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大照妖異譚  作者: 大平 凡
5章 真神
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4 晴間

 まだ日も明るいうちに人に肌を晒すのは、同性相手といえど少し気恥ずかしい。

 心持ち丸まった背に、しゃんと立ってくださいましと千津の声が飛んだ。

 背を伸ばす。肌寒さに、奈緒は一度ふるりと震えた。


 今日は観劇の日である。

 あの後、関口に急な仕事が入ることはなく、外出は(つつが)なく決行となった。

 脱がされていたのは、要はその身支度の為である。


 千津に促されるまま、差し出された襦袢にさらりと袖を通す。

 しっとりと馴染む柔らかな感触が肌に心地よい。

 言われるままに腕を上げ下げし、帯や紐を押さえすれば、手際のよい中年女中はあっという間に娘の着付けを終えた。


「はい、できましたよ」


 最後にきゅっと襟をなおして、千津はにっこりと笑った。

 ふくよかな体を揺すりながら女中が立ち位置をずらす。

 その陰にかくれていた細長い姿見が、奈緒の目に映った。


 鏡の向こうに華やかな装いの娘がひとり、少し強ばった顔で立っている。

 鮮やかな色合いの訪問着に身を包んだ姿は()()()()のお嬢さんのようだ。

 うすく化粧した鏡の中の己の姿を、奈緒は半ば他人の姿として見た。


「それにしても、晴れてくれて良うございました。

 このところ長雨続きで肌寒かったですからね」


 満足げな千津の言葉通り、久々の快晴であった。

 庭木は葉の上に朝露を纏い、青い空が目に眩しい。


「用意はできたか」

「ええ、ばっちりですとも」


 襖越しに呼びかけた声は、十分に返事を待って襖をあけた。

 その向こうにいたのは当然ながら関口である。

 普段かっちりと軍装を纏う男は、今日は見慣れない背広を着ていた。


 ここしばらくで見慣れたはずの相手だというのに、少し装いが変わっただけで違って見えるのは何故だろう。

 関口はいつもの厳めしさが少し和らいで、品の良さが前に出たような印象だった。


 関口の視線もまた、自然と見慣れぬ姿の同居人に向いたようだった。

 長身からじっと見下ろされるのには、まだ少し身構える。

 どぎまぎしながらも見つめ返せば、少し間をあけて男が口を開いた。


「よく似合う」

「あ、りがとうございます」


 少し照れたような声に聞こえたのは、気のせいだろうか。

 返事の声はややうわずった。頬に血が上るのがわかる。

 奈緒は、白粉がその赤みを隠してくれていることを願った。


 ○ ○ ○


 帝国劇場へ向かう前に、いくつか寄り道をすることになっていた。

 まず陰陽寮の庁舎へ蛇神を送りとどけ、三越を冷やかして早めの昼食。

 そのあとにゆっくり観劇という予定である。


 蛇神を関口の職場へと連れて行くのは、少し前に打診のあった、八蘇の再調査の件での呼び出しのためだ。

 庁舎は各省庁の集まる区画の隅、奥まって目立たぬ場所にひっそりとあった。


『それでは、行ってくる』

「はい。お戻りをお待ちしていますね」


 娘の手のひらの上で、白蛇はとぐろを撒いていた。

 関口は少し離れて、門衛と何か手続きをしている。

 ちらと横目でそれを確認し、蛇は声を潜める。


『それから、ひとつ。

 おれが居らぬあいだ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「それは、」


 どういう意味だろう。ともかく、頷くのは躊躇われた。

 カガチの戻りがいつになるかはまだ曖昧であるし、家事を手伝いながら習っている己の身の上を思えば、頼まれごとを引き受けないというのは難しい。

 奈緒の困った気配を察してか、白蛇は僅かに苦笑して言った。


『なるだけでよい。

 迂闊になんでも頷いてくれるな、と念押ししたいだけよ』

「それなら、……はい」


 その答えに満足したか、小蛇はようやくとぐろを解いて姿を消した。

 手続きを終えて戻ってきた関口に形代の鏡を渡す。

 ずしりと重たい鏡が指先を離れるのは、わかっていてもどこか心細かった。


「確かに受け取った。では、しばらく待っていてくれ」

「はい」


 短く言って、背広姿の関口は庁舎の中に入っていった。

 部外者の奈緒は中に入れない。

 建物を囲む黒い鉄柵の前に、娘はぽつねんと取り残された。


 柵には目隠しを兼ねてか、薔薇の蔓が這わされていた。

 緑は昨晩の雨の名残を乗せて、今が盛りとばかりに花をつけている。


 とりどりの花弁を見るともなく眺めているうちにふと、奈緒はひとつの枝に異なった色合い、かたちの花が同居しているのに気づいた。

 薔薇はこんなふうに、ひとつの株に色々な花を咲かせるものだっただろうか?

 そうではなかった気がするが、どうだろう。娘は首を傾げた。


「……おや。

 陰陽寮に……何か、ご用事ですか?」


 後ろからの思いがけぬ声に、奈緒はびくりと飛び上がった。

 この特徴的な喋りかたには覚えがある。

 振り向けば、果たしてそこには、ぞろりとした長髪に着崩れた書生姿の青年が立っていた。嘉一郎である。竹刀袋を担いでいるが、その中身は十中八九真剣だろう。

 この男と出くわすのは、あの夜以来のことだった。


「も、杢師さま」

「ああ、……ええと……。新顔候補の」

「奈緒、です」

「そうでした。奈緒、さん」


 助け船を出せば、嘉一郎はぽんと手を打って、うすく笑った。

 なんとはなしに奈緒もほほえみ返す。


 改めて見る彼の顔は、気怠げではあったが思いのほか整っていた。

 薄い唇に、ほっそりとした鼻筋。繊細な面立ちと言ってよい。

 ただ、日中の明るい日差しの下にあってなお、陰鬱な印象は薄らがない。

 むしろ強い光を受けて、陰が一層濃くなったような気配があった。


「それで……、奈緒さんは、ここで何を」

「ええと、人を待っています。

 関口さまが、用事を終えてもうすぐ戻ってこられる筈なので」

「そう、ですか。仲間が増えるのかと、……期待、していたのですが……。

 今日は……違う、ようですね。残念」


 のっぺりとした声の調子からは、どこまで本気なのか読み取るのは難しい。

 薄っぺらい社交辞令のようにも聞こえるし、違うようにも聞こえる。


「ところで……今日は、どこかへお出かけですか」

「え、あ、そうです。その、観劇に」

「おや。いいなあ」


 なぜだか、緊張感のない世間話がはじまった。

 続く話題は今日の天気のこと、近所の野良猫のこと。

 隣家の奥方との井戸端会議となんら変わらない内容ばかりである。

 話を続けながら、奈緒は、この人は一体何をしたいのだろう、と考えた。


 邪険にされるよりはありがたい。

 だがそもそも、彼は用事があったからここへ来たのではないのか。

 それがどうして、こんなところで実のない雑談にかまけているのだろう。

 しかも、関係があるとも言えないような、微妙な立場の小娘を相手取って。

 考えれば考えるほど、奈緒の困惑は深まってゆく。


「ところで、これは私見ですがね、奈緒さん。

 アナタはおそらく、陰陽寮に来た方がいい」


 突然切り替わった話題に、奈緒はついていきそこねた。

 気づけば薄暗い穴の底のような目が、じっと娘を見つめている。

 無難な返答はなにも思いつかなかった。


 だが、もとより返事を待つ気はなかったのだろう。

 ぼそぼそとした嘉一郎の声は、独り言のように続いた。


「たぶん……、アナタはそこそこ、ふつうをやれる。

 やれてしまうからこそ、破綻は最も致命的な瞬間にやってくるでしょう。

 それは、不幸ですよ」


 それでは。

 言うだけ言って、陰鬱な雰囲気の青年は唐突に話を切り上げた。

 そのまま庁舎のほうへとのっそり消えてゆく。


 何だったのだろう。まるで暴風に晒されたような気分だった。

 入れ違いに関口が戻ってきたのにも、しばらく気づかないでいた。


「待たせた。行こう」

「あ……はい」


 ぼんやりした返事に、関口の明るい虹彩が向けられる。

 気遣わしげなその色あいに、奈緒ははっと我に返った。

 呆けている場合ではなかった。今から観劇に行くのだ。


「すみません。少しぼうっとしていました」

「そうか。慣れない履物は辛いと聞く。疲れたら言ってくれ」

「だ、大丈夫です! 元気いっぱいです!」


 奈緒は慌てて、大げさに否定した。


 関口とのこの外出をずっと楽しみにしていたのだ。

 それを、こんなところでふいにしてしまいたくはなかった。

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