7 黒縄
拘束を解こうと思えば近づかねばならない。
名無しどころか赤子にでもわかる、理屈とも呼べぬほど当然の道理である。
だが、その当然の一歩を踏み出すのは空恐ろしかった。
ここは尋常の空間ではなく、相対する相手もまたヒトではない。
手を伸ばせば触れる位置にたどり着いたところで、名無しはあらためてそれを確信した。
間近で見上げたその姿は、ヒトとしての造形に一切の破綻がない。
「ええと……」
それはそれとして、少年の戒めを解くにはひとつ問題があった。
──台座が高くて縄に手が届かない。
「……あの、……台座に、上がっても?」
『よい』
笑声を含んだ許しが下りる。
では、と名無しは金蓮の台座にどうにかよじ登った。台にはもとより一人分の空間しかない。
身じろぎの度に互いの衣が擦れ、あえかな吐息が肌にかかる。ほとんど密着するような恰好になり、名無しはひどく恐縮した。
「あの、どこか不快であれば仰ってくださいね」
『なに、こちらが頼んでおるのだ。文句なぞつけぬさ』
「では」
そっと縄に手をかける。
ぐっと引いたところで、名無しは気づいた。
「ひ、」
濡れたように光るのは、束ねられた黒髪の艶やかさ故である。
弾力を帯びた感触は、なわれた黒髪の健やかさ故である。
──これは、女の髪である。
「っ、」
悲鳴を口中で噛み殺す。
『どうした』
「……いえ、」
何でもない、と名無しは答えた。
尋常ではないものを縛り上げているのだ、それが少しばかり奇妙な素材であるのも当然と言えば当然のことだろう。
その程度のことを考えていなかったおのれが甘かったのだ。
外してくれと頼まれ、応と答えた。
ならばやることはひとつしかない。
約定は一度交わしたなら守るものだ。
名無しは怖じ気づく己を奮い立たせた。
大丈夫。
せいぜい、少し気味が悪いだけだ。
──少なくとも、今のところは。
意を決して、再び黒の注連縄に手をかける。
縄をほどくのは容易ではなかった。
複数の線が縺れ、絡まりながら少年を締め上げている。きつく肌に食い込む縄目はそれだけで痛々しい。
そのひとつひとつを、注意深くほどいてゆく。
「あの、痛くはありませんか」
『問題ない。むしろひとつ外れるごとに重石がひとつ除けられているような心地よ』
「そうですか。よかった」
垂を払い、結び目を解く。どれほどその作業を続けただろう。
気づけば、幾重にも重なっていた拘束は残りわずかとなっていた。
『すまぬなあ。手をかけさせる』
「いいえ」
黒髪の注連縄も、慣れてしまえばただの紙ぴらのついた太い紐である。
薄気味悪さにも次第に慣れはじめていた。
少年は先にほどけた身を捩り、可動域の広くなった手足を伸ばしている。
そのたびに空気が揺れ、ほのかに白檀が薫った。
『時に娘や』
ふと、少年が言った。
「はい。なにか」
『おまえ、あちらに戻るほかに、何ぞ願いはないか?』
願い。
名無しはきょとんとした。
考えてもみなかった。
『万能には程遠いが、おれもそれなりには力をつけたつもりよ。構わぬ、言うてみよ』
「ええと……とくには……」
『いいや、それではならぬ。
おまえには、礼のひとつもせねばおれの気がすまぬのよ。
鏡がおれの元に戻った暁には、ひとつおまえの願いを聞いてやろう。
サア、何ぞ願いはないか?』
言い張る少年神に、名無しは困り果てた。
うんうんと頭をひねるうちに、はたと気づく。
この拘束がすべて解け、もとの場所に戻ったとして、己はどこへゆけばよいのだろう。
急に心細くなる。
こうして淵に放り投げられた以上、屋敷には戻れまい。
かといって、他にゆくあてなどない。
だからこそ、十和子に逃げろと促されたとき逃げ損ねたのだから。
手がとまった。
『どうした』
「……ええと、考えごとを。
お願い事を、とっておくのはだめですか?」
ふむ、と童子形の蛇神は何やら考えるそぶりをした。
『なるほど、それもよかろう』
今考えたところでどうしようもない。
あとのことはここを出てから考えればいい。
丁度、少年の拘束は最後の一本になっていた。
ひときわ古びて見える垂の下がる、その縄に手を伸ばす。
「え、」
指先が沈んだ。
じっとりとぬかるんだ、深泥に手を突っ込んだかのような感触に怖気が走る。
ぶわりと、背後で何かの気配が膨らんだ。
『離れよ!』
少年の鋭い警告が飛ぶ。動く事はできなかった。
意識もつ蛇の群れの如く、四方から黒縄が名無し目掛けて殺到する。
『おのれ彼奴らめ、よもや斯様な呪いまでも──!』
蛇神が怨嗟の声をあげるも、抵抗は間に合わなかった。
名無しごと、黒髪の縄は少年を絡めとってゆく。黒がすべてを塗り込める。
それは糸吐く蚕が繭を形作る様にも似ていた。
──遠く微かに、獣の遠吠えを聞いたような気がした。
稲妻のように光が走り、ざん、と黒が裂ける。
思わず伸ばした手を、誰かが掴んだ。
「……!?」
「無事か」
気づいたときには、名無しは男の左腕に抱き抱えられていた。
険しい目付き、眉間の皺に、大きな口。
短く刈り込まれた少し癖のある髪は、今は少し濡れている。
空いた右手には、抜き放たれた軍刀を下げていた。
黒の繭を割いたのはこれだろう。
昼に見かけたあの軍人だ、と名無しは思った。
おそらく、この男が自分を黒縄から引きずり出したのだ。
「あの、」
「聞いておいてすまんが今すぐ捕まれ!」
咄嗟に男の首にしがみつく。
名無しを抱えて男が飛び離れたまさにその場所に、黒縄が突き刺さった。
軌道上にあった瓔珞や吊灯籠が跳ね飛ばされ、耳障りな不協和音を立てる。
「あッ、あのっ、これ、あなたは……!」
「喋るな舌を噛むぞ!」
「は、むぐっ」
答える間もない。
小柄とはいえめかし込んだ娘ひとりを抱えたままであるというのに、男の身のこなしは実に軽快だった。
身をひねり、かわし、それでも避けきれぬものは軍刀で切り払う。
その軌道を、幾条もの黒縄が執拗に追い回す。
危なげない動きであったが、じりじりと追い詰められているのは明白だった。
殺到する黒髪を払うたび、曇り一つなかった刃の上にじわり赤錆がういてゆく。
ちッ、と男が舌打ちをした。
「厄介な。これが淵神か」
思わぬ誤解に、名無しは思わず声を上げた。
「ち、違います! 淵神さまは、これに捕まっていて」
「なんだと」
再び迫る縄を切り払いながら、男はぎろりと娘を見た。
鋭い視線に射貫かれ、思わず身を固くする。
「……すまない。目つきが悪いのは生まれつきです。それで、淵神は」
「あそこに。捕らえられておいでです」
黒い繭を指さす。もうヒトガタは見えない。
わずかの間に、拘束は驚くほど厚みを増していた。
成程、と男が呟く。
「ところで君、他に女の子を見てはいないか。八蘇の源治殿のところの養い子、だ!」
言いながら、男は頭上に迫る黒縄をしゃがんでかわし、横に飛んだ。
名無しもその広い背をしっかと掴む。口を閉じることも忘れない。
振り落とされないように、名無しも必死だった。
「ッ、あのッ、わたし、」
「なんだ!」
「わたしです!」
あれ? という顔で、男が名無しを見た。
「……。そうか」
「う、うしろ!」
「ッ、」
じゃあん、と一際大きな破砕音をたて、ぶちかましの巻き添えを食らった荘厳具がひしゃげ砕けた。
死角から迫った黒縄を、白鱗に被われた蛇の尾がまとめて薙ぎ払っていた。
『そこな犬』
部屋の最奥、黒い繭の中から少年の声が響く。
苦しげにくぐもった、絞り出すような声だった。
『道はあけた。疾くその娘を連れて出よ』
「承知した」
男の反応は早かった。
振り返れば、少年の言葉通り、黒縄のあいだに細く道が見える。
「まッ、待って、淵神さまは?」
「諦めろ。この呪いは相性が悪すぎる。君ひとりを逃がすので精一杯だ」
つまり、見捨てろということか。
「でも、」
走りだそうとする男に、名無しは抗弁した。
淵神やこの男が言う呪いとやらがどのような効力を発揮するものか、名無しにはわからない。ただ、碌でもないことだけはわかる。
それでも、名無しは拘束を解くと約束したのだ。
──いちど交わした約定は、きっと守らねばなりませんよ。
名無しにそう言って聞かせたのは誰であったか。記憶は曖昧にぼやけている。
首を回して淵神のほうを見る。繭の厚みは更に増していた。
蓮の台座も金の光背も、既に黒い注連縄に覆い尽くされている。
距離は目算で三間弱(約五メートル)。
全力で駆けても、名無しの足では捕まる前に届くかどうかすら怪しい。
だが、と名無しは腹を括った。
約束は、守らなければならない。
名無しは思い切り身を捩った。
「ッ、何を!」
男が叫ぶ。
意に介さず男の腕から抜け出すと、名無しは黒い繭に向かって走りだした。
すぐさま黒縄が襲い来る。
慣れぬ衣装が足に絡みつく。
頬を掠め、足元を穿ち、驟雨の如く降り注ぐ黒い槍衾の中を、名無しはそれでもまっすぐに駆けた。
あと十歩、かろうじて引っかかっていた綿帽子が飛ばされる。
あと七歩、足元を狙った縄をつんのめりながら飛び込んでかわす。
あと四歩、ついに絡みついた黒縄は打ち掛けごと脱ぎ捨てる。
無様に転がりながらもあと三歩。よろめきながらも立ち上がる。
『戻れ、何をしておる!』
焦ったような蛇神の声がした。
後ろで、男も何か叫んでいる。
それでも引くつもりはなかった。
名無しとて何の考えもなしに突っ込んだわけではない。
黒縄が迫る。
残る二歩、胸元に差した小刀に手をかける。
右手を左腕で庇いながら最後に一歩、すらりと引き抜く。
はじめて抜いた守り刀は、驚くほど滑らかに鞘走った。
黒い繭はもう眼前にある。
刀身を腐らせるとはいえ、刃物が通るのはわかっている。
小刀を構えた腕を振り上げ、名無しは力一杯突き立てた。
『────!』
繭から黒が迸る。
何かの絶叫とも断末魔ともつかぬ叫びが、辺り一帯に谺した。
空間が崩れだす。
四方から押し寄せる濁流に、娘はなすすべもなく飲まれた。
○ ○ ○
ごぶり、と水を吐き、名無しは意識を取り戻した。
清流がさらさらと優しく頬を濡らしている。
いつの間にか、名無しはみどろが淵の浅瀬に倒れていた。
どれほど気を失っていたのだろう。
東の空は既にほのぼのと白みだし、薄藍に明けの明星が輝いている。
絢爛豪華な屋敷は跡形もない。
軍人の男も、淵神を名乗った少年も、その姿はどこにもなかった。
夢でも見ていたのだろうか。
だが、そう考える名無しの手には、赤さびた短刀がしかと握られている。
確信を持てぬまま、名無しはぼんやりと守り刀を見つめた。
疲労のためか、流水に体力を奪われたか、体がひどく重い。
「何故お前が生きている」
地を這うような低い低いしゃがれ声に、名無しははっと振り向いた。
そこには、血走った目をした源治がいた。
「ひ、」
恐怖に駆られ、名無しは浅瀬にへたり込んだまま後じさった。
小刀が手から滑り落ちる。
ばちゃばちゃと水音は響けども、位置はほとんど変わらなかった。
水を吸った白無垢が四肢に重く絡みつく。
「なぜ、」
どぷん、と源治が浅瀬に足を踏み入れる。
もともとほとんど無かった距離は、あっという間に縮まった。
「なぜお前が生きていて、俺の娘がいなくなっているのだ!」
「あ、ぐ」
ばちゃん、とひときわ大きな水音を立てて、名無しは川底に押し倒された。
男の太い指が名無しの細い喉首を締め上げる。
喘ぐ口の端から水が流れ込み、ごぼごぼと水泡を立てた。