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大照妖異譚  作者: 大平 凡
1章 みどろが淵
8/56

8 咎

 

「ああ糞ッ!」


 毒づきながら、関口は異界から放り出された体を立て直した。

 ずぶ濡れのまま、ひらりと危うげなく藪の中に着地する。


 よろめきながらも草むらに膝をつき、関口は荒れた息を整えた。

 潰れた草の青臭い匂いと、滴る水のきつい生臭さに閉口する。

 濁流に押し流される最中に、例の娘は見失ってしまっていた。


 さて、どうするべきだ。考えろ、と関口は自身に言い聞かせた。

 状況はあまりにも目まぐるしく変化していた。

 山狩り、囚われの淵神、白無垢の娘に黒い注連縄。

 まるで情報の整理がおいついていない。


 ともあれ、まずはあの娘を確保せねばなるまい。

 事の次第を確認するのはそのあとだ。

 濡れた体をぶるりと振って水を飛ばす。

 同じように放り出されたのならば、娘の居場所はみどろが淵からそう離れてはいまい。

 関口は娘を探すべく立ち上がった。

 その時だった。


「関口さま?」


 思ってもみなかった声に、関口は振り返った。

 目をまるく見開いて、十和子と駐在が立っていた。


「なぜここに、」

「いてもたってもいられなくて、駐在さんに無理を言って連れてきて貰ったんです。関口さまこそ、今急に現れたようにお見受けいたしましたけれど……」


 関口の呟きに、戸惑いながら十和子は答えた。

 駐在の方は、驚きのあまりか口をぱくぱくさせるばかりで言葉もない。


「……、ええ、説明がいささか難しいのですが。それよりも、みどろが淵はどちらですか」

「ええと、あちらです。案内いたします。……ところで、どうしてそんなに濡れておられるのですか?」


 まあ、色々とありまして。

 関口は言葉を濁した。


 ○ ○ ○


『貴様、何をしておる』


 窒息しかけの朧気な意識の中で、声が聞こえた。

 しゃがれたようにも、瑞々しいようにも聞こえる不思議な声である。


 突然名無しの首を締め上げていた手が離れ、せき止められていた空気がどっと肺に満ちた。咳き込みながら身を起こす。

 見れば、名無しの首を絞めていた源治は、片手をぴんと天に伸ばした妙な恰好で爪先立っていた。

 それはまるで、誰かに片腕を吊り上げられているかのようにも見える。


「う、ぐゥ、」


 呻きながら、源治は困惑の表情で必死に身を左右にくねらせている。

 縛り上げる何かがあるわけでもないのに、身じろぎ一つ満足に出来ていない。

 訳のわからない光景に、名無しは混乱した。


『全く、見苦しいことよなァ』


 声と同時に背後からするりと頬を撫でられ、名無しはびくりと震えた。

 細く、ひんやりとした、白い指先である。

 桜色の爪にふちどられたそれはするすると娘の輪郭をなぞり、あたかも蛇の這うがごとく首筋を伝って、顎先をついと持ち上げた。


「あ、」


 仰ぎ見る。


 にんまりと笑みを浮かべた、少年神と目が合った。

 はじめて見るその双眸は酸漿(ホオズキ)のように赤い。


「淵神さま、」

『うん』


 呆然とした名無しの呟きにも、少年は先程までと同じように鷹揚に応えた。

 ぎちぎちと、何かが軋む音がしている。


『娘や、重ねて礼を言おう。おまえのおかげで、おれはようやくあの忌々しい戒めから逃れられた。

 やはりよくよく礼をせねばなるまいて』

「あの、……はい」


 それは、いい。

 かれが自由の身となったのならば、それは名無しにとっても喜ばしいことだ。


 だが。


 名無しはちらりと横目で、源治のほうを見た。

 顔は次第に赤黒くなり、口の端からは唾が泡となってこぼれ落ちている。

 その喉から漏れる声にならない呻きは留まるところを知らず、少し空に浮いた爪先は必死に水面を掻いていた。

 ぎちぎちと、何かが軋む音がしている。


 明らかにただごとではない。

 何より、天に伸ばされたその腕は、まるで何かに引き絞られているかのようではないか?


 腹の底を、冷たいものが撫でる。

 娘の顔を覗き込む少年が、その笑みを深くした。


『──ふふ。だがまあ、その前にだ。

 そこな不届き者には、相応の報いを受けてもらわねばなァ?』


 それは地の底から響く(うな)りのような声だった。

 にい、と吊り上がった少年の口の端が大きく裂けた。


 赤い双眸(そうぼう)は憤怒に煮え滾り、噴き上がる火炎にも似て赫赫(かくかく)と輝いている。

 地獄が口を開いたかのようだ、と名無しは思った。

 懐で、蛇が(うご)めいている。


 夜明けを迎えようとしていた空は、にわかにかき曇りはじめていた。

 遠くで雷が鳴りわたり、ぽたり、空から水が滴る。

 雨の気配とともに、不可視の蛇体がゆっくりと(あらわ)れようとしていた。


「──!──!!」


 源治がひときわ大きく身を捩った。

 その目にははっきりと恐怖の色が浮かび上がっている。


『やれ、煩いな。そう喚いたとて、すぐには殺してやらぬぞ』


 ばちん。


 幼子の人形遊びめいて、決して軽くはない源治の体は呆気なく河原にたたきつけられた。骨の砕ける音と、くぐもった男の絶叫が(ほとば)る。

 名無しの悲鳴は、喉元でつかえた。


『──は。はは、ははははは!』


 蛇神が嗤う。

 源治の体に巻き付いた白い蛇の尾は、いまやはっきりとした実体を伴っていた。

 大の大人の一抱えはありそうな太い胴が、ぎりぎりと男の体を締め上げている。


 雨足は次第に強くなっている。

 ばたばたと、大粒の雨が降り始めていた。


『あァ、実に爽快な気分よ。さて、どのように八つ裂いてやろうなあ。

 娘や、おまえにはなんぞ希望はあるか?』


 名無しのほつれた髪を白い指先が掻き上げ、耳元で蛇神がささやく。

 石塊(いしくれ)に身をこすりつけるようにしてどうにか顔を上げた源治が、縋るような必死の目つきで名無しを見あげた。見たこともない目だった。それが名無しには恐ろしい。

 凍り付いた娘は無言で首を横に振った。濡れた黒髪が頬に張り付く。


『──欲のないことよな。

 まあよい。なればおれが好きにするまでよ』


 つまらなそうな顔をして、少年はついと片手を上げた。

 再び、源治の体が空に浮く。短く悲鳴を上げて、男は弱々しく藻掻いた。


「お父様!」


 十和子の悲痛な叫びが響いた。


 ○ ○ ○


 引き寄せられるように、名無しは声の方角を振り仰いだ。


 いつの間に上がってきたものか、みどろが淵から集落へと続く下り口に、十和子が立ち尽くしていた。

 木の棒を杖と(すが)り、普段は勝ち気な瞳は不安げに揺れている。

 恐れからか、唇はすっかりと色を失っていた。

 その脇では、駐在が一足先に白目を剥いて気を失っている。


 その十和子の体を支えるようにして、あの軍人も立っていた。

 大きな口をきゅっと引き結び、相変わらずの険しい目つきでみどろが淵を見下ろしている。


 ふと、その男と──関口と、目が合った。


 雨越しに覗き込んだ先には、気遣わしげな色がある。温度と、意思とがある。

 名無しは、男の虹彩が思いのほか明るいことに気がついた。


 視線が逸れる。


「淵神よ」


 少年の姿をまっすぐ見据え、(ろう)と関口が叫んだ。

 雨音を凌いで、その声は名無しの元まで届く。

 ヒトガタをした蛇神もまた、温度のない目で彼を見返した。


「何故そのように荒ぶられるのか。どうか怒りを鎮め、その男を解放していただきたい」

『ならぬ。おまえこそ、如何な理由でこれを庇い立てするのだ』


 少年神の応えは、静かでありながらもはっきりと通った。

 見交わす両者は、どちらも一向に視線を逸らさない。

 あいだに降る雨は激しさを増してきていた。


「庇い立てするつもりは毛頭ありません。しかし、その男にはいくらか喋って貰わなければならない事があります」

『知らんなァ。それはそちらの都合であろう』

「いかにも。ですが、人の子は人の理で裁かれねばなりません。どうぞご寛恕(かんじょ)を」

『ふ、は。人の理ときたか』


 蛇神の嘲弄(ちょうろう)(とどろ)く。


『なるほど、それも道理よな。しかし、その前にだ。

 神域にて犯した咎は、神罰にて報いられるべきであろう?』


 蛇体に力が入る。

 それと見るや否や、関口は弾かれたように河原に飛び出した。──届かない。

 締め上げられた源治の腕があらぬ方向に曲がる。

 間接の外れる鈍い音と、呻きとが響いた。


「待たれよ!」

『なに、案ずるな。これはそう易々とは死なせてはやらぬ。

 聞きたいこととやらも遠慮無く尋ねるがよいさ。その気があるなら喋るだろうよ』


 雷鳴が鳴り響く。

 雨は激しく水面を打ち、渓流は水量を増してきていた。


 つい先程まで、へたり込んだ名無しの膝がようやくつかるほどでしかなかった水位は、いつの間にか、腰がつかるほどまでに高さを増していた。うかと足を踏み入れれば、大の男であっても流されかねない。


 関口の足は、水際で止まった。

 急流は結界となって此彼を隔てている。


「なれば淵神よ、どうか、まずはその瞋恚(しんい)の理由をお聞かせ願いたい!」


 彼岸にて、関口が問う。


『理由?』


 酸漿の目がひときわ赤く燃えさかった。


『良かろう。ならば語って聞かせようとも。

 これなる男こそ、己が代で我が加護を失うを恐れて里人を言いくるめ、罪なき血族の娘を我が封印の糧とした、我欲まみれの外道よ!

 外法にて我が業を汚した咎、最早生きながらに七度八つ裂いてもなお飽きたらぬ、速やかな死すら生ぬるい!』


 此岸にて、蛇神が吠える。


「なるほど。その憤怒、察するに余りある。

 だが、このままでは御身の怒りは下流に住む無辜(むこ)の民まで巻き込みかねん。

 今しばらく、抑えてはいただけまいか」


『さて。おまえの言う無辜の民とは、いったいどのような者を言うのだ?

 我が子可愛さに妹の娘を人柱に差し出した者か。村のためと言いながら、その実己の保身のために泣き叫ぶ己の子を(くび)って淵に投げ落とした者か。それとも、そうして平穏を他者の命で購っていると知りながら、素知らぬ顔を決め込んでいた者たちか?

 八蘇の者を指して言うのであれば、程度の差はあれ、彼奴らも同罪よ』


 互いに一歩も引かぬ構えであるのは明らかだった。

 水際を挟み、じりじりと空気が張り詰めてゆくのが名無しにも判る。

 この身の震えは雨の肌寒さ故であろうか、それとも。


「よもや、集落ごと滅ぼすおつもりか」

『我が(わざ)にて栄え、我が(わざ)に血迷ったのが事の起こりであるならば、我が(わざ)にて滅ぶは道理であろうよ。おれはおれの後始末をするまで』


 関口の眉間の皺が、一層深くなった。


「堕ちるぞ」

『もとよりそのつもりよ』


 ふつり、と、何かが途切れた。場の気配が一変する。

 ただでさえ張り詰めていた空気が、ちりちりと鋭い棘を帯びる。

 それは、獣の睨み合いに似ている。


 何かがはじまろうとしていた。

 そして、それは多分、とても壊滅的な何かだ。

 この場にある何もかもがただでは済むまい。


 肌を刺すその重圧に耐えかねて、名無しは視線を彷徨わせた。

 彼方に、呆然とくずおれた十和子の姿がある。

 その血の気の引いた頬の上を、いくつもの水滴が伝っていた。


 ああ──十和子さまが泣いている。


 それは、よくないことだ。

 とてもとても、よくないことだ。


 では、と名無しは考える。

 いったいどうすればいい。自分には何が出来る。

 停止していた思考がようやく巡り出す。


 名無しはこわばる喉で、ぎこちなく唾を飲み込んだ。

 取れる手は、ひとつだけある。

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