6 天神
ひとり石段を登りながら、名無しは違和感を覚えていた。
──静かすぎる。
細い石段の両脇は、奔放に繁った緑に覆われている。
つづら折りの参道は、時おり思い出したように立ち並ぶ古びた鳥居や、苔むした石灯籠がなければ獣道と見紛うほどの山道である。
だというのに、名無し自身の足音と呼吸の他は、鳥の声ひとつ、草擦れの音ひとつ聞こえない。
足元で、からん、と白木の下駄が鳴る。
静寂。
一足ごとに、周囲の空気が密度を増す。音が消える。
一段ごとに、不可視の膜が破れる。まとわりついてくる。
異界に、踏み入ろうとしているのだ。
こちらとよく似た、しかし決定的に異なる場所に迷い込もうとしている。
理屈ではない。ただ、肌の感覚によって、名無しはそのように覚っていた。
しかし、なにより奇妙に思われたのは、そうした異常を認めながらも危機感を覚えていない、己自身の心のありようだった。
天幕の中であれほど動揺していた精神は、今や奇妙に落ち着いている。
どこへたどり着くかも定かではないというのに、この先に進むことに恐れはなかった。
恐ろしさでいうなら、村人たちの視線にさらされていた、あの瞬間のほうがよほど恐ろしかった。だから、むしろ──
──むしろ、何だ?
とりとめのない思考の中で、なにかが引っ掛かった。
だが、抱えたしこりをうまく言語化できない。思考がぼやける。
もどかしい気持ちで、名無しはハ、と息をついた。
肺がきゅうと絞れる。太ももに、かすかな痛みとしびれが走り出す。
思考とは別に、石段を登り続けていた体は早くも疲れを訴えはじめていた。
視線をあげれば、すこし先で石段が途切れている。
青葉の間に、ちぎれた青空が見えた。
笈山天神社の境内は、もうすぐのようだった。
○ ○ ○
ようやく石段の一番上にたどり着いた名無しは、一度足を止めた。
上がった息を整える。大きく息を吸えば、澄んだ空気が肺を満たした。
今頃、関口たちはどうしているのだろう。
名無しは振り向いて、たった今来た道を見下ろした。天幕は見えない。
ただ、みっしりと繁茂した緑の草木と、その合間に古びた石段とが見えるばかりだ。
──帰りは決して、後ろを振り返ってはいけないよ。
出がけに耳打ちされた男の言葉を思い出し、名無しは小さく身震いをした。
今は行きだ。問題は無い。たぶん。
無意識のうちに、指先は胸元の小刀に触れている。
帰りに振り向いたらどうなるのかは、考えないことにした。
改めて、正面を見る。緑に囲われた拝殿はどこか薄暗い。
その手前を、物言わぬ阿吽の狛犬が静かに守っていた。
ふと、牛ではないのだな、と名無しは思った。
そして、そう思った己自身に困惑した。
牛ではないから何だというのだ。わからない。
先ほど抱いた胸の内のしこりが、また少し大きくなる。
早く下りてしまおう、と決意して、名無しは足取りを速めた。
拝殿の目の前まで来て、名無しはさらに困惑した。
ない。
何がと問われれば、持ち帰るべき神意とやらだ。
三方はある。だが、その上には何もない。
まさか虚無を持ち帰れとでも言うのだろうか。
しかしもう、拝殿前まで来てしまったのは確かだった。
兎にも角にも、儀式は行わなければならない。
なぜだか、胸騒ぎがした。
約定は、守られねばならない。
名無しはいちど拝礼し、つっかえながらも暗記した祝詞を唱えた。
何も起こらない。
風も吹かなければ、物音も立たなかった。
ただ、なんとなく、何かに見られているような気もする。
再拝して二度、柏手を打つ。一礼。
ゆっくりと顔をあげて──名無しは瞠目した。
三方の上に、何かが乗っている。
近づいて、恐る恐る手に取ってみる。
それは、なにやら二枚重ねに細工のされた、古びた木の板だった。
木製の正方形の四辺には何本もの線が引かれ、枠の中に文字が書き込まれている。
その中央には同じく木製の円盤がはめ込まれており、こちらもぐるりには等間隔で文字が書き込まれている。そしてその真ん中には、北斗七星の意匠が刻まれていた。
これが神意、なのだろうか。
周囲を見渡してみるが、人影はない。
鬱蒼と茂る緑と、背を向けた狛犬と、年季の入った拝殿があるだけだ。
唯一何かを隠せそうな正面の扉はかたく閉じられており、開くような気配はない。
戸惑いはしたが、考えても仕方がない。
急いで戻ろうと、名無しは拝殿に背を向けた。
そのときだった。
──ぎい、ぃ。
木の、軋む音がした。
薄く、名無しの背後で、固く閉じられていた扉が開いたような気配があった。
○ ○ ○
国の拝み屋とやらを眺めに来た野次馬の大半は、結果が出るまで居残るつもりのようだった。想定していたよりも人が引かない。
その人の群れを、関口は見るともなく眺めていた。
人混みの脇で、濃い緑を背景に白い天幕がひらめく。夏の気配だった。
そろそろ、気の早い蝉が鳴き出す頃合いかもしれない。
預かっていた鏡がびくりと脈を打ったのは、丁度そんなことを考えた時だった。
「どうかしましたか」
『今、何か動かなんだか』
声を潜めた関口の問いにも、蛇神は姿を見せない。
だが神経を尖らせているのがありありとわかる声で、蛇神は言った。
問われたままに、五感を研ぎ澄ます。
目で、耳で、鼻で、肌で。
周囲を探ってみても、感じ取れるのは枝を伸ばす木々の青い匂いと土埃、人々のざわめき、そしてまだ控えめな日の熱気ばかりだ。
異常らしい異常は感じ取れない。
ただ薄く、怪異の匂いはある。
だが、それはこの村に足を踏み入れたときからずっと漂っているものだ。
「少し探ってみましたが、自分は何も。
何か、気になることでも?」
『いや……そうか。気のせいならば良いのだ。
おれも、気をとがらせ過ぎておるのやも知れぬ』
相変わらずぴりぴりとした様子で、蛇神は言った。
念のため、再度辺りを見渡してみるが、村人たちにも特に変わった動きはない。
ただ、天敵であるということを差し引いても、蛇神の警戒度合いは尋常のものとは思えなかった。それを無視していいものとも思えない。
「ひとつ質問なのですが。
貴方にとって、これはそんなに警戒すべき相手ですか」
『……判らん。
判らんが、猛烈に嫌な感じがするのだけは確かだ』
「そうですか。わかりました」
関口は己の内で、警戒の度合いをひとつ、引き上げることにした。
大山鳴動して鼠一匹であってもそれはそれで構うまい。
警戒はしすぎて困るということもないだろう。
気を引き締めるつもりで、関口は上役のほうを見た。
枯れ草色のスーツの男は、だるそうに大あくびをしているところだった。
少しげんなりする。
『ところで、あの男の張った結界とやらは万全なのだろうな?』
「そのはずです。あれはそういうところでしくじる男ではない。
まあ、その……今はあんなですが。悪意ある何者かに要を砕かれたりしない限りは」
しかし、その要を埋めた場所には同時に人払いの術式もかけている。
何らかの意図があったとしても、易々と掘り返されることはないはずだ。
関口の答えに、蛇は固い声で、そうか、とだけ言った。
○ ○ ○
よくわからない木の板を抱えて、名無しは参道を下っていた。
早く、早く、戻らなければ。
気は逸れども、足元は慣れぬ白木の下駄である。
狭く、急な石段を駆け下ることなどとてもできそうにない。
名無しはひとり、叫び出しそうになるのを必死に堪えていた。
ひたり。
ひたり。
──何かが、ついてきている。
その何かは、強烈な存在感を放っていた。
振り向いて確かめずともわかる。それは居る。そして、見られている。
じっと、ずっと。名無しを。
ただ、距離を詰めてくる気配がないことだけが救いだった。
ただし、離れる気配もない。
ひたり。
ひたり。
白い衣装を翻し、緑のあわいを抜けてゆく。
困惑と動揺の中で、名無しは慣れぬ衣装を恨めしく思った。
足元にまとわりつく緋袴が邪魔だ。ひらひらふわふわと翻る千早が鬱陶しい。
先程まではなんでもなかった前天冠が、なんだかずしりと重たい気がする。
もっとも、そんな思考はただの八つ当たりだ。わかっている。わかっている。
下手をすれば、普段の衣装より動きやすくさえあるのだから。
まとまりの無いことを考えながら、木盤を抱えなおす。
それを掴む手のひらが、じっとりと汗ばむ。
これは、本当に持ち出してよいものだったのだろうか?
石段の折り返し地点を、名無しは努めて早足で通り過ぎた。
そうでもしなければ、背後のそれをちらと見てしまうのではないかと思えた。
笈山天神の参道は、細く、狭く、曲がりくねっている。
ちらりと、視界の端に黒い影が映った。
人の、男の姿に似ている。そんな気がした。
石段を下りる。
下りながら、名無しは言いようのない気持ち悪さを感じていた。
約定は守られねばならない。
そうだ。その通りだ。
だから自分は約定通り拝礼し、祝詞を捧げ、求められたものを手に山を下っているのではないか。
そう思いながらも、同時に、何かが足りていない、という奇妙な確信があった。
何か。
何かを、忘れている気がする。
それは一体何だ?
遷座の儀式とやらについては、あの狐顔の男に言われたとおりに恙なく終えたはずだ。幾度思い返しても、抜けた手順はない。
では、一体何を忘れているのか。石段を下る。
──天神さまのお使いは、牛なのよ。
何の脈絡もなく、名無しはそんな女の声を思い出した。なるほど。
思考のなかの、奇妙に冷静な部分が人ごとのように納得する。
だから己は、笈山天神の狛犬を見て奇妙に思ったのか。牛ではないのだなと。
だが、名無しにそんな知識を語ったのは一体誰だったろう。
そして、何のために?
石段を下る。思い出せない。
思い出せぬまま、現実との境目が曖昧になる。
ぼやけた記憶の中に、再び声がよみがえる。
──あなたが七つになったら、これを、
幼い手のひらに、硬い感触。
そう言って押し当てられたのは小刀だった。
合口拵えの、柄巻は緋の絹糸、鞘は艶めく黒漆。
無意識のうちに、名無しの指先は胸元に伸びていた。
それはある。ここに。こんなにもぼろぼろになって。
それでもなお、名無しの手元に。
──これを持って、■■■■■のところへ。
その響きのとてつもない異物感に、名無しは我に返った。
緑に囲まれた石段に、足がもつれる。
「あ、」
前を見れば、傾いた視界に最後の鳥居が映る。
その向こうの風景は奇妙に霞がかって、はっきりとはわからない。
いつのまにか、石段は尽きようとしていた。落ちる。
白い千早が、空気をはらんでふわりと広がった。
しかと木盤を抱え、名無しは衝撃に備えてかたく目を瞑った。
だが、いつまでたっても痛みは来ない。
「れ、……?」
傾いだ体は、途中で何かに抱き留められていた。
それは名無しの体をゆっくりと下ろすと、その胸元から、鞘ごと小刀を引き抜いてゆく。
「待って、それは」
止めかけて、名無しは続けるべき言葉を失った。
だって、これで良いのだ。果たされた、という感覚があった。
長い長い約束が、今、確かに果たされた。
呆然とへたり込む名無しの後頭部を、さわ、と撫でるような感触があった。
そして、名無しの背後に立つ黒い影が、鳥居の向こうを指さす。
行けというのか。
そうなのだろう。
名無しは木盤を抱え直し、ゆっくりと立ち上がった。
背後を振り向いて、背後の存在を確かめてみたい。
その強烈な要求をどうにか振り払って、名無しは一歩、足を踏み出した。
何かは、ひたり、その後ろについてくる。
名無しはもう、それを恐ろしいとは思わない。
ようやく、名無しは登りのときに感じたしこりの正体に気づいた。
そうだ。
むしろ、自分は人の世より、こちらの方が馴染む。
鳥居をくぐる。
その瞬間に、後ろの何かが名無しを追い越してゆくのがわかった。
姿は見えない。見るべきでないこともわかっている。
ただ、すれ違いざまに一言、名無しは呼びかけた。
「──おとうさん?」
答えはなかった。
ただ、ぽん、と背を押される感触があって、名無しは押し出されるように、鳥居の向こうに転び出た。