7 ふつう
髪を切らせてはいけない。
となれば、垂らしているよりは結い上げたほうが安全だろう。
奈緒は千津に教わった手順を思い出しながら、できるだけきっちりと髪を結い上げた。露わにした項を確かめるように、指先を這わせる。何度なおしてもどこかほつれているような気がして、そわそわと気持ちが落ち着かない。
『あまり肩に力を入れるでない。かえって動けなくなるぞ』
袖口に潜んだ白蛇が、娘を諫めた。
「えと、はい。気をつけます」
『全く、それを止めよというに。
一度、髪切りとは別の事でも考えてみてはどうだ』
そうは言われても、咄嗟には思い浮かばない。
別のこと。いったい何があるだろう。
その矢先、鼻にふわりどこかの夕餉の匂いが届いた。煮物だろうか。
それから炊きたての白米。味噌汁。揚げ物の香り。普遍的な幸せの匂い。
唐突に、奈緒は気づいた。
板一枚、壁一つ隔てた向こうには、何でもない日常がある。
いつの間にか、奈緒は千津のことを考えはじめていた。
昼間出かけることは伝えていたが、戻ると伝えていた予定時刻はとうに過ぎている。余計な心配をかけてしまってはいないだろうか。
普段通りであれば、彼女は今頃、あの家で夕餉の仕上げをしているはずだ。
例えば奈緒がタエ子の背を追わず、そのまま家に帰っていたならば、奈緒はこの瞬間、千津の手伝いをしながら関口の帰りを待っていただろう。
明るく、清潔で、安全な家の中で。
夕餉の匂いに包まれて。
それは多分、この壁向こうの幸福とよく似たかたちをしていたはずだ。
全く同じにはなり得なくとも。
「は、」
浅く、息を吐く。馥郁とした夕餉の匂いをかき消して、ドブ臭さが鼻をつく。
意識が現実に引き戻される。目の前にあるのは明るい食卓ではない。
ごちゃごちゃと入り組み薄汚れた、人気の無い裏通りだ。
別の場所を選ぶこともできた。それでも、奈緒はここにいた。
心細さに耐えながらひとり、薄暗い路地裏でバケモノの出現を待っていた。
『──近いぞ』
ぽつり、蛇神がこぼした。緊張でひゅうと喉が鳴る。
まだ動かない。何でも無いフリをしなければ。
合図は、タエ子が出すことになっていた。
どこだ。
どこから来る。
わからない。
目の前にはただ、薄闇が広がっている。
心臓が煩い。オサキたちの鳴き声も聞こえない。
タエ子は今、どの辺りに居るのだろう。
その時、首筋にふっと風が当たったような気がした。
ほぼ同時に、手にぺちんと毛むくじゃらのなにかがぶつかる。
合図だ。奈緒はすぐさま身を屈めた。
「ぎッ」
頭の上を質量ある何かが掠めてゆく。ふわりと首後ろの産毛が揺れる。
大きな塊が、目の前に着地する。髪切り虫。
想定以上の身のこなしで、虫は次の態勢を整えた。来る。
『横に飛べッ!』
「っ、」
蛇神の声に従って、娘は身を横に捩った。膝と両手が泥に塗れる。
前髪が大きく揺れて、ふつッ、と一房断ち切れる。
目の前を、大きな鋏が横切り──
そこに、小さな獣の群れが四方から殺到した。
「ぎ、ャアッ!」
「っ、」
オサキに集られ、髪切り虫は瞬く間に蠢く小山に埋もれてしまった。
塊の内側で、ぶちぶちと何かが噛み千切られてゆく音がしている。
中でいったい何が起こっているのか、想像したくはなかった。
「ちょっと、あんた無事なんでしょうね?」
「タエ子、さん」
背後から歩み寄る女の声に、奈緒は振り向いた。
ボブヘアにベレー帽。見慣れた女の姿に、奈緒はほっと胸をなで下ろす。
「気を抜かないで。まだ仕留めてない」
姿を見るなり気の抜けた娘に、タエ子は険しいままの表情で言った。
女は視線を小獣の山から逸らさない。
その言葉に気を引き締め直し、奈緒ももう一度、虫の方を見る。
「……え?」
中の虫は弱ってきているのだろう。
小山の動きはじわじわと弱々しくなってきている。
だがそれとは別に、塊が一回り小さく、薄くなっているような気がする。
「やっぱり足りないか。奈緒。あんた、いいから少し下がってて。
あたし符のほうは苦手だから、巻き込みで怪我しても知らないわよ」
そう言って、タエ子は一歩、前に出た。
その指先には細長い紙片が挟まれている。
よくよく目を凝らせば、包囲が薄くなっていると感じたのは気のせいではない。
髪切り虫に取り付いたオサキの一部が、ぽろぽろと剥がれ落ちていっている。
この薄暗さのなかではしかと判らなかったが、剥がれ落ちたオサキたちはあの虫の節から滴っていた瀝青状の何かに塗れ、悶え苦しんでいるように見えた。
「!」
ぱたり、唐突に小山の動きが止まった。
ざあっと波が引くように、オサキたちが髪切りから離れてゆく。
そこには襤褸切れのようになった虫の残骸だけが残されていた。
「終わった、……んですか?」
「さあね」
ぼそりと呟いて、タエ子はゆっくりと残骸に近づいた。
指に構えた紙符はそのままに、靴先で襤褸を転がす。
辛うじて虫らしき原型を留めたそれは僅かにぴくりと震えたのみで、それ以上動かなかった。
「思いのほか、脆かったか」
フゥ、と女は息を吐き、その手を下ろした。
それから符と入れ替えに煙草を取り出し、火をつける。
薄暗がりにぽう、と蛍のような明かりが灯って、女の顔を照らした。
「えっと、」
「終わりよ。お疲れさま。あー、しんど、」
大きく吸った煙を吐き出しながら、タエ子がぼやいた。
本当に終わったのか。無事に。実感はじわじわと来た。
知らず力のこもっていたらしい背中から、ふっと力が抜ける。
遠く、家族の団欒の声が聞こえる。
僅かに壁一枚隔てた先で、たった今怪物退治が行われたことなど彼らは知る由もないだろう。
「それからもっかい確認だけど、あんた本当に無事?
あんたの蛇も、こいつに触っちゃいないわね?」
「はい。カガチさまは大丈夫です。
わたしは……ええと、ちょ、ちょっとだけ前髪を切られてしまったんですが」
「どこ? 見せて」
タエ子は咥え煙草のまま、奈緒に顔を近づけた。
さらりと前髪を掻き上げられる。煙草の煙が間近に燻った。
女の指が、奈緒の額を確かめるようになぞる。
「体調は? 寒いとかダルいとか、そういうのある?」
「いえ……特には……」
「そ。切られた量も少ないし、それなら問題なさそうね」
ぱ、と女の手が離れた。
一部短くなった前髪が、さらりと額にかかる。
「あの、このあとどうするんですか」
「後始末はこっちの仕事よ。あんたが気にすることじゃないわ」
言って、女は煙草を口から離した。
その足元には、戻りそびれたらしいオサキが弱々しくのたうっている。
タエ子はその細い指先に挟んだ煙草を、足元の毛玉に容赦なく押しつけた。
じゅう、と肉の焦げる音がする。オサキが激しく悶えた。
「なっ、え……なんで?」
「言ったでしょ、後始末。コイツはもう使えない」
タエ子はひどく冷えた目をしていた。
煙草を押しつけられたオサキが、ぱたりと動かなくなる。
周囲にはまだ、同様に黒液に塗れ、のたうつだけになった小さな獣たちがいくつも転がっていた。
始末。
「どうせ、潰しても潰しても湧いてくるんだもの。
それなら、精々使い潰してやらなきゃね?」
ちり紙は燃えるゴミの日に出さなきゃね。
常識でしょう、とでも言いたげな、平坦な声だった。
そういうものか。
そういうもので、──いいのだろうか。
奈緒には、わからない。
女の背後で、何かがもぞりと動いた。
「た……タエ子さん、後ろ!」
「!」
ゆらり、襤褸切れが。
髪切り虫が、立ち上がっていた。
女が振り向くとほぼ同時に、オサキの群れが再集結する。
「死んだフリとか、小賢しい真似を!」
女の指先に従って、一回り小さくなった毛玉の群れが飛びかかる。
しかし、動きはじめは一息ぶんだけ、髪切り虫の方が早かった。
満身創痍の妖は追いすがる毛玉を振り払って後ろへと跳ぶ。逃げる。
「くっそ、ッ──!」
木塀に取り付いた髪切り虫が、体液を滴らせながら一際大きく跳ねた。
帝都の光なき空に、ぼろぼろの虫が飛ぶ。
銀閃が趨った。





