9 真神
頭上に影がかかった。どちゃり。
重く濡れた音とともに、大きな塊が目の前に降ってくる。
影は射干玉の夜をさらに煮詰めたような黒。
泥のようなその影が、のたりと俯いた顔を振り向ける。
「っひ、」
奈緒の悲鳴は喉で詰まった。
夜闇に光る黄色い目が、怯える娘を見てうっそりと嗤っている。
雄牛の如き大きさを除けば、影の姿は背を丸めた、腕の長い猿に似ていた。
例の臭いが格段に強くなる。
「あ、う……」
意味のない呻きが唇から漏れた。獣の笑みが深くなる。
心臓はどくどくと忙しなく早鐘を打つのに、体は凍りついたように動かない。
もぞり、獣が動いた。
逃げなくては。
踵を返し、奈緒は弾かれたように走り出した。
足がもつれる。息が上がる。匂う。
生ぬるい風が吹いている。
強い獣の匂い。腐肉と血膿の、汚れた生臭さ。
髪切り虫のときと同じにおいだ、と奈緒はようやく気づいた。
ただ、あのときよりずっと強い。
「!」
どちゃっ。どぢゅん。
いくらも走らぬうちに、眼前にまた影が降った。今度は二つ。
黒々とした影に爛々と輝くのは、二組のニタニタとした黄色い目。
「あ、う……、」
奈緒の足は今度こそ止まった。
にじり寄る影から、それでもどうにか逃れようと後退る。
地を擦る足が、ざり、と乾いた音を立てた。
どうすればいい。どうすれば逃げられる。
僅かに振り向いて、奈緒は凍りついた。
そこには最初に落ちてきた影がまだ、そのままに居る。
嗤っていた。
「あ、」
三頭。
囲まれている。
ひひ。ぼそぼそ。ぶつぶつ。
べたりべたり濡れた足音を立てながら、影は三方からゆっくりと近づいてくる。
奈緒を囲う輪が次第に縮まってゆく。
──如何に分ける。
──おれは腿の柔肉がよい。
──おれは腑が欲しい。
──おれは頭蓋をくだいて中を啜ろ。
──ひひ。
萎えた足がついに体を支え損ねて、奈緒はその場にへたり込んだ。
歯の根が合わない。がちがちと奥歯が鳴る。体のどこにも力が入らない。
その間にも、包囲は狭まっている。もう獣は目の前にいた。
「ッ、」
ふうっ、と生臭い息が顔に吹きかかった。
耳元でふすふすと鼻息が聞こえ、匂いを嗅がれているのだと悟る。
思わず身を硬くすれば、何がおかしいのかひひ、と忍び笑いが漏れた。
嬲られている。
体が恐怖で凍りつく一方で、頭の中には妙に冷静な部分が残っていた。
家を出ておいて良かった。思いのほか声を上げずに済んでよかった。
あとはせめて、楽に殺してくれればいい。ぎゅっと目を瞑る。
或いは、極限状態のあまり感情が麻痺していただけかもしれない。
娘が己の死を覚悟した、その時だった。
ふ、と。
風向きが変わった。
「……?」
肌に触れんばかりに近づいていた獣の気配が離れる。
恐る恐る薄目をあければ、獣どもが狼狽えだしているのが見えた。
空を振り仰ぎ、落ち着き無くあたりを見渡している。
濡れた毛を逆立て、ひくひくと鼻先を忙しなく蠢かせている。
──匂う。
──匂うぞ。
──如何にする。
頭を突き合わせて、三頭はぼそぼそと討議をはじめた。
囲いの隙を見て逃げようにも、腰は完全に抜けてしまっている。
何が起きているのかわからぬまま、奈緒は呆然と獣どものやりとりを見上げた。
──これな娘は捨て置いて、疾く去の。
──否、否、颯と喰ろうて仕舞お。
──欲深め。
──腰抜けめ。
──ええ、諍うな。
意見はまとまらないようだった。
一頭は苛々と奈緒の周りをうろつき、
一頭はそわそわとあたりを窺い、
一頭はじっと何かを思案している。
それら全てを切り裂くように、どこかでちち、ち、と鋭く鳥が鳴いた。
耳慣れた、伝令の歌。
──夜雀じゃ。
──来たか。
──来るぞ。
──セキグチがくる。
──御座に伏しおる赤口が来る!
奈緒にその言葉の意味を理解する余裕はなかった。
変化は刹那のうちに起きた。
真っ先に動いたのは先から及び腰だった一頭である。
軒上に飛び上がろうとしたその頭を、横合いから飛んだ独鈷杵が砕いた。
どうと骸が地に落ちるを待たず、朗、と経を誦す太い声が響き渡る。
唱えられるは不動経である。
途端、見えぬ索で縛られたかの如く、残る二頭も不自然に地を舐めた。
しゃん。
錫杖が鳴る。
闇夜に白い装束がぽうと滲む。
黒の向こうから現れたのは、山伏姿の大男であった。
異相である。日に焼けた赤ら顔、風に揺れる白髪混じりの蓬髪。
その風貌が男の積み上げた年月の厚みをありありと伝える一方で、筋骨隆々とした肉体は一向その衰えを感じさせぬ。
しゃん。
地に転がった影は耳障りな金属音めいた咆哮を上げ、不可視の呪縛を破ろうとしきりに藻掻いていた。
獣の抵抗が大きくなるたび、山伏の声も一際高らかになる。
山伏が、獣どもを調伏せしめようとしているのは明らかだった。
山伏と、影の獣が二頭。
両者は一定の距離を保って対峙している。
急変した状況はここに膠着した。大きく動くのは風ばかりである。
その風に吹き散らされたか、一瞬、雲のあわいから月光が差した。
山伏の額にうかぶ脂汗が鈍く光るのが、奈緒の目にも見える。
男にとっても、相手取るに易い相手ではないのだろう。
ぎろり大男の目玉が動いた。目が合う。
行け。
雄弁に語る視線に、奈緒ははっと我に返った。
知らぬうちに息を詰め、安穏と状況に見入ってしまっていた。
一瞬たりとも気の抜けぬ状況にあって、場の只中にへたりこむ小娘は心底邪魔に違いない。せめて少しでも、獣どもから離れるべきだった。
わたわたと立ち上がろうとして、しくじる。
震える膝はまだ言うことを聞かない。
思うように動かない体に焦れながら、奈緒はじりじりと地を這った。
やわい掌が荒い砂にまみれる。
咆哮。
ばぢん、と何かがはじけ飛んだ気配があった。咄嗟に蹲る。
場の均衡がついに崩れたのだった。
不動経の呪縛を破って飛びかかる獣に、山伏は錫杖の一打ちで応じる。
視界の端、残る一頭が山伏の背後に回り込もうとしているのが見えた。
危ない。奈緒はそう叫ぼうとして、叶わなかった。
体は空に浮いている。
「、え?」
いつのまにか両の手足は地面を離れていた。
現状を理解できぬまま呆然と見上げれば、澱んだ黄色い瞳とかち合う。
ヒッ、と悲鳴が娘の細い喉に絡んだ。
頭蓋を砕かれた筈の、三頭目であった。
毛むくじゃらの太い腕が奈緒の胴をがっしりと抱え込んでいる。
半ば中身を撒き散らしながら、しかし獣はまだ動いていた。
血膿の混じった獣臭がぷんと強く匂う。攫われる。
「阿呆、出るなッ!」
山伏が何か叫んでいた。
彼はまとわりつく二頭を捌くので手一杯と見え、その場に釘付けにされている。
奈緒も身を捩れども拘束は固く、逃げを打つ三頭目を遮るものはない。
手負いの獣は娘を抱え上げたまま、風の如く屋根の上へ駆け上る。
そして──衝撃が奔った。
「!」
無傷のまま、奈緒は空に放り出されていた。
妙に間延びして感じられる落下のさなか、娘は己を抱えていた獣の腕がちぎれ落ちてゆくのを見た。字面通りに、獣が八つ裂きにされるのを見た。
闇の中で、燃えるように赫い、大きな口を見た。真神。
ぼたぼたと獣の破片が降る。
その中にあって、奈緒が地面にたたきつけられる事は無かった。
ふ、と熱い吐息が着物越しに娘の肌を撫でてゆく。
それは巨狼であった。
その顎に、奈緒は銜えられている。
雷光の如き疾さで獣を噛み砕いたこの大神は、空に投げ出された娘を捕らえ、そのまま危うげなく着地してのけた。奈緒のうすい腹に、やわく硬い牙の感触が刺さる。不思議と、恐ろしくはなかった。
そっと地に足がつく。狼の吻がゆっくりと娘から離れる。
支えを失って、奈緒はぺたんと地にへたりこんだ。まだ立てそうにない。
散々振り回されたお陰で三半規管がやられていた。頭がぐらぐらする。
ぶれる視界の中で、娘の顔を覗き込む巨狼の瞳は星のように明るい。
離れて、断末魔が上がった。
残る二頭の片割れを山伏が仕留めたものであるらしい。
流石に不利を見て取ったらしい最後の獣はついに逃げを打ったが、取って返した巨狼に阻まれ空しい試みとなった。肉片が散る。
終わってみれば、呆気ない幕切れだった。
あたりは一面血と肉片とに塗れ、吐き気を催すほどに濃い腐臭に満ちている。
ひどい騒ぎだった筈だが、近くの住民が起き出してくるような様子はない。
あたりはしんと静まりかえっていた。
大方、山伏が前もって人払いしていたのだろう。
似たような状況に、奈緒はいくつか覚えがあった。
その山伏はといえば、獣の骸の側で何かを検分している。
いつのまにか、厚い雲は完全に拭われていた。
星々はまばらに瞬き、冷たい月光は白々と沈黙する街並を照らしている。
どうと重たいものが崩れ落ちる音に、奈緒ははっと目を向けた。
巨狼が地に伏せている。灰色の毛並みは血に汚れ、その顔は心なしか苦痛を堪えているように見えた。
ふらふらと引き寄せられるように、奈緒は横たわる巨狼に近づいた。
確かめるに、手傷を負っているわけではないようだ。
濡れて見えるのは返り血に過ぎない。
だが、狼は横たわったまま動こうとしなかった。
明るい瞳だけが、じっと娘の仕草を追っている。
恐る恐る、湿った鼻先に触れる。
確かめるように鼻梁を撫でれば、少し癖のある、ごわついた短い毛の感触。
その真下、薄くひらいた口からは、熱く湿った吐息が断続的に漏れている。
触れたまま、ゆっくりと下になぞる。黒く厚い護謨のような口唇はやわらかい。
その奥には白く尖った歯牙。わずかにはみ出た薄くて長い舌。
濡れた口内。燃えるが如きいのちの温度。その奥は柘榴の如く赫い。
無遠慮に触れる娘の手を、狼は振り払わない。
ただ、その思慮深げな明るい虹彩に、奈緒はなぜか見覚えがある。
「せきぐち、さま?」
ゆるり、輪郭が溶けた。
添えた手は、よく知った男の頬を包んでいる。
彫りの深い精悍な顔だち。
少し癖のある短髪、明るい色あいの、鋭い目元。
目に見えぬ苦痛の為か、眉根はきつく寄せられている。
関口、早太郎。
「──ッたく。
出るなと言ったろうが、この阿呆め」
ぞりッと重い足音。
娘の後ろに、用事を終えたらしき山伏が立っていた。
大きいと察してはいたが、間近に立たれるとそれが一層顕著になる。
筋骨の厚みも相まって、その姿は言いようのない圧迫感があった。
味方であれば頼もしく思うところなのだろう。
だが、奈緒は男の苦々しい表情に、漠然と不安を覚えた。
「最後に、言い残すことはあるか」
今、何と言った?
奈緒は己の耳を疑った。指先がしんしんと冷えてゆく。
嫌だ。その意味を理解などしたくない。縋るように関口を見る。
ふ、と息をついて、関口は目を伏せた。
視線の合わぬまま、そっと奈緒を押しのける。
掌が温度を失う。
「あれに。あとを頼む、と」
それは──それは、まるで。
嫌な確信が胸の内で膨れ上がって、心臓を押し潰す。
咄嗟に、奈緒は関口をその背に庇っていた。
「まって、待って下さい。なにを、するんですか」
「退きな、娘ッ子。そいつはタチの悪い呪いを引っ被ったのさ。
回り切る前に息の根を止めにゃならん」
そんな。
呟きは夜の静寂に溶けた。
「いや。だ、だめです」
「二度言わせるな。退け」
厳然と、山伏は告げた。
奈緒は必死に首を横に振る。
無駄なことは判っている。
それでも大人しく従うことは出来なかった。
このひとに、死んでほしくない。何に替えても。
「のッ、……呪いなら!
わたしが代わりに引き受けます!」
だから。
ぐうと胸が詰まる。
だからなんだというのか。
何の力もない小娘が、引き受けるなどと喚いてみたところで何もできはしない。
それを、たったいま身に染みて理解させられたところではないか。
何もできなかった。何もできなかった。
何一つ、己にはできなかった。ただ場をかき回しただけだ。
のし掛かる無力と後悔と、それらのもたらす絶望が、軋むように重い。
震えながら、奈緒は吐き気すら覚えていた。
止まったはずの涙が、またぞろ勝手に滲んでくる。
水気で歪んだ視界に映る山伏は──なぜだかひどく驚いた顔をしていた。
「……待て待ておい待て。
えー、ウン。なんだ……その、早太郎よう。
こいつ、まさかみどろが淵のアレか?」
困惑しきった声で、山伏が言った。
親しい者に呼びかけるような、乱暴で気安い響き。
そこには、先程までの凍てついた覚悟の色はない。
「そう、ですが」
対する関口の返答も、どこか呆然としていた。
振りむけば、男が普段は鋭い目をまるくして奈緒を見つめている。
苦痛を堪えるような素振りも、綺麗さっぱり失せていた。
「えっと……?」
涙は勝手に引っ込んだ。
何かが起きたのは、奈緒にもわかる。
だがそれが何かはまるでわからない。ただ、体が奇妙に重かった。
「おい、娘。体は。
どっかおかしいところはねえか」
大男の問いかけに、奈緒はびくりと跳ねた。
返答次第で、また殺すだの殺さないだのという話になったりしないだろうか。
どう答えるべきか考えあぐねて、それでも結局、奈緒は正直に感じるままを告げた。
「あの……。なんだか、だるいかもしれないです」
「他は。気持ち悪いだのなんかぐらぐらするだの、そういうのは」
「胸がむかむか、します。すこしだけ」
「それだけか」
「はい」
おずおずと頷く。
それを見て、老山伏は唸りながら深く深く溜息をついた。
錫杖を握る太い指で、荒れた蓬髪を乱暴に掻き毟る。
それからがばりと顔を上げ、割れ鐘の大音声で以て、吠えた。
「モリゴがいるなら先に言えッ!
余計な覚悟を決める羽目になっただろうがッ!」