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大照妖異譚  作者: 大平 凡
5章 真神
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1 冷夏

 

 六月も半ばを過ぎても、長雨はだらだらと降り続いていた。

 洗濯ものが乾かなくて嫌ねえ、とは、通いの女中千津の言である。

 厚い雲に覆われた空は暗く、梔子(クチナシ)の花は雨に打たれうつむいている。

 じっとりと濡れた緑ばかりの庭を前に、奈緒は書き取りの練習をしていた。


 覚えたばかりのかなを、白い紙の上にひと文字ひと文字記してゆく。

 不格好ながらにすべて書き出すと、奈緒は隣の千津にそれを見せた。


「どう、でしょう」

「お上手ですとも。このぶんなら、かな文字はもう大丈夫かしら。

 あとは漢字を少し覚えたらお手紙の一つも書けますよ」


 繕い物の手を止め、中年の女中はにこりと笑んでみせた。手紙。

 奈緒が思い浮かべるのは故郷にある長者の娘、十和子のことだ。健やかにしているだろうか。

 もう少し上達したら手紙を出してみようか、と娘は考えた。目標は励みだ。


 娘が文字の勉強をはじめたのは、髪切り虫事件後すぐのことである。

 タエ子や関口が勧めるふつうの生活とやらを選ぶにせよ、胡散臭い狐男の誘いに乗って陰陽寮に入るにせよ、文字の読み書きはできるに越したことはない。

 まずは出来ることをしよう、というのが当座の方針である。

 とはいえ独学とはゆかず、奈緒はこうして、仕事の合間に練習を見て貰っていた。


「それにしても、雨が続くこと」

「そうですね」


 糸を始末しながら、外を眺めて千津がぼやいた。

 洗い物が乾かないのは確かに困る。布団もなんだかじっとり重い。

 それでも、奈緒は割合雨の日が好きだった。


 水気を含んで少し重たくなったような空気は気怠(けだる)く心地よい。

 雨粒が草葉を打つ音や、(とい)に流れる水の音色にはうっとりと聞き入ってしまう。

 なにより、カガチが心持ち機嫌良さげになるのがよい。


 今年も冷夏かしらね、と千津が呟いた。

 聞き慣れない言葉が耳に残る。


「れいか、って何ですか」

「あまり暑くならない夏のことですよ。過ごしやすいのは結構ですけど、

 作物の出来が悪くなりますから、あまり良いことでは御座いませんね」


 てきぱきと着物を畳む千津の答えに、なるほど、と奈緒は頷いた。

 世の中はまだまだ知らないことだらけだ。

 その時、からからと控えめに戸の引かれる音がした。


 関口だ。


 ○ ○ ○


 主の姿を見るなり、千津はほとんど悲鳴のような大声を上げた。


「まあ坊ちゃん、濡れ鼠になって!」

「いや、その」


 気まずげに眉を顰める家の主は、全身からぽたぽたと雫を滴らせていた。

 気づかれないうちにそっと上がって着替えるつもりだったと見え、水没したようになった靴は既に脱ぎかけている。濡れた三和土(たたき)は黒く色を変えていた。


「いけません、またぶるぶる頭を振って終わりにするおつもりだったでしょう!

 いったい、傘はどうなすったんです」

「……壊れた。出た時は小雨だったから、まあ急げばなくても大丈夫かと」

「大丈夫かと、じゃありません」


 事の経緯はともかく、ここでいつまでも押し問答している訳にもゆくまい。

 奈緒は慌てて声を上げた。


「わたし、タオル持ってきます!」


 ○ ○ ○


 やれ着替えだのなんだのと一騒ぎあったあと、夕食となった。

 おかげで今日の味噌汁は少し火が通り過ぎている。

 千津はといえばまだ何かすることがあるらしく、先に食べていて下さいまし、と一旦台所に引っ込んでいた。


 男の髪は未だ少し湿りを帯びている。

 どうも関口は自身の事となると急に雑になる、と奈緒は思う。

 このところとみに感じるが、前々から気になっている怪我にしたってそうだ。

 あれもきちんと手当てをしているものかどうか、実に怪しい。


 そっと関口の方を伺えば、奈緒の心配など知らぬ顔の男と目が合った。

 なんとはなしに、気分が浮き立つ。


「それで、今日はどんなことを?」

「字の練習をしていました」


 そうか、と関口が相槌を打つ。


「かなはもう大丈夫そうだと、千津さんが。

 あの……もう少しうまくなったらお手紙を出してみたいんです。いいですか」


 奈緒の申し出に、男は意外そうにひとつ目を瞬かせた。


「勿論、構わないが。送り先は」

「八蘇の十和子さまに」

「そうか。今度住所を確認しておこう。

 そういえば、その八蘇の件で少し協力頂きたいことが出てきたのだが。

 カガチ殿、今度時間を作ってもらうことは可能だろうか」


 関口の言葉に、する、と白蛇が姿を現した。

 袖口から這い出して、娘の膝の上に鎌首を擡げる。


『それは、この娘も一緒にか』

「いえ。この件は蛇神殿のみにお越し頂きたい」


 ふむ、と小蛇は何か考えこむような仕草を見せた。

 ちらとこちらを伺っているようにも思えて、奈緒は口を開いた。


「あの、カガチさま。わたしのことなら大丈夫です」


 たぶん、という一節は心の中でだけ付け足した。

 少なくともここは帝都である。

 どこで怪異と出くわすかもわからぬ辺境の地ではない。


『……お前がそう言うならば、まあ。

 その用件とやら、一月二月もここを離れるという話ではないのだろうな?』

「ああ。その日中、長引いても数日で終わる事と聞いている。

 それ以上になりそうなら、こちらから話をしよう。構わないだろうか」

『良かろ。ただし事と次第によっては、わかっておるな』


 蛇神が姿を消すのと入れ替わりに、千津が戻ってきた。

 それから、と付け足しのように、関口は口を開いた。


「今度の休み、帝劇でも見に行きませんか」


 奈緒は危うく箸を取り落としかけた。

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― 新着の感想 ―
[一言] んんんーいいですね!!2人!あっ奈緒ちゃんと関口さんのことです!! 私自分のことになると不器用になっちゃう男の人大好きです〜 それで関口さんが風邪とか引いて(ごめんね関口さん)奈緒ちゃんが…
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