4 晴間
まだ日も明るいうちに人に肌を晒すのは、同性相手といえど少し気恥ずかしい。
心持ち丸まった背に、しゃんと立ってくださいましと千津の声が飛んだ。
背を伸ばす。肌寒さに、奈緒は一度ふるりと震えた。
今日は観劇の日である。
あの後、関口に急な仕事が入ることはなく、外出は恙なく決行となった。
脱がされていたのは、要はその身支度の為である。
千津に促されるまま、差し出された襦袢にさらりと袖を通す。
しっとりと馴染む柔らかな感触が肌に心地よい。
言われるままに腕を上げ下げし、帯や紐を押さえすれば、手際のよい中年女中はあっという間に娘の着付けを終えた。
「はい、できましたよ」
最後にきゅっと襟をなおして、千津はにっこりと笑った。
ふくよかな体を揺すりながら女中が立ち位置をずらす。
その陰にかくれていた細長い姿見が、奈緒の目に映った。
鏡の向こうに華やかな装いの娘がひとり、少し強ばった顔で立っている。
鮮やかな色合いの訪問着に身を包んだ姿はほんもののお嬢さんのようだ。
うすく化粧した鏡の中の己の姿を、奈緒は半ば他人の姿として見た。
「それにしても、晴れてくれて良うございました。
このところ長雨続きで肌寒かったですからね」
満足げな千津の言葉通り、久々の快晴であった。
庭木は葉の上に朝露を纏い、青い空が目に眩しい。
「用意はできたか」
「ええ、ばっちりですとも」
襖越しに呼びかけた声は、十分に返事を待って襖をあけた。
その向こうにいたのは当然ながら関口である。
普段かっちりと軍装を纏う男は、今日は見慣れない背広を着ていた。
ここしばらくで見慣れたはずの相手だというのに、少し装いが変わっただけで違って見えるのは何故だろう。
関口はいつもの厳めしさが少し和らいで、品の良さが前に出たような印象だった。
関口の視線もまた、自然と見慣れぬ姿の同居人に向いたようだった。
長身からじっと見下ろされるのには、まだ少し身構える。
どぎまぎしながらも見つめ返せば、少し間をあけて男が口を開いた。
「よく似合う」
「あ、りがとうございます」
少し照れたような声に聞こえたのは、気のせいだろうか。
返事の声はややうわずった。頬に血が上るのがわかる。
奈緒は、白粉がその赤みを隠してくれていることを願った。
○ ○ ○
帝国劇場へ向かう前に、いくつか寄り道をすることになっていた。
まず陰陽寮の庁舎へ蛇神を送りとどけ、三越を冷やかして早めの昼食。
そのあとにゆっくり観劇という予定である。
蛇神を関口の職場へと連れて行くのは、少し前に打診のあった、八蘇の再調査の件での呼び出しのためだ。
庁舎は各省庁の集まる区画の隅、奥まって目立たぬ場所にひっそりとあった。
『それでは、行ってくる』
「はい。お戻りをお待ちしていますね」
娘の手のひらの上で、白蛇はとぐろを撒いていた。
関口は少し離れて、門衛と何か手続きをしている。
ちらと横目でそれを確認し、蛇は声を潜める。
『それから、ひとつ。
おれが居らぬあいだ、誰に何を頼まれようと、引き受けてくれるな』
「それは、」
どういう意味だろう。ともかく、頷くのは躊躇われた。
カガチの戻りがいつになるかはまだ曖昧であるし、家事を手伝いながら習っている己の身の上を思えば、頼まれごとを引き受けないというのは難しい。
奈緒の困った気配を察してか、白蛇は僅かに苦笑して言った。
『なるだけでよい。
迂闊になんでも頷いてくれるな、と念押ししたいだけよ』
「それなら、……はい」
その答えに満足したか、小蛇はようやくとぐろを解いて姿を消した。
手続きを終えて戻ってきた関口に形代の鏡を渡す。
ずしりと重たい鏡が指先を離れるのは、わかっていてもどこか心細かった。
「確かに受け取った。では、しばらく待っていてくれ」
「はい」
短く言って、背広姿の関口は庁舎の中に入っていった。
部外者の奈緒は中に入れない。
建物を囲む黒い鉄柵の前に、娘はぽつねんと取り残された。
柵には目隠しを兼ねてか、薔薇の蔓が這わされていた。
緑は昨晩の雨の名残を乗せて、今が盛りとばかりに花をつけている。
とりどりの花弁を見るともなく眺めているうちにふと、奈緒はひとつの枝に異なった色合い、かたちの花が同居しているのに気づいた。
薔薇はこんなふうに、ひとつの株に色々な花を咲かせるものだっただろうか?
そうではなかった気がするが、どうだろう。娘は首を傾げた。
「……おや。
陰陽寮に……何か、ご用事ですか?」
後ろからの思いがけぬ声に、奈緒はびくりと飛び上がった。
この特徴的な喋りかたには覚えがある。
振り向けば、果たしてそこには、ぞろりとした長髪に着崩れた書生姿の青年が立っていた。嘉一郎である。竹刀袋を担いでいるが、その中身は十中八九真剣だろう。
この男と出くわすのは、あの夜以来のことだった。
「も、杢師さま」
「ああ、……ええと……。新顔候補の」
「奈緒、です」
「そうでした。奈緒、さん」
助け船を出せば、嘉一郎はぽんと手を打って、うすく笑った。
なんとはなしに奈緒もほほえみ返す。
改めて見る彼の顔は、気怠げではあったが思いのほか整っていた。
薄い唇に、ほっそりとした鼻筋。繊細な面立ちと言ってよい。
ただ、日中の明るい日差しの下にあってなお、陰鬱な印象は薄らがない。
むしろ強い光を受けて、陰が一層濃くなったような気配があった。
「それで……、奈緒さんは、ここで何を」
「ええと、人を待っています。
関口さまが、用事を終えてもうすぐ戻ってこられる筈なので」
「そう、ですか。仲間が増えるのかと、……期待、していたのですが……。
今日は……違う、ようですね。残念」
のっぺりとした声の調子からは、どこまで本気なのか読み取るのは難しい。
薄っぺらい社交辞令のようにも聞こえるし、違うようにも聞こえる。
「ところで……今日は、どこかへお出かけですか」
「え、あ、そうです。その、観劇に」
「おや。いいなあ」
なぜだか、緊張感のない世間話がはじまった。
続く話題は今日の天気のこと、近所の野良猫のこと。
隣家の奥方との井戸端会議となんら変わらない内容ばかりである。
話を続けながら、奈緒は、この人は一体何をしたいのだろう、と考えた。
邪険にされるよりはありがたい。
だがそもそも、彼は用事があったからここへ来たのではないのか。
それがどうして、こんなところで実のない雑談にかまけているのだろう。
しかも、関係があるとも言えないような、微妙な立場の小娘を相手取って。
考えれば考えるほど、奈緒の困惑は深まってゆく。
「ところで、これは私見ですがね、奈緒さん。
アナタはおそらく、陰陽寮に来た方がいい」
突然切り替わった話題に、奈緒はついていきそこねた。
気づけば薄暗い穴の底のような目が、じっと娘を見つめている。
無難な返答はなにも思いつかなかった。
だが、もとより返事を待つ気はなかったのだろう。
ぼそぼそとした嘉一郎の声は、独り言のように続いた。
「たぶん……、アナタはそこそこ、ふつうをやれる。
やれてしまうからこそ、破綻は最も致命的な瞬間にやってくるでしょう。
それは、不幸ですよ」
それでは。
言うだけ言って、陰鬱な雰囲気の青年は唐突に話を切り上げた。
そのまま庁舎のほうへとのっそり消えてゆく。
何だったのだろう。まるで暴風に晒されたような気分だった。
入れ違いに関口が戻ってきたのにも、しばらく気づかないでいた。
「待たせた。行こう」
「あ……はい」
ぼんやりした返事に、関口の明るい虹彩が向けられる。
気遣わしげなその色あいに、奈緒ははっと我に返った。
呆けている場合ではなかった。今から観劇に行くのだ。
「すみません。少しぼうっとしていました」
「そうか。慣れない履物は辛いと聞く。疲れたら言ってくれ」
「だ、大丈夫です! 元気いっぱいです!」
奈緒は慌てて、大げさに否定した。
関口とのこの外出をずっと楽しみにしていたのだ。
それを、こんなところでふいにしてしまいたくはなかった。