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大照妖異譚  作者: 大平 凡
5章 真神
47/56

9 真神

 頭上に影がかかった。どちゃり。

 重く濡れた音とともに、大きな塊が目の前に降ってくる。

 影は射干玉(ぬばたま)の夜をさらに煮詰めたような黒。

 泥のようなその影が、のたりと俯いた顔を振り向ける。


「っひ、」


 奈緒の悲鳴は喉で詰まった。

 夜闇に光る黄色い目が、怯える娘を見てうっそりと嗤っている。

 雄牛の如き大きさを除けば、影の姿は背を丸めた、腕の長い猿に似ていた。

 例の臭いが格段に強くなる。


「あ、う……」


 意味のない呻きが唇から漏れた。獣の笑みが深くなる。

 心臓はどくどくと忙しなく早鐘を打つのに、体は凍りついたように動かない。

 もぞり、獣が動いた。


 逃げなくては。


 踵を返し、奈緒は弾かれたように走り出した。

 足がもつれる。息が上がる。匂う。

 生ぬるい風が吹いている。

 強い獣の匂い。腐肉と血膿の、汚れた生臭さ。


 髪切り虫のときと同じにおいだ、と奈緒はようやく気づいた。

 ただ、あのときよりずっと強い。


「!」


 どちゃっ。どぢゅん。

 いくらも走らぬうちに、眼前にまた影が降った。今度は二つ。

 黒々とした影に爛々と輝くのは、二組のニタニタとした黄色い目。


「あ、う……、」


 奈緒の足は今度こそ止まった。

 にじり寄る影から、それでもどうにか逃れようと後退る。

 地を擦る足が、ざり、と乾いた音を立てた。


 どうすればいい。どうすれば逃げられる。

 僅かに振り向いて、奈緒は凍りついた。

 そこには最初に落ちてきた影がまだ、そのままに居る。


 嗤っていた。


「あ、」


 三頭。

 囲まれている。


 ひひ。ぼそぼそ。ぶつぶつ。

 べたりべたり濡れた足音を立てながら、影は三方からゆっくりと近づいてくる。

 奈緒を囲う輪が次第に縮まってゆく。



 ──如何に分ける。


 ──おれは腿の柔肉がよい。

 ──おれは(ハラワタ)が欲しい。

 ──おれは頭蓋をくだいて中を啜ろ。


 ──ひひ。



 萎えた足がついに体を支え損ねて、奈緒はその場にへたり込んだ。

 歯の根が合わない。がちがちと奥歯が鳴る。体のどこにも力が入らない。

 その間にも、包囲は狭まっている。もう獣は目の前にいた。


「ッ、」


 ふうっ、と生臭い息が顔に吹きかかった。

 耳元でふすふすと鼻息が聞こえ、匂いを嗅がれているのだと悟る。

 思わず身を硬くすれば、何がおかしいのかひひ、と忍び笑いが漏れた。

 (なぶ)られている。


 体が恐怖で凍りつく一方で、頭の中には妙に冷静な部分が残っていた。

 家を出ておいて良かった。思いのほか声を上げずに済んでよかった。

 あとはせめて、楽に殺してくれればいい。ぎゅっと目を瞑る。

 或いは、極限状態のあまり感情が麻痺していただけかもしれない。

 娘が己の死を覚悟した、その時だった。


 ふ、と。

 風向きが変わった。


「……?」


 肌に触れんばかりに近づいていた獣の気配が離れる。

 恐る恐る薄目をあければ、獣どもが狼狽えだしているのが見えた。

 空を振り仰ぎ、落ち着き無くあたりを見渡している。

 濡れた毛を逆立て、ひくひくと鼻先を忙しなく蠢かせている。



 ──匂う。

 ──匂うぞ。


 ──如何にする。



 頭を突き合わせて、三頭はぼそぼそと討議をはじめた。

 囲いの隙を見て逃げようにも、腰は完全に抜けてしまっている。

 何が起きているのかわからぬまま、奈緒は呆然と獣どものやりとりを見上げた。



 ──これな娘は捨て置いて、疾く()の。

 ──否、否、(さっ)と喰ろうて仕舞お。


 ──欲深め。

 ──腰抜けめ。


 ──ええ、(いさか)うな。



 意見はまとまらないようだった。


 一頭は苛々と奈緒の周りをうろつき、

 一頭はそわそわとあたりを窺い、

 一頭はじっと何かを思案している。


 それら全てを切り裂くように、どこかでちち、ち、と鋭く鳥が鳴いた。

 耳慣れた、伝令の歌。


 ──夜雀じゃ。


 ──来たか。

 ──来るぞ。


 ──()()()()()()()

 ──御座に伏しおる赤口(セキグチ)が来る!



 奈緒にその言葉の意味を理解する余裕はなかった。

 変化は刹那のうちに起きた。


 真っ先に動いたのは先から及び腰だった一頭である。

 軒上に飛び上がろうとしたその頭を、横合いから飛んだ独鈷杵が砕いた。

 どうと骸が地に落ちるを待たず、朗、と経を誦す太い声が響き渡る。

 唱えられるは不動経である。

 途端、見えぬ索で縛られたかの如く、残る二頭も不自然に地を舐めた。


 しゃん。

 錫杖が鳴る。


 闇夜に白い装束がぽうと滲む。

 黒の向こうから現れたのは、山伏姿の大男であった。

 異相である。日に焼けた赤ら顔、風に揺れる白髪混じりの蓬髪。

 その風貌が男の積み上げた年月の厚みをありありと伝える一方で、筋骨隆々とした肉体は一向その衰えを感じさせぬ。


 しゃん。


 地に転がった影は耳障りな金属音めいた咆哮を上げ、不可視の呪縛を破ろうとしきりに藻掻いていた。

 獣の抵抗が大きくなるたび、山伏の声も一際高らかになる。

 山伏が、獣どもを調伏せしめようとしているのは明らかだった。


 山伏と、影の獣が二頭。

 両者は一定の距離を保って対峙している。

 急変した状況はここに膠着した。大きく動くのは風ばかりである。


 その風に吹き散らされたか、一瞬、雲のあわいから月光が差した。

 山伏の額にうかぶ脂汗が鈍く光るのが、奈緒の目にも見える。

 男にとっても、相手取るに易い相手ではないのだろう。

 ぎろり大男の目玉が動いた。目が合う。


 行け。


 雄弁に語る視線に、奈緒ははっと我に返った。

 知らぬうちに息を詰め、安穏と状況に見入ってしまっていた。

 一瞬たりとも気の抜けぬ状況にあって、場の只中にへたりこむ小娘は心底邪魔に違いない。せめて少しでも、獣どもから離れるべきだった。


 わたわたと立ち上がろうとして、しくじる。

 震える膝はまだ言うことを聞かない。

 思うように動かない体に焦れながら、奈緒はじりじりと地を這った。

 やわい掌が荒い砂にまみれる。


 咆哮。


 ばぢん、と何かがはじけ飛んだ気配があった。咄嗟に(うずくま)る。

 場の均衡がついに崩れたのだった。

 不動経の呪縛を破って飛びかかる獣に、山伏は錫杖の一打ちで応じる。

 視界の端、残る一頭が山伏の背後に回り込もうとしているのが見えた。


 危ない。奈緒はそう叫ぼうとして、叶わなかった。

 体は空に浮いている。


「、え?」


 いつのまにか両の手足は地面を離れていた。

 現状を理解できぬまま呆然と見上げれば、澱んだ黄色い瞳とかち合う。

 ヒッ、と悲鳴が娘の細い喉に絡んだ。


 頭蓋を砕かれた筈の、三頭目であった。

 毛むくじゃらの太い腕が奈緒の胴をがっしりと抱え込んでいる。

 半ば中身を撒き散らしながら、しかし獣はまだ動いていた。

 血膿の混じった獣臭がぷんと強く匂う。攫われる。


「阿呆、出るなッ!」


 山伏が何か叫んでいた。

 彼はまとわりつく二頭を捌くので手一杯と見え、その場に釘付けにされている。

 奈緒も身を捩れども拘束は固く、逃げを打つ三頭目を遮るものはない。

 手負いの獣は娘を抱え上げたまま、風の如く屋根の上へ駆け上る。

 そして──衝撃が奔った。


「!」


 無傷のまま、奈緒は空に放り出されていた。

 妙に間延びして感じられる落下のさなか、娘は己を抱えていた獣の腕がちぎれ落ちてゆくのを見た。字面通りに、獣が八つ裂きにされるのを見た。

 闇の中で、燃えるように(あか)い、大きな口を見た。()()


 ぼたぼたと獣の破片が降る。

 その中にあって、奈緒が地面にたたきつけられる事は無かった。

 ふ、と熱い吐息が着物越しに娘の肌を撫でてゆく。


 それは巨狼であった。

 その顎に、奈緒は銜えられている。


 雷光の如き疾さで獣を噛み砕いたこの大神(オオカミ)は、空に投げ出された娘を捕らえ、そのまま危うげなく着地してのけた。奈緒のうすい腹に、やわく硬い牙の感触が刺さる。不思議と、恐ろしくはなかった。


 そっと地に足がつく。狼の(くちさき)がゆっくりと娘から離れる。

 支えを失って、奈緒はぺたんと地にへたりこんだ。まだ立てそうにない。

 散々振り回されたお陰で三半規管がやられていた。頭がぐらぐらする。

 ぶれる視界の中で、娘の顔を覗き込む巨狼の瞳は星のように明るい。


 離れて、断末魔が上がった。

 残る二頭の片割れを山伏が仕留めたものであるらしい。

 流石に不利を見て取ったらしい最後の獣はついに逃げを打ったが、取って返した巨狼に阻まれ空しい試みとなった。肉片が散る。


 終わってみれば、呆気ない幕切れだった。


 あたりは一面血と肉片とに塗れ、吐き気を催すほどに濃い腐臭に満ちている。

 ひどい騒ぎだった筈だが、近くの住民が起き出してくるような様子はない。

 あたりはしんと静まりかえっていた。


 大方、山伏が前もって人払いしていたのだろう。

 似たような状況に、奈緒はいくつか覚えがあった。

 その山伏はといえば、獣の骸の側で何かを検分している。


 いつのまにか、厚い雲は完全に拭われていた。

 星々はまばらに瞬き、冷たい月光は白々と沈黙する街並を照らしている。


 どうと重たいものが崩れ落ちる音に、奈緒ははっと目を向けた。

 巨狼が地に伏せている。灰色の毛並みは血に汚れ、その顔は心なしか苦痛を堪えているように見えた。


 ふらふらと引き寄せられるように、奈緒は横たわる巨狼に近づいた。

 確かめるに、手傷を負っているわけではないようだ。

 濡れて見えるのは返り血に過ぎない。


 だが、狼は横たわったまま動こうとしなかった。

 明るい瞳だけが、じっと娘の仕草を追っている。


 恐る恐る、湿った鼻先に触れる。

 確かめるように鼻梁を撫でれば、少し癖のある、ごわついた短い毛の感触。

 その真下、薄くひらいた口からは、熱く湿った吐息が断続的に漏れている。

 触れたまま、ゆっくりと下になぞる。黒く厚い護謨(ゴム)のような口唇はやわらかい。

 その奥には白く尖った歯牙。わずかにはみ出た薄くて長い舌。

 濡れた口内。燃えるが如きいのちの温度。その奥は柘榴の如く赫い。


 無遠慮に触れる娘の手を、狼は振り払わない。

 ただ、その思慮深げな明るい虹彩に、奈緒はなぜか見覚えがある。


()()()()()()?」


 ゆるり、輪郭が溶けた。

 添えた手は、よく知った男の頬を包んでいる。


 彫りの深い精悍な顔だち。

 少し癖のある短髪、明るい色あいの、鋭い目元。

 目に見えぬ苦痛の為か、眉根はきつく寄せられている。


 関口、早太郎。


「──ッたく。

 出るなと言ったろうが、この阿呆め」


 ぞりッと重い足音。

 娘の後ろに、用事を終えたらしき山伏が立っていた。


 大きいと察してはいたが、間近に立たれるとそれが一層顕著になる。

 筋骨の厚みも相まって、その姿は言いようのない圧迫感があった。

 味方であれば頼もしく思うところなのだろう。

 だが、奈緒は男の苦々しい表情に、漠然と不安を覚えた。


「最後に、言い残すことはあるか」


 ()()()()()()


 奈緒は己の耳を疑った。指先がしんしんと冷えてゆく。

 嫌だ。その意味を理解などしたくない。縋るように関口を見る。


 ふ、と息をついて、関口は目を伏せた。

 視線の合わぬまま、そっと奈緒を押しのける。

 掌が温度を失う。


「あれに。あとを頼む、と」


 それは──それは、まるで。

 嫌な確信が胸の内で膨れ上がって、心臓を押し潰す。

 咄嗟に、奈緒は関口をその背に庇っていた。


「まって、待って下さい。なにを、するんですか」

「退きな、娘ッ子。そいつはタチの悪い呪いを引っ被ったのさ。

 回り切る前に息の根を止めにゃならん」


 そんな。

 呟きは夜の静寂に溶けた。


「いや。だ、だめです」

「二度言わせるな。退け」


 厳然と、山伏は告げた。

 奈緒は必死に首を横に振る。


 無駄なことは判っている。

 それでも大人しく従うことは出来なかった。

 このひとに、死んでほしくない。()()()()()()


「のッ、……呪いなら!

 わたしが代わりに引き受けます!」


 だから。

 ぐうと胸が詰まる。


 だからなんだというのか。

 何の力もない小娘が、引き受けるなどと喚いてみたところで何もできはしない。

 それを、たったいま身に染みて理解させられたところではないか。


 何もできなかった。何もできなかった。

 何一つ、己にはできなかった。ただ場をかき回しただけだ。

 のし掛かる無力と後悔と、それらのもたらす絶望が、軋むように重い。


 震えながら、奈緒は吐き気すら覚えていた。

 止まったはずの涙が、またぞろ勝手に滲んでくる。


 水気で歪んだ視界に映る山伏は──なぜだかひどく驚いた顔をしていた。


「……待て待ておい待て。

 えー、ウン。なんだ……その、早太郎よう。

 こいつ、まさかみどろが淵の()()か?」


 困惑しきった声で、山伏が言った。

 親しい者に呼びかけるような、乱暴で気安い響き。

 そこには、先程までの凍てついた覚悟の色はない。


「そう、ですが」


 対する関口の返答も、どこか呆然としていた。

 振りむけば、男が普段は鋭い目をまるくして奈緒を見つめている。

 苦痛を堪えるような素振りも、綺麗さっぱり失せていた。


「えっと……?」


 涙は勝手に引っ込んだ。

 何かが起きたのは、奈緒にもわかる。

 だがそれが何かはまるでわからない。ただ、体が奇妙に重かった。


「おい、娘。体は。

 どっかおかしいところはねえか」


 大男の問いかけに、奈緒はびくりと跳ねた。

 返答次第で、また殺すだの殺さないだのという話になったりしないだろうか。

 どう答えるべきか考えあぐねて、それでも結局、奈緒は正直に感じるままを告げた。


「あの……。なんだか、だるいかもしれないです」

「他は。気持ち悪いだのなんかぐらぐらするだの、そういうのは」

「胸がむかむか、します。すこしだけ」

「それだけか」

「はい」


 おずおずと頷く。


 それを見て、老山伏は唸りながら深く深く溜息をついた。

 錫杖を握る太い指で、荒れた蓬髪を乱暴に掻き毟る。

 それからがばりと顔を上げ、割れ鐘の大音声で以て、吠えた。


()()()()()()()()()()()()ッ!

 余計な覚悟を決める羽目になっただろうがッ!」


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