在するので、それが【こだわり】になって現れることが多かった。そして【こだわり】をいろんなところで見せていた。隅にものをつっこむのが好きな子どもは教室の中のものを見つけては何でもそこにつっこんだ。何でこんな無駄なことをするのかと思った教師は、それを見つけるたびに止めさせようとした。だが、止めさせようとすればするほど、子どもは意地になってする。教師もずっと見ているわけではないので、学期終わりの大掃除の時にはロッカーの隅から、チョークや給食のストロー、鉛筆、クリップ等たくさんのものが出てきた。水の好きな子どもは、学校中の蛇口を見るたびにあけていった。そのあとをずっと教師が蛇口を閉めていった。そうこうするうちに蛇口のカランがとられ、教師が管理するようになった。蛇口からは水が出なくなった。水の好きな子どもは、水を求めてトイレに行くことが増えた。レバーを押しては水を流していたが必要なとき以外はトイレに行けなくなった。水を制限された子どもは雨が降るときが大好きになった。雨の中水たまりを見つけては嬉々としていた。アニメ好きな子どもは、自分の言葉は話せなくてもアニメの言葉でしゃべることができるようになった。アニメの中の世界と現実が同じになり、自分のやりたいことを邪魔する教師をアニメの中の敵役にして対決した。自分の大切なものをセロテープで巻くことが好きな子どもは、学校中にあるセロテープを見つけては何度も巻いていった。巻いたものが大きくなり、それが持てなくなるまで巻いた。持てなくなるとようやくそれをほかし、また新たなものを見つけては巻いていった。教室の戸がしっかりしまっていないと気になる子どもは人が開けるたびに戸を閉めに行った。教室の戸だけの時はまだ良かったが、人の第一ボタンが気になったり、ファスナーが上まであがっていないと気になったりした。ボタンやファスナーだけなら問題はないが、そこには人というものが介在する。集中しているところだけしか見えない自閉症の子どもには、ボタンやファスナーしか見えていないわけでそれを着ている人は見えていない。学校という限られた場の中で、子どもがボタンやファスナーに手を伸ばして直そうとしたとき、教師の多くは最初びっくりすると思うが、その子どもの意図がわかると納得し直させてくれたり、自分から直したりすることがある。言葉は介在しないがコミュニケーションが成立したことになる。そのことが学校以外の場で、自閉症の高等部ぐらいの男の子が、若い女性の胸元の留まっていないボタンに手を伸ばしたとしたらどうだろう。それは痴漢行為になってしまう。犯罪者にされてしまうわけだ。言葉の話せる子どもなら、
「ボタンがきちんと留まってない。」
と言って相手に話しかけることもできるが多くの人はそんなことは気にならない。気になったとしても、人それぞれだからと思ってスルーしてしまう。そんなスルーしても良いことをスルーできないのが自閉症の子どもなのである。ただ、すべての自閉症の子どもがそうであるわけでなく一人一人違うし、また、同じ子どもであっても、その時の状態でスルーできるときとスルーできないときがある。自閉症の子どもとつきあっていて、本当に難しいと感ずるのはそんなときである。また、そうであるからこそ、自閉症の子どものつらさがあるのではないかと思うようになった。私が自閉症の娘と関わったのは、養護学校では部活動の顧問をやらなくても良かったので、土日に十分関わることができた。ただ、それは家庭から離れた世間という場であったので、今思い返してみると恥ずかしい限りである。
娘とはドライブをして過ごすことが一番多かった。娘と車で出かけるまでには、たくさんの手順がある。これも大きなこだわりの一つだ。少しでもタイミングが合わないと、最初からやり直しになってしまう。
①廊下においてあるウエストポーチのところへ行く。
②娘の合図でウエストポーチをする。
③勝手口まで歩いていき、靴の前で止まる。
④右足→左足の順で靴を履く。
⑤勝手を開け、外で娘が出てくるのを待つ。
⑥娘が車のところへ行く。車のドアのところへ行くまで待つ。
⑦娘の合図で勝手のドアを閉める。
⑧運転席横のドアのところに行く。
⑨娘の合図で、運転席横のドアを開けて、車に乗り込む。
⑩娘がドアを開けて乗るまで待つ。
⑪娘の合図で、キーを差し込む。
⑫娘の合図で、シートベルトをする。
⑬娘の合図で、めがねをかける。
⑭娘の合図で、キーを回し、エンジンをかける。
⑮娘の合図で、シフトレバーをドライブに移動する。
⑯娘の合図で、ブレーキペダルから足を離し、出発する。
このなかに、娘の合図というのがあるが、言葉が話せないので、右手を振るのが合図となっている。手を叩いて拍手することもあるが、この場合は拒否をする合図になっている。手を振るのをバックミラー越しに見ることが多いので、その動作がわかりにくかったりすることもある。また、こちらのペースで先にやってしまうと、一番最初からやり直しになってしまうこともある。それとひとつひとつスムーズに進行することもあるが、どこかで止まってしまうと先に進めなくなり、車に乗り込んだ後スタートするまで10分近くかかってしまうこともあった。動きが止まっているときは、口の中につばをため込んでいることが多く、口を閉じたままうなり声のようなものをたてていることもある。そうなると、つばがある程度たまり、本人が呑み込むまで待たないと進めなくなる。つばを呑み込んだあと、大きな声を出して口を開けてから、ようやく合図を送ることになる。ドライブに行くことは好きであるのに、なぜ行動が止まってしまうのか?よくわからないが、せかしてもあまり効果はない。
「早くしなさい。何してるの。」
とか言ったところで何も効果がない。かえってその言葉をもう一度言わせたりして、その分よけいに時間がかかることがほとんどだった。あまりに腹が立って、叩いたこともあったりしたが、叩くともう一度叩けというふうに合図することがあった。体罰は何も効果がないということは何となくわかっていたが、体罰すればするほど体罰が増えるわけで、何の効果もないということが改めて思い知らされた。そう思っていても、腹が立つときは自分の感情を抑えることができず叩いたりもした。また、娘の言うとおりにしなくて、我慢比べをしたこともあった。しかし、こだわりという点では、娘の方が一歩も二歩も上で、私としてはつまらないことをやっていると思っているのに、娘は真剣にこだわっているわけで、最後にはこちらが根負けをしてしまうことの方が多かった。根負けしなかったら今とは違っていたと思うこともあるが、逆に何回も合図を送ってくるので、やはり根負けしてしまう。車に乗って走り出してしまうと、まっすぐ前を向いて走っている間は何も問題がない。子どもによっては信号などで止まると、怒る子どももいるが、娘の場合はそんなことはなかった。ただ、右左折の進路変更をするときは、ウィンカーの出し方にこだわった。交差点で信号が赤で止まってからウィンカーを出すときは、それほど問題もなかったが、信号が青の時は困った。左折の時は、そのまま行けるので行こうとすると、肩を叩いて、やり直しをするようになった。右折の時は、そのまま進めることは少ないので、交差点の中で止まると、ウィンカーを止めさせるようにすることがあった。一度解除してもう一度ウィンカーを出すが、他の車から見ると、変なことをしている車だときっと思われているのだと思う。信号のない交差点の場合は、一応止まってから合図を出すが、止まってすぐに合図を出してくれないので、ウィンカーを出すのが遅くなってしまう。後ろに車がない場合はよいが、つながっている場合、クラクションを鳴らされたりすることがたびたびあった。最近では路上を走っていて、ウィンカーを出さない車を見かけることも多いが、ウィンカーは後ろや前から来る車に対して、自分の車の進路を知らせるためのものであり、相手に自分のメッセージを届けるためのものであるが、娘にとっては何のためのものかわかっていないので、ウィンカーを出すタイミングが自分の思いと違うとやり直させるのだと思う。そして、こだわりが強いときは、交差点を通り過ぎた後、手を叩き、うなり声をあげることもあった。後部座席から、運転席の方まで来ることはないが、こちらも安心して運転しておれない状況である。しばらく走っても落ち着かないときは、
「元の交差点に戻るから、静かにしてください。」
と言って引き返すこともあった。ただすぐには引き返すことができないので、同じシチュエーションで交差点にはいるためには、ずいぶん遠回りをしなければならないこともあった。逆に車を止めるときも、いろんなことがあった。ドライブを終えてようやく家に帰ってくると車庫入れの仕方にこだわった。シフトレバーをリバースに入れるときになかなか合図を出してくれなかった。そうしていると、車がやってくる。最初はハザードをつけて合図を送るが、そのハザードをつけるのに、またこだわったりするので、結局は車を移動させるしかない。家の周りをしばらく回ってから、同じ場所に戻ってくるしかない。ようやく、車庫入れの合図が出てカーポートに入れるが、上手に入庫できないときもある。そうすると、再び、最初からやり直しをしなければならない。家のすぐ近くまで帰っていながら、車庫入れするのに1時間近くかかったこともある。これは私だけでなく、妻が運転していたときも同じだった。妻の車はバックモニターが付いているので、バックモニターをずっと見て、後ろの塀と車がくっつくぐらいまで車庫入れさせることがあった。ドライブの途中では、コンビニによってお弁当やお菓子を買うこともある。娘がドライブに行くのは、自分の好きなものが買えるからだが、大きくなるにつれて自分で買い物するのができなくなってしまった。自分で選択できることが大切だと思い、最初のうちは車から降りて一緒に買いに行った。
「ほしい物、一つだけ選んでください。」
と言って、店内で様子を見た。事前に写真や絵カード、スーパーのチラシなどを見せて予習していたが、店内にはいると気持ちが変わるのか、あるいはたくさんの品物に心が奪われるのか、一つだけ選ぶことにものすごく時間がかかるようになっていった。また、どうしても手に取って見てしまうので、そんなときは仕方なく買うことになってしまって、一つ選ぶことが難しくなってしまった。自販機にあるジュースならば、ボタンを押したものしか買えないので、選択の勉強になるが、コンビニでの買い物はそうではなくなっていった。娘自身も長い間悩むのはしんどくなりかけていたこともあり、だいたいの要望を聞いて、私が買うようになっていった。最初は何気なくコンビニに車を止めて買い物ができていたが、コンビニで私が買い物をしている様子を娘が目を凝らしてみていることに気づくようになった。自分がほしい物を買って貰っているのだから、気になるのは当たり前だろうと思うが、そんなことがハプニングになる。私がコンビニから出るときに、次に入ってくる人とぶつかりそうになったことがあった。そんなことは気にせず、車に乗ろうとしたとき娘がもう一度やり直しさせようとした。見ず知らずの人を巻き込むわけに行かず、そんなときは娘の気が変わるまで、コンビニの入り口から少し離れたところで待つしかなかった。アイスクリームなどを買っていたときは、気が変わるのに1時間近くかかっていたので、溶けてしまったりしたこともあった。一つ気になることがあるとそれが解消されない限り次に進めない。優先順位がなくなり、些細なことがスルーできない。こんなことがあってからはコンビニで車を止める場所も考えるようになった。入り口の視界に入らない場所を探して止めるようになった。そうするとコンビニから買って車のところに行くと、本人にしたら急に来たものだから、びっくりしてやり直しさせることもあった。ただ、この場合は他の人を巻き込むことがないので気が楽だった。こちらもある程度待てば気が変わることがわかっているので少し余裕を持って待つことができた。
それからこんなこともあった。車に乗っているので、ガソリンがなくなることもある。最近はセルフのガソリンスタンドが多くなったので、ずいぶん助かっている。セルフ以外のところでは、店員さんにガソリンを入れて貰わないといけないので、娘と2人だけの時は極力ガソリンを入れないようにした。家族で旅行したとき、ガソリンを入れようとして店員さんにクレジットカードを渡すときから、娘の介入が始まった。私が財布からカードを出すことからやり直させた。一つ一つの動きに介入があり、本人は介入しているつもりはないが、結果としてものすごく時間がとられてしまったことがあった。それでそれ以降、セルフ以外のところで、ガソリンを入れるときは、娘が乗っていないときにするようにした。セルフの時は、店員さんとのやりとりがないぶん、気を遣わなくてすむ。最初の方で書いた出発するときの手順の⑧~⑯をやらねばならず、スムーズに行くときは問題ないが、給油できているのに出発するまで思わぬ時間がかかってしまって、待機している車に申し訳のない時もあった。
店員さんとの介入では食堂でこんなことがあった。「餃子の王将」で食事をするのが好きなので、2か月に一回ぐらいは外食に行っていた。写真のメニュー表なので、それを見て食べたいものを選ぶことができた。自分で食べたいものが選べるので、初めのうちはスムーズに食べることができていた。何回か行っているうちにこだわりが出てきた。家でも食事の時に、妻ができたお皿を置くときに、黙っておいたりするとやり直しさせることが出てきていた。本人の合図を確認して置かないとやり直しさせることが出てきた。置き方も一つ一つ区切っておかないとだめになってきた。王将では店員さんは忙しいので、オーダーした物を置いてすぐに厨房の方に行ってしまう。これは当たり前のことなのだが、娘は流れるのようにおくのではなく、ロボットが置くように分解写真のようにおいてくれと要求するようになった。気に入らないと、お皿を店員さんに返そうとすることもあった。お皿を返そうとされると店員さんも何のことかわからずキョトンとしていたが、こちらがお願いすると不思議そうな顔をしながらやり直してくれることがあった。やり直しが一回で終わるときはいいが、二回三回続くこともあった。何回かこういうことが続くと、こちらもだんだん行くのがしんどくなってきて、外食に行って食べることは少なくなっていった。最近は、チラシのメニュー表から好きな物を選んで、テイクアウトで買ってきて、家で食べるパターンになっている。お皿の置き方などは、食べることに比べると枝葉のことで無視すればいいことなのだが、無視できないつらさがある。こんなことにこだわらなければもっと生活しやすいのにと思うが、気になってしまうものはどうしようもない。テイクアウトで買ってきたものを、最初のうちは食卓を囲んで、向き合って食べていた。そうしていると、人がどんな順番で食べるのか気になりだし、介入することが増えてきた。本人にしては介入しているとは思っていないし、人に迷惑をかけているとは思っていないと思うが、おそらくそこまでの想像力は働いていないと思う。餃子や唐揚げ、焼きそば、酢豚を家族分分けておいていたが、餃子をすべて食べ終わらないで次の物を食べようとすると、阻止するようになった。人には人それぞれ食べたい順番があると言っても、焼け石に水であった。お互いに食事をしていても少しも楽しくないので、娘の食卓とは別のところで食べるようになった。私と妻は台所の隅で、娘の視界に入らないところで食べるようになった。そのようにして、パーテーションしていても、気になるのかこちらの方へやってくることもある。最近ではテイクアウトの時だけでなく、毎食事時すべてに渡って、食卓を囲んで食べることはなくなっている。クリスマスの時にケーキを分けたときや大晦日の年越しそばを食べるときや元旦でおせち料理を食べるときは、囲んで食べているくらいである。その時もやはり介入してくるが、一年のうちに三回ぐらいは一緒に食べないと思い、その思いから何とか食事をしている。
旅行についてもずいぶん変化した。湯快リゾートのホテルが各地にできたときから湯快リゾートに行った。料金が安かったのと、チェックインやチェックアウトの時間が、他のホテルと比べて余裕があったからである。足を伸ばしていろんなところに観光するわけでなく、ホテルでゆっくりできたらという思いがあったので、夏休みや冬休みには利用していた。娘も楽しみにしていて、自分の手のひらに【ゆかい】と書いたりして、今度はいつ行くのか尋ねてくることもあった。何回か利用するうちに妻の方が一緒に行くことを嫌がるようになった。原因はお風呂にはいるときである。大浴場なのでたくさんの人がいる中で更衣をしなければならない。このときにこだわりが出てきた。多くの人はお風呂にはいるのが目的だからすぐに脱いでお風呂にはいる。娘の場合は一つ一つ丁寧に脱いでいかないとだめなのである。しかも、人が脱いでいるときはそれを見て、自分の行動が起こせない。しかも、一つ一つの行動が止まることがある。また、チックのような声が出たりして、一つ一つの行動をするときにうなり声のような声を上げないと行動できない。入浴している時間は10分程度なのに、脱衣と着衣に1時間近くかかるようなことになった。疲れるために行ったようなものだと言うようになった。それで、大浴場に行くのはやめて部屋のお風呂にはいるようにしたが、せっかく温泉のあるホテルに行っているのに何とももったいないと思ったが、それでも湯快リゾートに行っていた。そのうち食事の時が大変になり出した。バイキング形式であったので、娘の好きそうな物(揚げ物・麺類・パン・肉・魚など)を私が先に取りに行き、その間妻は娘と一緒に席で待っている。私がとってきた物を娘に渡し、そのまま食べる様子を見ているときに、妻が私の分もとってくるという方法で、食事をするようにしていた。お風呂と同じように、チックのような声は出るが、それぐらいは仕方がないと思っていた。ただ、食堂は広くて刺激が多いので、時々それに耐えられず、席から離れたりする事も多くなっていった。食べたいのは山々であるが、刺激の多いところではそれをコントロールすることが難しくなってきた。バイキング形式で食事することは楽しみではあるが、そこにたどり着くために、刺激をコントロールすることができない。その後何回か湯快リゾートに行っているうちに、レストランの前で動けなくなることがあった。入り口の前で止まるものだから、後の人にも迷惑になる。本当は楽しみたいのだけれども、その楽しみに行くまでに気持ちをコントロールすることができない。お風呂や食事が楽しめないならば行く意味がないと思うようになった。悲しいけれどそうせざるを得ないという感じである。
夏休みに北陸の方に旅行していたとき、これから食事だというときに、動こうとしなかったことがあった。1時間前にホテルに着いていて、私だけ先に温泉に入り缶ビールを一本飲んでいたときだった。レストランに行こうとせず、手のひらに【かえる】と書き出した。ビールを飲んでいたので、すぐに帰るわけに行かず、何とかなだめてレストランへ行こうとしたが、1時間たっても【かえる】だったので、午後9時頃ホテルを出発することにした。途中のコンビニでパンや唐揚げなどを買って、それを食べながら帰った。北陸といっても能登半島に近いところだったので、自宅に帰ったのは午前4時を過ぎていた。あれほど楽しみにしていた旅行がこんな形で終わってしまった。それ以降、湯快リゾートに行くことはなくなった。もちろん他のホテルも予約することはない。最近は家の延長であるコテージに泊まっている。お風呂はコテージにあるお風呂なので、家でお風呂に入っているのと変わらない。コテージによれば設備が古いところもあるので、家のお風呂の方が快適なことの方が多い。トイレも温水洗浄便座のところは増えてきているが、洋式トイレだけのところもあったりして家の方が良かったりする。コテージに泊まるというと、外でバーベキューすることが多いが、準備や後片付けが大変なのでバーベキューをしたことはない。コテージ近くのスーパーマーケットで出来合いの総菜を買ってきて、レンジでチンをして食べるのがほとんどである。遠く離れた場所に行っているだけで、家で過ごしているのとそんなに変わらない。家ほど寝付けないことの方が多い。枕が変わると眠れないといわれるが、環境の影響を人一倍受けやすいから仕方がない。お金もかかりしんどいことも多いので、できれば行きたくないが、【りょこう】という文字に対しては思いがあるようで、年間のカレンダーの中には書いてやる必要がある。
コテージの旅行のように、自由度の利く旅行であっても難しいことが何回かあった。夜なかなか寝付けないことが一番困った。コテージでは私が娘の横にだいたい寝ているが、寝られないときはずっと声を出したりしているので、こちらも寝られなくなってしまう。また、こちらがトイレに行きたいと思って起き出すと、娘にすると急に起きたものだから、やり直しをさせて自分が合図を出すまで行かせてくれないときがある。長いときなどはやはり10分近くかかってから合図を出すときがある。また、朝起きるときも同じようなことがある。家ならばコテージほどは密着していないので、適度な距離があるが、コテージの場合それがないので、娘の状態が悪いと、それに引きずられてよけいに時間がかかってしまう。チェックアウトはだいたい10時頃なのだが、ぎりぎりになることも何回かあった。初めのうちは何とかそれに間に合わそうとしてやきもきしていたが、追加料金を払えばすむことと思うようになってからは、やきもきすることは少なくなった。また、そう思うと余裕があるのか、落ち着いて関わることができ、間際になることはここのところほとんどなくなった。
娘にとって楽しみであるドライブや外食、旅行に関して、こんな状態だから毎日の生活は大変なことが多い。娘は今生活介護の事業所に通っているが、決められたスケジュールをこなすことが難しいことがある。学校に通っていたときは周りに同年代の子どもがいたのと、教師の手が事業所よりは多かったので、それほど問題になっていなかったが、今思うとその時にもっと考えておけば良かったと思うことがある。これは今だから反省できることで、その当時は考えもしなかったし、そのことよりも言葉によるコミュニケーションをいかに獲得するかに重点を置いていたからだ。コミュニケーションの90%近くは、言語によらないものの割合が高いと言われ、それがわかっていても、どうしても言語によるものを望んでしまう。言葉が使えればそれだけ便利なわけであるからだ。話し言葉を話せない娘にとって、言葉を教えるよりも、一つの行動に対する意味合いをもっとしっかり教えておくことが大切であったのだ。ただ、想像力の余り働かない娘にそれを教えることは難しいし、どれほど効果があったかはわからないが、今思えばターゲットにしておくべきだったと思う。自閉症が社会性の障害であるからだ。社会性の障害だから、当然人の気持ちに共感することは難しいが、また気持ちというものは計量化する事はできず、目に見えないものであるので、具体的に理解させることはできないが、だからこそ丁寧に関わるべきであったと思う。
人の行動にやり直しをさせると私が気づいたのは、娘が保育園に入園したときが最初ではなかったかと思う。その当時私は中学校に勤務していて余り娘とふれあうこともなかったが、保育園の参観日に妻と一緒に行ったときに、保育士さんの横に座っている娘が、保育士さんが足を組み替えたときに、もう一度やり直させようとしていた場面を見つけた。これは園ではいつもあることで保育士さんは
『あっ!!そうだった。』
という感じで足を元に戻した。そうしてしばらくすると、娘が合図をして、再び足を組み直した。娘にとっては、急に変更されたので元に戻したかっただけなのであるが、制止する気持ちはなかったが、結果として制止させたことになってしまう。元に戻さずそのままにしていたら、娘が足を触りに来て元に戻させるようなことがあったので、保育士さんの方が足を戻せば納得するので、そのようにされたのだと思う。家でもそんなときは、
「人には自分のやりたいようにする権利がある。」
などと言って、そのままにするよりも、足を元に戻せばすむことだから、元に戻していた方が多かったと思う。足を元に戻さず、娘が大きな声で泣いたりすると、泣かせているような感じがするし、大人の対応としては足を戻す方が遙かに多いと思う。健常と言われる子どもならば、成長するにつれて人には人の考えがあり、やりたいようにするのは当たり前だと徐々に理解するようになるが、社会性の障害のある娘はそのように発達していかなかった。自分の周囲何平方メートルかの範囲で変更があれば、元に戻すというこだわりが強化されていくことになった。今ならば家庭と園とで共通理解をして、人の行動には介入しないという方針で、望むことができたと思うが、その時はそんなことは夢にも思わなかった。それが他の園児にやり直させる行動が出ていれば園の方でも解決策を考えられたと思うが、園児の方に興味が行くくらいであれば、社会性の障害はそれほど重度でないので、友だち同士の関わりの中で、自分の思いだけ主張するのはだめだと気づくようになっていくのだが。
小学校に入っても同じような場面を見た。娘は家のすぐ近くの小学校の情緒障害児学級に通学した。その当時は自閉症というのは、情緒障害の中に入れられており、同じ学級にはもう一人の自閉の女の子がいた。その子は娘よりも体格が大きくしかも言葉も少し話せる子であった。初対面の時からその子に対して苦手意識を持ったようで、娘の方からその子に関わることは余り無かった。教師との関係が主だった。参観日の朝の会で、保育園の時と同じような場面を見た。娘の横に座っていた教師が足を組み替えようとしたとき、娘がそれを制止したのである。園の時と同じように、教師は足を元に戻し、娘の合図を確認してから再び足を組み直した。
『家でもあるし、やはり学校でも同じようなことがあるなあ。』
というのが実感であった。同じ情緒障害学級の女の子にはやり直しさせるようなことはなかったが、親学級の子の中で、娘が気に入った子にはやり直しさせるようなことがあった。その子は初めはびっくりしていたが、障害児学級の担任から対応の仕方を聞くと、娘の理不尽なお願いにつき合ってくれるようになった。娘にとっては相手が自分のことを考えて、そのように対応してくれているとは思っていないわけで、自分のエリア内で、自分の知らない範囲で変更は許さないというこだわりが強化されることになった。親としてはそんな場面を見るたびに、申し訳ないなあと思いながらも、そのこだわりに対して真剣に取り組むことはなかった。
中学校は地元の中学校には行かず、スクールバスで通う養護学校(平成19年度から特別支援学校)の中学部に行くことになった。中学部は全部で30人くらいの生徒がいたが、娘のクラスは6人で教師が3人のクラスであった。合計9人の集団である。小学校の障害児学級よりは大きいが、親学級よりは小さい集団である。教師やクラスの生徒に対してやり直しの行動が見られるようになった。教師に対してはすべての教師に見られるわけでなく関わりの深い女の教師に対して見られることが多かった。最初のうちはやり直しに応じてくれることはなかったが、そうするとだんだん娘の感情が高まり、髪の毛を引っ張ったりして他害に及ぶことが増えだしてきた。他害をした後にやり直しに応じるとそれが強化されるので、他害に及ぶときは他の男性教師が中に入り、別室に連れて行くことが増えてきた。生徒に対してやり直し行動が出たときは、説明してわかる生徒に対してはやり直しに応じて貰うこともあったが、説明しても理解できない生徒に対しては、他害になることをさけるために、娘を別室に連れて行きクールダウンさせることが多かった。娘が中学部に進学したとき、私は別の校区の養護学校にいたが、自分の養護学校でも生徒がパニックになったときは、そのように対処していたので仕方がないかなと思っていた。今思えばその時に、もっと話し合っておけば良かったと思うが、それほど重大なこととは認識できていなかった。パニックになった後の対応としては、クールダウンさせるために別室に誘導することはよくあるが、どのような経過をふまえてパニックになるのかの検討が今思えば甘かったと反省せざるを得ない。娘にとっては、今までは自分が支配する世界であったものが、そうできないものになったことが理解できなかった。また、教師の指導方針として、やり直しは一回だけ応じるというのがあったが、2・3回となるとやり直しをしてもらえず、結局は気持ちが高ぶりクールダウンのための別室指導になることが多かったように思う。これは他の場面でも多く見られるようになった。たとえば調理実習などで、前で教師が実演して説明していたとき、やはり娘は気になりその一つ一つの動きに介入することになった。そうすると説明できないわけで授業が進まなくなる。そういったときもやはり気持ちが高ぶってくる。そうなると、クールダウンのための別室指導という形になる。結局こうして別室指導で過ごすことが多くなっていった。別室指導と言っても、気持ちを鎮めることが主だから、落ち着けば元の場所に戻ることになる。そしてその頃には、調理実習の場合は料理ができていることが多く、いわば何もせずに食事をすることになる。娘が人の動きが気になるのは急に動くからで、それは人それぞれの考えがあるから勝手に動くのは当たり前のことなのだが、人の気持ちが理解しづらい娘に対して理解できないとあきらめてしまうのではなく、それを丁寧に教えていくことが大切であったと思う。また家では小さいときから娘の要求には安易に応じていたので、こちらがやり直すことに対しては、よほどのことがない限りかなえていたこともあって、時間をかけて説明することもなかった。これまでも何回かは、
「人にはそれぞれ考えがあり、足を組み替えたりすることは、人それぞれ自由だから、気にしなくて良い。」
と話したりしていたが、娘には何のことか全く伝わっていなかった。わかりやすく伝えることが難しく、仕方がないであきらめていた。また、いつも娘が人の動きに気になるわけでなく、気にしないときもあったので、一貫した対応がとれなかったと思う。自分一人だけで完結するようなこだわりであれば、それほど問題になることもないが、人を巻き込むこだわりの場合はその対応に難しさが出てくる。娘自身は人を巻き込んでいるとは思っていないが、結果として人を巻き込むことになっている。自閉症であるから、見えない人の気持ちを理解することは難しい。たとえばこんなことがある。独り言の多い自閉症の子どもが【しずかに】と何度も独り言を言っている場合はどうだろう。その子が【しずかに】という度に、周りはうるさくなって静かにならないわけであるが、本人はやかましくしているつもりはない。そして、その声が気になる子どもが同じ集団にいるとしたらどうだろう。最初は我慢できていても、我慢の限界が越えるとその子に対して他害に及ぶようなことになるかも知れない。そういった問題行動が起きて初めて、抜本的な解決策が考えられる。【しずかに】と何度も言う子どもを静かにさせる方がよいか、他害に及ぶ子どもにより我慢を強いる方がよいかのどちらかになる。また、スペースがあれば2人が同じ空間にいないようにすることが一番手っ取り早いことになる。それにそうすればトラブルになることはほとんどない。同じことを起こさないということでは一番良い方法かも知れない。ただそうなると、【しずかに】と何度も言っていた子どもにとっては、内面の理解が進まないことになる。また、【しずかにを言ってはならない】というふうになると、かえって静かにしなければならない場面でストレスフルとなり、よけいに【しずかに】が増えるようなことになってしまう。元々はそれほどたいした問題ではないが、子どもが小さいうちは許容できても、大きくなるに従ってだんだん許容できなくなってくる。
高等部になっても娘の人への介入行動は相変わらずであった。家ではこれまでと同じような対応をしていたのでそんなに問題になることはなかったが、体格も大きくなってきたこともあって、パニックになったときは、複数の男性教師でないと対応できないことが増えていった。授業の時に介入行動が増えると、
『退場!!』
と言って、周りの子どもからも言われ、別室に連れて行かれることが多くなっていった。そんなときは、別室へ連れて行くことは教師集団で共通理解できていたので、パニックになる前の段階で連れて行くことの方が多くなり、連れて行かれることでかえってパニックになることも多かったように思うが、これまでもそうしていたので、私としても仕方がないかなと思っていた。ただ困ったことは、男性教師2人の力で連れて行かれるとなると、それに対抗するだけの力を娘自身が出すようになったことである。俗に【火事場の馬鹿力】という言葉があるが、まさにそんな感じでものすごい力を出すようになった。力のみが強化されたという感じである。
パニックになり疲れた後は何もする気がしない。そんなことが増えてくると、自分から動く行動そのものが少なくなったり、自分の行動そのものに対してやり直すことが多くなっていった。自分の行動をやり直すことは、山登りをしていたときもあった。その時は石につまずいたり、雨に濡れている岩で滑ったりして、いわば失敗したときにもう一度やり直すということがほとんどで、ふつうの時はそんなになかった。ところが、高等部の2年生の夏あたりから、日常動作そのものに対してやり直すことが少しずつ多くなっていった。廊下を歩いているとき、曲がり角でまわるときに、直角で回れないと何回もやり直しをしたり、階段を下りて行くときに途中で止まってもう一度上に戻ったり、服を脱いでいるときに、髪の毛が引っかかるともう一度着たり、何か少し違うとやり直すことが増えてきた。人に対しては足を組むなどの動作のやり直しはもちろん、咳やくしゃみをしたときも、もう一度やり直すことが増えてきた。自分の中でやり直すことが増えると、自分が納得しなければ先に進めないわけで、その分よけいに時間がかかるようになった。自分自身もそのことでイライラするのか、自分に対しても腹を立てて、大きな声を出すことがあった。大きな声を出すと自分もうるさいわけであるが、私たちのようにうるさい声に対しては自分が声を出しているからうるさいと思えば、ある程度雑音として処理できるが、娘の場合は雑音として処理できないので、声を出しながら自分の耳を押さえるというような場面をよく見た。感覚がうまくコントロールできないのである。これは湯快リゾートに行ったときに、レストランで食事をしたいのに、それ以前のことでできなくなってしまうのと同じことではないかと思う。何が大切なことであるかの感覚の処理がうまくできれば、何でもないことなのだが、幹になることも枝葉になることも同じレベルで入ってしまうのでうまくいかない。多くの人はそういった感覚のフィルターが備わっていて、スルーするものとそうではないものとを分けているが、フィルターの備わっていない娘にとってはその分生きづらさがある。現象面として行動は止まっていても、体全体が座禅をしているときのように止まっているわけではない。ロッキングと言われるように体を前後に動かしたりしていることが多いが、ロッキングをしていなくても、口の中につばをため込んでいたりして体のどこかは動いている。しかし、次に進むべきことが進まないのである。食事の時に多いのは、箸を持って茶碗のご飯をかき混ぜていることが多い。かき混ぜるだけで食べようとせず、時間だけが過ぎ去っていく。
「食べたくなければ残していいよ。」
と言ったりしても、なかなか行動に移せるわけでなく、
「お茶碗を流しに持って行きなさい。」
と言ってもすぐ動くわけではない。機嫌が悪いときは怒ってこちらに掴みかかってくることもある。そんなときの力はものすごいものがあり、私としても握力がなくなるくらいがんばることになる。そして、茶碗を取り上げることになる。食べ始めてから食べ終わるまで3時間近くかかることも何回もあった。一番楽しみであるはずの食事なのに、なぜこんなことになるのか不思議でならなかった。こういったことを繰り返す中で、いつ食事が止まるのかを調べたところ、どうも便秘と関係があると思うようになった。便秘の強いときは、食事の停止が多いことから、便秘を防ぐ手だてを講ずるようにした。便通を良くする薬を処方してもらったり、ひどい場合は浣腸するようにした。薬を飲ませることはそれほど大変ではなかったが、浣腸をすることは大変で時間もかかった。ただ浣腸することで、その後すっきりすることがわかると、自分から浣腸できるようにもなってきた。以前に比べて、便秘になって食べないということは少なくなったが、自分の手の動きが気になるときはやはり時間のかかることが多い。
手や足の動き、自分の顔の動きなど、そういったものに対してのこだわりが強くなった。本を読んでいる中でそれが【カタトニア】と呼ばれるものであることがわかった。【カタトニア】という言葉を知るまではこちらも不安であったが、その言葉をつけて説明することで、少しずつではあるが対応できるようになった。自分の周りに人がいてその人が足を組み直そうとしたとき、その人に介入してその行動を止めさせることは小さい間から続いていたが、【カタトニア】の場合は、娘自身が箸を持とうとしたり、靴を履こうとしたりするときに、何らかの刺激が入ると、それができなくなってしまうのである。感覚が過敏にとぎすまされているような感じでとても敏感になっている。たとえば、食堂でご飯を食べているとき、今から箸を持とうとしたときにドアホンが鳴ったとしたら、それで行動が止まってしまうし、自分のやりたいことができなくなったわけで、大きな声が出てしまう。ドアホンの音で私が食堂から出ようとしても阻止されてしまう。こういったことが何回もあったので、たとえば宅急便が来るとわかっているときは、妻が玄関の外で宅急便が来るのを待って受け取るようにした。だから、イレギュラーの客の場合、申し訳ないが居留守を使うことになってしまう。また、中学部ぐらいからてんかん発作になることが月に一回ぐらいあったのと、生理も当然あるので、そういったものが重なり合うと、こだわりの強さはものすごいものになった。それは、ストレスが高まれば不適応な行動が増えるのと同じである。
一番強いこだわりの場合こんなことになる。三年前の夏、自閉症の取り組みの進んだ施設では、どのようなことが行われているか、佐賀の【それいゆ】に研修に行ったときのことである。研修は1日で午前9時から午後5時までだったので、お金を節約するために、往復夜行バスで行くことにした。出発は三宮が午後10時過ぎであったので、8時前には家を出る予定であった。出発する間際になって、娘の行動が止まりかけた。その時は7時過ぎには入浴していたので、私が出発するまでにお風呂から上がると思っていたが、なかなかあがろうとせず、こちらも気になったので7時半過ぎにはあがるよう声をかけたが、8時になってもそのままだったので、私としても時間が気になることだしリミットの8時半になってから出発した。その時は、夫婦2人で何回も声をかけていたがなかなかあがろうとしなかった。最初に声をかけたものが中途半端なままでいなくなった場合、他の人が声をかけても納得しないということがあったので、私が最初に声をかけたので、その後の行動がどうなるかとても気になったが、こちらも高い研修費用を払っていることもあり、出かけないわけには行かなかった。三宮に着き家に電話を入れると、何回もあがるように言ったけれど、やはりお風呂から上がっていないということだった。3時間近く湯船につかっているわけで、てんかん発作でもあれば命に関わることなので、様子だけはよく見るようにだけ伝えて夜行バスに乗った。バスに乗っている間はゆっくり眠れるどころでなく、2時間に一回くらいメールを送信したがお風呂に入ったままであった。翌朝の7時頃夜行バスが着いたので家に電話を入れた。6時前になってようやくお風呂から上がったということだった。前日から計算すると、10時間以上入浴していたことになる。そして、お風呂から上がると眠たいのか、パジャマに着替えてすぐに寝てしまったようだ。それで、しばらくは寝させる方がよいと伝えた。午前中の研修が終わり、昼休みになったときに電話をした。やはり寝ているということであった。寝始めてから6時間はたっているので、あと2時間ぐらいは寝させて、その後は起こした方がよいと伝えた。昨日からは行動が止まっているので、動かす方がよいと考えたからである。そして、午後5時になり研修が終わると再び電話をした。目覚めてはいるがベッドから起きてこないということであった。起こすために部屋に入り何度も声かけをしたが、全然効果がないということであった。一日中何も食べていないわけで、きっとおなかも空いていると思ったので、娘の好きな唐揚げとかを見せたらどうかとも伝えた。それから2時間ほどたち再び電話をした。やはりベッドから起きてこず、唐揚げも食べようとしないということだった。おなかもだいぶん空いていると思うが、こういった状態の時は、食欲もなくなるのかも知れないと思った。食後には薬を飲むことになっているが、こんな状態では薬を飲ませることも難しい。午後10時前、夜行バスの出発時間になって再び連絡を入れた。薬も飲まずベッドから起きようともせず、寝てもいないということだった。翌日の昼前にならないと自宅に帰れないので、しばらく、そのままにしておくように伝えた。何か変化があったらメールをくれるように頼んでいたが、メールが来ることはなかった。翌日の8時頃、夜行バスが三宮に到着すると再び電話を入れた。起きて声はしているようだが、起きてはこないということだった。三宮からの帰りに、マクドで娘の好きなハンバーガーやフライドポテト、ナゲットなどを買って家に帰った。娘にすると、二日ほど何も食べていない状態であったが、食べる気がしないのかなかなか起きてこなかった。ふとんをむりやりとるような感じで起こした。ふとんをとられると観念したのかようやく起きた。トイレにも行くこともなかったので、パジャマもふとんもベトベトだった。私が研修に出かけてから帰ってくるまでの1日半のほとんどをベッドで過ごしたことになる。
朝なかなか起きられずに、1日の生活が止まってしまったことはこれまでもあった。自分で起きてくるときは、のどが乾いて水が飲みたくなったり、おなかが張ってトイレが行きたくなって起きてくることはこれまで何度もあり、しかも夜中の2時・3時であっても関係なかったが、朝起こすことは大変であった。30分はかかるとあきらめていた。起こす手順は次のようになっている。
①娘の部屋をノックする。
②ドアを開ける。
③部屋の電気をつける。
④娘が手で合図をして、電気を消させ、ドアを閉めさせる。
再び①~③を繰り返す。このパターンを最低3回はする。
⑤娘がようやく起き出す。上半身を起こす。
⑥ふとんをのける。
⑦ベッドの縁に座る。
⑧起きあがる。
⑨左右一歩ずつ足を出して、ドア付近まで来る。
⑩部屋の電気を消す。
⑪部屋からようやく出る。
スムーズなときで10分。こだわりの強いときはそれぞれのところで止まったり、やり直しがあったりして、1時間近くかかることがある。また、部屋を出てから階段を下りるのに時間がかかってしまうこともあった。今はもう退職しているので時間を気にしなくても良いが、勤めているときは娘が止まったときは、動き出すまで待つしか方法はなく、
「早くして。学校に遅れる。」
と言ったところで、かえって時間がかかる方が多かった。そんな場合は下にいる妻に学校に連絡して貰った。実際に遅刻したことは3回ぐらいであったが、5分前になったことは月に一回ぐらいはあった。6時半に娘を起こすためには、私としては5時半ぐらいには起きて朝食も食べていないといけないわけで、5時半に起きていても8時15分の職員朝礼に間に合わなかった。6時半から娘を起こしているのに、8時になっても食卓に着けていないこともあった。食卓に着いていても、私が学校に行っていなくなると、再び二階に上がりそのまま寝てしまうこともあった。熱があったりしてしんどいということもないようだがそんなこともあった。また、まあまあスムーズに食べ始めたと思っていても、食べるのに時間がかかることもあった。様子を見ていると食べ始めに時間がかかるのと、食べ終わりに時間がかかるようだった。バナナを食べるときなど皮の向き方に時間がかかり、皮をめくってはそろえておきそろわないとそろうよう何回もやり直していた。それでバナナについては初めから皮をむいて出すようにした。食べ終わりの時は嚥下するのに時間がかかった。何回も何回も口の中で噛んで、なかなか呑み込もうとしない。10分近くため込んでいるときがある。これはバナナだけでなく、パンやおかず、ご飯でもときどき見られる。もちろん薬の時もある。今ではピルケースにある薬を一度に飲んでいるが、かつては一錠ずつ飲むことがあり、一錠ずつつかむために手の角度を気にしたりして、ものすごく時間がかかり1時間以上かかることもあった。8時前から食べ始めて、3時間ほどかかることもあった。そんなときは、服の更衣にも時間がかかり、脱ぐのに1時間、着るのに1時間かかることもあり、午後1時を過ぎてから家を出ることもあった。
こだわりが強かったりものすごく時間がかかるようなときは、その後しばらくしてから、けいれん発作をすることがあり、発作の後は比較的行動がスムーズになることが多いので、早く発作になってくれることを願うこともあった。娘は決してわざとやっているとは思わないが、何でもないようなことに、どうしてこんなに時間がかかるのか不思議でならない。よく当事者のしんどさを理解することが大切であると言われるが、それにつき合わされる方のしんどさもある。自分で一人にしておいてうまく進んでいくのであればよいが、そうすると結局はよりこちらが大変になるので、放っておく訳にはいかず、私としてやりたいことができないようになる。なぜこんな何でもないことにつまずいてしまうのだろう。時間の無駄ではないか。替われるぐらいなら替わってやってしまいたいと思うこともあった。そう思いながら、イライラして娘と関わっていたとき、【ネガティブ・ケイパビリティ】という言葉に出会った。副題に解決困難な事態に耐えうる力と書いてあった。解決の見えない問題に対して、すぐに答えを求めるのではなく、じっと耐えて行くことのできる力と書いてあった。【早く、早く】とは対極の考え方である。動きの止まっている娘を見ているときに、疲れて足を組み直したことがあった。それまでは行動が止まっていたので、こちらのことは気にしていないと思っていたのに、過敏になっていたのか、もう一度やり直させることがあった。こうなると足を元に戻してもすぐにOKとはならず、私としては同じようにやっているつもりでも、娘には最初に足を組み替えた残像が残っているのか、十数回やり直しをしてもなかなかOKを出してくれなかった。そのうちに腹が立ってきて、その場から離れようとしたが、それもなかなかさせてくれない。仕方がないのでその後何回も同じ動作を繰り返し、数えるのも馬鹿らしくなってきたときにようやくOKを出してくれた。何がなんだかさっぱりわからないが、つまらないこだわりにつきあわされた思いだけは残った。それまでは、自販機でものを買うときお金を入れたときに品物が出てこない場合、何回自販機を叩くかという調査(はっきりした出典は知らない)を読んだことがあり、確か13回だというのが記憶に残っていて、13回は娘にやり直しにつきあおうと思っていたが、それぐらいのレベルで収まることはあまりなかった。また、フローリングの板目にこだわることがあり、その目に沿って足を置かないとやり直させることもあった。やり直しの度に、板目に沿って足をおいたりしたが、娘の感覚と違うようで、日によってはこれも何回もやり直させることがあった。何回も同じことをさせられて、頭に来たときは、
「同じようにしている。なんで違うん。」
と言ったりしたが、自分が納得するまでOKを出してくれなかった。とにかくつきあうことで、本人が納得しない限りは終わらないということが、少しずつわかってきた。答えは私にあるのではなく、娘の中にあるということだ。足を組み替えたり、板目に沿って足をおいたりすることは、私が出した答えで、私がそれに対して正解だと思っても、娘がそう思わないことには、正解にならないということが少しずつわかりかけてきた。そうだとすれば、無理難題とこちらが思えることに対して、無理難題と思わずにつきあっていくことが大切ではないかと考えるようになった。自分がやっていることが正しいと思わずに、娘の行動に対してつきあう。そのことが解決になると思った。これはまさに、【ネガティブ・ケイパビリティ】ではないのか。自分の寛容の度合いを試されていると思えば、心を平静に保ち、いかに対応できるかということになる。理詰めでものを考えた場合、前にこうしてだめだったから今度はこうしよう。次にこうしても解決できなければ、その次はすることがなくなってしまう。暗礁に乗り上げてしまう。しかし、理屈ではなくとにかく今やったことが違うのであれば、次はやり方を変えればよい。3回目が初回と一緒だということもあり得る。この方法だと息詰まるということはない。そう思って娘のこだわりにつきあっていると、案外早く切り替えることができるようになってきた。そして何よりも私の精神状態が前よりも良くなった。つきあうことで、解決が見えてくるとわかれば安心できるようになった。【ネガティブ・ケイパビリティ】という言葉を知るまでは時間に追われる毎日で、自分のペースで物事がすすまないことに対していらだちがあった。中学校の教師の時は部活動で朝練習をしていたこともあって、午前7時には登校していた。養護学校になるとそんなに早く登校することはなかったが、娘の行動が停止しないときは7時半には登校していた。始業前ぎりぎりに来て勤務にはいるということは自分にはどうしてもできなかった。ただ、娘の様子が気になり、あわただしく登校したときは妻に何度もメールをして、娘の様子を知るようにした。娘の行動からだいたいの時間を想定して、食事に○分、薬を飲むのに○分、更衣に○分というふうに、勝手に時間を計算していた。そして、自分の思い通りにならないとその分よけいにイライラが募ることがあった。イライラしても何の効果もないことはわかっているのに、気持ちを平静に保つことは難しかった。妻は娘が養護学校に通っていたときは、何とかスクールバスに乗せようとして(バスに遅れたときは自分が車で送っていた)毎日があわただしかったようであった。ただ、そのころは行動が止まるということは余り無く、学校というところは娘と同年代の子どもが通っていたので、行くのが当たり前と思っていたこともあって、そんなに苦労することはなかった。卒業してからは生活介護の施設に行くことになった。妻が送っていくのでそんなに時間も気にすることがなくなった。学校の場合は6年なり3年なりの年数が区切られているが、施設の場合は契約であるので、こちらが希望すればずっと続くということになる。娘にすれば卒業はないわけでずっと続くことになる。親が元気なうちは、通いで送っていくこともできるがそうでなければ入所になる。これは先のことで、実際にはどうなるのかはわからない。また娘自身の精神状態も変化してきたのか、再び【カタトニア】が見られるようになった。【カタトニア】は10代中頃からと20代の初めに見られるとあるので、娘の場合は20代初めに当たる。学校に行っていたときは、インフルエンザで休んだこと以外は休むことはなかったが、通所施設は月一回ほど休むことが見られるようになった。休む理由が朝起きてから食事をして着替えるまでに時間がかかり、タイムオーバーになってしまうというものであった。施設ではお昼に給食があるが、午後2時まで延長して貰っていたが、2時を過ぎると行っても給食が食べられないので休むことになってしまった。妻もそんな時はいろいろと声をかけたりするが本人が動かない以上、どうしようもない感じであった。人に迷惑をかけているわけではないので、放っておけばすむような気もするが、そんなときは長時間椅子に座ったままなので、椅子の下に水たまりができほど、お漏らしをしていることもある。娘が片づけるわけではないので、結果的に人に迷惑をかけることになる。【カタトニア】は食事だけでなく排泄に対しても行動が止まってしまう。また、ベッドで寝ていても起きてこないだけで、熟睡しているわけではないので、休養がとれているわけではない。鬱のような症状と変わりがないときもある。娘に話す言葉があれば私としても関わる手だてがもう少しありそうにも思うが、生まれてこの方【おかあさん】の言葉も言ったことのない娘に対しては、こちらが想像力を働かせて関わるしかない。次の行動をせかしたところでうなり声のような嫌な声が出てくるだけで余り好転しない。朝から食事もとらず、夕食もなかなか食べないときは、てんかん薬を飲ませないとだめなわけで、夫婦2人がかりで娘を押さえつけて、薬を飲ませたこともあった。お互いとてもしんどいがそうせざるを得ないときもあった。そうしてむりやり薬を飲ませると、【カタトニア】が薄らいだのか、食事をとるようになった。本人が動き出すと次への行動につながるという感じである。解決策がなくなって、仕方なく薬を飲ませるしかなかった。
人を巻き込むやり直しの行動に対して、【ネガティブ・ケイパビリティ】の考え方が有効であるとしたら、【カタトニア】に対してもそれは有効ではないかと思うようになった。【カタトニア】に対しては、待つということはしていたが少し離れたところから様子を見ていただけで、娘の視界には入っていなかったので、様子を見ていて行動が止まったときはまず視界にはいるようにした。視界にはいるには、娘のテリトリーに入るわけで、すんなり視界に入れるわけではない。このときに、【ネガティブ・ケイパビリティ】の手法が生きてくる。解決策は娘の中にあるわけだから、その解答が得られるまで、忍耐強くつきあう。視界に入れたら、【カタトニア】という行動の止まった状態はひとまず解決したので、あとはゆっくりではあるが進んでいく。このように対応するためには、私に時間的な余裕がないと無理なわけで、平成29年3月末で退職していなければ、このようには対応できなかったと思う。知識をいくら身につけていても、自分がその環境にないと発揮するのは難しいということになる。【ネガティブ・ケイパビリティ】という言葉を知ったのは退職して2か月ほどたってからであったが、その前に知っていたとしても、落ち着いた気持ちで対応できなかったと思う。【同行二人】という言葉は、ずっと前に知っていたが、娘との関わりの中で意識したことはなかった。お遍路で歩いている人の心の中に、大師さんが出てこないとだめなわけである。【ネガティブ・ケイパビリティ】という言葉をかみしめてみて初めて、少しだけ近づけたかなと思っている。