5 オサキ
足早に声の方に向かう女の背を、奈緒は反射的に追いかけた。
背後にぴたりと張り付く足音に、タエ子が振り向く。
「なんでついて来んのよ」
「な……なんとなく?」
本当に、なんとなくだった。
ただ、ここでタエ子を見送ってしまったら、今奈緒を辛うじて繋ぎ止めている何かの糸がふつりと切れてしまう。そんな気がしていた。
夕暮れの帝都に、沈黙が落ちる。
「……あー、もう」
ベレー帽をくしゃりと掴み、タエ子は大きな溜息をもらした。
それから、じっとりとした視線を奈緒に寄越す。
「言っておくけど、はぐれたら知らないからね。
来るんだったらしっかりついてきなさいよ」
「は……はいっ!」
奈緒は大きく頷いた。
○ ○ ○
叫びが上がったのは、市街地から僅かに外れた宅地の中だった。
道の端に、男がひとり、蹲っている。
道行く人々の中にはちらちらと振り返る者もあったが、足を止める者はない。
タエ子はその男のもとへまっすぐに歩み寄った。
「そこのお兄さん、大丈夫?」
「あ……、ああ……髪が、……」
うわごとのように男は呟いた。年は三十路の半ばほど。
どこにでもいそうな勤め人風の、草臥れた男である。
ただ、後頭部を押さえる男の手の下、あるべき髪は不自然に落とされている。
その顔は真っ白に血の気が引いていた。明らかに様子がおかしい。
「ねえ」
男の脇にしゃがみ込み、タエ子が声をかける。
聞いているのかいないのか、男の反応は曖昧だ。
瘧のように震える男の、その視線は茫洋と定まっていない。
タエ子はひとつ溜息をつくと、男の側で手を打った。
ぱん、と鋭い破裂音が響く。
「ひッ、」
びくりと男の肩が跳ねた。
ぼんやりとしていた男の視線が、ようやく焦点を結ぶ。
目の前のタエ子をみとめると、男は驚いたように瞬きをした。
「気がつきました? いったい何があったか、話せます?」
「は、え、……ああ、」
男は何が起きているのか、よく判っていない様子だった。
面食らった様子のまま、ぽつぽつと話し始める。
男は帰り道を急ごうと、地元住民しか使わぬような抜け道を歩いていた。
宅地の合間の、細い細い路地だ。
さて通りに出ようかというその時、急に後頭部がすうすうした気がした。
手をやってみれば、剃り落とされたかのように髪がない。
そうと気づいた瞬間、全身に怖気が走って、体に力が入らなくなってしまった。
「自分でも、何が何だかさっぱりで」
「でしょうね」
タエ子が興味なさげに頷いた。
要は、人気のない道を歩いていたら気づかぬうちに髪を切り落とされていた。
起こったことといえば、それだけであるらしい。
誰かが怪我をしただの、バケモノを見ただのという話ではない。
足を止める人が居なかったのも、大事とは思われなかったからだろう。
だというのに、話を聞く前と比べ、タエ子の表情は一層険しくなっていた。
「その抜け道ってどこ?」
「この、後ろの路地……」
「そう、ありがと。気をつけて帰って」
それだけ言って、タエ子は立ち上がった。奈緒も慌ててそれに倣う。
呆然としたままの男にちょこんと一礼して、奈緒はとっとと先に進む女の背を追いかけた。
男は事の成り行きをまだ理解できていない様子で、ただぼんやりと女たちの背を見送っていた。
○ ○ ○
薄暗く、ドブ臭い。
奈緒とタエ子が足を踏み入れたのは、道というよりは家と家の隙間、ジメジメとした裏通りであった。
「ッたく、まだ数も戻ってないってのに」
「かず……?」
何の数だろう、と思いながらも、奈緒はまずタエ子の後ろをついていくので精一杯だった。
足場が悪い。ただでさえ細い裏路地には、よくわからない水たまりや、うち捨てられたガラクタがそこかしこに横たわっている。
それを踏まないようにしようとすれば、視線は自然と足元に落ちた。
ブツブツと文句をつけながらも、タエ子は奥へ奥へと進んでゆく。
奈緒にとってさらに不思議だったのは、彼女が足元の泥はねを気にしながらも、しきりに軒先を見上げている事だった。
「あの、どうして上のほうを気にしているんですか」
「そうねー。髪切りって聞いたことある?」
「いえ」
奈緒は短く答えた。
水たまりを踏んづけたタエ子がげえ、と品のない声を上げる。
「あーもう……要はその名の通り、いつの間にか人の髪を切っていく妖なんだけど」
「! ……じゃあ、さっきの男の人は」
「多分、その髪切りの被害者。べったり怪異の気配がこびりついてたし、
それ抜きでも、ただ髪を切られただけにしては様子がおかしかったでしょ」
はい、と奈緒は頷いた。
気配についてはよくわからなかったが、様子がおかしかったのは娘にもわかった。
髪を切られただけにしては、彼は少し、怯えすぎていた。
「でも、それが屋根とどう関係するんですか」
「髪切り、って一口に言うけどね。
実は、これに当てはまる怪異っていくつか存在するわけ」
「そうなんですか」
そんなこともあるのか。なにもかも、知らないことだらけだ。
タエ子は視線を寄越さぬまま、ひょいと肩を竦める。
「要は、不思議な現象に名前つけてるだけだからね。
でも、対処しようと思うならそれじゃ拙い。
まず、その正体がどれなのかを確認しなきゃいけない。わかるでしょ」
よくわかる。奈緒は頷いた。
何が原因なのかわからなければ、対策は取りようがない。
「じゃあ、例えばどんな種類があるんですか」
「そうね」
少し開けた場所で、先を行く女が足を止めた。
奈緒も立ち止まる。振り返ったタエ子と、ぴたり目が合う。
「どんなのがあると思う?
あんたは既に一種、出会っているわ」
家々の屋根に切り取られた空は、日暮れとともに紫に燃えている。
薄暗くごみごみした裏路地の中、その空を背に、女の形の影だけがくっきりと浮かび上がる。
表情は、薄闇に紛れてうまく読み取れなかった。
「……、人間?」
「そう」
ぽつり、隣家に明かりがついた。
勝手口の窓から漏れる光が、不機嫌そうなタエ子のそばかす顔を照らし出す。
「今日のカフェーみたいな狂言だったり、人の髪を切って喜ぶ変態だったり。
動機は色々だけど、そもそも妖じゃなくて人間の仕業ということもある。
ただし、さっきの男性の件に限っては、その線は薄い」
言って、タエ子はぐるり視線を巡らせた。
その真剣な横顔に、奈緒もつられて唾を飲む。
「残る気配が強いわ。おそらく現場はここ。
あとは他に狐って可能性もあるけど、これもない。
だからあり得るとすれば、残る──」
「まっ、待って下さい」
つらつらと流れるように説明を続けるタエ子の言葉を、奈緒は思わず止めた。
今、大事な情報があっさり流された気がする。
「どうして狐の可能性はないんですか」
「……。あーもうアイツ……」
タエ子が、本日何度目かの溜息をついた。
随分重たい吐息に、奈緒は思わず体を硬くする。
「いいわ、教えてあげる。
それはね、あたしがオサキ使いだからよ」
そら。お前たち、出ておいで。
タエ子がそう命じた、一拍あとのことだった。
──きい。
きい、きい。
ぞわりと。
影が、蠢いた。
「っ、」
積み重ねられた箱の下から。
家と家の隙間から。
ぞぞお、と小さな何かが這い出してくる。
これは、もしや。
昼のカフェーで、カップを弾き飛ばした──
「さあ穀潰しども、精々あたしの役に立ちなさい。
……行けッ!」
ざあっ、と波打つように、小さな何かは方々に散った。
瓦の下に、ガラクタの隙間に、その小さな体を潜り込ませてゆく。
奈緒はただ、それを呆然と眺めていた。
「あの……これ、なんですか」
「だから、言ったでしょ。オサキ狐よ」
常識でしょう、とでも言いたげに、タエ子が胸を張る。
あれが、狐だというのだろうか。
手足のない細長い体、目のない尖り顔。
何かに例えようと言うならば、あれはむしろ毛の生えた蛆虫にこそ近い。
奈緒の目に映ったあれらの姿は、とても狐には見えなかった。