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大照妖異譚  作者: 大平 凡
3章 笈山天神社縁起/百足女
24/56

6 天神

 

 ひとり石段を登りながら、名無しは違和感を覚えていた。

 ──静かすぎる。


 細い石段の両脇は、奔放に繁った緑に覆われている。

 つづら折りの参道は、時おり思い出したように立ち並ぶ古びた鳥居や、苔むした石灯籠がなければ獣道と見紛うほどの山道である。

 だというのに、名無し自身の足音と呼吸の他は、鳥の声ひとつ、草擦れの音ひとつ聞こえない。


 足元で、からん、と白木の下駄が鳴る。

 静寂。


 一足ごとに、周囲の空気が密度を増す。音が消える。

 一段ごとに、不可視の膜が破れる。まとわりついてくる。


 異界に、踏み入ろうとしているのだ。

 こちらとよく似た、しかし決定的に異なる場所に迷い込もうとしている。

 理屈ではない。ただ、肌の感覚によって、名無しはそのように覚っていた。


 しかし、なにより奇妙に思われたのは、そうした異常を認めながらも危機感を覚えていない、己自身の心のありようだった。

 天幕の中であれほど動揺していた精神は、今や奇妙に落ち着いている。


 どこへたどり着くかも定かではないというのに、この先に進むことに恐れはなかった。

 恐ろしさでいうなら、村人たちの視線にさらされていた、あの瞬間のほうがよほど恐ろしかった。だから、むしろ──


 ──むしろ、何だ?


 とりとめのない思考の中で、なにかが引っ掛かった。

 だが、抱えたしこりをうまく言語化できない。思考がぼやける。


 もどかしい気持ちで、名無しはハ、と息をついた。

 肺がきゅうと絞れる。太ももに、かすかな痛みとしびれが走り出す。

 思考とは別に、石段を登り続けていた体は早くも疲れを訴えはじめていた。


 視線をあげれば、すこし先で石段が途切れている。

 青葉の間に、ちぎれた青空が見えた。

 笈山天神社の境内は、もうすぐのようだった。


 ○ ○ ○


 ようやく石段の一番上にたどり着いた名無しは、一度足を止めた。

 上がった息を整える。大きく息を吸えば、澄んだ空気が肺を満たした。


 今頃、関口たちはどうしているのだろう。

 名無しは振り向いて、たった今来た道を見下ろした。天幕は見えない。

 ただ、みっしりと繁茂した緑の草木と、その合間に古びた石段とが見えるばかりだ。


 ──帰りは決して、後ろを振り返ってはいけないよ。


 出がけに耳打ちされた男の言葉を思い出し、名無しは小さく身震いをした。

 今は()()だ。問題は無い。たぶん。

 無意識のうちに、指先は胸元の小刀に触れている。


 帰りに振り向いたらどうなるのかは、考えないことにした。


 改めて、正面を見る。緑に囲われた拝殿はどこか薄暗い。

 その手前を、物言わぬ阿吽の狛犬が静かに守っていた。


 ふと、()()()()()()()()、と名無しは思った。

 そして、そう思った己自身に困惑した。


 牛ではないから何だというのだ。わからない。

 先ほど抱いた胸の内のしこりが、また少し大きくなる。

 早く下りてしまおう、と決意して、名無しは足取りを速めた。


 拝殿の目の前まで来て、名無しはさらに困惑した。


 ない。


 何がと問われれば、持ち帰るべき()()とやらだ。

 三方はある。だが、その上には何もない。

 まさか虚無を持ち帰れとでも言うのだろうか。


 しかしもう、拝殿前まで来てしまったのは確かだった。

 兎にも角にも、儀式は行わなければならない。


 なぜだか、胸騒ぎがした。

 ()()()()()()()()()()()()


 名無しはいちど拝礼し、つっかえながらも暗記した祝詞を唱えた。


 何も起こらない。

 風も吹かなければ、物音も立たなかった。

 ただ、なんとなく、何かに見られているような気もする。


 再拝して二度、柏手(かしわで)を打つ。一礼。

 ゆっくりと顔をあげて──名無しは瞠目(どうもく)した。

 三方の上に、何かが乗っている。


 近づいて、恐る恐る手に取ってみる。

 それは、なにやら二枚重ねに細工のされた、古びた木の板だった。


 木製の正方形の四辺には何本もの線が引かれ、枠の中に文字が書き込まれている。

 その中央には同じく木製の円盤がはめ込まれており、こちらもぐるりには等間隔で文字が書き込まれている。そしてその真ん中には、北斗七星の意匠が刻まれていた。


 これが神意、なのだろうか。


 周囲を見渡してみるが、人影はない。

 鬱蒼と茂る緑と、背を向けた狛犬と、年季の入った拝殿があるだけだ。

 唯一何かを隠せそうな正面の扉はかたく閉じられており、開くような気配はない。


 戸惑いはしたが、考えても仕方がない。

 急いで戻ろうと、名無しは拝殿に背を向けた。

 そのときだった。


 ──ぎい、ぃ。


 木の、軋む音がした。

 薄く、名無しの背後で、固く閉じられていた扉が開いたような気配があった。


 ○ ○ ○


 国の拝み屋とやらを眺めに来た野次馬の大半は、結果が出るまで居残るつもりのようだった。想定していたよりも人が引かない。

 その人の群れを、関口は見るともなく眺めていた。


 人混みの脇で、濃い緑を背景に白い天幕がひらめく。夏の気配だった。

 そろそろ、気の早い蝉が鳴き出す頃合いかもしれない。

 預かっていた鏡がびくりと脈を打ったのは、丁度そんなことを考えた時だった。


「どうかしましたか」

『今、何か動かなんだか』


 声を潜めた関口の問いにも、蛇神は姿を見せない。

 だが神経を尖らせているのがありありとわかる声で、蛇神は言った。

 問われたままに、五感を研ぎ澄ます。


 目で、耳で、鼻で、肌で。

 周囲を探ってみても、感じ取れるのは枝を伸ばす木々の青い匂いと土埃、人々のざわめき、そしてまだ控えめな日の熱気ばかりだ。

 異常らしい異常は感じ取れない。


 ただ薄く、怪異の匂いはある。

 だが、それはこの村に足を踏み入れたときからずっと漂っているものだ。


「少し探ってみましたが、自分は何も。

 何か、気になることでも?」

『いや……そうか。気のせいならば良いのだ。

 おれも、気をとがらせ過ぎておるのやも知れぬ』


 相変わらずぴりぴりとした様子で、蛇神は言った。

 念のため、再度辺りを見渡してみるが、村人たちにも特に変わった動きはない。

 ただ、天敵であるということを差し引いても、蛇神の警戒度合いは尋常のものとは思えなかった。それを無視していいものとも思えない。


「ひとつ質問なのですが。

 貴方にとって、これはそんなに警戒すべき相手ですか」

『……判らん。

 判らんが、猛烈に嫌な感じがするのだけは確かだ』

「そうですか。わかりました」


 関口は己の内で、警戒の度合いをひとつ、引き上げることにした。

 大山鳴動して鼠一匹であってもそれはそれで構うまい。

 警戒はしすぎて困るということもないだろう。


 気を引き締めるつもりで、関口は上役のほうを見た。

 枯れ草色のスーツの男は、だるそうに大あくびをしているところだった。

 少しげんなりする。


『ところで、あの男の張った結界とやらは万全なのだろうな?』

「そのはずです。あれはそういうところでしくじる男ではない。

 まあ、その……今はあんなですが。悪意ある何者かに要を砕かれたりしない限りは」


 しかし、その要を埋めた場所には同時に()()()の術式もかけている。

 何らかの意図があったとしても、易々と掘り返されることはないはずだ。

 関口の答えに、蛇は固い声で、そうか、とだけ言った。


 ○ ○ ○


 よくわからない木の板を抱えて、名無しは参道を下っていた。

 早く、早く、戻らなければ。


 気は逸れども、足元は慣れぬ白木の下駄である。

 狭く、急な石段を駆け下ることなどとてもできそうにない。

 名無しはひとり、叫び出しそうになるのを必死に堪えていた。



 ひたり。


 ひたり。


 ──何かが、ついてきている。



 その何かは、強烈な存在感を放っていた。

 振り向いて確かめずともわかる。それは居る。そして、見られている。

 じっと、ずっと。()()()()


 ただ、距離を詰めてくる気配がないことだけが救いだった。

 ただし、離れる気配もない。


 ひたり。

 ひたり。


 白い衣装を翻し、緑のあわいを抜けてゆく。

 困惑と動揺の中で、名無しは慣れぬ衣装を恨めしく思った。


 足元にまとわりつく緋袴が邪魔だ。ひらひらふわふわと翻る千早が鬱陶しい。

 先程まではなんでもなかった前天冠が、なんだかずしりと重たい気がする。


 もっとも、そんな思考はただの八つ当たりだ。わかっている。わかっている。

 下手をすれば、普段の衣装より動きやすくさえあるのだから。


 まとまりの無いことを考えながら、木盤を抱えなおす。

 それを掴む手のひらが、じっとりと汗ばむ。

 これは、本当に持ち出してよいものだったのだろうか?


 石段の折り返し地点を、名無しは努めて早足で通り過ぎた。

 そうでもしなければ、背後のそれをちらと見てしまうのではないかと思えた。

 笈山天神の参道は、細く、狭く、()()()()()()()()()


 ちらりと、視界の端に黒い影が映った。

 人の、男の姿に似ている。そんな気がした。


 石段を下りる。

 下りながら、名無しは言いようのない気持ち悪さを感じていた。

 ()()()()()()()()()()()()


 そうだ。その通りだ。

 だから自分は約定通り拝礼し、祝詞を捧げ、求められたものを手に山を下っているのではないか。

 そう思いながらも、同時に、何かが足りていない、という奇妙な確信があった。


 何か。

 何かを、忘れている気がする。

 それは一体何だ?


 遷座の儀式とやらについては、あの狐顔の男に言われたとおりに恙なく終えたはずだ。幾度思い返しても、抜けた手順はない。

 では、一体何を忘れているのか。石段を下る。



 ──天神さまのお使いは、牛なのよ。



 何の脈絡もなく、名無しはそんな女の声を思い出した。なるほど。

 思考のなかの、奇妙に冷静な部分が人ごとのように納得する。

 だから己は、笈山天神の狛犬を見て奇妙に思ったのか。牛ではないのだなと。


 だが、名無しにそんな知識を語ったのは一体誰だったろう。

 そして、何のために?


 石段を下る。思い出せない。

 思い出せぬまま、現実との境目が曖昧になる。

 ぼやけた記憶の中に、再び声がよみがえる。



 ──あなたが七つになったら、これを、



 幼い手のひらに、硬い感触。

 そう言って押し当てられたのは小刀だった。

 合口拵えの、柄巻は緋の絹糸、鞘は艶めく黒漆。


 無意識のうちに、名無しの指先は胸元に伸びていた。

 それはある。ここに。こんなにもぼろぼろになって。

 それでもなお、名無しの手元に。



 ──これを持って、■■■■■のところへ。



 その響きのとてつもない異物感に、名無しは我に返った。

 緑に囲まれた石段に、足がもつれる。


「あ、」


 前を見れば、傾いた視界に最後の鳥居が映る。

 その向こうの風景は奇妙に霞がかって、はっきりとはわからない。

 いつのまにか、石段は尽きようとしていた。落ちる。

 白い千早が、空気をはらんでふわりと広がった。


 しかと木盤を抱え、名無しは衝撃に備えてかたく目を瞑った。

 だが、いつまでたっても痛みは来ない。


「れ、……?」


 傾いだ体は、途中で何かに抱き留められていた。

 それは名無しの体をゆっくりと下ろすと、その胸元から、鞘ごと小刀を引き抜いてゆく。


「待って、それは」


 止めかけて、名無しは続けるべき言葉を失った。

 だって、()()()()()のだ。()()()()()、という感覚があった。

 長い長い約束が、今、確かに果たされた。


 呆然とへたり込む名無しの後頭部を、さわ、と撫でるような感触があった。

 そして、名無しの背後に立つ黒い影が、鳥居の向こうを指さす。


 行けというのか。

 そうなのだろう。


 名無しは木盤を抱え直し、ゆっくりと立ち上がった。

 背後を振り向いて、背後の存在を確かめてみたい。


 その強烈な要求をどうにか振り払って、名無しは一歩、足を踏み出した。

 何かは、ひたり、その後ろについてくる。

 名無しはもう、それを恐ろしいとは思わない。


 ようやく、名無しは登りのときに感じたしこりの正体に気づいた。


 そうだ。

 むしろ、自分は人の世より、こちらの方が()()()


 鳥居をくぐる。

 その瞬間に、後ろの何かが名無しを追い越してゆくのがわかった。

 姿は見えない。見るべきでないこともわかっている。


 ただ、すれ違いざまに一言、名無しは呼びかけた。


「──()()()()()?」


 答えはなかった。

 ただ、ぽん、と背を押される感触があって、名無しは押し出されるように、鳥居の向こうに転び出た。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 登場人物や舞台、物語によって作り出される作品の雰囲気が魅力的で、凄く引き込まれます。 [気になる点] 結界の綻びは何を招くのでしょうか。 [一言] 今後も楽しみにしています。
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