2 釣狐
『 《モリゴさん》 記録地:見嶋浜
収蔵分類:丙-イ 管理:第 六四二二六三 号
あるところに貧しい夫婦と、一人息子があった。
だが妻は病を得て先立ち、息子もじきに同じ病を得て寝付いてしまった。
稼ぎを得るため、男はたびたび薪を売りに町へ出たが、この日はひとつも売れずじまいだった。疲れ果てた帰り道のこと、かさばる薪を持ち帰る気にもなれず、男は「これは竜神さまに」と川に流した。
すると薪はするすると波間に飲まれ、その向こうから美しい女が現れたではないか。驚く男に女は竜宮の使いと名乗り、一人の幼い娘を寄越して言った。
薪の礼にこの娘を差し上げましょう。大事になさい。
さすれば、この娘はあらゆる災いから貴方を守るでしょう。
ただし、この娘との約束は決して破らぬように。
竜女に言われるまま、男は娘を連れ帰った。
だが、なにしろその日の食べ物にも困るような貧しい暮らし。
そのうえ家には病に臥せったままの息子もいる。
大事にせよとはいわれたが、さてどうしたものか。
男が途方に暮れていると、娘は何を思ったか、苦しげに眠る息子の頬をさらりと撫でた。すると驚いたことに、息子は生気を取り戻し、憑き物でも落ちたかのようにむくりと起き上がったではないか。
男はこれぞ竜神の祝福と大いに喜び、娘を実の子同様、大切にするようになった。
そのうち、誰が噂したものか、このふしぎな力を持つ娘の話は次第に評判となり、男のあばら家には引きも切らず、病を治してくれと方々から人が訪れるようになった。娘はそれらをみな、するりするりと撫でて癒やしたので、かれらからの謝礼によって男の家は非常に富み栄えた。
やがて娘は男の息子と夫婦となり、子をもうけた。
この娘にもまた、母と同じように病を癒やす力があったという。
この一帯で医者と神主を務める権門、大宮家は、この竜宮から来た娘の子孫であるという。女系にこの血を引く大宮の娘は「モリゴさん」と呼ばれ、周辺民から今なお敬われている。 』
○ ○ ○
「と、まあ。
モリゴについての記録は、およそ……こんなところ、ですね」
読み上げを終えた男は、ふ、と言葉を切った。
裡シャツに袴。脇に竹刀袋を携えた、いわゆる書生姿の、どことなく陰気な風のある青年。金烏の一、杢師嘉一郎である。
広げた資料を揃え直す嘉一郎に、奈緒はぺこりと頭を下げた。
「あの、ありがとうございました。
まだ、難しい字は読めなくて。……すみません」
「いえ……。ボクは今回、そういう役まわり、ですし。
どうぞ……お気に、なさらず」
恐縮する奈緒に、男はうっすら笑った。
少なくとも、奈緒の目にはそのように見えた。
車両が巨木の脇を通り抜ける。
窓から差し込む光が一瞬、遮られて闇に沈む。
直後広がる濃く鮮やかな緑の景色が、遠く速く流れてゆく。
線路を走る車輪の軋み、連結のぶつかる音。先導する蒸気機関の唸り。汽笛。
静かとは言えぬ汽車の中で、それでも男の声は不思議とすんなり耳に届いた。
「大体……モリゴであることが、確定したら。
アナタには、資料の読み上げなどより、よほど……厄介なことを。
依頼されることに、なるのでしょうし」
男の言葉に、奈緒はどきりとした。
昨晩返されたばかりの鏡をぎゅっと握りしめる。
手の内で、彫刻の蛇がもぞりと蠢いたような気がした。
──モリゴであるか、否か。
その確認の方法として陰陽頭が提案したのは、大宮うねの故郷を訪れること。
モリゴ伝承の残る土地には、当然ながらモリゴにまつわる伝承や祭礼が残されている。
そのうち最も大がかりなのが夏至祭である。
疫病除けにはじまったと言われるこの祭りの山場は、日没後。
日暮れとともに、モリゴは地域一帯を巡り、穢れを拭い歩いて海へと向かう。
そして小舟に乗ると社のある沖の小島に向かい、海で身を禊ぐことで一連の儀礼は完了する。
うねを最後にモリゴは絶えていた筈だが、見嶋浜では代理として大宮ゆかりの若い娘を立て、祭りを継承してていたらしい。
この祭りに乗り込んで、モリゴ役をつとめること。
それが、確認を引き受けた奈緒のすべきことであった。
判別の手段は、モリゴの役目を正しく果たせたかどうかを見ること。
そして果たせたかどうかを判別できるのは、正しい儀礼を知る土地の者だけ。
道理ではある。
だが、その付き添いがこの男なのは、何故なのだろう。
ちらと薄暗い男の顔を窺う。
この泊まりがけの遠出に、陰陽寮から寄越されたのは嘉一郎ひとりだった。
関口もタエ子も、そして勿論陰陽頭であるハルアキも、今回はいない。
馴染みのある相手は帰ってきたカガチだけ。
だがそのカガチにも、人目につく場所では頼れない。
陰陽寮の人員配置について、意見を差し挟める立場でない。
それはよくよく承知している。
だが、奈緒にとって嘉一郎はまだよく知らない相手である。
どうしても、身構えてしまうところがあるのは否定できなかった。
彼にしても、突然よくわからない娘のお守りを押しつけられた形のはずだ。
不満は、ないのだろうか。
奈緒の視線に気づいた嘉一郎が、口の端を上にねじ曲げてみせる。
奈緒もぎこちなく、微笑みを返した。
たたん、たたん。
客車の揺れる音。流れる風景。
「もし……疑問など、あるようなら。どうぞ、いまのうちに。
まあ……全て答えられるとは、限りませんが、……向こうについたら……、
それどころではない、可能性も……、あることです、し」
暗い目をした男は、ぼそぼそと言った。
やはり、その視線には慣れない。じっとりとした重みにたじろいでしまう。
だが、言い分はもっともだ。まず何から尋ねたものか。
あれこれ思い悩みながら、奈緒は口を開いた。
「……えと、じゃあ。
どうして今回、杢師さまがついてきて下さることになったんですか?」
土地に縁があるだとか、先代のモリゴであるという大宮うねと知り合いだとか。
もしかして、そういう理由なのだろうか。だったら。だとすれば。
そう淡く期待しての問いかけに、男は小首を傾げて答えた。
「消去法……?」
「しょ、消去法、……ですか?」
思わぬ答えに、奈緒はぱちぱちと目を瞬かせた。
ええまあ、と男は頷く。
「だいたい、……察しは、ついてるんじゃあ、ないですか?」
よくわからない。
奈緒は首を傾げた。
「アナタが……モリゴであるか、否か。
ウチの長は、まずは確認すると、言ってはいますし……事実、こうして、……確認しようとしても、いますが。実のところ、陰陽寮は……既に、アナタが、モリゴである前提で……。
もっと言えば、モリゴである、アナタの協力が、得られた……その前提で、動き出している」
顔がこわばるのがわかった。
男は一旦言葉を切り、返事を待っている。理解したことを、奈緒は頷きで示す。
確かに、それは薄々感じていたことだった。鏡の蛇が、物言いたげにずるり蠢く。
客車が揺れる。
「そして、……あの晩説明された、例の呪いの、対策、ですが。
撫物ひとつに呪いを集めて、処理。それを……実際にやるには、準備がいる。
取りこぼさぬよう、対象に目星をつけ、所定の位置に追い込み、方々に結界を張り……。それから、集めたあとの、処理にも。
やるべき事は、山積み……という、訳です。
多少なりとも、心得がある者は、……今は、いれば居るだけ、欲しい」
これも頷ける話だった。
ではなぜ、嘉一郎はそこから除外されたのだろう。
「その点、ボクは、その手の素養が皆無なので。
今は役立たず……という、わけです」
「そ、そうなんですか?」
またしても予想外の答えに、奈緒は大いに肩すかしを食らった気分になった。
ならば何故、この男は陰陽寮に所属しているのだろう?
訊ねてみたい気もしたが、際限なく話が脱線する予感がする。
流石にそれは望むところではないので、奈緒は質問を変えることにした。
「なら、その……。
杢師さまは、うねという人について、他に何かご存じではないですか。
たとえば一緒にお仕事をしたことがある、とか」
「いいえ」
ゆるゆると男は首を横に振る。
「そもそも……大宮うねの失踪は、十七、八年前、ですよ。
ボクが、陰陽寮入りしたのは……三年前。入れ替わりも激しい、ですし。
その頃からいる、職員は……正直、……そう、多くない」
「あ、……そっか」
少し考えてみればわかることだった。奈緒の母と目される女である。
親子関係がはっきりしない以上、失踪は奈緒の誕生前の筈で、
年齢を考えれば目の前の男と所属年代が被るわけはない。
奈緒は恥ずかしくなった。
言葉が途切れる。
結局、わからないことをわからないと確認するだけに終わってしまった。
「わ、」
汽車がカーブに差し掛かる。
不意に客車が大きく揺れ、奈緒の体も大きく傾いだ。
座席からずり落ちかけた体を、男の手が掴む。
「危ない、ですよ」
「すみません。ありがとうございます」
「いえ」
思いのほか、大きな手だった。
奇妙な沈黙が落ちる。
「……。……結局、」
それを破ったのは、嘉一郎のほうだった。
「アナタも、捕まりましたね。どんな、気分です?」
「……実感が、ない、です」
「……」
ゆるゆると手が離れる。
何を訊かれているかはわかっているつもりだ。
C案件のこと。己の出自のこと。母かもしれない女のこと。
流石に、それらを知った上で、陰陽寮と無関係を貫ける気はしていない。
“陰陽寮に来た方がいい”。
図らずも、あの日囁かれた助言に従うことになった形だ。
選択肢を与えられておきながら、選ぶことはできなかった。
きっと、それは悔やむべきことなのだろう。
だが奈緒の唇からは、言うつもりのなかった言葉がこぼれた。
「でも……。どこか、ほっとした気もしていて」
「でしょうね」
嘉一郎はさらりと相槌を打った。力みのない声音だった。
もしかして、と奈緒は思う。このひともそうだったのだろうか。
じっと正面の男を見る。直接訊ねるのは、流石に躊躇われた。
○ ○ ○
駅に降り立つと、既に迎えの馬車が手配されていた。
それに乗り込み、しばらくゆけば大宮本家の屋敷にたどり着く。
「よくぞおいで下さいました」
二人を出迎えたのは、地元の名士然とした中老の紳士である。
丸眼鏡に口髭を蓄えた男は、名を大宮盛綱と名乗った。
この地域一帯を束ねる、大宮の本家当主である。
紳士は奈緒を見て、皺の目立つ目尻を柔らかく下げた。
まるで眩しいものを仰ぐかのように、まるくちいさな硝子向こうの目を眇める。
誰かの影を透かし見るような仕草に、奈緒は落ち着かぬ気持ちになった。
己はそんなに、うねと似ているのだろうか。
それを確かめるには、たじろいでばかりも居られない。
一先ず挨拶を、と奈緒が薄い胸に息を吸った、その時だった。
「陰陽寮より派遣されました、杢師嘉一郎と申します。
このたびは突然の申し出に快くご協力いただけたこと、深く感謝致します」
裡シャツに袴。脇に竹刀袋を携えた青年は、完爾と笑った。
影のない、爽やかな笑みだった。
それから、こちらが件の。
水を向けられてようやく、奈緒は気を取り直した。
あわあわと一つお辞儀をして、奈緒です、とだけ名乗る。
他に用意していた言葉は、すっかり吹き飛んでいた。
「ええ、宜しく……お嬢さん? どうかされましたかな」
「ああ。
鉄道をつかっての長旅だったもので、少し疲れが出たのかもしれませんね。
申し訳ありませんが、今日は早めに休ませていただいても?」
「勿論です」
淀みない口ぶり、控えめながら毅然とした物腰、爽やかな笑顔。
造形はなにひとつ変わっていないというのに、立ち振る舞いが別人すぎる。
同行者のあまりの変貌に、奈緒は呆気にとられていた。
──誰だ、この男。