9 髪切
明るい窓辺に珈琲の香りが漂う。微かに煙草の匂いが入り交じる。
髪切り騒ぎの数日後、奈緒は再び日中のカフェーにいた。
ボックス席に書類を広げ、同席しているのはタエ子である。
「で。この内容で異論はないわね?」
「はい」
奈緒が頷く。全ての確認を終えたタエ子はようやく、深く重い息をついた。
今日の彼女はあの日と違って化粧もよれておらず、アルコールの匂いもない。
ただ、その顔には隠しきれない疲労の色があった。
「あいつら資料一枚にどんだけ手間掛けさせるのよ、もー信じらんない……」
「えっと……お疲れさまです」
ぶつぶつと恨み言を垂れ流すタエ子に、奈緒はおずおずといたわりの声をかけた。
タエ子は、あの日行き会った髪切りに対する報告書の提出を求められたらしい。
そこまでは通常業務だ。何ら問題ない。タエ子も常通り書類を作成し提出した。
問題は、その後だった。
囮として一般人を巻き込んだ。
陰陽寮のさらに上のどこかで、どうやらこの一点が問題とされたらしい。
書類は再提出となり、追加の案件で忙しく飛び回っていたタエ子は更に、経緯の詳細と当事者の証言を書き加えて報告しなければならなくなった。
タエ子と奈緒が再びカフェーで落ち合うことになったのは、つまりはこの報告書の追加資料作成のためだった。
疲れ切った顔のタエ子が、湯気の消えて久しいカップに口をつける。
奈緒もミルクと砂糖をたっぷり入れた珈琲をちびりと飲んだ。ぬるい。
「お仕事、忙しいんですね」
「まァね。今は動ける奴のが少ないから。
そのくせ現場を判ってないアホ共が余計な口を出すからほんッと最悪」
タエ子の目つきが再び剣呑な色を帯び始めるのを見て、奈緒は話題選びを間違えたことを悟った。
まずい。しかし、その焦りは杞憂に終わった。
「ま、そんなことあんたに言っても仕方ないんだけどさ。
急に呼び出して悪かったわね。ともかくこの件はこれで終わり。
もう呼びつけたりしないから安心して。やくそ──」
「あ、あー! わーっ!」
咄嗟に、奈緒は声をあげてタエ子の言葉を遮った。
周囲の視線が奈緒とタエ子のボックス席へと集まる。
目の前のタエ子は、きょとんと目を丸くしていた。
居心地が悪い。奇妙に思われたのは明白だ。
それでも、奈緒はそうせずにはいられなかった。
タエ子の口から、その言葉の続きを聞きたくはなかった。
「な、……何よ。急に大声出して」
当然ながら、大声を出されたタエ子は驚いたようだった。
ひどく怪訝な顔で、奈緒を見つめている。
「え、……ええと、……」
奈緒はしどろもどろになった。
唐突に妙な行動に出た自覚はあるが、理由はある。ただし理屈はない。
それをどう説明したものか。視線が泳ぐ。
口ごもる奈緒を、タエ子がせっついた。
「理由があるなら、大声じゃなくてちゃんと口で言いなさいよ。
じゃなきゃこっちも判んないわ」
「……その、」
奈緒は観念して、もごもごと理由を口にした。
タエ子の眉が跳ね上がる。
「約束が、怖い?」
奈緒は恐る恐る頷いた。
より厳密に言うならば、怖いのは約束そのものではない。それが果たされなかったときが怖い。だからこそ、上のほうの指示とやらで簡単にひっくり返りかねないタエ子の約束は、できるかぎり聞きたくなかった。
約束は、果たされなければならない。
八蘇でも、宿場町でも、笈山でも感じていた、半ば強迫観念に近いこの感覚が、どうやら普通ではないらしいと気づいたのはごく最近のことである。
約束を交わしたとき、程度の差はあれ、人はそれぞれ義務感や使命感を抱き、破られれば憤りや悲しみを感じる。それは奈緒も同じだ。ただ。
己と交わした約束が破られたとき、何かとてもよくないことが起きる。
そんな強い確信が、奈緒にはある。
そして厄介なことに、そこには真摯さの度合いはまるで関係がない。
約束は意図せず破られることもある。忘れられることもある。
さして意味を持たない、表面的な口約束だってある。奈緒にもそれはわかる。
だが、この何かはそれらの事情を一切合切斟酌しない。
奈緒の感性や思考とはまるで別のところに、謎の不文律がある。
それだけがわかっている。
「その……変だっていうのは判ってるんです。
でも、ええと……なんて言ったらいいか……」
「別に、馬鹿にしたりしないわよ」
空になったカップを下ろし、タエ子は言った。いつもの醒めた目だ。
だがそこには、言葉通り、奈緒の言葉を軽んずるような色はなかった。
女は気怠げに頬杖をつく。
「あんたはそれを理屈抜きに怖いと感じてるんでしょ。
ならそれでいい。感覚は大事だわ。
現場でも、それを粗末にした奴から死ぬ」
「死、」
想定外に強い言葉に、奈緒はかえってたじろいだ。
そこまで重く受け止められるとは思わなかった。
「なに? そんなこと起こらないとでも思ってた? まさか。
こんな仕事してれば、バケモノ共のよくわかんない謎理屈に付き合わされることなんかしょっちゅうよ。それで生死の境を彷徨うこともね」
そう言って、女は肩を竦めた。
馬鹿にするでもなく、脅すでもない。ただ淡々と、事実を述べている。
そのことが、強く奈緒の頭を揺さぶった。
この女は、普通とは別の世界に生きている。
わかっているはずのことを、己はわかっていなかった。
「だから、まあ」
急に、タエ子の口調の歯切れが悪くなった。
その視線が明後日の方を向く。
指先はとうに空になったカップを弄んでいる。
「あいつがあんたを陰陽寮から遠ざけようとしてるのは、どっちかっていうとあんたの為を思っての事だと思うわよ」
奈緒はきょとんとした。間をおいて、じわじわと言葉の意味が染み渡る。
もしかして、己は今、気遣われたのだろうか。
顔を伺おうにも、タエ子はそっぽを向いている。
「……あの、」
「何よ」
ぎろりとタエ子が奈緒を睨んだ。
なぜだか、あまり怖くはなかった。
「……、まあ。
陰陽寮なんてのは、他にどこにも行けなかった奴らの吹きだまりよ。
どいつもこいつもロクな連中じゃないわ。あたしを含めてね。
違う道が選べるなら、へんにこっちに深入りしないほうがいい。
中途半端に首を突っ込んだりしたらえらい目見るわよ」
奇妙にぎこちない口ぶりで、タエ子はぼそぼそと言った。
その指先はまだ、空っぽのカップの取っ手をつまんだり離したりしている。
だから、ふと、奈緒は前々からの疑問を訊ねてみたくなった。
「タエ子さんは、どうして陰陽寮に?」
「話聞いてなかったの? どこにも行けなかったからよ。
他に選びようなんてなかったの。あたしにはね」
「……そう、ですか」
早くも奈緒は後悔した。不用意だったかもしれない。
そこには恐らく、まだ血の滲む生々しい疵痕がぱっくりと口を開けている。
タエ子は眉間に皺を寄せ、フウと溜息をついた。
「あのね。あたし今、結構好き勝手言ったけど。
それはそれとして、あんたはあんたの好きにして良いんだからね」
「え」
何驚いた顔してんのよ、とタエ子が唸る。
奈緒は慌てて首を横に振った。
いまいち納得いかない顔で、ともかく、とタエ子は言葉を続ける。
「泣いたって喚いたって、だれもアンタのかわりにアンタを生きちゃくれないわ。
だから、誰に何言われようが、あんたの道はあんたが選べばいいの」
「タエ子さんは、そうしたんですね」
「そうよ」
きっぱりと、女は言い切った。
決然とした横顔が、窓から差し込む光にくっきりと照らし出されている。
雀斑の散った頬に、不機嫌そうな表情。
短く切りそろえた髪型を、軽薄さの証と後ろ指さす口さがない者はまだ世に多い。
「ここに流れ着いたことまで含めて全部、あたしが選んだ道よ。
明日野垂れ死んだって、悔やんでなんかやるもんか」
タエ子はふん、と鼻を鳴らし──
それから、気まずげな顔で舌打ちした。
「余計なことまで喋ったわ。忘れて」
タエ子はひらりと手を振ると、テーブルに散らばった書類をかき集めた。
それらを乱暴に鞄にしまうと、代金を置いてさっと立ち上がる。
「じゃあね。来ないほうがあんたの為だとは思うけど。
それでも、慣れてしまえばそれなりに居心地はいいわ。
来たなら来たで、歓迎ぐらいはしてあげる」
言うだけ言って、タエ子は身を翻した。
からん、とベルが鳴り、洋装の女はドアの向こうへと消える。
テーブルには空のカップと、置き去られた紙幣だけが残されていた。
『おれたちも帰ろう』
「はい」
蛇神の促しに、奈緒も頷いた。
カップの底に僅かに残った珈琲を飲み干せば、もう用事はない。
ふと眺めた窓の外は、六月の青空が広がっていた。
この先どうするのか、答えはまだ出ていない。
それでも不思議と、気分は澄んでいた。
○ ○ ○
『 《髪切り虫》 記録地:関東都市圏一帯
収蔵分類:乙-ロ 管理:第 一四二一五 号
夜中に道を歩くと、いつの間にか髪を切り落とされている。
前触れに気づくことは稀で、ほとんどの場合いつ切られたか定かでない。
これは鋏と嘴を有する髪切り虫の仕業である。
主に屋根瓦下に潜み、滅多に姿を見せない。
類似現象を起こす怪異も存在するため、遭遇時は同定に注意。
また、この怪異は時経るにつれ成長する。
初期は髪を切られることのほかに害はないが、後期に入ると被害に著しい体調不良を伴うようになるため、早期発見、早期対処が望ましい。
この怪異は関東を中心とする人口密集地で断続的に発生する。
過疎地域には見られない。
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C案件 特別報告書
大照四年 第 四三七号
大照四年 六月九日 帝都髪切り虫の件について
発生した髪切り虫にC案件軽度感染を確認、討伐済。
汚染区の拡大を報告するとともに、該当区画一帯の祓除を進言する。
該当区画及び現在の汚染区域は別途資料に記載。
』