4 嘘
店の男に促されるまま、タエ子は再び現場に足を運んだ。
野次馬は既に散らされており、被害者の娘は連れの男に付き添われて席に戻っている。
散らばった黒髪も綺麗に片付けられていた。
ただ、周囲から密かに寄せられる好奇の視線は、拭いがたくあった。
タエ子はその現場に仁王立ちすると、何らかの短い呪を唱えた。
そして二度、柏手を打つ。
彼女がやったことといえば、それだけだった。
「はい、終わり。義理も果たしたんだから帰るわよ」
清々したとでも言いたげな表情で、タエ子は言った。
責任者らしき男はヤレヤレと首を振っている。
奈緒はなんだか狐につままれたような心持ちで、促されるままに店を出た。
○ ○ ○
空はとろけおちそうな茜色に染まっていた。もう夕暮れが近い。
石畳の道を足早に行く人々も、皆帰宅の途上であるようだ。
遅くなったのだから送るわ、というタエ子の言葉に、奈緒は頷いた。
先程の出来事について、話を聞いてみたいような心持ちになっていた。
「さっきのお祓い、随分あっさり終わったんですね」
「そりゃそうでしょ。実質何もしてないからね」
奈緒の問いに、タエ子はあっさりと言った。
えっ、と思わず驚きの声が漏れる。
「何驚いてるのよ。
そもそも怪異がらみの事件じゃないでしょう、あれ」
『そうだな』
まさかの蛇神の同意に、奈緒は更に動揺した。
「そうだったんですか……?」
「あのねえ。あんた、……いえ、いいわ。
それより、彼女の髪がどんな風に切られてたか、見た?」
ひどく呆れた様子で、タエ子が訊ねる。
言われるまま、奈緒は記憶を手繰った。
黒絹の束にも似て、床を覆う長く艶やかな黒髪。
その真ん中にへたり込み、顔を覆ってしゃくり上げる娘。
その髪は、果たしてどうなっていたか。
「ええと……。
こう、肩につくかつかないかくらいで、ばっさり切られていたように思います」
ぎこちない身振り手振りで、奈緒はその丈を示した。
確か、ちょうど隣を歩くタエ子の髪と同じぐらいの長さだ。
そう過ぎった己の考えに、奈緒はなにか違和感を覚えた。
本当にそうだったろうか?
奈緒は改めて、タエ子を見た。
西日に照らされ、薄く雀斑の散った横顔には朱が刷かれている。
肩に触れない長さにまっすぐカットされたボブヘア、少しよれたベレー帽。
流石に酒は抜けてきたのか、胡乱だった目つきはしっかりしてきている。
その顔と、記憶の娘とを見比べる。
答えはすぐに出た。
「あと、長さがちぐはぐでした」
「そう。彼女の髪、斜めに切られてた。
手前が短く、奥が長い。左が短くて、右が長い」
交差点でタエ子は足を止めた。奈緒もそれに倣う。
二人の目の前を、馬車が横切ってゆく。
タエ子が手を伸ばし、たっぷりとした奈緒の髪をその手に掬いあげた。
女の細い指先が娘の襟足を撫でる。その冷たさに、奈緒は微かに身震いした。
嫌な感じはしなかった。
「刃をあてて、髪をあんなふうに切ろうと思うなら──。
判るでしょう。髪を手前に束ねて、正面からばっさりいかなきゃならない」
丁度、こんな風に。
タエ子は奈緒の髪をきゅっと束ねて掴み、その左耳近くに刃に見立てた指を当てた。
その指先が実際に冷たい刃になって、ばっさりと髪を切り落とされる場面が、娘の脳裏に浮かぶ。
想像の中切り落とされた奈緒の髪は、あの被害者の娘のものと瓜二つになった。
「でも、」
だとすれば、少しおかしな事になる。
あの娘は“後ろからぐいと髪を掴まれ”髪を切り落とされたと言っていた。
犯人の姿も見ていないという。それはどう解釈すればよいのだろう?
「だから、狂言でしょ」
ぱ、とタエ子の手が放された。馬車が通り過ぎる。
解放された黒髪は、さらりと奈緒の肩口に溜まった。
からからと回る車輪の音が遠ざかってゆく。
それは、つまり。
彼女が嘘をついたと言うことだろうか。
「どうしてそんなこと、」
「さあ。どうしてでしょうね」
さっさと歩き出すタエ子のあとを、奈緒は慌てて追いかけた。
理由を考えてみるが、わからない。
わからないので、奈緒はじっとタエ子の顔を見た。
「何よ」
「あの、わからないので、教えて欲しいです」
「……」
「…………」
「……。……、ハァ」
根負けしたらしい女は、うんざりした表情で口を開いた。
「彼女の連れ、見た? 見たならどう思った?」
「年配の男性でした。親子かな、と」
「親子の距離感じゃなかったわよ、あれ。
娘の方はよそよそしいのに、男の方は矢鱈と馴れ馴れしかった」
例えば、ほら。
父親が、娘の手をこんな風に握ると思う?
そう言って、タエ子は奈緒の手を取った。
そっと撫でるように手の甲を包み込み、指のあいだに指を絡める。
忍び寄るような、妖しい手つきだった。背筋にぞわぞわしたものが走る。
ぱっと手が放された。
「えと、つまり……」
「変則の見合いか何かだったんでしょ」
ひょいとタエ子が肩をすくめた。
「家と家のことだから嫌とはいえない。
それでもヒヒジジイに嫁ぐのは耐えがたい。
だから、居もしない犯人を仕立て上げて、髪を切り落とした。
あれならしばらく高島田は結えないわ。時間稼ぎぐらいにはなるかもね」
そういう、ことか。
頭を金槌で打たれたような衝撃だった。
そんな可能性を、奈緒は考えてもみなかった。
呆然とする娘を、タエ子は呆れた目で見た。
「あのね。言っとくけどこれ、ただの憶測だから。あくまでも下衆の勘ぐり。
ただ、彼女が嘘をついてたってことだけは、状況から見てほぼ間違いない。
大事なのは、皆が皆、素直に本当のことだけ喋るわけじゃないってこと」
タエ子の言葉に、奈緒は頷いて見せた。
その意識の有る無しに関わらず、人間は嘘をつく。
それは知っていた。少なくとも、そのつもりだった。
だが、足りなかった。
目にしたもの、耳にしたものが全てではない。
奈緒は改めて、そのことを心に刻みつけた。
「わかった? 妖の仕業だーなんて騒がれるたび、バカ正直に何でもかんでも首つっこむわけにはいかないの。特に今は例のクソ案件のせいで死ぬほど人手が足りてないんだし。
本当なら持ち場に張り付いてなきゃいけない早太郎を引っぺがして現場に駆り出してる、って時点でヤバいのわからない?」
わからない。
どれもこれも、奈緒には初耳だった。
戸惑い沈黙する娘の表情に、タエ子は何かを察したようだった。
「……あー。そう、わかった。
あんた本ッ当に何も聞かされてないのね。アイツも過保護だこと」
「それは、……どういう意味、ですか」
「どうもこうもないわ。早太郎はあんたを陰陽寮から遠ざけようとしている。
それだけよ」
向けられたのは、どこか哀れんでいるような、或いは羨んでいるような、そんな眼差しだった。
薄々察していた事ではある。
それでも、他者の口から正面切って突きつけられるのは堪えた。
目を伏せ、薄く唇を噛む。
じっと見つめた足元の影は、その輪郭を薄闇に溶かしていた。
背後にはぽつぽつとガス灯がつき始めている。誰そ彼時であった。
「うわァーッ!」
悲鳴が上がった。今度は男のものである。
舌打ちにはっと見上げれば、タエ子が張り詰めた表情で声の方角を見つめていた。
しゅる、と首筋に鱗が滑る。蛇神までもが姿を顕していた。
「な、え、どうしたんですか」
「まさかの本物が出やがったのよ」
「ほんもの、……怪異、ですか」
呆然とした奈緒の呟きに、タエ子は吐き捨てるように言った。
「そうよ! アアもう、折角の非番だったのに!」
苛立たしげに頭をかきむしり、女はキッと睨むように奈緒を見た。
「あんたはいいから行きな。
子供じゃないんだから、ここからなら一人で帰れるでしょ」
お守りもいるんだし、とタエ子は白蛇に視線をずらした。
奈緒の肩の上で、うむ、と小蛇が頷く。
「た、タエ子さんはどうするんですか」
「見りゃ判るでしょ、仕事よ仕事! サイッテー!」
ヤケクソ気味に、タエ子が叫んだ。





