1 翁ナシ・護児
陰陽寮庁舎内には、ちょうど別件を終えたところらしき金烏が集っていた。
夜も明けきらぬうちに駆り出された面々は、しかし誰も彼も疲労の色が濃い。
目の下の隈を濃くしたタエ子、竹刀袋を抱え、壁に凭れる青白い顔の嘉一郎。
見知った顔もいくつかあるが、薄闇を透かしてなお窶れが見えるのは同じだ。
その中で、執務机に腰掛けた狐顔だけが飄然としている。
ぐるり周囲を見渡して、ヒリついた空気感に奈緒は身を縮こめた。
どうやら、自分は随分なおおごとに巻き込まれているらしい。
何も聞かされていない娘にわかるのは、精々がそれぐらいのものだった。
獣退治の始末もそこそこに、虚空坊と名乗った大男は奈緒に同行を求めた。
確認することがあるのだという。その確認事項とやらが、たった今関口と奈緒の間で起きたことに関係するのは想像に難くない。
奈緒は頷いた。何より、この状況で関口と離れたくなかった。
そして、今。
「で、だ」
一通りの報告を終え、口火を切ったのは虚空坊だった。
「なァ、ハルアキ。お前、モリゴがいることを何故言わなかった。
もっと早くにわかってりゃ、このクソ案件もとうに始末の目処がついてた筈だ」
「そりゃあ、彼女がモリゴである確証がなかったからね。
確認しようにも、一般人相手に無茶はできないし。
ホラ、当人の意思ってものもあるだろう?」
僅かに首を傾げ、悪びれることなく陰陽頭は言った。
その顔には、意図の読めぬ薄笑いが張り付いたままだ。
「当人の意思、だァ?
ンな悠長なことを言ってる余裕があると思ってんのか」
「御坊」
声を上げたのは関口である。
奈緒はそっと傍らの男を見上げた。先程から表情が硬い。
何もわからぬまま、それでも奈緒は男を案じずにはいられなかった。
「彼女を陰陽寮に引き込もうとするのを止めたのは俺です」
「そういう話じゃねえ」
一瞥もくれず、老山伏は関口の言を切って捨てた。
巨漢の射貫くような視線はただ、薄笑いを浮かべた狐顔に固定されている。
「そも前提が違う。お前はモリゴが何かも知らされて無かったろうが。
その条件ならお前が下したのは真っ当な判断だろうとも。
巻き込まれただけの、素養もねえ小娘をこっちに引きずり込むこたねえ。
だがハルアキ。お前は違う。お前は知ってた。
確証はなくとも、これだけ面影がありゃ目星はついたはずだ」
「んー。まあ、そこは否定しないけれども」
「あのさァ」
両者のやりとりに、割って入ったのはタエ子だった。
目を半眼に据え、疲れの濃い顔でふうッ、と細く息をつく。
「盛り上がってるところ悪いんだけど、あたしたちにも話が見えないのよね。
仕事上がりに態々同席させられるってことはこっちにも関係する話なんでしょ?
いいから、まずはわかるように説明して頂けません?」
正直眠いのよねと続ける女の言葉を遮る者はない。
横たわる沈黙は何より雄弁に、周囲がその言い分を支持していることをあらわしていた。
陰陽頭が軽く肩を竦める。山伏も異を唱えはしなかった。
「ま、そうだね。じゃあ、まずはC案件のおさらいといこうか」
曰く。
それは接触によって感染する呪詛である。
中でも霊性に寄った存在、妖魔神霊の類には覿面に効く。
人であれば発狂に止まるところを、存在の本質を霊性に置くものはその核にまで染み入られる。その霊質を塗り替えられ、新しい呪いに成り果てる。そして成り果てたソレは、再び方々に呪いを撒き散らしながら帝都の中心を目指す。
陰陽寮では、これへの対処が大問題となっている。
打つべき手はわかりきっている。
素の呪詛そのものは厄介ではあるが強くはない。
取り込まれた場合も、成り果てる前であれば対処可能なのは確認済みだ。
であればこの呪詛から妖魔神霊の類を遠ざけ、法力僧や払魔神職や、それこそ陰陽師といった人が対処に当たり、各個分断の上地道に潰してゆけばよい。
だが。
陰陽寮には、その人こそが不足していた。
実のところ、陰陽寮所属の人員には関口をはじめ混じりモノが多い。
何も不思議なことではない。理外の事件を扱うのに、理外の存在が向いているのは当然のことだ。だが、この件に関してはそれが裏目に出た。
山伏の虚空坊、使役の使い捨ての効くタエ子、霊剣使いの嘉一郎。
現場で問題なく対処に当たれるのは、これら職員のわずか一部である。
自然、業務はその一部に集中した。しかし他の負担が軽くなった訳でもない。
人外を寄越した事案が蓋を開けてみればC案件、という事例が頻発した為である。結果として、各事案の対処にはこれまで以上に慎重にならざるを得ず、それは対処の遅れとなった。対処の遅れは事態の深刻化を招き、後始末に必要とする人手を増やした。
じりじりと人手は削られ続け、対処可能な人員への負担は更に重くなる。
対処が遅くなることで感染は広がり、要求される手数はさらに増大する。
つまるところ、陰陽寮は悪循環に陥っていた。
「だからこそ、モリゴの有無が要になってくるわけだ。
これに関してはまあ、虚空坊の指摘通りだね」
陰陽頭の説明に、あの、と奈緒はたまらず声を上げた。
周囲の視線が己が身ひとつに集う。
その重さに怯みながらも、娘はどうにか言葉を続けた。
「その、……モリゴって、結局なんなんですか」
奈緒が知りたいのは、つまるところそれだった。
状況から、どうやらそれが己を指す言葉らしいのはわかる。
だがそれがどんなもので、C案件とやらとどう関わるのかがさっぱりわからない。
「うん。それも今から説明しよう」
陰陽頭は、薄明かりの中でひとつ頷いて見せた。
「モリゴ」とは、何か。
字は護児と当てる。
曰く、それは「生ける身代わり人形」なのだという。
他者の受けた呪い穢れの類を引き受け、その身に溜め込むことができる。
常人ならば即座に発狂しかねないような瘴気の只中で正気を保ち、内臓をひっくり返し七孔噴血してのたうつが如き呪詛を受けてなお平然としていられる。
血の通う撫物、肉を具えた流し雛。
「えっと、?」
奈緒は困惑のままに小首を傾げた。
なにやらすごいらしいのはわかった。
だが、一体どうしてそれが己に繋がるのかがわからない。
いまいちピンとこない顔の娘に、山伏が口を開いた。
「モリゴは女系なのさ。
その特性は母から娘へ、血を通じて継承される。
現在確認されている最後のモリゴの名は、大宮うね。
そこの関口がお前の故郷を訪ねたのは、そいつの消息を確かめる為だった」
結局死んでたのがわかっただけだったがな、と山伏は言葉を締める。
頭に、ぐわんと衝撃が走った。
面影がある。
山伏が先程、そんなことを言っていなかったか。
それは、つまり。
母?
霧の向こうにあった輪郭が、急にくっきりした像を結んだ。
一方で、その手触りはふわふわと曖昧なままに蟠っている。
そんな娘の衝撃をよそに、話は進む。
改めて、C案件の問題とはなにか。
それは対処に割ける人員が非常に限られていること。
そのくせ、対処がおくれるとあちこちで増殖し負担を増やすこと。
そう。
要は分散しているから問題なのだ。
手数が足りないなら、足りるところまで纏めてしまえばいい。
全ての呪いを撫物ひとつに集約出来れば、あとはたった一手で済む。
「まあ……この面倒に、カタがつくなら、何でも……構わない、ですが。
その撫物に……モリゴを使う、必要性は……?」
ぼそりと、場に嘉一郎の呟きが落ちた。
狐顔の男は、それを何食わぬ顔で拾い上げる。
「うん。まあ、ありきたりな撫物で用が足りるなら話は早かったんだけど。
残念ながら、普通に用意できる奴じゃまるで追いつかなかった。
そんな呪いを全部ひっくるめて背負える何かがあるとすれば、ま、それはモリゴぐらいのものだろうね」
フウ、と山伏が大きく息をついた。
その射貫くような視線が、ぐるり奈緒に向けられる。
「ともかく、要はそういうこった。
嬢ちゃんにゃ悪いが、もう悠長に意思確認してる場合じゃねえ。
どうあっても協力してもらわにゃならん。すぐにでもだ」
「それには同意しかねる」
関口が唸った。
山伏がぎろりと目を向ける。
「──おい。お前さん、どういうつもりだ」
「どういうつもりも何も、性急過ぎます。
まだ彼女がモリゴであるかどうかの確認は取れていない。
その可能性が高いというだけだ。違いますか。それに」
関口は言葉を切った。
僅かに、続きを躊躇ったようだった。
「大宮うねの例を見る限り、モリゴも呪詛に対して万能な訳ではない」
故に、その能力を過信して事を進めるべきでない。
関口の言い分に、そうだね、と陰陽頭が言葉を継いだ。
「モリゴにも限界はあるし、個人差もある。
呪詛をその身に集めてもらうにしても、まずそれがどこかの見極めは必要だよ。
それに先にも言ったとおり、彼女がモリゴである確証はまだない。
ぶっつけ本番一番勝負、間違ってたら死んでくれだなんて言えないだろ?」
ハハ。男は声を立てて笑った。
当人は面白い冗談でも言ったつもりだったかもしれないが、他に笑う者はない。
ただ、それを気にした風もなかった。
「それで、だ。奈緒君。
きみは、ここまでの説明を理解してもらえたかな?」
突然の呼びかけに、奈緒はびくりと跳ね上がった。
なるほどここまでの説明はすべて己に向けたものだったのか、と思う。
ともかく、理解はできたつもりだ。奈緒はおずおずと頷いた。
「じゃあそれを踏まえてのお願いがある。
実際にきみがモリゴであるか否か。
まずはそれを確認してきてほしいんだけれど」
さて、引き受けてくれるかい?
顔の前で指を組み、狐はにんまりと笑った。