6 白羽の矢
食事を終え、少し歩けば劇場まではすぐだ。
懐中時計を見れば、針は開演時間の少し手前を指している。
丁度よい頃合いだ、と関口は独りごちた。
演目は《古城の鐘》。四人の若い男女による恋愛喜劇であるらしい。
密かに想う相手がありながら養父に望まぬ婚姻を強いられる美しい娘と、その娘に言い寄ろうとする恋人ある男。そんな恋人の浮気心が気に食わぬ女召使いと、娘の思い人である身分を隠した若き貴公子。
関口は密かに嘆息した。苦手な筋書きだ。わかってはいたが。
元となった台本は、フランスで好評を博したオペラ・コミークであるらしい。
しかしながらこの国向けの翻案が拙いのか、ロマンスを盛り上げようとするあまり、話運びに無理が多いように思われた。
薄闇に紛れ、そっと隣の娘の様子を窺う。
いまいち乗り切れていない男と違って、娘は随分と引き込まれているようだった。
夢中で舞台を見つめる娘の、黒い瞳が照明を受けて燦めいていた。
登場人物たちは相変わらず、舞台の上で右往左往している。
娘と貴公子は嘘と誤解によってすれ違い、身分違いの想いに尻込みし、それでも最後には真実が明かされて結ばれる。
不実と偽りは明らかになり、正義は為され、想い合う二人は祝福される。
予定調和のハッピーエンド。
緞帳が下り、客席に照明が戻る。
集中して見ていたらしい娘がほうっと溜息をついた。
きらきらしい瞳が男を見上げる。
「面白かったです」
「そうか。それはよかった」
予定調和。
○ ○ ○
劇場を出たのは、昼下がりも終わりの頃だった。
薄曇りの空も、自然光から隔離されていた目には刺激が強い。
奈緒は青のまばゆさに手をかざし、空を仰いだ。
「どうした。上ばかり見ていると躓く」
「あ、はい。ごめんなさい。
こんなにいろんなことがあったのに、まだお昼なんだなと思って」
そうだな。
目の端をわずかに緩めて、関口が笑った。
そんな些細な一挙一動が、どうしようもなく奈緒の胸をざわつかせる。
今日は特別な日だ。
だがその特別も、もうすぐ終わる。
空もじきに茜色に染まるだろう。
共に劇場から吐き出された人々がめいめいに散ってゆく。
彼らもまた、彼らの日常に戻ってゆくのだ。
奈緒は、なんとはなしに名残惜しい気持ちになった。
「では、少し寄り道して帰るか。君が疲れていなければだが」
心を読まれたかと思うほど、魅力的な誘いだった。
実のところ疲れはある。あるけれど。
「……、いえ」
たっぷりと悩んだ挙げ句、奈緒はそう答えた。考えたのは千津のことだ。
日中は用事があるだかで彼女も家を空けていたが、そろそろ夕餉の準備に家に戻ってきている筈だ。その手伝いをしなければならない。
今日は諸々の手配やら身支度やらで、普段以上に甘えてしまっている。
構いませんのに、と笑って済まされるような気はしているが、だからこそ甘えきってしまうのは気が引けた。
「そうか。今日は楽しめただろうか」
「はい。とっても」
関口さまは、どうでしたか。
そう訊ねてみたい気もしたが、結局、その問いかけはかたちを成さなかった。
「あ」
ぱたた、と軽い羽音を立てて、白い小鳥が関口の肩にとまる。
人混みを縫って舞い降りたそれは、間を置かずひらと紙片に姿を変えた。
関口は無言のまま、それを掴んで中身に目を通す。視線が険しくなる。
「急ぎのお仕事ですか」
「そうだ。すまないが、先に帰っていてくれ。
夕餉も、自分の分は構わなくていい」
「はい」
ふわふわとした空気が霧散する。
奈緒はふと、あたらしい血の匂いを嗅いだ気がした。
それから、スーツの下にあるであろう、男の傷を思った。
「お気をつけて」
「ああ。行ってくる」
ひろい背を見送る。
男の姿は人波に飲まれて、そのうち見分けられなくなった。
空はまだ明るい。
それでも、夕暮れは迫っていた。
○ ○ ○
奈緒が家に帰り着いたのは、ちょうど黄昏時のことだった。
戸に手をかけると鍵はあいている。もう千津が来ているのだろう。
奈緒は玄関をくぐると、奥に向かって声をかけた。
「ただいま戻りました」
しんと静寂が戻った。奥は暗い。まだ明かりをつけていないのだろうか。
視線を落とせば一組、女ものの履物が爪先を揃えて端に寄せてある。
千津の履物だ。
「千津、さん?」
呼びかける声は思いのほか、か細くなった。
橙色の光は周囲に濃い陰を落としている。
見慣れている筈の玄関が、訳もなく不吉に見えた。
「ああ、お帰りなさいまし」
少し間があって、耳慣れた声があった。
ぱたぱたと足音をたて、手を拭い拭い出迎えに来たのは間違いなくいつもの女中である。
奈緒はひそかにほっと息をつき、それから妙な想像を働かせていた己を恥じた。
促されるままに手荷物を千津に預け、履物を脱ぐ。
「ごめんなさいね、少し下拵えに気を取られていたものですから」
「いえ、わたしのほうこそ、お呼び立てしてしまってごめんなさい。
一人で上がればよかったのに、誰も居ないのかと不安になってしまって」
ひとり。
荷物を受け取る女の指先が、微かに震えたように見えた。
「千津さん?」
「あの、奈緒さん。坊ちゃんは」
「関口さまは急な呼び出しがはいって、そのまま仕事に向かわれました。
夕餉も今日はいらないと」
「そうですか」
千津は全く仕方のないこと、とでも言いたげな顔をつくって見せた。
少し呆れたような、許容の微笑み。一見、普段通りの仕草に見える。
だが、その瞳が大きく揺れているのに、奈緒は気づいた。
千津は明らかに平静を装おうとしている。装う。何のために?
薄ら寒い予感に、奈緒はじわじわと喉が強ばってゆくのを感じていた。
うっすらと、獣の匂いがする。
「一日歩いてお疲れでしょう。さ、中へ、」
奥へ引っ込もうとする千津の腕を、奈緒は咄嗟に掴みとめていた。
驚き振り向く女の顔に、怯えの色がはしる。
「千津さん。なにか、あったんですか」
「なにかって」
千津の声はあからさまに乱れた。視線は定まらず、抵抗は弱い。
それでも振り解かれないよう、奈緒は女の腕を掴む手に力を込めた。
奥に行くのはいやだ。行かせるのも。
あっちには、なにかよくないものがある。
強ばった奈緒の顔に、何か感じるものがあったのかもしれない。
千津はいちど固く目を瞑ると、大きく息をついた。
「わかりました。わかりましたとも。
全部お話ししますから、どうぞお手を離して下さいまし」
「約束ですよ」
「ええ」
指を離す。
奈緒の手は、もう千津を捕らえてはいない。
そのはずだ。
だというのに。
何故か、奈緒にはまだ、女を掴んでいる感覚があった。
○ ○ ○
残念ながら、腰を据えて話をするのに玄関先は相応しくない。
うまく理屈をつけることもできず、奈緒は仕方なしに奥の間に入った。
明かりはついているのに室内は妙に薄暗い。
「さて、何からお話しすればいいやら」
私事ですから、内々に収めるつもりだったのですけれど。
正面に座った千津は、実に申し訳なさそうな顔で、そう切り出した。
「まずはこちらを見て頂けますか」
千津は卓上に細長い包みを置き、そっと広げた。
白羽の矢だ。薄汚れている。そして。
「う、」
奈緒は思わず鼻を覆った。
ひどい匂いだった。
獣じみた、血膿の饐えた匂い。
「これ、いったい」
「わかりません。でも、よくないものだと思うんです。
……あの、もしかして何か匂うんでしょうか」
頷く。
「千津さんは、感じませんか」
「そこまでは。ぼんやり嫌な感じがするくらいで」
千津はことさら不安げな表情を浮かべた。
それを振り払うように、口を開く。
「ともかく、経緯を話しましょう。
まず、娘のことで連絡があったんです」
○ ○ ○
千津には娘がいる。
ただし一緒には暮らしていない。
故あって離縁した千津の元夫と、その新しい妻のもとにいる。
そんな間柄ではあったが、娘との母娘付き合いは続いていた。
(その経緯も話した方がいいかと千津は訊ね、奈緒は首を横に振った)
その娘のことで、元夫から連絡があった。
何事かと彼らの家を訪ねれば、見せられたのはこの矢である。
曰く、昨晩、娘の部屋にこの矢を射込まれた。心当たりはないか。
無論、千津の仕業ではない。
しかしながら、心当たりはあった。
千津の古巣。
早太郎の実家である。
かの家は古より呪術法力の類を修め、怪異魔性を討つ一族である。
この一族を束ねるは千津が奥方様と呼ぶ女、関口の実母。
そして、実のところ、早太郎はこの実母との関係が良好でない。
千津が早太郎の要請を受けて、通いの女中をしていること。
それを、本家が面白く思っていない可能性は大いにあると思われた。
門前の小僧習わぬ経を読む、とはよく言ったもの。
この矢がふつうではないことは千津にもすぐにわかった。
しかしながら、千津自身はただの女中である。怪異魔道に抗う術はない。
となれば詳しい人間に相談するほかない。
だが、奥方様の手前、本家に関わりある人間に打ち明ける訳にはゆかぬ。
先にも述べたとおり、そもそも奥方様の意向の可能性があるからだ。
万一違ったとしても、ふたりの間柄を思えば巡り巡って藪蛇になりかねない。
だから、千津の頼る先はひとつしかなかった。
○ ○ ○
「ええと、」
思いがけぬ話に、奈緒は困惑した。
関口は実家と確執があること。
そのとばっちりで、千津の娘の部屋にこれが射込まれた可能性があること。
成程、話し渋るわけだ、と思う。
あまりにも家の事情に立ち入りすぎている。
奈緒はなんだか申し訳ない気持ちになった。
「坊ちゃんなら、何かわかるんじゃァないかと思ってたんですけれど」
まさかお仕事が入るとは思わなくって。
千津はすっかり困り果てた様子で、口元を押さえた。
矢の放つ嫌な気配は、こうしている間も微塵も薄れていない。
だが、千津はいまいちそれを感じ取れていないようだった。
「今日は持ち帰るほかないかしら」
「それは」
駄目だ、と思った。
これを手元に置いておいてはいけない。
この嫌な感じを認識できていないならなおさらだ。
だから咄嗟に、奈緒はこう口に出していた。
「わ、わたし、これ、預かります!」