1 馬車
はじめて乗った馬車は、思っていたよりも揺れなかった。
一定の拍子を保つ蹄の音と、回る車輪の音とが混じり合い、客車をすっぽりと包み込んでいる。
その振動に身を任せながら、名無しは流れてゆく窓の外の景色を眺めていた。硝子窓の向こう、青葉は色を濃くし、愈々夏めいた気配を強めている。
遠く見える、見覚えのないかたちの峰々には白い雲がかかり、その山肌に陰をおとしていた。
「さて」
男の声に、名無しはびくりとして視線を戻した。
対面に座る男と、視線がかち合う。
枯れ草色の三つ揃え。細い目の狐めいた顔に、にんまりとした微笑み。
ハルアキと名乗った、あの男だ。
急に現実に引き戻されたような気になって、名無しはわたわたと居住まいを正した。
「そう緊張しないで欲しいんだけどなあ」
ハルアキは些か芝居じみた口ぶりと仕種で、大仰に嘆いてみせた。
その言葉や身振りが、名無しをかえって緊張させる。
がちがちになった娘を見て、狐目の男は笑みを浮かべたまま、やれやれと首を振った。
「ま、仕方ないか。
それじゃあ、今君が最も知りたいだろうことについて話そう。
君の、今後のことだ」
「あの……、はい」
名無しは、おずおずと頷いた。
目の前のこの男が、名無しはなんとはなしに苦手だ。
見つめれば見つめるほど、わからなくなる。
枯草色の三つ揃えの背広も、細い目の、どことはなしに狐を思わせる顔立ちも特徴的といえば特徴的だ。
だが、逆に言えばそのほかの特徴がまるで見いだせない。
体格は殊更大きくも小さくもなく、太っても痩せてもいない。
関口より若くも見えるし、もっとずっと年配であるようにも感じる。
気安そうにも壁があるようにも見えるし、深謀遠慮があるようにも、なにも考えていないようにも思える。つかみどころが無い。
ともかく、近寄りがたい事だけは確かだった。
無意識のうちに、名無しは隣に寄っていた。肩が何かに触れる。
そちらを見上げれば、そこには見慣れた顰めっ面があった。
関口だ。
何か言われるかとも思ったが、黒服の男は、ちらと名無しを見ただけで、なにも言わなかった。
己が話す場面ではない、という判断なのだろう。
それになんとはなしに寂しさを覚えながら、名無しは視線を戻した。
「さて。まず、戸籍がないというのは問題だ。きちんと登録されるよう手配しよう。当面の生活も、こちらで保障する。
ただ、……その前に、きみにひとつだけ頼みたいことがある」
ぴ、とハルアキは一本、指を立てた。
視界の端で、関口の眉がぴくりと動く。
「その……、どんなこと、ですか」
「うん。なに、簡単なことさ。
きみには、これから行く神社にあるものを奉納しに行ってもらいたい」
よくわからない依頼に、名無しはきょとんとした。
さほど広くはない客車の中に、からからと乾いた車輪の音が響いている。
「ほうのう、……。
あの、……わたし、作法を何も知りません」
「それについてはこちらで面倒を見よう。
ところで、文字は読めるかい?」
言いながら、枯草色の背広の男は何かぺらりとした紙を一枚、取り出した。
ちらと見えた紙面には、上から下までびっしりと文字が書き連ねられている。
読め、ということなのだろうか。
無理だ。名無しはぶんぶんと首を振った。
「自分が目を通しても?」
沈黙を保っていた関口が、口を開いた。
いいとも、と差し出された資料を関口が受け取り、一通り目を通す。
途中、少し眉間に皺が寄って、──それから、関口は口を開いた。
○ ○ ○
『 《笈山天神社縁起》 記録地:尾内村
収蔵分類:笈山天神/甲-イ 管理:第 六九三三二七 号
百足の怪/乙-ロ
昔、天に一柱の神があった。
これは大層力ある神であったが、牛の如き角を備え、痘痕に覆われたその醜い容貌から長らく妻を得られずにいた。
この神はあるとき一念発起して、南の龍神の娘を妻に求めることにした。
天神は背負い箱に数々の宝物を詰め、行脚僧に変じてこれを背負って出かけたが、尾内の集落に差し掛かったあたりで日が暮れてしまった。
宿を請おうと家々を尋ねるが、まだ日も暮れきらぬうちだというのに、集落の家々はどこも固く戸を閉め、しんと静まりかえっている。戸を叩いてもちらとも応えはない。方々尋ね回り、最後に訪った村はずれのあばら家だけが、ようやく門戸を開いた。
あばら家の老夫婦は行脚僧のひどく醜い容貌見て肝を潰したが、宿を請われると迎え入れて厚くもてなした。
天神はこの老夫婦に深く感謝し、また門戸を閉ざした家々に怒って訳を尋ねると、老夫婦はこう答えた。
近くの山に百足の女怪が棲みつき、度々家人の女を装って家に入り込んでは子を取って喰らう。これがまたひどく強い化物で、矢も毒も調伏も効かぬ。老夫婦にもかつては子供があったが、この百足の怪に食い殺されてしまった。
それで、この集落では日暮れ以降は固く門戸を閉ざし、誰か尋ねてくる者があっても決して戸を開けぬのであると。
天神はこれを聞いて、宿の礼にこの百足の怪を退治しようと申し出た。
老夫婦は無謀なことと驚いて引き止めたが、最後には任せることにした。
天神は背負い箱から煌びやかな着物を一枚取り出してヒトガタと藁束を包み、あたかも娘がひとり横になっているかのように見せかけた。それから、老夫婦から借り受けたおくるみにも同じようにヒトガタを包んで寝かせ、家の前に符を浸した水を打つと、老夫婦には梁の上に潜み隠れるように言いつけた。
夜を待つと、果たして誰か、戸を叩く者がある。
家人になりすました天神が誰何すれば、か細い女の声で、今帰った、と返事があった。
戸を開ければ、そこに立っていたのはほっそりとした一人の女である。
奇妙なことに、纏う着物は天神が用意した着物とまったく瓜二つであった。
天神はすぐさまこれを百足の怪が変化したものと見破ったが、素知らぬ顔で床を勧め、己も眠ったふりをした。
百足の女怪はしばらく様子を窺っていたが、家人が眠り込んだとみるや、そろそろと偽の赤子に忍び寄った。
そして百足女がおくるみに手を掛けたまさにその時、天神はばっと跳ね起きて、その後ろから背負い箱を被せて蓋をし、ぎゅうぎゅうに押さえつけた。
閉じ込められたと気づいた百足女は、山を七巻するほどの本性を現して暴れに暴れたが、それは天の宝物を収める背負い箱、百足をもってしても破ることは叶わない。
一方で、天神のほうも思っていた以上の化物ぶりに舌を巻いていた。自ら押さえつけていなければ、この怪物、蓋を破って逃げ出してしまいかねない。
そこで天神は、梁の上で成り行きを見届けていた老夫婦に声をかけた。
行脚僧の姿を借りて宿を求めたが、己の正体は一柱の天神である。
宿の礼にこうして百足の怪は捕らえたが、己が押さえを放した途端、この化物は再び外に飛び出すだろう。
これを退治すると自ら宣った以上、約定を破るわけにはゆかぬゆえ、己はこの背負い箱を山に埋め、この百足が息を止めるまでその上に座り続けることとしよう。三百年の後まで、努々掘り返してはならぬ。
顛末を見届けた老夫婦はこの天神に深く感謝し、百足の怪を封じた天神の座所に社をたてて、これを篤く祀った。
これが、笈山天神社の由縁である。 』
○ ○ ○
ぱち、ぱち、ぱち。
拍手の音に、関口の語りに聞き入っていた名無しは、はっと我に返った。
目の前で、狐目の男がゆるく手を打っている。
その手を止めると、男はおもむろに口を開いた。
「ん、読み上げありがとう。まあ、つまりはそういうことさ。
それで、きみはこの神社の成り立ちについて、理解できたかな」
たぶん。
名無しは頷いた。
昔、山に百足の化物が棲みついていて、外から訪れた神がこれを封印した。
簡潔にまとめてしまえば、要はそういう話だろう。
「うん、上々。で、察しはつくと思うけれど、今から向かうのはこの神社なんだ。
実はこの山、最近鉱山であることが判ってね。開発の手をいれようという話になっている」
とんでもない話に、名無しはぎょっとした。
そんな反応をよそに、というか実はもう少し手が入っているのだけれどねえハッハ、とハルアキは乾いた笑いを漏らした。
「しかしまあ、こういう謂れのある山のことだ。
神社を含めた山全体が神域とされているが故に、開発に反対する者も多い。
だから社の神に直々にお願いして、御座所をお遷りいただこうというわけだ」
そんなことができるのだろうか。名無しは首をひねった。
同じように、かつて淵に棲む神であったカガチの意見を聞こうと、娘は蛇神の巻き付いた手首に視線を落とし──そして困惑した。
「あの、カガチさま?」
『うん……うん?
なんだ。問題ないぞ。問題ない。たぶん』
なんだか、妙に落ち着かないように見える。
言動がおかしい。もぞもぞととぐろをまき直しているのも、おかしい。
ちょろちょろと出し入れされる赤い舌も、心なしかいつもより忙しない、ような。
その様子を見て、狐顔の男はふうと溜息をついた。
「百足案件だからといって、そう怯えずとも」
『怯えてなどおらんわ!』
しゃあっ、と蛇神が威嚇音を立てた。
だがそれも、どことはなく普段の気迫に欠けているような気もする。
「百足が、どうかしたんですか?」
名無しの問いに、ぽそりと答えたのは関口だった。
「……百足の怪は、龍蛇の類にとっては天敵です」
『ええい貴様も煩いぞ!
百足如き別に恐ろしくなどない、少しばかり苦手なだけだッ!』
ええいおれの事は置いておくがよい、と蛇神は声を荒げた。
『それよりだ。今の話に由るならば、百足女は封じられているだけで滅してはおらぬのであろう。
封じの神を動かすだけでは、ただ怪異を野に放つだけの結果になるぞ。
這い出てきた場合の目処はついておるのであろうな』
「ええ。勿論、百足のほうも抜かりなく対処しますとも。関口が」
えっ、と関口が短く声を上げた。
寝耳に水であったらしい。
『……それでは、お前は何をするのだ』
「うーん、お膳立てですかね?」
アッハッハ。
狐顔の男が笑う。
白蛇が苛立つ気配を敏感に感じ取って、思わず名無しは声をあげた。
「あの」
ここで、妙な諍いを起こして欲しくはなかった。
そして、ついでにひとつ、名無しには聞いておきたいことがある。
「なぜ、わたしなんですか」
「さて」
枯れ草色の背広の男は、ひょいと肩をすくめた。
思ってもみなかった反応に名無しは困惑した。
そして、続いた言葉にもっと訳がわからなくなった。
「先方のご指名なのでね」
「せんぽう……?」
「そう。例の神社の、祭神さまのご希望さ」
それは、つまり。
知らぬ土地の、知らぬ神に、名指しで招かれている。
そういうことなのだろうか。
「ところできみ、まだ守り刀は持っているかい?」
名無しは頷いた。勿論、持っている。
顔も知らぬ母の、唯一の形見なのだから。
「はい、でも、すっかり錆びてしまって」
「問題ないよ。持っているなら構わないんだ。
それで、──神社への奉納、やってくれるかい?」
改めての問いかけに、名無しは戸惑って関口を見上げた。
明るい虹彩が見返してくるが、関口は是とも否とも言わない。
自分で判断しろ、ということなのだろう。
慣れぬなりにあれこれ考えてみるが、名無しには結局、判断がつかなかった。
ただ、身寄りも行くあてもない身である。断ったところで、他にすることがあるわけでもない。
乞われたことをやる。
それが誰かの助けになるというなら、それでよいではないか。
ようやくそう腹を括ると、名無しは顔をあげた。
「あの。……わたし、やります」
「うん。いい返事だ」
そう言って、狐顔の男はにんまりと笑みを深くした。