5 茶番
日は中天に差し掛かろうとしていた。
張り巡らされた白い天幕の外には、もう随分と人が集まっているらしい。
漏れ聞こえるざわめきに、床几に座した名無しは落ち着かぬ気分で天幕の入り口を見た。前天冠の飾り紐が揺れる。
まだか。
緊張で乾いた唇を湿らせかけたのを、娘はすんでのところで堪えた。
舐めてしまっては、整えてもらったばかりの紅が落ちてしまう。
儀式の準備として、名無しは巫女装束に着替えさせられていた。
ほぼ着物と変わらぬ白衣は兎も角、緋袴や千早にはどうも慣れない。
遷座の儀は、衆人環視の中行われることになっていた。
名無しは、外の群衆の間を抜けて、ひとり神社へ向かう手筈になっている。
となれば、それなりの人目に晒されるのは明白。
目立つ巫女役には盛装させねば恰好がつかない、というのはわかる。
わかりはするが。
──みどろが淵。
嫌な思い出がそろり、顔を覗かせる。
白無垢と巫女装束、夜中と昼間、片道と往復。
あの時とは事情も目的も違うのは重々承知していながらも、着飾って神域に向かう事に、名無しは不安を覚えずにはいられなかった。指先に力がこもる。
緊張ごと吐き出すように、名無しは小さく息をついた。
今更だ。
そもそも、よく知りもしない神社へ行く事に同意したのは己ではないか。
そう思いながらも、無意識の手はすがる物を求めて胸元をさまよった。
触れたのは、鞘の中で錆び付いた小刀の柄だけだ。懐に鏡はない。
望んで厄介事を引き起こそうというのでない限り、神域に別の神に由来するものを軽々しく持ち込むべきではない。ましてや、形代など。
そういう理由から、カガチの鏡は今朝方、例の狐男に預けていた。
落ち着かぬままわずかに首を巡らせば、天幕の脇のほうに見慣れた黒衣の男が立っているのが見えた。関口である。目が合った。
名無しの視線に気づいても、軍装の男は何も言わなかった。
かわりにわずかに頷いて見せる。
それだけだった。
それだけのことだったが、娘のざわついていた胸中は、いつの間にか落ち着きを取り戻していた。
「さて」
枯れ草色の三つ揃えを着た、特徴の無い男がぱん、とひとつ手を打った。
白い天幕の中に、乾いた音が響く。
「そろそろ向こうも準備が整う頃だろう。
では、最後の確認といこうか」
「は、はい」
にこやかに宣う狐顔に、名無しは強張った顔で頷いた。
「君は合図が来たらこの天幕を出て、正面の鳥居をくぐる。
石段をのぼって、拝殿前に着いたら一拝して祝詞を奏上。
昨日暗記してもらった祝詞は覚えているよね?」
「はい」
名無しは頷いた。
覚えている。大丈夫だ。
「うん、結構結構。ではその後、再拝。
二拍一礼して、目の前の三方の上の品を手に取り、石段を降りてここまで戻る。
流れはこれだけだ。いやあ単純だねえ」
芝居がかった仕種で、男は自らの発言にうんうんと頷いた。
昨日も繰り返し聞かされた流れだ。
男の言うとおり、単純でもある。
だがひとつだけ、名無しには引っかかっていることがあった。
「あの」
「うん、なにかな?」
「ええと、……三方の上に置いてあるものを、というのはわかったんですけど。
具体的には、何を持ち帰ればいいんですか?」
「神意だよ」
張り付いたような笑みを浮かべたまま、男は言った。
「……神意、ですか」
「そうとも」
胸を張る男をよそに、名無しは困惑を強めていた。
つまり──それは一体なんなのだ?
少し落ち着いたと思ったばかりの胸の内が、途端にざわめきだす。
「なに、行けばわかるさ。安心したまえよ。
持ち帰った後、村の連中には色々言われるかもしれないが、大丈夫。
君は何を問われても”神意です”とだけ答えておけばいいからね」
あとはこちらの仕事だよ。
男がそう言った直後、幕の外がひときわ煩くなった。
「どうやら、向こうは顔ぶれが揃ったみたいだね」
その通りであるようだった。
どうぞ、はじめていただけますか、と布一枚向こうから声がかかる。
「さあ、出番だよ」
枯れ草色のスーツの男が、幕を上げる。
目の前に現れる赤い鳥居に、その前に花道を作る人々に、名無しの心臓はひときわ強く跳ねた。
無数の視線が降り注ぐ。
巫女装束の娘は、意を決してその只中に足を踏み出した。
「ああ、それから」
天幕をくぐり、狐顔の男とすれ違おうとした。その時だった。
男が屈んで、名無しの耳元に弧を描いたままの唇を寄せる。
「帰りは決して、後ろを振り返ってはいけないよ。
──行きはよいよい、帰りは怖い、だ」
笑みを含んだ声で、男は低く、囁いた。
○ ○ ○
潮善治郎は、少し離れた場所から、参道前に集った群衆を眺めていた。
壮年の男や、腰の曲がった老婆や、訳もわかっていないだろう子供たちの群れの合間に、千早を纏い、神社へと向かう小柄な娘の姿がちらりと見える。
緊張からか、薄化粧の施されたその横顔はひどく強ばって見えた。
茶番だ、と思った。
こんなものは、全く以て茶番だ。
ひどく醒めた気分だった。下らない。
結局のところ、と善治郎は思う。
今回の悶着は、村人らの感傷が全ての原因なのだ。
山に百足の女怪が封印されている?
嫁取りの道行きで村に立ち寄った神が、怪異から民を守った?
ばかばかしい。
彼らとて、そんな与太話をしんから信じてなどいるものか。
鉱山開発は気にくわないが、筋道の立つ口実がない。
ないから、古くさい、黴が生え埃を被っていたような伝承を持ち出してきた。
結局はそんなところだろう。
鉱山を開く。
その意味について、善治郎は誠実に村人たちに伝えてきた。
彼らにもたらされる利を、国内の経済に対する影響を、この国が世界に追いつく重要性を、繰り返し繰り返し説明した。そのつもりだ。
だが、彼らの一部は頑として聞き入れなかった。
固陋なまでに、迷信を引き合いに出してまで反対を続けた。
だから、国まで巻き込んでこんな茶番をやる羽目になってしまった。
だが、それももうこれで終わりだ。
群衆から少し視線を逸らせば、天幕のあたりに、枯れ草色の三つ揃えを着た男の姿が見える。
──大事なのは、つまるところ納得なのですよ。
昨晩、善治郎にそう語ったのは、あの狐顔の男である。
鉱山が稼働すれば、彼らにもカネが流れる。
カネが動けば、そのうち彼らも不満を忘れるでしょう。そのとおりでしょうとも。
ですが、まず動かすためには、彼らを納得させねばならない。
いいですか、納得です。理解ではなく。
そして、彼らに納得して貰うためにこそ、僕たちは来たのです。
ええ、ええ。ご安心ください、きっと良いようにいたしますとも──
何度思い返しても胡散臭い男だ、と善治郎は思う。
国から派遣されてきた男でなければ、まず相手にしなかっただろう。
しかし、必要なのは理解ではなく納得、という言い分には頷けるものがあった。
要は、彼らには儀式が必要だったのだ。変化を受け入れるという儀式が。
それこそが、この茶番なのだろう。
視線を戻せば、まさに娘が鳥居をくぐり抜けたところである。
それを確認するなり、善治郎はさっと踵を返した。
稼働が決まれば、すぐに忙しくなる。
今のうちにできる準備はしておきたい。
ようやく、まともに仕事ができそうだった。
○ ○ ○
山本茂七は、一種の哀れみを抱きながら鳥居をくぐる娘を見送った。
娘が、務めを果たせぬことを確信していたからである。
笈山天神の神意を問う。
否と出れば、鉱山開発は恒久的に差し止める。
それが、国を仲立ちとした鉱山会社側と村側の取り決めだ。
だが、その神意を問う方法は、村側に一任されていた。
──そうでもなければ、あなた方も納得いかないでしょう?
そう嘯いたのは、あの狐顔の、国から派遣されたとかいう拝み屋である。
ええ、わかりますとも。
住み慣れた故郷が変わり果てるのは、悲しいものです。
でもねえ、正式な手順でキッチリ山の所有権が会社側に移ってしまっている以上、山をどうするかの権限があるのは彼らなんです。国からの開発許可も既に下りている。ええ、大変遺憾なことですが。
少なくとも、そのあたりの理屈は流石に判って頂けますよね? ──
わかる。
わかるからこそ、茂七は食い下がらねばならなかった。
なぜならば、山本家こそが笈山の元の所有者であったからだ。
元所有者、とは言っても、実態は少々複雑である。
笈山は、尾内一帯の住民にとっての禁足地であり、また聖地でもあった。
山本家は、その禁足地の管理を任されていたに過ぎない。
だから、山が削られはじめる前であれば、そのあたりの住人を捕まえてあの山は誰のものかと問えば、十人中九人は誰のものでもないと答えただろう。
茂七自身も、笈山が己の財産であるという意識はほとんどなかった。
にも関わらず、である。
その笈山を、金に目のくらんだ阿呆の倅が、勝手に売り飛ばしてしまった。
それが全ての始まりだった。
突然現れた都会風の男たちに、茂七をはじめとする村人たちは戸惑った。
戸惑っているうちに、機材が持ち込まれ、人足が集められ、木が切り倒されはじめた。
禁足地が踏み荒らされる。
強く抗議すれば、何を言うか、この山はうちの所有であると返される。
驚いて調べてみれば、確かに山の所有権は移ってしまっているではないか。
村は大騒ぎになった。
当然、山の管理者であった茂七の面子は丸つぶれである。
挽回のためには、自ら反対運動の先陣を切るほか無かった。
なお、当の馬鹿息子はといえば、金を持ってとっとと逐電している。
そこに現れたのが、あの狐顔のうさんくさい男であった。
神意を問おう、というのは、この男の提案である。
それを聞いて、はじめ、茂七たち反対派はあきれ果てた。
その神意とやらを、どうやって確かめようというのか。
そう問えば、その方法はそちらで決めて良い、と言う。
まあほら、鉱山を開くとなれば、先立つものも入り用ですし?
そこで、茂七たちはははあ、と思った。
どうやら本音では、国も鉱山開発などしたくないのではないか。
何もおかしな話ではない。
鉱山開発は金食い虫である。おまけに大博打でもある。
これぞと見定めた山を大金かけて掘ってはみたが、結局くず石がわずかにとれたばかり、などという話はざらにある。
ならば、と茂七たちは男の話に乗った。
ではそちらが用意した巫女が、神社からご神体を持って下ろせれば遷座の意思あり。さもなければ意思はなし。
この提案を、男はあっさり呑んだ。
それは無理だとも、こういう条件であればなどとも言わなかった。
茂七たちは、国は自分たち側であるとの確信を強めた。
それでも念のため、茂七たちは晩のうちに、笈山天神の神体を別の場所へと移した。おまけに、本殿にはそれらしい偽物を据えた上で、かたく鍵をかけた。
これで、いくら神社内を探したところで、本物のご神体が見つかることはない。
故に、遷座は成らない。
茂七には、その確信があった。
○ ○ ○
畦倉弥平は、喧噪を離れ、村はずれで一人毒づいていた。
くそったれ。
あの、くそったれどもめ。
まだまだ少年らしさの残る筋張った足で思い切り小石を蹴飛ばそうとすれば、小指をしたたかに打ち付ける羽目になって、弥平は蹲って悶絶した。
何もかも踏んだり蹴ったりだった。
弥平は、鉱山開発を歓迎した数少ない村人である。
村の中でも特に貧しい家の生まれとあって、生活は常に苦しかった。
家族は年老いた祖母と、足の悪い妹。母とは早くに死に別れ、父は出稼ぎでほとんど家を空けている。
山奥の村のこと、稼ごうにも働くあてはなく、さりとて祖母や妹のことを思えば自分まで遠出をする訳にもゆかない。
鬱々としていたところに、降ってわいたのが鉱山の人足仕事であった。弥平は一も二もなく飛びついた。
おまけによくよく話を聞けば、選鉱の仕事なら足の悪い女でも雇ってくれるというではないか。
試掘段階の今はまだ募集をかけてはいないが、本格的に鉱山が稼働しはじめれば、妹も職にありつけることだろう。
そうなれば、稼ぎは単純に考えて二馬力である。生活は格段に楽になるはずだ。
潮善治郎の、今後についての朗々とした語りも、弥平に未来という夢を見せた。
しかし、その夢は突如として吹き消えた。
山本茂七たちの反対運動によって、鉱山開発が一時差し止めとなったからだ。
くそったれ、と思った。
何が禁足地だ。こっちの気も知らないで。
不正だの、気づかなかっただのなんだのと騒いでいるが、山を売り払われたのは要は手前の監督不足ではないか。
餓鬼の躾ひとつできない間抜けが間抜けを晒しただけのこと、その尻拭いを人様にしてもらおうなんざ厚かましすぎやしないか。
そう口にすれば白い目で見られたが、知ったことではなかった。どのみち、彼らは自分たちを喰わせてはくれない。
鉱山の稼働が停止すれば、仕事はなくなる。
当然ながら、収入は途絶えた。
それでも、開発が再開されることを祈って、弥平は待った。
そうして現れたのが例の三人組だった。
狐っぽい顔つきの、洋装の男。
やたらと厳めしい顔つきの、軍装の男。
それから、妙におどおどとして頼りなさげな、細っこい娘。
ずいぶんと妙な取り合わせだったが、彼らが善治郎の歓待を受ける様子を見て、弥平は強く期待した。
なんだかよくわからないが、きっとあの三人が、山本のところのじいさんのような頭の硬いクソ共を蹴散らして、鉱山を動かしてくれるに違いないと信じた。
だが、実際はどうだ。
反対派の村人からもれ聞こえる噂話によるならば、奴らは反対派と組んで、このまま鉱山を止めるつもりらしいではないか。
くそったれ。
結局、国も俺たちみたいな貧乏人は死ねってか。
痛みが引いた足で、今度は地面を蹴る。
爪先に、妙な感触があった。土が妙にやわらかい。
おや、と思った。
そういえばあの狐顔の男、昨日何か言ってはいなかったか。
──村の周囲に、結界を張ります。
何かを埋めたあとがあっても、掘り返したりしないでくださいね。
そうだ。確か、そんなことを言っていた。
そう考えて、たった今蹴った場所をよくよく見れば、やはり何か埋め戻したようなあとがある。
多分、これがその結界とやらなのではないか。
そうと思うと、弥平は無性に腹が立ってきた。
何が神意を問うだ。結界だ。こんなもの、全部まやかしに決まっている。
掘り返すなと言うなら、逆に掘り返してやろうじゃないか。
弥平は素手で、地面を掘った。
ほとんどかぶせてあるだけの土は、それでもあっさりと掘り進められた。
底のほうにたどり着くと、指先になにか硬いものがあたる。
引っ張り出してみれば、それは素焼きの何かだった。
ちょうど、小皿を二枚、内向きに貼り合わせたような形をしている。
馬鹿にしているのか、と弥平は思った。
こんなもの。
こんなもので。
腹立ち紛れに、地面にそれをたたきつける。
ちいさな土器は、それだけであっさりと砕け散った。
それが妙におかしくて、弥平は笑った。
何が可笑しいのかももうわからないまま、泣きながら笑い続けた。