5 違和
静かな夜だった。
行灯の柔らかな明かりで照らし出された室内には、時折響く紙をめくる音のほかに物音らしい物音はない。
何やら資料を山と抱えて戻ってきた関口は、夕餉から一人、文机に向かって内容を引き比べている。
その広い背を横目に、名無しは例のハンカチーフを広げた。
薄絹に橙の光が透けて、大ぶりな花々にほのかに色がのる。
端から端まで確認しても、血染みはない。
もとよりたいした怪我ではなかったのと、ハンカチーフの下にガーゼを当てていたのが良かったのだろう。
擦り傷は既にうっすらとかさぶたになっていた。
さて、どうしたものか、と名無しは考えた。
洗って返すとは言ったが、こうして改めて見れば生地と染めが繊細すぎる。
果たして、水につけてもいいものだろうか。
「それは?」
声のほうに視線をやれば、関口が手を止めて、いつのまにかこちらを見ていた。
手を下ろす。薄く優美な布きれは、たっぷりとしたドレープをつくって名無しの膝に蟠った。
「あの……昼間、庭で擦りむいてしまって。
宿の娘さんが手当てをして下さったんですけど、そのとき包帯代わりに」
「それを?」
男は僅かに目を瞠った。
一目で上等とわかる品である。その反応も当然だろう、と名無しも思う。
「はい。洗って返すと言ったんですけど、その……洗っていいものかどうか」
小首を傾げる名無しに、関口はあらためて向き直った。
男の明るい虹彩の内側に、行灯の光がちらちらと揺れている。
名無しの手元をじっと見つめた関口は、自分も詳しいわけではないが、と前置きして言った。
「濡らすのは止めておいたほうが無難かと。それより、怪我は大丈夫でしたか」
「あ、はい。たいした怪我ではなかったので」
ならいいのですが、と関口は呟いた。
「しかし、それを包帯代わりとは、あの仲居の娘も中々思い切った事を」
「あ、いえ。手当てをして下さったのはゆきさんの方ではなくて、妹さんの方です」
「妹? ……ああ、そういえば」
男は半身で文机に向かうと、ぺらぺらと資料をめくりはじめた。
頁を繰るその指先が、目当ての部分でぴたりと止まる。
「確かに。双子の妹がいることになっている」
書面の上を、関口の指が確かめるようになぞった。
少し日に焼けた上質紙に、何か短い文章が印字されているのがわかる。
娘にわかるのはそれだけだ──名無しは、文字が読めない。
「それ、何を調べているんですか」
思いつきで尋ねたあと、はっと気づいた名無しはもちろん、わたしが聞いていいことならなんですけど、と言い足した。
知らない方がいいこともある。昼間そう教えられたばかりではないか。
「ここ十年ほどで、不自然な失踪者の記録がないかどうかを見ていました。
いまのところそれらしい記録はありませんが」
苦笑した関口はふうと息をつき、軽く首を回した。
ながく同じ姿勢で居たためだろう、ぱきぱきと筋の伸びる音がする。
「良かった」
思わずそう漏らすと、全く、と関口も少し笑った。
「そういえば、このあとの事なのですが。
明後日の夕方には迎えの足が到着することになりました。
その翌日にはこちらを出発します。そのつもりで心構えをしておいてください」
跳ねた心臓を押さえ、わかりました、と名無しは頷いた。
明後日。新しい場所、新しい世界。
胸中には、漠然とした巨大な不安と微かな期待が渦巻いている。
「では、もう遅い。それを返すにしても、向こうもそろそろ眠っている頃でしょう。
それは明日にして、君は先に休んでください」
「あの、関口さまは」
「自分はもう少しだけ調べ物をしてから寝ます」
そう言われてしまえば、名無しにはもう返すべき言葉はない。
くしゃくしゃになったハンカチをきれいに畳み直し、娘は促されるままに布団に入った。
再び文机に向かった関口の背は、枕越しだとより大きく見える。
その背に、名無しは思い切って声をかけた。
「あの──おやすみなさい」
「おやすみ」
柔らかく、返事があった。
それがなんとなく気恥ずかしいような気分になって、名無しは明かりに背を向け、深く布団を被った。
胸の内側がくすぐったい。固く目を瞑る。眠りは速やかに訪れた。
○ ○ ○
驚くほど爽やかな朝だった。
顔ぶれも状況も、前日とほとんど何も変わらないというのに、空気が軽い。
気分ひとつでこんなにも変わるものなのか、と名無しは新鮮な気持ちでいた。
朝餉を運びに来たのは、この日は宿の主人だった。
寝起きのぼんやりした頭で目の前に並べられてゆく朝食を眺めながら、ふと、名無しはハンカチのことを思い出した。
「あの」
「はい、なんでしょう」
名無しの呼びかけに、宿の主人は手を止めた。
彼の涼やかな目元は、やはり娘たちとよく似ている。
「昨日、娘さんにハンカチをお借りしていて」
「おや。では、私からゆきに返しておきましょう」
「いえ、貸して下さったのはゆきさんの方ではなくて──」
名無しの言葉に、宿の主人は不思議そうな顔をした。
「うちには、子供はゆき一人しかおりませんが」
「え」
そんなはずは、と言いかけて、名無しは言葉を失った。
その通りではないか。この宿には、夫妻とゆきの三人しかいない。
では──この手に残るこれは何なのだ?
名無しはそっと袂の中をまさぐった。そこには確かに、己のものではあり得ない薄絹のハンカチが一枚収まっている。名無しは確かに、これを誰かに借りた。その一方で、相手の顔を思い浮かべようにも、その輪郭は濃い霧のようにぼやけて像を結ばない。
そもそも一体どういう経緯で、自分はこれを借りたのだったか。
縋るような気持ちで、名無しは関口を見た。
男もまた、娘の発言に怪訝な顔をしている。
気づかぬうちに、見知らぬ場所に放り出されていたかのような心地だった。
名無し自身すら含めたこの場の誰もが、この状況を不自然だと感じていない。
そのことこそが、何よりも不気味だった。
「ごめんなさい。勘違いだったかもしれないです。ゆきさんかも」
声は少し、震えていたかもしれない。
しかし宿の主人は気づいた様子もなく、ただ、そうですか、と答えた。
「父さん、ちょっと」
廊下から、ひょいとゆきが顔を覗かせた。
「おや。ゆき、丁度いいところに。
おまえ、このお客様にハンカチを貸したかい」
「いえ? 覚えてないけど、どんなのです?」
二人の視線に促されて、名無しは恐る恐るハンカチーフを広げて見せた。
薄絹の花が、ふわりと開く。
「これなんですけど」
「……あたしのじゃないね。
こんなにいいのは一枚だって持っちゃいないもの」
言って、ゆきが肩をすくめる。
そうですか、と答えながら、名無しはひとり、言い知れぬ違和を覚えていた。
○ ○ ○
朝餉はほとんど喉を通らなかった。
様子がおかしいことに気づいた関口が早々に膳を下げさせ、部屋から親子を閉め出したが、それについて何かを考える余裕は名無しにはなかった。
「あの……カガチさまも覚えてないんですか」
『うん。記憶にないな。
お前とはほとんど常に行動を共にして居った故、何かがあって借り受けたというなら覚えていそうなものなのだが。
おまえの方こそ、一体いつそれを受け取ったのか思い出せぬのか』
小首を傾げる白蛇に、と名無しははい、と力なく頷いた。
娘の手の中には、薄い絹のハンカチがくたくたになって収まっている。
己は何故、これを宿の娘に借りたと思ったのだろう。
「やはり、戸籍上も子は彼女ひとりということになっているな」
ぺらぺらと書類の山をかき分け確認していた関口も言った。
「でも、」
おかしい。
確かに、名無しの認識の上でも、宿を切り盛りしているのは女将と主人、その娘のゆきの三人だけだ。関口の記憶でも、カガチの記憶でも、書類上ですらそうなっているのならば、たぶん、それば間違いないのだろう。
だが、と名無しの内側で、何かが叫んでいる。
だが確かに、自分はこれを洗って返すと約束したのだ。
約束は、果たされねばならない。
「そのハンカチですが、少しお借りしても」
「あ、はい。どうぞ」
関口は名無しからチーフを受け取ると、広げたり、光に透かしてみたりと一通り確認してから、名無しに返した。
「何かわかりましたか」
「……いえ。それ自体には何もなさそうです」
『念のために尋ねるが、どこかで拾ったのを忘れているという可能性はないのだな?』
そう言われてしまえば、名無しも自信がない。
強い違和を感じてるのは間違いない。だが、その根拠はどこにもなかった。
ただ、誰かに約束をした気がしている。それだけだ。
「わ、……わからない、です。でも、そうなのかも」
「そうとも限らないでしょう」
関口が言った。
「君も蛇神殿も、共にどこでこのハンカチを手に入れたのか覚えていない、というのはやはり異常だ」
『では、お前はどう見る』
「たとえば、人がひとり消え失せているのかもしれない」
名無しははっと息を呑んだ。──名取り地蔵。
関口が調べていたのは、まさにそういう話ではなかったか。
『あれを疑うか』
「可能性の一つとして」
『なるほど、記憶や記録にすら干渉するのであればそれも無くはないが。
しかし仮にそうだとしてもどう確かめる』
白蛇の問いに、関口は答えた。
「ここに、誰のものとも知れぬハンカチがある。
仮説が正しいなら、少なくともモノは残ったということです。
記憶になくとも、記録になくとも、痕跡は追えるかもしれない」
ふむ、と蛇神は目を細めた。
「少し調べてみます。君はここに残っていてくれますか」
名無しは頷いた。
外は快晴だというのに、肌に触れる空気は妙に薄ら寒かった。