1 冷夏
六月も半ばを過ぎても、長雨はだらだらと降り続いていた。
洗濯ものが乾かなくて嫌ねえ、とは、通いの女中千津の言である。
厚い雲に覆われた空は暗く、梔子の花は雨に打たれうつむいている。
じっとりと濡れた緑ばかりの庭を前に、奈緒は書き取りの練習をしていた。
覚えたばかりのかなを、白い紙の上にひと文字ひと文字記してゆく。
不格好ながらにすべて書き出すと、奈緒は隣の千津にそれを見せた。
「どう、でしょう」
「お上手ですとも。このぶんなら、かな文字はもう大丈夫かしら。
あとは漢字を少し覚えたらお手紙の一つも書けますよ」
繕い物の手を止め、中年の女中はにこりと笑んでみせた。手紙。
奈緒が思い浮かべるのは故郷にある長者の娘、十和子のことだ。健やかにしているだろうか。
もう少し上達したら手紙を出してみようか、と娘は考えた。目標は励みだ。
娘が文字の勉強をはじめたのは、髪切り虫事件後すぐのことである。
タエ子や関口が勧めるふつうの生活とやらを選ぶにせよ、胡散臭い狐男の誘いに乗って陰陽寮に入るにせよ、文字の読み書きはできるに越したことはない。
まずは出来ることをしよう、というのが当座の方針である。
とはいえ独学とはゆかず、奈緒はこうして、仕事の合間に練習を見て貰っていた。
「それにしても、雨が続くこと」
「そうですね」
糸を始末しながら、外を眺めて千津がぼやいた。
洗い物が乾かないのは確かに困る。布団もなんだかじっとり重い。
それでも、奈緒は割合雨の日が好きだった。
水気を含んで少し重たくなったような空気は気怠く心地よい。
雨粒が草葉を打つ音や、樋に流れる水の音色にはうっとりと聞き入ってしまう。
なにより、カガチが心持ち機嫌良さげになるのがよい。
今年も冷夏かしらね、と千津が呟いた。
聞き慣れない言葉が耳に残る。
「れいか、って何ですか」
「あまり暑くならない夏のことですよ。過ごしやすいのは結構ですけど、
作物の出来が悪くなりますから、あまり良いことでは御座いませんね」
てきぱきと着物を畳む千津の答えに、なるほど、と奈緒は頷いた。
世の中はまだまだ知らないことだらけだ。
その時、からからと控えめに戸の引かれる音がした。
関口だ。
○ ○ ○
主の姿を見るなり、千津はほとんど悲鳴のような大声を上げた。
「まあ坊ちゃん、濡れ鼠になって!」
「いや、その」
気まずげに眉を顰める家の主は、全身からぽたぽたと雫を滴らせていた。
気づかれないうちにそっと上がって着替えるつもりだったと見え、水没したようになった靴は既に脱ぎかけている。濡れた三和土は黒く色を変えていた。
「いけません、またぶるぶる頭を振って終わりにするおつもりだったでしょう!
いったい、傘はどうなすったんです」
「……壊れた。出た時は小雨だったから、まあ急げばなくても大丈夫かと」
「大丈夫かと、じゃありません」
事の経緯はともかく、ここでいつまでも押し問答している訳にもゆくまい。
奈緒は慌てて声を上げた。
「わたし、タオル持ってきます!」
○ ○ ○
やれ着替えだのなんだのと一騒ぎあったあと、夕食となった。
おかげで今日の味噌汁は少し火が通り過ぎている。
千津はといえばまだ何かすることがあるらしく、先に食べていて下さいまし、と一旦台所に引っ込んでいた。
男の髪は未だ少し湿りを帯びている。
どうも関口は自身の事となると急に雑になる、と奈緒は思う。
このところとみに感じるが、前々から気になっている怪我にしたってそうだ。
あれもきちんと手当てをしているものかどうか、実に怪しい。
そっと関口の方を伺えば、奈緒の心配など知らぬ顔の男と目が合った。
なんとはなしに、気分が浮き立つ。
「それで、今日はどんなことを?」
「字の練習をしていました」
そうか、と関口が相槌を打つ。
「かなはもう大丈夫そうだと、千津さんが。
あの……もう少しうまくなったらお手紙を出してみたいんです。いいですか」
奈緒の申し出に、男は意外そうにひとつ目を瞬かせた。
「勿論、構わないが。送り先は」
「八蘇の十和子さまに」
「そうか。今度住所を確認しておこう。
そういえば、その八蘇の件で少し協力頂きたいことが出てきたのだが。
カガチ殿、今度時間を作ってもらうことは可能だろうか」
関口の言葉に、する、と白蛇が姿を現した。
袖口から這い出して、娘の膝の上に鎌首を擡げる。
『それは、この娘も一緒にか』
「いえ。この件は蛇神殿のみにお越し頂きたい」
ふむ、と小蛇は何か考えこむような仕草を見せた。
ちらとこちらを伺っているようにも思えて、奈緒は口を開いた。
「あの、カガチさま。わたしのことなら大丈夫です」
たぶん、という一節は心の中でだけ付け足した。
少なくともここは帝都である。
どこで怪異と出くわすかもわからぬ辺境の地ではない。
『……お前がそう言うならば、まあ。
その用件とやら、一月二月もここを離れるという話ではないのだろうな?』
「ああ。その日中、長引いても数日で終わる事と聞いている。
それ以上になりそうなら、こちらから話をしよう。構わないだろうか」
『良かろ。ただし事と次第によっては、わかっておるな』
蛇神が姿を消すのと入れ替わりに、千津が戻ってきた。
それから、と付け足しのように、関口は口を開いた。
「今度の休み、帝劇でも見に行きませんか」
奈緒は危うく箸を取り落としかけた。





