PIECE-1
いかん。と声は小さいが強い意思が伝わる。少女の纏う雰囲気が一気に変わるのを感じたのと同時に青年は背筋にひんやりと悪寒を感じた。
彼女の表情は停電のせいでうっすらとしか見えないが今までとは違う。青年は緊張感に苛まれながら先程の話が頭の中に流れ込んでくる。
「近い未来に命を落とす」と淡々と告げられていた。
青年は少女曰く命を落とす危険がある。そう遠くない未来に…。
急に恐怖心が青年の中で生まれ、膨張し、いつ破裂するかわからない。
鼓動は青年の内側から急かす。自身の体のはずが、制御することが出来ない。むしろ本人の思いとは裏腹に鼓動の間隔は早まるばかり、人は本当に恐怖を感じた時、緊迫した状況に直面した時、自身をコントロールすることが困難になる。
手にはうっすらと嫌な汗を滲ませ、気持ちが悪い。月明かりを頼りに自身の手足を見ると小刻みに震えているのを視認して初めて気がついた。
「早ク逃ゲロ! ソノ場カラ離レロ」
それは誰でもない青年の中から聞こえる。
「はぁ…はぁ…」
鼓動を抑えようと胸元に手を当て、さらに拳を強く握り締める。
「コノママデハ殺サレル」
長距離区間を走ったわけでもないのに息切れが治まらない。未だに青年の緊張感と危機感は濁流となって押し寄せ、気を抜けば即座に呑み込まれそうになる。
金縛りのように身体が硬直してその場から動くことが出来ない。逃げなければいけないことは脳ではわかっているが、やはり身体が動かない。自身への苛立ちに悪態を付き、全てを諦めようとした。
その時である。青年の手に何かが触れた。触覚はまだ正常な機能していると青年は感じる。触れたものの先を見ると少女がすぐ隣で手を握っている。
「動けるか?」
という彼女の問いに、
「身体が自由に動かない」
と青年は自身に起きている真実を告げる。
「わかった」
と少女は呟き、その後青年は驚くことになった。それは少女に手を引かれると今まで硬直していたのが嘘のように身体はいつも通りに機能するようになっている。少女が青年に対して何かをしたのか、何もしていないかは不明である。しかし、今はそんなことを詮索している場合ではない。
今の今まで青年がいた場所に何かの影が現れる。今いる場所のほんの50cm程先での出来事に驚愕する。そこには大きな三日月を象ったが如く、弧を描いた鋼が月明かりに反射して妖しく光る。
木目の突き刺さり、廊下は抉られ、ささくれ立つ。
そこには鎌がある。それも大鎌。刃の部分だけでも青年の頭から腰の辺りまではある。その大鎌は次撃を繰り出すために廊下から離れる。そして、二人に襲いかかる。
「…ッ」
青年と少女は寸前でなんとか躱し、寝室に向かって姿勢を低くしたまま移動する。少女は少しずつ家の外である庭に向かおうとする。うまくバランスを取ることが出来ず、何度も足が縺れ体勢を崩しそうになる。
青年はまだ息切れが治まらない。その中で斬撃は再度繰り返される。しかし、その斬撃は洗練された一撃ではあるが決してトドメを刺すつもりはないように掠める程度で少女の先導に従えば、致命傷を負うことはなさそうだ。そう、これはさながら、こちらをからかうように振るわれている。
しかし、それは青年の目の前にいる少女が居て初めて成り立つものである。当たれば死にはしなくとも大怪我は必死であろう。どちらにせよ、気を抜けないことに変わりはない。
先程よりも空の月は雲に覆われてしまったようで月明かりもより淡く、今は最低限の視界しか確保出来ない。
「いったいどこへ行くおつもりですか?」
聞きなれない初めて聞いた声。廊下から丁寧な口調の中に、自身の優位性がまるで揺ぐことはないもの、とタカを括っているような余裕に満ちた声が聞こえてくる。
青年はまだ混乱と不安で声も出ないが、隣にいる少女も何も言葉を発しない。
二人は姿勢を低くし走る。少女は庭に向かって、青年はただ少女に手を引かれるがまま。
「あら、そんなに逃げなくてもよろしいではありませんか?でも私も追いかけっこは嫌いじゃないですわ」
と言いつつ、大きい得物を軽々と振り回して迫ってくる。
声で判断できるのは相手が女だということ。姿はシルエットですら見えない。わかることは一つ。ここに来た目的だけである。
目的は確実に青年の命だということ。先程から振り下ろされる鎌は少女とともに青年を執拗に狙ってくる。幸いにして追いつかれることなく庭に出る。
息が整う前に雲は風に流され月明かりに相手の姿が映し出される。
「何の用じゃ?アマリース」
少女がようやく口を開く。
「ずいぶんとつれないことを言うじゃありませんか?」
アマリースと呼ばれた女は応え、上品に笑う。
「聞かなくても分かっているのでしょう?」
「そう簡単に思った通りになると思っておるのか?」
少女は青年の一歩前に出て青年を庇う。二人の無言の睨み合いが続き、先に言葉を発したのはアマリースだ。
「あなたが相手ではそう簡単にはいかないのでしょうね」
肩をすくめて苦笑する。だが、口ではそう言っているものの物怖じはしていないのは明らかである。
「まあ、構いませんわ。今日はもとよりご挨拶だけのつもりでしたので、これでお暇させて頂きます。」
大鎌を背中に背負うと鎌が霧散して消える。そして仰々しく一礼を終えてから
「またお会いしましょう。ごきげんよう」
月明かりにさらに厚い雲が掛かり、その影とともにアマリースは姿を眩ませた。
「……」
少女が中空に手をかざすと小さめの円形陣が現れた。
「この場を離れおったわ」
言葉には安堵の色が含まれている。彼女はアマリースと呼ばれていた女の気配を
探っていたようだ
「ふぅ…」
青年も安堵から庭に尻餅をつき夜空を仰ぎ見て深く長い溜め息をついた。命の危機を青年は全身で感じた。昨日までは無縁だった世界にいる。周囲は何も変わっていない。空に浮かぶ月も瞬く星も流れる雲も庭に咲く草花も…変わったのは青年を中心とする状況。
「全く…」
体の芯から漏れ出た言葉だった。
「家の中に戻ろう」
少女に促され、青年は身体に一喝を入れ立ち上がる。彼女は話があると言いたげに。青年も聞きたいことがあるので従った。今日は青年の忘れられない日々の始まりの日となった。どこで道を誤ったんだと青年は自問自答する
それは今よりもはるかに以前の話。
それも途方もない以前の話だ。
幾千の四季を巡ってきたか今となっては知る者などおらず、ただその時にそこに在ったのだという伝承。
そこに在った時代には
無から有を生み出すことのできる者
これを人は無から有を導き出す者「導師」と呼んだ
もう一方で有から別の有を生み出す者
これを人は有を別の有に変換する者「換師」と呼んだ
互いに共生と繁栄を極めた
しかし、極めた共栄は淡く儚く脆弱に
全てを無に回帰した
発端はたったひとつの考え方の相違であった。
これはただの昔話、伝承の類いと何ら変りなく、
その物自体である。
この星のどこかであったというそんな曖昧な話。
更に年月を重ねる度に内容は希薄になり、消えゆくモノ。
それが世の理であろう
ヒトには
過ちを繰り返すこと、同じ過ちを回避すること。
この2つが用意されている
その青年はいつもの通い慣れた道を急ぐでもなく、寄り道をするでもなく、ただぼんやりと考え事をしながら帰路についている。
相変わらずの街並みは視界に入らなくても脳が自然と補完していく。よく利用する舗道。相も変わらずの世界が流れる。陽の光は強い煌きを全面にアピールするのを辞め、今は鮮やかな輝く朱色に染まっている。
「さぶっ」
微かな声で誰にでもなく声を漏らした。周りを見渡してもコートを着た人や厚手の上着を着ている人、色や形は違えども、皆同じドレスコードに従っている。
今朝のニュースを思い出す。
「本日は冬型の気圧配置になるでしょう。防寒対策を忘れずにお出かけください。なお天気の崩れる地域もございますので、雨具も携帯しましょう」
テレビでは風と傘のマークが日本列島に万遍なく配置されていた。青年は天気予報を信頼している。
今着ている上着も予報を見てから、防寒用にクローゼットから引っ張りだしてきた。しかし、この防寒対策では不十分だったようだ。
こころなしか自然と歩くスピードが上がると同時に考え事にも答えが出た。それは「今日の夕食は鍋にしよう」というものだった。献立が決まり、秒針とともに寒さは増し、さらに向かい風に煽られる。青年は家までの距離を思い、憂鬱になる。
ようやく半分を過ぎた辺りであろうか。青年の住居は住宅街の中央付近にある。
良く言えば閑静な住宅街なのだがそれだけだ。それ以外は全てにおいて地理的に不便でしかない。
青年の家は昔ながらの日本家屋である。一人で住むには手広すぎる家だ。居住スペース以外に庭や縁側それに加えて離れもあり、庭の手入れは行き届いている。それを見て青年は満足気に頷く。
ここまで広大な庭を維持するのは簡単なことではない。祖父から受け継いだこの家はすでに築百年は経過しているらしい。さらに何年も使われておらず、荒れ放題で、とてもじゃないが人が住める状態ではなかった。
庭だけでなく居住スペースにおいても同様で、畳は腐っている物や廊下には青年がすっぽり入ってしまうほどの大きな穴が開いてた箇所もあった。しかし、今では人が住み、客人を招くことが出来る。青年は全工程を一人で行なった。以前から庭いじりが好きだった為、全く苦ではなかった。
室内の修繕で日曜大工には手を焼かされたが作業の中盤には要領を得て、ある程度綺麗に仕上げられるようになっていた。
形としては受け継いだ家だが、実際には青年の一目惚れだった。
青年はお祖父ちゃん子だったこともあり、幼少時代に祖父とこの土地に旅行に来たこともある。そのときにこの家にも一度連れて来てもらった。
その頃は綺麗に手入れされた立派な日本家屋であった。青年の庭いじりに興味が芽生えたのはこの頃からである。
当時彼は都市部のマンションに両親と祖父母と暮らしており、この家を見て衝撃を受けた。家にはこんなにも心の動かされるものがあるのかと子供心に衝撃的で印象的だった。
彼はこの家に憧れを抱いた。そして祖父と約束をした。将来『大人になったらこの家に住みたい』と、しかし、祖父の方は青年がその話題を切り出すまでどうやら忘れてしまっていたようだ。
「今は誰も出入りしておらんから荒れ放題だぞ?」
と祖父に言われたが、それでも構わないと言葉を返した。想像していた以上の惨状ではあったが、それも最早過去の話である。
話を戻して、この地域では日本家屋は珍しい部類に入る。なにしろこの土地はその昔、貿易に特化した街だったらしく、洋館が随所に建ち並び、独特の雰囲気をもたらしている。
今でも日本人離れした顔の人を見かけるのも珍しくないし、友人にハーフやクォーターの者もいる。幼少期に訪れたときも感じたが、こちらに越して来て、やはりカルチャーショックを受けた。
各国との往来がある程度自由に行き来できるので、珍しいことではないのだろうが、青年の今まで暮らして居た場所では日本人以外見かけることがなかった。両親の強い意向で片田舎暮らしをしていたため、そんなところでは海外の人というだけで珍しい。少なからず外を歩いていて、出会うことはない。
ここでようやく家の前に辿りついた。街に出て、家に戻ってくるのも一苦労だと嘆息して家の門を跨いだ途端に、ある違和感に気づく。いつもの景色が広がっている。しかし、そこには色彩は失われている。
先程までの朱色の空、見慣れたはずの家の壁、さらに草木の香り。今は世界の全てが青白く、無機質なものに変化してしまっている。唯一、青年の身体だけは色彩を保ったままである。
青年は自身の置かれている状況に戸惑い、何を探すわけではなく辺りを見渡す。
すると奥の庭からけたたましい轟音と地響く。青年の身体は崩れ落ちそうになるのを必死で耐え、音のした方に駆け出した。突然すぎて何も考えることが出来ない。ただ身体が勝手に反応する。
庭の隅には白く光る場所がある。その周りの地面は抉れて土が剥き出しになっている。そこには波紋の中に様々な記号とも模様とも判別しづらい何かが庭の地面に浮き出ていた。
言葉を失い、息を呑む。次の瞬間。さらに発光の度合いは増し、咄嗟に目を背けた。刹那の後、視界を光源に戻すと、波紋の中心へと光が集束していた。そこには一つの影だけが残っていた。
青年は気がついた。先程までの世界は無くなり、景色は従来の装いを取り戻している。
「…なん、なんだ…」
青年の思わず漏れ出た言葉である。気が動転している頭は依然として起こったことの整理が出来ない。五感は情報を脳に絶えず、送り込んでいるが肝心の脳の処理が追いついていない。何とか自身の脳細胞に喝を入れ、情報の整理に青年は努める。
そして、なけなしの勇気を振り絞り、声を掛けた。
「誰だ。そこで何をしている」
普段は出すことのない去勢を張った声。その声は少し震えている。不審者に声を掛けるなど警察官でなければ、それほど経験する機会もないだろう。青年にとっては貴重な人生経験の一つになったであろう。
しかし、声を掛けられた後ろ姿は身動き一つしない。少し近づく。後ろ姿は今も動かずに同じ場所にいる。逃げる気も隠れる気もないらしい。むしろ威風堂々といった様子だろうか。
何だか青年が間違ったことをしているかのような。そんな錯覚に陥りそうになる。
さらに歩を進める。一歩一歩、足元を確かめるように少しずつ。
ここまで近づけば、姿ははっきり見える。女である。いやそれはまだ年端もいかない少女に見える。背丈は青年の胸元辺りまでしかない。そのためこちらが見下ろす形になっている…はずなのに、見下ろされている気分になる。
肌は白く、今にも透き通りそうな白。その洗練された白は何者もそれを侵すことは出来ない。理由はわからない。ただ直感的に青年はそう感じた。
整った身なりをし、青年の目にも生活水準が高い家の子なのだろうと想像させた。
観察と分析の最中に少女が振り返ろうとする。
青年は思わず身構える。
「………」
少女の第一声はこうだ。
「わらわはお主を守るために来た。感謝しろ」
青年は開いた口を塞ぐことができず、言葉が出てこなかった。あまりに突拍子がなく、想定外の発言に緊張の糸が切れ、腰を抜かして尻餅をついてしまった。
少女は怪訝そうに「聞いておるのか?」と青年の顔をのぞき込んで首を傾げている。
やっと我に帰った青年は目の前に少女に驚く。驚きと戸惑いで彼の脳はキャパシティを越えてしまった。
「まあ、良い」
何が良いのかわからないが少女は辺りを見渡しながら言う。青年は自分を落ち着かせるためにようやく絞り出した言葉はシンプルでいて、戸惑いの色を色濃く表していた。
「い、いったい、何なんだ?」
少女はその問いに答えず、不満げに
「わらわは腹が減っておるのだが、な」
少女は自身の主張を強く訴えかけるように青年に言葉を言い放った。完全に少女のペース。青年はどうにか混乱する頭を制御し、少女を真正面から見た。
「お主は客人のもてなし方も心得ておらぬのか?」
眉をひそめ、不機嫌そうに少女は言う。
「客人は勝手に人の家に侵入したりしない。」
こちらの状況をお構いなしに
「それもそうか」
とカラカラ笑う少女が目の前にいる。『なんなんだ、この子は…』と青年は思う。あまりの混乱、状況判断もままならないまま次々と様々なことが眼前で繰り広げられる。冷静な判断をする間もなく、得体の知れない自称客人は勝手に家の中に入ろうとする。
「ちょ、ちょっと、待て」
「ん?何じゃ?」
青年の絞り出した結論。それは危害を加える気であれば既に何かされているだろうという安易な考えにしか至ることが出来なかった。
肩越しに青年の方に顔を向ける
「入口はこっちだ」
玄関の方を指差す。
少女は日本の「しきたり」にはあかるくないようだ。玄関から何食わぬ顔で一気に廊下に突入しようとした。ガシッと腕を掴む。
「何をするのじゃ」
不服そうにこちらを見上げる
「靴を脱げ」
トゲのある物言いだが、少しずつ青年は冷静さを取り戻しつつある。
「何故じゃ?」
少女は本当に何故なのかわからないようだ。
「日本の家はそういうものだ。」
青年は諭すような口調で説明した。
「そういうものなのか?」
少女は首を傾げながら青年の方を向く。青年はため息混じりに、ああ、とだけ頷く。
少女は新しく仕入れた情報を頭で反芻しているように小声でブツブツ呟いていた。
青年の後ろを自称客人が小さな歩幅でついてくる。
キョロキョロと周りを物色し、ときより「ほうほう」と興味深気に腕を組みながら頷いていた。
しかし、青年に話しかけてかけてくることはなかったので、何も言わずに客間に案内する。客間には卓袱台と常時置いている座布団がそこにはある。少女を座布団の上に座らせて。
「何か持ってくるから少し待って居てくれ」
青年も自称客人をもてなすことに納得はしていない。しかし、状況の整理と事情を聞く必要があるだろうとは思う。
「苦しゅうないぞ」
少女の労を労う言葉。青年は少女と言葉を交わす度に毒気を抜かれていくように感じた。肩をすくめ、やれやれと呟きながら客間を後にした。
台所に行き、お茶と隣人から頂いた羊羹を用意した。隣人というのは一人暮らしを始めた頃から何かと良くしてもらっている女性である。
青年の頭が上がらない人物の一人だ。今の生活が成り立っているのは彼女のおかげと言っても過言ではない。
「まーだかのー」
客間から催促のさえずりが聞こえてくる。返事は返さず、お盆を持って客間に向かった。お互いお茶を一口啜り「ふぅ」と息を吐いてから本題に入る。
「で、だ、アンタは何者で、何をしにきたんだ?」
青年は落ち着いた声で問いかけた。
「わらわはお主を守護するために現在より先の世界からきた」
初めて見せる表情。
「何故、俺を守る?」
問題はそこである。今この国では戦争をしているわけでも内紛があるわけでもない。
むしろ平和ボケが蔓延しているぐらいだ。それにしても青年個人が対象ならば、誰が、何のために?今まで平々凡々と生きてきて、これからもそのつもりだった青年
「何故、俺なんだ?」
青年は立て続けに質問を捲し立てる。少女は至って冷静にお茶を啜っている。
「お主はこれからある出来事に巻き込まれる」
少しの間。
「そこで命を落とす」
ただただ淡々と機械仕掛けのオモチャのような口調で話す。さらに続ける。
「この事象を変える、若しくは阻止するために、わらわはこの時代の此処を訪れることになった」
しかし、と彼女は言葉をつなげる
「そのためにはお主にも協力をしてもらわなければならない」
青年は急にこんなにも突拍子もないことを涼しい顔で告げられても納得できる訳もない。
今まで平和に暮らしてきて、突然命を落とすと言われても現実味はこれっぽちもない。青年は期待している。
少女からの「全てが冗談だ。」という種明かしを今か今かと待っている。しかし、いつまで経ってもそれは訪れない。
辛抱たまらず青年が先に希望と期待を込めて口にした。
「冗談、だよな?」
少女は無言で首を左右に振る。
「協力しなければどうなる?」
青年はどうなるかおおよそ理解していたが、聞かずには居られなかった。どうしても青年自身が思い浮かべていることを受け入れたくなくて。焦りにも似た感情を隠すように冷静さを演出しようとしたが少女にはお見通しだったようだ。
「そうなると、お主はただ死ぬのを待つだけじゃ」
「なんの改変もなく、な」
またお茶を啜り始める。
お互いに無言の時間が続く。
……。
………。
…………。
青年は立ち上がり自分のお茶を一気に飲み干す。荒々しく湯飲みを置く。
「協力しよう」
青年は自分自身に踏ん切りをつけるためか一際大きな声で少女に宣言する。そして手を少女の前に出す。少女もそれに応え、握手をする。
「これから宜しく頼むぞ」
青年は決して納得したわけではない。もはや脅迫でしかない。何もしなければ死ぬ。
青年には初めから選択肢はなかったのだ。少女を見つけてしまった時から。
「お主、名はなんというのだ?」
青年は次々と押し寄せる展開に自身の名前を伝えることはおろか、もちろん目の前にいる少女の名前など気にかける余裕もなかった。
「俺は樫木 葉」
青年は自身の名前を開示した。葉は自身の名前を気に入っている。これは彼の両親に話である。小さなマンションに住み、ベランダで小さな家庭菜園をしていた。両親の夢はもっと大きな庭で家族と草木を育てることだった。
そんな彼らは息子に同じように草木が好きになってもらえるように、と願いを込めてこの名前を授けた。そして、その願いは両親の働きかけもあり、求めた結果通りに事は運んだ。
葉は幼い頃から両親とともに草木に慣れ親しみ、今ではもう彼の中で切っても切り離せないものとなっている。彼のアイデンティティと言っても問題はないだろう。
そんな自身のアイデンティティとなるものを与えてくれた両親には感謝している。
今では祖父から引き継いだ庭で両親の叶えることの出来なかった夢を葉は独りで引き継いでいる。
少女は目を閉じ
「う~ん…」
と少し思案顔で
「…ヨウだな。この呼び方が呼びやすい」
葉も姓で呼ばれるよりも名で呼ばれるほうが耳に心地良いので、この呼び方に異存はない。
「君の名前はなんて言うんだ?」
「わらわはレウシア」
「…レ、レウシア?」
青年は驚いた。少女の顔立ちは整ってはいるがどう見ても日本人だ。服装も着物である。この見た目でレウシアと言われても葉は違和感を覚えて、なんだか落ち着かない。葉は俄かには信じられず、確認のため少女に尋ねてみる。
「日本人、だよな?」
この問いに彼の予想出来る範疇をはるかに越える答えが返ってきたのだ。レウシアは、ん?と首を傾げた後にポンと手を鳴らした。
「ヨウは思い違いをしている」
レウシアは正面から葉のことを見つける。今度は葉が首を傾げる。
「わらわは日本人どころか、人間ではない」
「え、えーー!?」
葉は声を荒らげたせいでむせ返る。
「ヨウ、大丈夫か?」
レウシアは心配そうに背中を擦っている。
ようやく落ち着き始め少し涙目になりながら礼を言う。
「…すまない。ありがとう。じゃあ、レウシアはいったい何なんだ?」
「うーん、この時代で言うとアレじゃな」
レウシアは部屋の一角に設けられた床の間を指差しているが、その先には一つしかなかった。そこにはずっと昔からあると思われる日本人形が立っている。
引っ越してくる前からそこにあり、詳しくは葉も知らない。なんとなく処分できなかった人形。邪魔になるわけではないのでそのまま飾りっぱなしにしていた。
レウシアは自分自身をそれと同じだという。たしかに見た目の特徴は良く似通っている。
「…人形…なのか…?」
息をのみ、葉はこの言葉を口にしているものの誰よりも疑っている。端的に言えば、『信じられない』という思いである。しかし、そんな葉の気持ちを知ってか知らずかレウシアはコクンと何でもないようなことのように頷く。
「わらわはある者に作られたパペットなのじゃ」
「ある者?」
葉は聞き直す。深い意味はなく、条件反射で有名な犬を越える反射反応で聞き返す。
「すまないが、それはわらわの口から教えられない」
レウシアは申し訳なさそうに告げる。そんな顔されてしまえば葉とて深追いすることが躊躇われる。
「作成者からわらわの一部情報をこの時代で誰かに伝えようとすると、規制が掛かり言おうとしても言えないように調節されている。何らかの別の方法で伝えようとした場合も身体が動かなくなるように調整されている」
レウシア自身に掛けられている規制について話す。
「一つだけ言えることは作成者の命令でわらわはヨウを守ることになった」
「…そうか…」
葉は聞きたいことはまだまだあるが、今ここで聞いてもレウシアは答えられないだろう、喉の辺りまで出てきていた質問全てを飲み込むことにした。
一通りお互いの自己紹介を終えて、葉は一息つく。気がつけばすでに空の舞台から太陽は捌け、新たに月がその舞台で演目を披露していることに気がつく。
何気なく、ふと卓袱台を見ると二人分あったはずの羊羹がなくなっていた。
これは事件だ。部屋は密室。容疑者はふたり。一人は男。一人は女。男は口元に手を当て考える。女は口元をリスのように膨らませてモグモグさせている。男は横目でジトーっと女を見た。女は正面から男を見ている。
「もごじだ」
どうやら女は『どうした?』と言いたいらしい。
「なんで俺の分まで食べてるんだよ!」
「うまかったぞ」
満面の笑みで答えられても困る。葉の話を聞いておらず、葉も嘆息する他なかった。
「…飯にするか」
台所に向かおうとする座布団から立ち上がり引き戸を開けて部屋を出て行こうするとレウシアも後ろをついてくる。
「なんだ?トイレか?」
「違うわ!」
レウシアはわめき終えてから、両手の拳を握り、腰のクビレ?の位置に置いている。顔は自信満々だ。何だか嫌な予感がする。葉は急いでいるため無視して目的地へ歩を進めるようとする。
葉は昼から何も食べていないのだ。今にも腹の虫もぐうの音も出なくなりそうだ。葉の満腹中枢ならぬ空腹中枢が全命令系統を駆使し指令を出している。
グッと引っ張られる。レウシアは見た目とは裏腹に力が強い。
「なんだよ?」
仕方なく振り向いてレウシアの言葉を待つ。
『こほんっ』と、わかりやすい咳払いの後に
「わらわも手伝おう」
……ここは丁重にお断りをしよう。
葉は逡巡の後にこの答えに至った。相手の力量も不明な今、変に手出しされたら
今度こそ腹の虫が死んでしまう。しかし、無碍に断るのもいい気分ではないし、レウシア自身は良かれと思ってお手伝いを申し出たのだろうと葉は思う。
「今日は鍋にするから手伝いは不要だ」
葉は我ながら丁度良い断り文句を思いつく。『なんじゃ、…』少し落ち込んだ様子で頭を垂れた。
「おいしい鍋を作るからちょっと待っててくれ」
「わかったのじゃ」
レウシアの中で手伝うから食べるに行動のスイッチが切り替わった様子で無邪気にニコニコしている。レウシアを先に居間に案内してから、葉は台所に立つ。
近年、世間では自炊をする男性が増えており、葉もその増加している男性の一人である。腕まくりをして、いつもの使い込んだエプロンを絞める。
普段から自炊しているということで手際良く、野菜を切り、用意した昆布とカツオの和風だしに具材を盛り付けていく。本日のオススメ具材は鰯のつみれである。
こんな寒い日は鍋料理に限る。他の料理よりも手間は掛からないし、何より体が温まる。ある程度煮えたので、隣の居間に鍋を移動させた。
レウシアは先程と同じように座布団に行儀良く背筋を伸ばして目を軽く閉じて座り、綺麗な佇まいをしている。一度教えたことはすぐに覚えるようだ。
その佇まいは見た目年齢が同じぐらいの人間の女の子と違う一面かもしれない。葉『待たせたな』という言葉に『全くじゃ』と軽く応えるレウシア、鍋の蓋が開かれるのを今か今かと身を乗り出している。
「そろそろ頃合いだろう」
火傷をしないように注意しながら、鍋の蓋に手をかける。白い湯気と出汁の香りが二人の胃袋を誘惑する。今の二人にはこの攻撃を防ぐことは不可能であろう。陥落するしかない。
葉はレウシアに大切なことをまた一つ教える。教えた内容はとても簡単なことだった。
「いただきます」
二人は声と手を合わせて、鍋をつつき始めた。レウシアには箸では食べづらいのではないかと考え、葉はスプーンとフォークを用意していた。
「なかなか気が利くではないか」
レウシアは気分良さ気な顔をしている。食器はよく顔を見せる隣人とも一緒に食卓を囲むこともあるので困りはしなかった。
「しかし、わらわもそっちで食べてみたいのじゃ」
葉の使っている箸を指さしながら言う。葉もレウシアの物事の習得能力がどれ程のものか興味が湧き、試してみたくなったので箸の使い方をレクチャーすることにした。
「むぅ~、なかなかどうして難儀なのじゃ」
少し戸惑ってはいたが5分程度練習すると白菜を自分で取り皿に取ったかと思うと、
鍋を食べ終わることには丸くて箸では取りづらいであろう鰯のつみれを含めた全ての食材を箸で食べることが出来るようになっていた。予想以上のスペックだ。
一人で食べる予定だったので、量こそ少なかったが、レウシアは「うまかったぞ」と満足したようだ。
食後の日本茶を飲みながら一服の一時を楽しんだのちに食事の後片付けを始めた。
レウシアが手伝うと言い出したので、彼女の能力を信じて今回は手伝ってもらうことにした。二人並んでシンクで洗い物を始める。食器洗いは問題なく出来るようだったが、身長が低く少し洗い難そうにしているが楽しそうだ。
次回は料理も手伝ってもらおう。レウシアは終始楽しそうにハミングしていた。その後、居間でテレビを見ながら就寝までの時間を過ごすことになった。
そして、アマリースという女に襲われた。
先程の居間に戻る。
「レウシア、君はあいつとは知り合いなのか?」
レウシアは静かに頷く。
「あやつはわらわを作った者の敵対組織に雇われた傭兵の様なものだ」
「あいつも、その、レウシアと同じ人形、なのか……?」
葉自身もまだレウシアが本当に人形なのかと、疑いたくなる状況でなんとか自分を無理やり納得させ問い掛ける。
「いや、あやつは人間だ。わらわの作成者とあやつの雇い主と因縁があるようだが、詳しくは知らない」
「そうか…でもこれでレウシアが言っていることをますます現実味を帯びてきたわけだ」
葉は命を狙われているということ。天井を見上げて、長めの息を吐く。
「わらわもあやつのことを多くは知らぬが、手の打ちようがないわけではない。」
「それはどんな〝手〟なんだ?」
天井から吊るされている電灯からレウシアの方に目線を移す。
「それのためにわらわから一つ葉に対して要求があるのだが…」
レウシアの歯切れが悪かったので、葉はレウシアの言葉の先を促す。
「なんだ?」
「………わらわと接吻を交わしてくれ」
「…」
沈黙が部屋を埋め尽くした。
そこにはあらゆる音が失われ、いつまでもそのまま続くのではないかとも思われた。
体感時間とは裏腹に実際は数秒にも満たない程度の沈黙だったようだ。
時計の秒針が空気を読まず律儀に時を刻み続ける。それも聞こえてはいるが、耳を通り抜けるだけで耳には入ってはこない。
「聞いて、おるのか…?」
少し顔を伏せて、うっすらと頬を朱に染めてモジモジしているレウシアが正面にいる。葉は呆けた顔を取り繕うこともする間もなく応える。
「あ、悪い…えーっと、え??」
「え?ではないわ!こっちは恥ずかしい思いをして言ったのじゃ」
頬をプクプクと膨らませる
「女に恥をかかすな」
プリプリした顔をそっぽに向けてしまった。
たしかにレウシアの様子は恥ずかしそうにしている。まったく人形とは思えない奴だと葉は思う。困惑と混乱が葉を絡め取ろうとする中、これから逃れようと言葉を紡ぎ繋げる。
「すまない。理由を聞かせてくれ」
葉は唐突すぎるレウシアの要求についていけない。今はもう恥じらいの表情は薄くなっていたが、その変わりに少し怒りの色が見える。
「今のわらわの力は不完全なのじゃ。それを補うためには人間の力を借りる必要があるというわけじゃ」
「これにより力をお互いに供給しあうというわけじゃ。それを可能にする手段として接吻が必要なのじゃ」
「そして接吻することでヨウとわらわは接吻契約で繋がれる。」
「…」
絶句である。言葉を失った。レウシアとキスする理由をわかったが、返す言葉を見つけられなかった。レウシアは葉を真っ直ぐに見据えている。
「………」
葉は嘆息の後、観念した。実際に絶命の危機に遭って間もない状況で、今は目の前にいる少女を信じるしかない。今日はこんなことばかりだ。
「わらわに口付けをしてくれ」
レウシアは瞳を閉じる。その頬が少し朱に染まっているような気がする。葉はレウシアの肩を出来る限りやさしく掴む。レウシアの身体が少し震えていることに葉は気づいた。
葉自身も緊張して手が震えている。手の震えと共に心臓は早鐘を打つ。ただ人形にキスするだけだ。問題ない。問題ない。問題ない。無問題だ。意を決して自身に渦巻くしがらみを振りきる。
そして、ほんの僅かな、刹那。しかし、体感ではとても永く感じる。
そっと
やさしく
密やかに
唇を重ねた。
…………
朝日が窓から差し込む。どうやら今日は天気が良いらしい。早朝特有の清々しい空気を楽しんでいるかのようにスズメたちが庭で騒いでいる。『まぁ自由にやっててくれ』もう一度寝直そう、と葉。
掛け布団を二度寝するために微睡みながら手探り足探りで整える。何かに当たった気がするが今の葉には当たり障りのない小さなことだ。
「おーい、葉ー。起きてるかー」
『いえ、起きていません。まだ起きる気もありません』部屋の時計も6時を過ぎた辺り。休日の朝ということを考慮すればまだ余裕があるというのが葉の見解。これから朝の素晴らしい特別な時間を過ごそうというのに、今の葉には来客をもてなす余裕はない。
「ふぅ」
「ふぅ…じゃない!」
着ていた布団を一気に剥ぎ取られた。
「さ、さむいです」
「やっと起きたか」
葉は微睡み振り払うように目を擦りながら、声のする方を向いた。まどろむ瞳で、うっすら見えたのは仁王立ちをしている女性の姿であった。それは良く見知った姿である。
「今日は早いんですね?」
「そう?」
彼女の名前は花簪明姫、(はなかんざし あき)隣に住む以前からいつも世話を焼いてもらっている姉貴のような存在だ。美人ではあるのだが、内面とのギャップが激しい。良く言えば、明るい性格でサバサバしている。悪く言えば…今回は省略しよう。
時間帯に関係なく、頻繁にぶらりと遊びに来ている。一人暮らしの葉に気を使ってくれているのか。勝手に気がむいた時に来ているだけなのかはわからないが話相手になってくれている
「で、一つ質問していい?」
明姫はいつも調子で訊いてくる。
「朝から改まって何です?」
「葉にはそういう趣味があったの?」
話が見えず、何を言っているかわからないといった表情をしようとした時である。
「……ああ!なんで!?」
葉は一気に目が醒める。視界を広げると隣には気持ちよさそうに丸まって猫のように寝息を立てるレウシアがいた。思わず声を荒らげてしまった。
「何じゃ、もう朝か?ヨウ」
猫が顔を洗うように手で顔をゴシゴシしている。
「いや、あの、これはですね…いろいろと事情がありまして…」
真冬にも関わらず滝のような汗をかく。人間の水分比率が変わりそうなほどに無言と笑顔のプレッシャー。相手の手が硬く硬く握られていくのが見て取れる。
「ちょ、ちょっと、待ってください。話を聞いてください」
ダ、ダメだ。殺られる。これ以上の鬼の形相を葉は知らない。言葉で表現するのは難しいが、強いて言うなら「般若も裸足で逃げ出しそう」だ。
「問答ー無用ー!」
鉄槌は降りおろされる。葉の断末魔が響きわたる
……………
なんとか帰ってくることが出来た。見知らぬ親切そうなおじいさんとおばあちゃんが河の向こうから手招きしていたが丁重にお断りした。
そして葉は前後の記憶が曖昧なまま3人で食卓を囲むことになった。
本日の朝食メニューはトースト、サラダにコーヒーでシンプルな洋食スタイルだ。
これは明姫の好みである。本人曰く、「朝は洋食に限る!」だそうだ。
葉も嫌いではないので、彼女が居る時は生活スタイルを合わせている。
「で、葉。説明をしてくれる?」
あの世とこの世の境を小旅行している間に葉は自身の説明責任を果たすこと忘れていた。
「まず彼女の名前はレウシア。遠い親戚の子です」
「ふ~ん、そんな話聞いたことないけど?」
あからさまに怪しまれている。
それもそうであろう、こんな親戚がいることを話したこともないし、葉があまり親戚付き合いをしていないのも明姫は知っている。しかし葉も負ける訳にはいかないと、視線を逸らさず、正面から向き合う。
……
しばしの沈黙。この沈黙を破ったのはレウシアだった。
「アキとやら、ヨウをそんなにも責めないでほしい。わらわは突然押し掛け、ヨウには無理を言ってここに置いてもらっているのじゃ」
レウシアは申し訳なさそうな表情を浮かべて言う。
「…わかったわよ。信じてあげるわ」
参った、参った、と手をヒラヒラさせている。内心胸をなで下ろす葉である。
「でも!!」
彼女はグイッと身を乗り出して来る。それに思わず、ビクッと葉の身体が反応する。
「今度こういうことがあるなら事前に説明すること」
諭すような強制。
「わかった?」
確認しているようで拒否権なし。
「…は…はい…以後気を付けます。」
「よろしい」
満足気に大きく頷く。
それじゃあ、と3人は手を合わせる。葉とレウシアにアイコンタクトを送る。
「いただきます」
三人で囲む初めての食卓であったが、それを感じさせない自然さで時は流れる。
レウシアも花簪明姫という人間を気に入ったのか、普通に会話をしている。この空気を創っているのは花簪明姫、その人である。彼女の人徳のなせる業なのであろう。
「ちょっとレウシアちゃん聞いてよ?」
明姫は急に困り顔を作り、レウシアに話し掛ける。なんじゃ?とレウシアも耳を傾ける。
「葉ったらね。何でもかんでも受け入れすぎなのよ」
明姫は葉を横目に見ながら話を続ける。
「ほんと損な性格よね。有求必応というか。難きを先にし獲るを後にすというか」
「この前だってね。猫アレルギーのくせに猫を拾ってきて飼うって言い出して大変だったのよ」
「ッ」
「それはそうだけど。」
明姫の先制攻撃である。葉は躱すことが出来ず、もろに言葉の一撃を受ける。
「別にいいじゃないですか。他人に迷惑を掛けている訳じゃないですし」
そういうことじゃないのよ。と言いたげに手を額に当て首を横に振る明姫。
「あの時はすぐに引き取り手が見つかったから良かったけどね」
「そんなことがあったのか…わかった。わらわも気を付けてヨウのことを観察しておこう。」
「ほんと!ありがとうね。レウシアちゃん」
先程の困り顔が演技くさかったが、この笑顔は心から溢れ出ているようだ
「うむ。葉の自身を顧みない行動はわらわの本意でもないからな」
「ふふふ」
明姫はレウシアを仲間に加えたとほくそ笑みながら、口元に手を当て、横目に見ている。
「何ですか?」
葉は明姫の笑いに対してコーヒーカップを口に近づけ、熱いコーヒーを啜り、目蓋を閉じて冷めた態度で問う。
「何でもないで~す。」
そんな葉とは正反対に楽しそうに食事を続けている。
「そうそう。葉、今日何か予定あるの?」
コーヒーカップを傾けながら聞いてくる。
「いや、特にこれといっては何もないですけど」
葉は皆の食器を片付けながら応える。
「じゃあ、レウシアちゃんをこの周辺を案内してあげましょうよ」
ニコニコしながら提案してくる。レウシアもチラッとこちらを見てくる。何も言わないが葉には目が輝いているように見えた。
「う~ん。そうするか?」
葉はレウシアに話題を振る。
「興味深いのぅ」
レウシアは即答する。むしろ少しくい気味だった気もする。
「決まり!」
手を打つ明姫。すごく楽しそうだ。
「お姉さんがいろんな所を案内してあげるわ」
任せなさいと明姫は胸を張る。
「三人で散歩がてら出かけるか…」
本日の予定が決まったタイミングで携帯電話が鳴く。
明姫の携帯電話がこのタイミングを図っていたかのように鳴き出した。
「あ、はい…はい…わかりました…」
電話にも関わらず明姫は頷きながら応対している。先程までの表情を180度変化させ、携帯電話を閉じる。
「はぁ…ごめん、あたし行けなくなっちゃった。」
本当に残念そうに言う。レウシアと同じぐらい楽しみにしていたのだろう。
「仕事ですか?」
葉は食器を台所で洗い終わり、タオルで手を拭きながら居間に入る。『いつものことじゃないですか』と軽く言葉を添える。
「そう、全く人遣いが荒いのよ」
ため息混じりにうなだれて返事をする彼女。彼女の仕事の詳しい内容は知らないが、急に呼び出されてそのまま出向いてしまうことを葉は知っている。
「今度、埋め合わせするね」
明姫は顔の前に手を合せ、申し訳なさそうに言う。
「仕方ないですよ」
「ほんとタイミング悪いわね」
明姫は一人でごちていた。
レウシアを横目に見ると今か今かとそわそわしている。彼女は相変わらずの様子である。しかし、今すぐに出掛けることは出来なかった。家事がまだ残っているのだ。
葉とレウシアは出掛ける準備を始める。レウシアの服は街を出歩くのは目立ちすぎるので、明姫の家で彼女が昔着ていた洋服を拝借することになった。もちろん、先程本人からは許可をもらっている。むしろ本人から進言された。そして、そのまま彼女が見繕ってもくれた。
葉は女の子のファッションに疎いわけではないが詳しくは決してない。そのため単純にありがたい配慮である。彼女自身は弟のような存在の葉でもクローゼットを開けられたくなかったのだろう。それが乙女心であろう。
「街に行ってみよう」
葉の家周辺は閑静な住宅街である。レウシアに特別案内するような物はない。そんなもの見てもわらわは喜ばぬと一蹴されてしまうのが関の山であろう。
葉とて女の子をエスコートする能力は最低限持ち合わせているつもりである。しかし、それにしても案内するといっても特別行く当てがあるわけではない。
準備を一通り終えてから、葉とレウシア、明姫は家を出る。明姫とはここで別れることになった。明姫は羨ましそうに、いや恨めしそうに少しの間こちらを見ていたが、手を振り渋々仕事に向かった。
隣をニコニコしながら歩くレウシア。余程この時代の街に興味があるようだ。それ以上にどうやら明姫の用意した洋服がお気に召したようだった。
レウシアは洋服というものを来たことがなく、着用方法がわからないというので明姫に手伝ってもらいながら着替えていた時である。
「おおぉ、おぉ、これは実に良い」
葉が準備している隣室からレウシアの感嘆を何度も聞いた。着替えを手伝っていた明姫もそんなレウシアを見て大層嬉しそうにしていた。
「そうだ。最近出来た喫茶店に行ってみよう」
葉が買い物の帰りにオープンしているのを見つけた喫茶店。外観はアンティークな雰囲気を纏った佇まいをしており、今のような昼下がりの午後をゆっくり過ごすには最適であろうと結論づけた。
「おおぉ、カフェか」
それはいい、とご満悦のようだ。ここにきて一つ疑問が浮かんだことを率直にレウシアに確認する。
「レウシアは人形なんだよな?」
「うむ、パペットだ。」
軽く訂正される。
「そこはどちらでもいいけれども」
「そんなことはないぞ。ちゃんと決まった呼称があるのじゃ」
「わかったよ、すまなかった。そのパペットは何故食事が出来るんだ?」
昨日の夕食、今日の朝食といい、あまりにも自然で忘れていたが彼女はパペットだ。何かを食べることが出来ないはずである。もう一つ謎は増える。食べたものは何処へ行くのか。甚だ疑問である。
「?」
レウシアは首を傾ける。『あ、説明していなかった』と一言添えてから
「パペットは人間と同じように食物から動力エネルギーを生み出している。」
「どうやって?」
「それはわらわにも説明できん。ただそういう仕組みなのだとしか言いようがない。そこまではわらわにも判らん」
今更細かいことを気にしても仕方がないと納得することにした。これ以上この話を続けても進展はないだろう。
まもなくして喫茶店に到着する。西洋風の店構えをしている。窓には白いレースのカーテンが備え付けられ店外から店内を見えづらくなっている。利用客が店内で外界の目を気にすることなく過ごせる趣向が凝らしてある。木製の柵は細部にまで加工が施され、花壇の草木は綺麗に整えてある。葉も土いじりが趣味の端くれである。その目から見ても見事な物だった。
中に入ると外観の雰囲気を壊さない内観をしている。店内には間接照明と観葉植物で装飾され、個室はないもののプライベート空間を演出している。利用客同士がいい意味で意識しなくて済む。
テーブルと椅子一つひとつにもこだわりがあるのが見て取れる。所々にアンティークの品が並んでいる。高級感の中に何故かどこか懐かしい空気もそこには存在した。
「いらっしゃいませ」
低めの落ち着いた声が鼓膜を心地良く揺らす。カウンターには髭を蓄えたマスターらしき中年男性がグラスを磨きながら声をかけてきた。入口付近にいたウェイトレスか『お好きな席へ』と促され、窓際の4人がけの席にレウシアと葉は腰掛ける。
メニューは豊富とは言えないが、抑えるところは抑えているといったところだ。
「お決まりになりましたら、お呼びください」
スッと一礼してテーブルを去るウェイトレス。
「う~ん。何にしようかの?」
レウシアは独り言を呟き、メニューと暫しにらめっこした末にオレンジジュースとショートケーキのケーキセットなるものを注文した。葉はカフェオレを頼んだ。
しばらくしてステンレスのプレートを片手にウェイトレスがやって来てテーブルに注文した商品が並ぶ。ウェイトレスはまたスッと一礼し、テーブルから離れて行く。丁寧な立ち振る舞いだと関心している目の前で目を輝かせているレウシア。
「食べてもいいぞ」
このままではヨダレを垂らしかねないと葉には見て取れた。一瞬こちらを見て我に返ったようだが、また目の前の光景に釘付けになる。銀のフォークが白い魅惑的なそれに滑り込み、レウシアの口に収まる。
「ん~~~~美味なのじゃ!!」
「たしかにおいしい!」
カフェラテを啜りながら驚嘆の言葉を添える。一方、レウシアはこちらに関心を向けず、ただ目の前のケーキしか視界に入っていないようだ。その後、何度かのおかわりを経て店を出ることになった。
「満腹、満腹」
レウシアはお腹を摩りながら満足気だ。
「あれだけ食べれば、誰でもそうなるよ」
結局、あれもこれも食べたいとワンホール分ほどのカットケーキを一人で平らげた。
そして葉の手にある財務省が倹約!節約!とデモを起こしている。というのもどうやらあのお店は世間で言うところの高級喫茶店だったようだ。
ケーキもコーヒーも庶民的価格相場の1.5倍以上だった。しかし、レウシアではないが、それだけの代金を払っても惜しくない程の美味さだった。優良店ではあるが今の葉では常連になれる日は遠いと感じつつ財布をポケットにしまう。
時計に目をやるとすでに16時を指そうとしていた。時間泥棒です。お巡りさん。
あまりの居心地の良さに葉とレウシアはくつろぎ過ぎてしまった。
季節柄、日が落ちるのが早いことも手伝って、頭上は橙と青紫のペンキをこぼして滲みながら刻一刻と黒に染まりつつあった。レウシアと近くのスーパーに寄って帰ることにした。葉は夕食のリクエストを受け付けたが、『何でも良いぞ』だそうだ。葉は今日一日、上機嫌だったレウシアの言葉に甘えることにした。
家に戻って、二人でキッチンに立つ。レウシアはニンジン、玉葱、じゃがいもを流しでジャブジャブとハミングしながら洗っている。その横でそれを一口大に葉が切り、鍋に流しこんでいく。今日の献立はカレーライスなのだ。
彼女の手伝いもあり、スムーズに夕食が完成していく。パペットはなんでも出来るのかと思うほど手際が良かった。
昨日のように現代日本のシキタリを知らなかったりと少々ムラはある。しかし、こんな状況でなければ一家に一人は居てくれると助かるのだが、と呑気に考えながら鍋が焦げないようにカレーを混ぜる。カレーも後は煮込むだけという辺りで、背中に違和感を感じる。
「……ん…?……」
後ろからの視線を感じて振り返る。しかしそこには誰も居らず、いつもの居間がそこにはあった。当たり前だが葉とレウシアしかここにはいない。明姫なら声を掛けてくるはずである。ただの思い過ごしだろうと考えることにして配膳を始める。
テレビを見ながら、二人の力作を食しているとまたあの感覚に苛まれる。やはり誰かに見られている気がする。ここで葉はレウシアに確認する。
「あのさ、レウシア、誰かに見られている気がしないか?」
「うむ、見られておるな」
特に気にしている風もなくレウシアは応え、スプーンを置くことも話すこともなかった。
「大丈夫なのか、昨日みたいに襲われたりしたら…」
葉は素直に今考えている懸念を素直にさらけ出した。
「今のところは襲ってくる様子は無いようじゃ。警戒はしているから心配しなくて良いぞ」
日本茶を啜りながら言われてしまう。その後、視線を感じることはなく葉は安堵する。そして、レウシアが眠そうにしていたので、いつもより早く就寝しようとすると、レウシア本人は『まだ全然眠くないぞ。わらわはこう見えてもオトナなのだ』と宣言していた。しかし、程なくして欠伸の頻度は増え、その間隔も短くなるばかりだった。
就寝時はレウシアが隣の部屋に寝ることになった。初めは念のため同室に寝るようにレウシアに薦められたが、葉は人生でそう何度も断末魔を召喚するわけにはいかないと丁重にお断りした。
葉は寝ようと布団に入ったが、先程の視線の正体が気になって眠れない。急に視線を感じなくなったことも気がかりである。だが、その気がかりもあって葉は眠れない。
「…少し喉が渇いたな。水でも飲むかと…」
独り言を呟いて台所のへ向かう。台所は月明かりに照らされて静まり返っている。はずだった。そうであるべきだった。何よりも葉にとっては…
「レウシアか?」
キッチンの入口から葉は声を掛ける。電気ぐらい点ければ良いのにと思いながら
照明のスイッチに手を掛けた。
そこには先程まで食事を共にしたパペットではないのだが、良く見知った人物の姿があった。どうしてこんな所に!?と葉は驚く。
「見つかっちゃったかー」
闖入者は悪びれる様子もなく、軽口を叩く。
「なんで、ここに居るんだ。藤堂の実家に居るはずじゃぁ…」
葉は今の状況を整理出来ないでいる。予想外の人物に不意打ちされ、面を食っている。
「なんで…て、それはお兄ちゃんがいつまで経ってもこっちに顔を見せないからでしょ!」
どうやらこの闖入者は自身が勝手に葉の家に上がり込んで来たことを棚に上げ、さらに念押しと言わんばかりに棚の奥に仕舞い込み、葉に対して、いたくご立腹の様子である。
「あ、あぁ…すまない。たしかに最近は藤堂の家には顔を出していないけど」
葉は彼女の剣幕に圧倒され、謝ってしまう。
彼女の名前は藤堂菊乃。葉の従兄妹にあたる人物である。葉は学生の頃に両親を事故で亡くし、親戚の家で預かられることになった。それが藤堂家であった。
両親の生前には接点が少なかったようで、葉自身も預かられることが決まってから初めて顔を合わせた見たぐらいだ。お互いに順風満帆に生活をしていたのだが、葉が大学生になるのをきっかけに藤堂の家を出た。
藤堂の義父さんや義母さんは実の息子のように接してくれていた。今も学費も一部補助してくれていて、現在進行形でもお世話になっている。葉もそれを心地よく受け入れている反面、どこかいたたまれなさに苛まれることも時折あったのだ。
家を出る朝には『いつでも好きなときに帰って来なさい』と両親は見送ってくれた。そこには何故か菊乃の姿はなかった。菊乃は最後まで葉が藤堂の家を出ることを反対していた。しかし、葉は以来藤堂の家には帰っていなかった。
「少しぐらい顔を見せに来てよ。お父さんもお母さんも寂しがってるよ」
菊乃は顔を伏せているので表情は窺うことが出来なかったが、声にはさっきまでの怒りの感情は残っていない。
「それに菊乃も…」
殊更小さな声で呟くように囁いた。だから葉には最後の一言が聞き取れなかった。
「わかったよ。顔は出すようにするよ」
「ほんと!絶対に、絶対に約束だからね!」
菊乃は心底嬉しそうに言う。元々菊乃は感情が豊かな性格だ。しかし、久々に葉と再会を果たすことができ、いつも以上に昂っているようだ。
「それじゃあ、今度はこっちから質問だ。」
「??」
菊乃は首を傾けて葉の質問を促した。
「何故、急にここに来たんだ?」
一つ目の問い。菊乃、藤堂家は葉の今住んでいる場所からは片道5時間以上掛かるのである。決して気軽に行き来できる距離ではない。
「お兄ちゃんがちゃんと生活しているのか抜き打ちチェックしにきたのです!」
菊乃は胸を張る。ベタにえっへん等と言いかねない勢いである。
「義父さんと義母さんは菊乃がここにいることは知っているのか?」
二つ目の問い。
「もちろん、知ってるよ。急に言い出したから驚いてはいたけど、許可はもらってきた。」
それなら両親も心配はしていないだろうからこれについては問題ないだろう。
「夕方から家の外から視線を感じたけどそれは菊乃か?」
三つ目の問い。
「バレてたのかー。残念。探偵気分で観察してたのに」
葉はあんなにわかりやすく人の視線を感じたのは始めてだった。本当に隠れる気があったのかどうか。一つ言えることは探偵業には向かないということだ。
「急に視線を感じなくなったがあれはどういうわけだ」
四つ目の問い。これは葉が抱くただの興味本意。ずっと葉とレウシアを監視していたにも関わらず、何故その場を離れたのか。
「いやぁ、二人の作ってるカレーが美味しそうでさぁ」
頭を掻きながら答える。
「それで菊乃もお腹すいたなぁっと思ってご飯を食べに行ってたのです!」
「でもね。ここで問題が起きたんだよ。おにいちゃん!」
緊迫した顔で菊乃は葉に迫る。
「何があったんだ?」
葉は冷静に菊乃を促す。
「カレー屋さんがなかったんだよ!!これは一大事だよ。菊乃はどこでお腹を満たせばいいの!?」
「他の物を食べれば良かったじゃないか。他の食べ物屋ならあっただろうに」
葉は正論で諭す。
「お兄ちゃんはナンセンスだよ。あの時、菊乃の口はカレーしか受け付けなかったんだよ」
菊乃は葉の正論を力説で乗り越えようとした。
「わかったよ。で、結局どうしたんだ?」
「そこでだよ。菊乃は思いついたんだよ!お兄ちゃん達が作ったカレーを食べればいいじゃんって思いついたんだよ!」
彼女の勢いは収まることはない。
「それで台所に忍び込んでカレーを食べ終わったから、そろそろお兄ちゃんに挨拶しに行こうかな、と思ったら急に照明が点いて今に至ります」
「はぁ…なんで先に姿を現さなかったんだよ」
葉は完全に呆れている。
「それもそうだね。挨拶してそのままご馳走してもらえば良かったね」
菊乃は自分のことを笑いながら最善の結果にようやくたどり着いた。もはや後の祭りだが。
「菊乃からも一ついいかな?」
半日観察していたのだ。気になる点もあったのだろう。何となく、というよりはこれしかないだろうと内容は容易に予想出来る。
「あの女の子は誰?」
至って冷静に質問してきた。
「俺がまだ生みの両親と暮らしていた頃に親しかった親戚の子だ」
「藤堂の家に行ってからは連絡も取れなくなっていたのだけれども、暫くの間だけ面倒を見てることになったんだ」
質問の内容がわかっていたことと、本日2回目の説明で葉の口からは流れるように言葉が紡がれた。
「じゃあ、菊乃とはライバルってことだね。名前はなんていうの?」
「ライバルってなんだよ?」
菊乃がどういう解釈をしてそうなったのか葉にはわからないが、葉とのお互いの関係性が似通っていることを言っているのだろうと解釈することにした。菊乃自身と境遇が似ているので、レウシアの存在を疑うことをしなかった。それに性格上、あまり深くは気にしないのだろう。
「名前はレウシアだ。彼女のことは明日紹介するよ」
「今日はもう遅いし、菊乃、泊まっていくんだろう?」
「うん。そうする。さすがに今日は疲れちゃった」
欠伸と伸びをしながら菊乃は応える。葉は菊乃を廊下に促し、客間に布団を敷き、寝室とした。
疲れていたようで、菊乃は布団に入るなりものの数分で寝入ってしまった。葉の家までの移動と探偵ごっこで疲労が溜まっているのだろう。明日には満足して帰ると考え、それまでゆっくり寝かせておこうと葉は部屋の電気を消し自室へと戻った。
「おはようございます」
葉はいつものように誰か特定の人物に言うわけでもなく挨拶をし、研究室に入った。そこには既に何人かの同志が顔を揃えていた。白衣姿の男女が週に何度か集まって、各々の成果を発表し合うのである。
葉はここで研究員をしている。しかし、研究員と言ってもそれを生業にしているわけではない。ここは葉が籍を置いている部活なのである。研究員とはここでいうところの部員のことなのである。
活動の内容からこの部内では部員のことを“研究員”と称している。この団体の名称は歴史研究会という名称がついており、何たらというそれっぽい協会団体にも属しているそこそこな団体である。だがしかし、大層な研究成果がこの場で出たことは葉が知る限り未だかつて無いのである。
今後もコレに関しては非常に怪しいもので、葉自身もそんな大層な成果をここで出すことが出来ないだろうと思っている。
学内を歩いていたら、勧誘されて特に所属する部活を決めていたわけではないのでそのまま入部することにしたのだ。ここで、説明を一つ必要とする項目がある。
葉は家から程近い大学に通う学生なのである。特に将来の展望を考えてこの大学に決めたわけではなく、今一人暮らししている家から近いというのが一番の決め手である。
学力についてはこの学校は葉の実力よりも少し低めの偏差値であったが、本人は偏差値に執着しなかった。通学時間が短縮することができ、勉学はもちろん大切なことだが葉は家事や生活の面を重視した。
「おーい。葉、何そんなとこで何ぼんやり突っ立ってるんだよ。早くこっちにこいよ」
「あ、あぁ」
葉は応えて鞄をおいて白衣を私服の上から羽織る。この白衣は運動部でいうところのユニフォームだ。昔から入部すると白衣を進呈されるらしい。そのため葉も入部に一着貸与してもらっている。活動中もとい研究中は着用することになっている。
葉が準備を整えていると研究成果発表会は既に始まっていた。先輩の男性研究員は先日行ってきたという史跡巡りの成果を写真で説明していた。
同学年の女性研究員は一昨日までオーストラリアで化石掘りに熱中していたらしく未だにその熱が冷めやらぬといった様子である。
自身の研究をお互いに情報を共有しさらなる研究成果を生み出すことが目的である。これがそもそもの団体の大義名分である。
葉は葉で考古学?的なことを研究対象としている。しかし、最近この会合から疎遠になっていたため、同期の研究員から「そろそろ顔を出したほうが良い」と念を押しされていた。
疎遠になった理由は単に葉の怠惰、サボタージュである。助言を受けたものの、この昨日、一昨日の出来事を考えたら、参加することは躊躇われた。しかし、葉は気持ちの切り替えてと考えて皆と何でもいいから会話をしようと決めた。
今朝も今朝とて頭を抱える一悶着があったところだった。
「何じゃ!何じゃ!そんなに近づくなっ!!」
レウシアは朝から取り乱していた。レウシアをこんな風にしている張本人は予想通りの奴であった。むしろ彼女しかいない。
「はぁ、レウシアちゃん、はぁはぁ、レウシアちゃん」
恍惚な表情した菊乃はレウシアを居間で追い回していた。
「かわいいなぁ~。もう。これはもはや犯罪だよ。どうしよう。どうしちゃおうかな。ぐへへ」
菊乃は表情をそのままに手をワキワキしながら、ネコがネズミを追い込んだが如く部屋の隅に追い込んでいる。
ネコは標的にしっかりとエイムし、準備は万端である。あとはプルプル震えるネズミに一気に飛びかかるだけ。
「ニャーッ!」と飛び掛る。
「やーめーろー!」
ネズミは捕らえられる、はずだったが、しかし獲物は目の前なのにいつまで経っても辿り着かない。むしろ身体がそれ以上前へ進むことはなかった。
「菊乃。俺は君が目の前で犯罪者になるのを黙って見過ごすわけにはいかないよ」
飼い主はネコのティーシャツの襟を掴み、狂気のそれを制御していた。このネコは憤慨するかのようにこちらを振り向き「キシャー」と威嚇していた。
「全く…」
葉は額に手を当て、頭を垂れた。
「ヨ、ヨウ。コヤツはなんじゃ!?」
言いつつ少しずつネコから距離を取っている。
「コイツは昨日俺たちのことを監視していた張本人だ。そして俺の従兄妹だ」
「なん、じゃと!?」
ネズミは目を丸くし、驚いた様子。しかし気を抜くことはなくネコへの警戒は怠らない。
「菊乃は夢中になると少し周りが見えなくなることがあるんだ」
呆れ顔で飼い主は話す。
「少し、ではあるまい!?」
ネズミはまだ昂った気持ちを抑えることなく返す。今もネコは獲物であるネズミに向けて目を爛々と輝かせている。
「仕方がない」
飼い主はため息混じりにネコの首筋に手刀を入れる
「ぐえっ」
短い呻き声を最後にネコは無力化される。飼い主の小脇に抱えられて居間に連れて行かれた。
ネズミもといレウシアは思うのである。昨日の危害を加える様子はないという自身の判断が間違っていたと…
程なくしてネコが正気を取り戻したので、朝食を取り始める。
「いや~、さっきはごめんなさいっ」
顔の前で手を合わせて言葉では謝っているが、悪びれている様子のないネコもとい菊乃。おそらく本人に悪気はないのだろう。
「い、いや、大丈夫じゃ…少し驚いただけだ」
少し目線を外して俯き加減に応える。さっきの事で完全にレウシアの中で苦手意識が芽生えてしまったようだ。
「こちらも取り乱してすまなかった」
なぜレウシアが謝っているのかはわからないが、彼女もまだ少し混乱しているのだろう。
葉が起床する前に簡単な自己紹介は済ましているようだ。
頭を掻きながら、あんまりにも可愛かったからさぁ。等と言いながら何かを思いついたかのように今度は顔の前で手を打つ。動作も賑やかだ。
「そうだよ。レウシアちゃんが可愛いすぎるからいけないんだよ」
飼い主もとい葉は無言のまま菊乃の3時の方向で手刀を繰り出す準備をしている。
「ごめんなさぁい。以後気を付けますっ!」
暴走トレインの如き菊乃も先程の葉の強制制止には懲りているようだ。
「それとこれからもよろしくね。レウシアちゃん」
菊乃は改めて挨拶をする。伏せ目がちだったレウシアも今は顔を上げている。
「こちらこそ、よろしく頼む。」
しかしあのようなことは今後、勘弁願いたいと心中に思うレウシアである。
…ん?葉は一つのささくれが引っかかるのを感じた。
「これからもってどういうことだ?」
察しの良い葉は悪い予感でしかないことはわかっていたが、確認を怠ってはならないのだ。万が一ということもある。
「こっちで少しご厄介になります」
“万が一”とはやはり額面通り万回に一回という意味を越えることは出来なかったようだ。
「聞いていないぞ」
普段とは違い大きめの声量で反論する。
「お兄ちゃん行儀が悪いよ、食事中にそんな大きな声を出して。まったくそんな子に育てたつもりはありません」
今は食事中である。機嫌を損ねた素振りの真似をしている。育ててもらった覚えもつもりも今後、菊乃に育てられることも未来永劫ない。こんなつっこみを入れている場合ではない。
「まぁでも、お兄ちゃんがそういうのも無理はありませんし、道理もかなっているし、筋も通りまくっちゃってるよ。そりゃあ、もう嫌というほどね」
そして菊乃は本題へと入る。
「今初めて言ったもん。でもお兄ちゃんが何と言おうが厄介になるから!これはもう決定事項です!覆らないし、変更もありませんのだ」
「ありませんのだって…」
菊乃の気迫に押される葉。
「だって一日見てたぐらいじゃ、お兄ちゃんがちゃんとした生活をしているかどうか何かわかんないよ」
それはそうだろうどんな単純な人間を一日だけ観察してもそれでは検証は不十分だ。菊乃は昔から言い出したら聞かない頑固者ではあったがここまでとは…成長過程を経て、より頑固者になったのでは?と葉は思う。
「義父さんと義母さんが心配するだろう」
こんな娘に育ってしまって両親の苦労もうかがえる。
「大丈夫だよ。お許しもらって来たからね」
菊乃とて葉にこう聞かれることは百も承知である。それぐらいの用意(根回し)はしてきていますよ、とむふふと言わんばかりに胸を張る。
「義父さんと義母さんに信頼されるのは有難いけど、こちらにも都合がある。俺は今すごく忙しいんだ。菊乃の相手をすることが出来ない」
少し厳しくなってしまったがそうするしかなかった。
先日までの葉なら許可していただろう。しかし今は状況がそれを許さない。葉は自身の命を狙われていることが分かっている。ここで一緒に暮らすことで少なからず菊乃に危害が及ぶことは想像に難くない。
「どうしてよ~。レウシアちゃんは良くて私はダメだって言うの?」
「っ…」
正論過ぎて返す言葉を失った。菊乃からすれば同じ客人なのである。どこがどう違うのか理解できないだろう。しかし、葉とてレウシアの正体とここにいる目的を話すことは出来ない。
それを話してしまえば、それこそ菊乃を巻き込むことになるからだ。全く情けない、そう思いながら葉はレウシアに目線で妙案はないかと問いかける。レウシアはすぐにその視線に気づき、視線で応える。
…任せておけ…と頼もしいことこの上ない。
…わかったよ…
仕方がない。全てをレウシアに任せよう。彼女とて葉の考えは考慮の上であろう。
菊乃を巻き込むことはレウシアも本意ではないだろう。
いつ襲われるかわからない状況で葉だけではなく、菊乃まで守らなければいけなくなるとどうしても行動を制限されてしまう。
「わかったよ。で、菊乃はどれぐらいここに居るんだ」
「冬休みの間はこっち居るつもりです」
「2週間ぐらいか…わかった」
葉は相変わらず気乗りはしていない。出来ることなら菊乃を巻き込むつもりもないし、巻き込みたくもないという気持ちは消えない。
「ありがとうね。おにいちゃん」
葉の気持ちを察することなく、菊乃は邪気の無い笑顔で心から感謝している様子だ。これからどうしたものか頭を抱える回数が増えることが確定した。食事を終え、先程のお詫びということで菊乃が食事の後片付けしてくれている。少しレウシアと言葉を交わした。その後、葉が一人で出掛けようとする菊乃とレウシアからは非難の声が上がった。
「私がわざわざ来たのに、一人出掛けちゃうの?おにいちゃんは全くなってないよ。減点です」
菊乃には何かを減点されてしまった。
「…」
レウシアは無言でこちらをジトとした目で見るばかりだった。しかし、目は口よりも多くのことを語りかけているように感じた。
『わらわを置いていくということは、何か?菊乃とこの家にふたりきりということになろう。お主はそれで良いと言うのか?今朝の惨状を忘れてはしまったのかのぉ。そうかそうか、それでは仕方あるまいな。薄情なものじゃのう』と微かに聞こえた気がした。
「し、仕方ないだろう。今日はどうしても行かないといけないんだ」
葉もここは譲れない。部活にもそろそろ顔を出しておかないと不味いし、それよりも今行っておかないと、さらに行けなくなってしまいそうだった。
ましてやこの二人を連れて行くわけにもいかない。それは葉にとっては最も選択したくない選択肢だった。
「もう時間がない、それじゃあ、行ってくるから大人しくしているんだぞ」
ここで時間を掛ければ、自身の決断に妥協してしまいそうだったので、多少強引に家を飛び出した。菊乃はそんな葉の背中にまだ言葉を投げかけていたが、葉はその言葉のキャッチボールをする気がない。レウシアは変わらず無言のままだった。
「皆、おはよう」
葉達の後方にある出入り口から声がした。葉は声の主に挨拶をしようと振り返るとそこには眉間に浅めの皺を寄せた女性がいた。
彼女の名前は八重樫 花菜。葉の一つ上の先輩で初めは物言いに冷たさのある話し方をすることもあり、話しづらい雰囲気を醸し出していた人だったが、話をする内にむしろ他の研究員より葉に取って話しやすい存在になっていた。
話をする度にその冷たさの中にある人を思う温かい気持ちが伝わってきたからだ。
黒髪の長髪に女性の割には長身でスレンダー。わかりやすく言えば、クールビューティを画に描いたような外見をしている。しかし、葉が彼女と話をするのはこの研究室に限ってのことだ。
1年程の付き合いである。しかし、ここで話はするものの、彼女のプライベートはまるまったくと言って良いほど見えてこないというだけでなく、ここ以外の場所で彼女を見かけたことがない。
他の研究員も彼女を見かけることはないらしい。美人なので学内を歩いていれば、目立つよなぁ…とも葉は思う。
葉は花菜のプライベートに興味があるが、そこまで見かけないのなら花菜自身も見つからないように生活している可能性がある。理由はわからないが、知られたくないこともあるのかもしれないと考え踏み込んで聞いたりはしていない。葉自身もそこはわきまえているつもりだ。
「おはようございます。八重樫先輩」
いつものように挨拶をしたが、帰ってくるはずの返答はなく、いきなり本題に突入した。
「さっそくだが私は君が無断で中期的にサボタージュしてた理由を聞かせてほしいのだが?」
花菜の表情は無表情ではあるが怒りの感情が溢れ出ている。
「いきなりですね…そ、そうですね。何から話せばよいのやら…」
葉はバツの悪そうな顔をして応える。花菜は眉間の皺を一層深め問いただしてくる。
「何も言わずに1ヶ月も研究室を空けて、さぞ重要な要件があったのであろう?」
花菜は葉の行為自体に異議を唱えたわけではない。それもそうである。毎週のように開催されているこの研究発表会?は強制ではない。花菜は葉の“無断で”ということが許せないらしい。葉も連絡すれば良いものを億劫になってしまい、それを怠っていた。
「っ…」
返す言葉が見当たらない。
「それとも何か?特別な要件もなく、ただ1ヶ月を無為に過ごしていたわけではなかろう?」
「う、すみません…」
「今後はこのようなことがないように以後精進しろ」
「はい」
葉の顔には反省の色一色だ。
それを見た花菜は表情を少し緩めて葉の肩に手を置き、
「わかってくれれば、それでいいよ」と一言を添えた。
「私はこれでも君との意見交換を楽しみにしているんだよ」
相変わらずの表情からはその気持ちを読み取ることは難しいが、本心であると葉は根拠は何もなかったが、そう思うことにした。
セカイは繁栄を余すところなく極めたように思われた。
そこで暮らす者に利益を得て、皆が豊かに暮らせるセカイを求めた。
それはひと握りの者達によってもたらされたものだ。
5名の導師と5名の換師。
たった10名でこのセカイは創られた。たったのである。
もともとこの土地は草原だった。
そこには草木以外は何もなく、どこまでこれが広がっているのか確かめるモノなどおらず。
ただ広大にして壮大であり、そしてなにより無垢であった。
人の手つかずの自然はまさに創世時代の楽園を想像させた。
その土地に名はなく、周辺には文明と呼べるものもない。
鳥たちはお互いに歌い、非捕食動物は川辺で水を飲み、
捕食動物は木陰で惰眠を貪り、
何を気にするでもなく各々に相応しい振る舞いを見せていた。
こんな素晴らしい土地に憧れない者は少なくない。
そして彼らも同じだった。
この土地を歩き彷徨い続ける最中に見つけてしまった。
導師と換師は異端として以前より暮らしていた土地を追われたことが発端だった。
それも無理はないであろう。
導師と換師の力は魔法という概念が出来る前の話。
土地の人達からは初めは珍しく思われ、重用されることもあった。
しかし、その時代はそう長くは続かないものだったのだ。
されど、それが世の理であろう。
皆、得体の知れないものには恐怖を抱く。人というのは実に身勝手なものである。
それはいつ、どこの世もたとえ時代が変われども大差はない。
追い立てる側を無闇に否定することは出来ないであろう。
少数の安心より、多数の安心を優先するのは決して間違いとはいえない。
土地の管理者はそう判断した。
その結果、彼らをこの土地から追放することにした。
ここで抵抗でもしていれば命まで奪われていただろう。
しかし、彼らは無抵抗で決定に従ったのだ。彼らも何処かで気づいていたのだろう。
自分たちの力はここでは過ぎた力だということ。ここには長くは居られないということを。
土地を追われた彼らにとって、ここは新天地であり、桃源郷の原型であるように感じた。
導師と換師はお互いを補うことでその力を発揮した。
だが、いくら優れた力にも弱点は存在した。
導師は「無」から「有」を創り出すことができる。
しかし、これで創り出した「有」はそれぞれの原型しか創り出せない。
それを加工、組み立てることはできない。
換師は「有」から「別の有」を創り出すことができる。
しかし、そもそも元になる「有」がないことには「別の有」を創ることはできない。
その為、互いに協力しあい、共生が始まった。
それはもう瞬く間であった。当時の人間の数倍以上の速度で水田、建物、村、町、街など様々な物を創り出した。
そして、様々なひとを受け入れた。
財産を失った没落商人、貧しく息絶えそうな農民、そんな新天地を求めた者を全て受け入れた。
受け入れられた者は何度も思ったという。
「ここは幻想郷で、ある日突然消えて無くなってしまう幻なのではないか」と
しかし、このような危惧はいらぬ心配であった。
その後、何年にも亘り栄え続け、集まった人たちは”原初の民”と謳い、導師と換師を敬った。
久々の会合への参加で中々帰ることができず、すっかり外は暗くなってしまっている。空には満天の星空には遠く及ばないが、いくつかの星は雲の合間から顔を覗かせ瞬いている。
「あいつら、自分の話を活き活きとするのはいいが、少しは時間にも気を遣ってほしい」
葉は嘆息交じりに、スーパーの買い物袋を片手に自宅への帰路を急ぐ。
「はぁ」
今朝のことを思い出して、葉はまた嘆息する。罪悪感から先程、寄ったスーパーのテナントに入っているケーキ屋でいくつかカットケーキを見繕っていた。我ながら考えが甘い。せめてもの罪滅ぼしである。
いよいよ、気温も下がり、風も吹き始める。一歩、また一歩と踏み出す速度が加速する。そして、いつもの帰り道と違う道を選択することにした。この道は普段あまり使わないのだが、わずかではあるが早く家に帰ることの出来るビルの合間にある路地。
ビルの合間ということもあり、昼間でも影が差し、薄暗い道のため、今の時刻では道筋が辛うじて見える程度なのである。しかし、葉は何度かこの道を以前から利用した経験がある。暗くなり視界が悪くなったとはいえ、問題ない。
そして、自宅までの距離の時間短縮を図る。何故普段は使わないのかと言うと、別に大した理由があるわけではない。葉は何かと早めに行動する性質であり、歩くことを好むのだ。そのため、近道を使う必要がほとんどない。今回のようなイレギュラー時のみなのである。
この道は普段も人が通行するためにあるわけではない。各ビルの換気口や配管しかない。そのため、大人一人がやっとというほどの道幅である。手持ちの荷物に気を遣いながら通行する。すると程なくして、通路の開けた空間に出る。
そこは十メートル四方ほどのスペースで這入ってきた。通路の対面側に続きの通路がある。このスペースは周りをそれぞれの四方を別のビルの壁に覆われている。東西南北さらに地面もコンクリートで囲まれている。唯一、空だけは綺麗に見える。
葉は対面にある通路の続きを目指し、歩を進める。対面の通路に入ろうとした途端に足元に何かが上から落ちてきた。落ちてきたというよりそこに目掛けて飛んできたというべきであろう。飛来してきた、それは地面に突き刺さる。コンクリートを砕き、それは刺さっている。雲が晴れるとおぼろげな光に照らされて、それを視認することが出来る。しかもそれは葉が一番見たくない物に該当していたに違いない。
「な、んで…」
それを見つけた拍子に後ろに倒れこむ。それは空の月が落ちてきたのではかと見惚れてしまう程の綺麗な三日月形をした鋼である。葉はこれと同じものに見覚えがある。
「あら、当たらなかったの?残念ね、当たったほうが楽だったと思うのですけれど?」
さらには聞き覚えのある声。しかし、コンクリートに囲まれたこの空間では音は共鳴して出所が定まらない。
葉は目の前の大鎌から這うように離れ、辺りを見渡す。しかし、平面軸には誰もおらず、空を見上げる。するとビルの上に人影を見つける。月光との逆光でよく見えないが、あの大鎌にあの声、姿を確認するまでも誰だかわかった。
「1、 アマリース」
葉の内側は恐怖に侵食されていく。それでも葉は壁に手を突きながら立ち上がる。
「名前を覚えてくれたの?うれしいわ、でも残念ね」
ビルの上の人影が消えた。そして、通路に刺さったままの大鎌の影から現れ、コンクリートから軽々と引き抜く。そして佇まいを正してから言う。
「ここで、死んでしまうのだから」と静かに告げる。
何も考えずに先程まで歩いてきた通路目掛けて走り出す。しかし、通路には目には見えない障壁が現れていて、走る速度そのままに衝突する。その勢いは殺され、逆方向への力のベクトルが働き、葉はバランスを崩す。今の葉にはアマリースと戦うことも、この場から逃げ出すことも出来ない。まるで為す術がない。
「―ッ」
この空間に閉じ込められてしまった。振り向くとアマリースがこちらに優雅に歩み寄ってきている。大鎌を振りかぶり、葉に向けて振り下ろされる。葉は全力で地面を蹴り無我夢中で右に跳んだが、バランスを崩して大きく転がる。しかし、大鎌を避けることができたので、直撃という最悪の結果は回避する。
「ッ、あ…」
葉は苦悶の表情を浮かべる。寸でのところで避けきることが出来たはずなのに左腕には浅いとは言いがたい傷を負ったのだ。どうやら、アマリースが鎌を振るったときに起こる空気で肌が切れたようだ。まるで、かまいたちだ。痛みはあるものの、痛覚に意識を持っていっている暇はない。鎌は次の一撃を繰り出そうと壁から離れる。
「おしかったわね。もう少しだったのに。あなた中々に見所があるじゃない。少し見直しましたわ。でも、あなたは避けない方が良かったと思いますわよ?」
表情は不気味なほどの笑顔で続ける。
「私の気が変わってしまいましたわ。初めは一撃で仕留める気でしたが、あなたのその表情を見ていると加虐心に火が点いてしまいました。こんなことは生まれて初めてですわ」
先程にも増して不気味な笑みは色濃くアマリースの顔に表れている。アマリース自身今まで経験したことのない衝動に陶酔していく。陶酔に溺れ、恍惚な表情を浮かべているが、それにも自身では気づいていない様子だ。
人間というものは自身においての未開拓なものに触れたとき自身を見失う。今のアマリースはまさにそうであろう。ただこの感覚が気持ちよくて、嬉しくて、少しでも長くこの感覚を享受し続けたい。もっとより多くを求める。人間における自身に対しての探求心がそうさせるのであろう。
そこに最早当初の目的であったはずの葉を殺害するという理性は掻き消える。アマリースは自身の内に秘められていた狂気が趣くまま、大鎌を振ります。決して葉に致命傷に至らぬように、少しずつ、少しずつ、丁寧に優しく葉に傷を与えていく。2撃目は左肩。3撃目は脇腹。その度、葉の苦悶の表情はより深いものになっていく。
「素晴らしいですわ、あなた。私はあなたの虜ですわ。もっと、もっと、ですわ。もっと私を愉しませなさい。アハハ、アハハハハハ」
葉の負った複数箇所の傷は致命傷に至らぬとも激痛が伴い、言葉を発する余裕はない。そして、さらに葉をいたぶるためにアマリースは4撃目で両脚の腱を切られる。そこでついに葉は膝を突いてその場に倒れこんだ。3撃目まででもよく身体が動いたものだが、どうやらここで限界のようだ。左腕、左肩、脇腹、そして両脚の5箇所からの痛みと出血で意識が朦朧とする。
その中で、葉の霞んだ視界に一つのリングが転がってきた。どうやら上着のポケットから飛び出してきたようだ。そして、それを見て葉はあることを朦朧とした意識の中で走馬灯のように思い出す。
今朝のレウシアとの会話。レウシアは葉にあるものを手渡した。それは一つのリングだった。
「これは?」
葉は急に手渡されたそれを見てレウシアに問いかけた。
「指輪だが?」
「いや、それは見ればわかる。そういうことではない」
「わかっておるよ」
レウシアの意図的ではなく、お約束展開の会話になってしまっていた。
「これはわらわと葉の接吻契約の証なのじゃ。渡すのが遅くなってすまない」
レウシアはさらに言葉を繋げる。
「これを持っていることで、わらわとヨウが離れた場所におっても、意思疎通をすることができる。さらにこの指輪を介してわらわに命令することが出来るのじゃ」
「便利なアクセサリーだな。持っているだけでいいのか?」
葉は指輪をまじまじと見ながら言う。
「ああ、しかし、注意すべき点がある。一つは葉の肌に直接触れていないと効果を発揮しないということ。もう一つ、こちらのほうが重要じゃな。それはヨウの血液が代償だということじゃ。これはわらわに命令をする時のみじゃが」
その不穏な言葉と響きに葉の顔が少し血の気が引いて青ざめる。
「そ、そうなのか。どれくらいの量が必要なんだ?」
問いの答えを、固唾を呑んで待つ葉。その答えがレウシアより告げられた。
「体内の全血液の4分の一程じゃ」
これはかなりの量である。人間の身体は全血液の3分の一を失うと生命の危機に陥るとされており、5分の一でも多量の血液消費でショック状態に陥る。すなわちこの召還という行為の代償はそれほどに大きいのだ。
「じゃから、この命令については多用することはできん。ヨウの身体が耐え切れぬ」
「できれば、これは使いたくないな」
青い顔のまま葉は言葉を返す。
「ああ、わらわも善処するつもりではあるがのぅ。この命令はわらわの意思に関係なく行使されることを言う。すなわち、ヨウがわらわに指示命令を発令したとして、それがわらわの意思と同義であらば、この代償は支払わなくて良いということなのじゃ。それでもどうしようもないときもあろう。しかし、ヨウが死を間近で感じた場合は躊躇わずに使うのじゃ」
「わかった…そうだな…」
葉は不安な顔をする。しかし、レウシアの言うとおりである。それは一度の使用ではショック状態に陥るものの、致死量には至らないということ。では死の淵に立ったときは是非もなく使うべきだ。
ここで、菊乃が朝食の後片付けから葉とレウシアの元へと戻った。
「ふぅ、終わった、終わった、とっ」
ハンカチで手を拭きながら戻ってきた。そして咄嗟に葉がリングを上着のポケットにしまう。しかし、菊乃は目ざとく葉の行動を見ていた。
「お兄ちゃん、今なんかポケットに隠した?」
「そんなことしてないぞ?」
レウシアとの会話に夢中で後ろから現れた菊乃の声と彼女の目ざとい追求に驚き、必死でしどろもどろにならないように心掛けて葉は菊乃に対して弁明した。
「ふ~ん、ま、いいか」
菊乃は葉が思った以上にあっさりと退いてくれた。葉は内心で安堵する。
葉の意識は現実へと戻ってくる。
「もう終わりかしら?私はまだ物足りませんわ。さあ、顔を上げなさい。そして、お立ちなさい。まだ死ぬことを許可致しませんわ」
アマリースの狂気の増幅は止まらず、今もまださらなる高揚を求め続けている。そして、もう何度目の斬撃になるのか今の葉にはわからない。その何度目かの大鎌は葉に突き立てられる瞬間。葉は最期の力を振り絞るようにリングを握り、叫ぶ。
「来てくれ!レウシアーッ!」
瞬間、葉の意識が遠のく中で見た、眼前には閃光が輝く。そして、その中から見知った背丈の少女が日本刀で大鎌の斬撃を受け止めている。
「大丈夫か!ヨウ!」
その声は遠く、葉は意識を失う。
「ッ」
アマリースは眉間に深い皺を寄せ、歯を食いしばっている。それはさながら苦虫を噛んでいるような顔つきだ。しかし、彼女の感情は先程とは一変し、憤怒一色となる。
彼女は邪魔をされた。水を差された。自身の狂気という快楽の海に身を任せて蕩っていた。それが誰であろうと許しはしない。感情の渦は速度を上げ、さらに大きなものへと変移していく。しかし、アマリースにとって良いこともあった。それは狂気が憤怒を上回ることで正気を取り戻したこと。
「よくも…よくも、邪魔してくれましたわねー!」
レウシアとアマリースの鍔迫り合いは続いている。レウシアはその語気に動じることはない。刀を握る手に力を込め、大鎌を弾き返しアマリースと距離を取る。
「言ったじゃろう? お主の好きにはさせんと」
レウシアの目は怒りの炎を宿している。殺気、という空気を纏っているようだ。触れるだけでも傷を負いかねないそれをアマリースに対して一点集中する。アマリースそれを物怖じせず、正面から受け止めている。
「しかし、到着が少し遅すぎたみたいよ?」
アマリースは今も血を流しながら地面に倒れている葉を見ながら、残念そうな顔しながら言葉を続ける。
「ソレ、早くしないと本当に死んでしまうわよ?せっかく良い玩具を見つけましたのに」
アマリースの中で葉はすでに人ではなく、ただのおもちゃとイコールのようだ。その台詞にレウシアは激昂する。
「貴様―ッ!」
叫んだが先か、駆け出したが先か。彼女はアマリースに向かって疾駆し、連撃を繰り出す。
刀の振りの速さは常人には全てを見切ることはできず、振りの重さは刀というよりは大槌のような衝撃。しかし、剣戟の受け手も負けてはいない。寸でのところではあるがただの一度も身体には当たっていない。全て自身の得物で凌いでいる。
矮躯な少女の体から何故そのような剣戟を繰り出すことが出来るのか。それは彼女が手にしている刀にその要因はあるだろう。
彼女の持つその刀の名は布都御魂。これは霊剣と謳われる業物であり、レウシアの力と共鳴している。
その昔、この剣は軍勢を覚醒させ、大敗濃厚な戦を勝利に導いたとされている刀。荒ぶる神をも退ける力を秘めているとまで伝えられた名刀。レウシアはその力を引き出し、力を借りている。
この刀に力を借りるには条件があり、それを使用者が満たさなければならない。それが接吻契約である。契約を結ぶことでこの刀を使うことができる。でなければ、刀を操る前に具現化させることすらかなわない。これは通常、過ぎたる力なのである。
「ッ」
これはレウシアのものだ。この剣戟はレウシア、布都御魂とアマリース、大鎌は互いに拮抗している。しかし、コンクリートの地面は違った。二人の剣戟に耐え切れず、足元は砕け、足を取られそうになる。
そこでレウシアは一度連撃を中断し、再度距離を取る。彼女たちは互いに軽く息を弾ませているが、それだけである。常人では考えられない身体能力である。
「…ヨウ」
呟くようにレウシアは彼の方を横目に見る。出血が酷い。少し距離はあるが、辛うじて息はまだあるようだ。しかし、時間はない。このままでは葉は死んでしまう。
「次はこちらからいかせていただきますわ」
アマリースの攻撃もまた連撃である。しかし、レウシアとはまるで違う。
レウシアの刀捌きは武人が合戦で相手を叩き切らんが如く荒々しく重い。一方、アマリースの大鎌捌きは貴族が舞踏会でダンスを踊っているが如く滑らかで軽い。対極にも近い戦闘スタイルである。
レウシアは降り注ぐような太刀筋でその速さと力を持って相手を圧倒する。アマリースは流れるような振りでその優雅さと隙のないステップで相手を圧倒する。まったく違う戦闘スタイルではあるが、互いに相手を圧倒している。攻められている側は自身の攻撃を差し込む隙がなく防戦になる。
レウシアはアマリースの振りを刀で受けて続けている。しかし、少しずつ後退していく。そして、葉の倒れている周辺にまで至っている。足元は葉の血で血溜まりができている。このままでは葉をこの剣戟に巻き込んでしまう、とレウシアは何とかアマリースの剣戟の軌道を変えるため、身体をかわすために避ける。
「ッ」
かわすことに何とか成功したが、左腕を大鎌が掠めて傷を負う。だが、左腕が使えない程ではない。ただこのまま長期戦になれば、話は別だ。しかし、レウシアはどちらにせよ長期戦に持ち込む気は毛頭ない。それでは葉が手遅れになってしまう。
レウシアは繰り出される振りを刀で受けながら、反撃の隙を探る。しかし、流れるようなステップから繰り出される攻撃に隙などありはしなかった。そのまま攻撃を防ぎ、時間だけが刻一刻と費やされ、焦燥するレウシア。
「なッ」
これはアマリースのものだ。彼女は地面の血溜まりでほんの少しバランスを崩す。彼女の連撃に刹那の隙が生じ、レウシアはこれを見逃さない。
「うおおおおおお」
レウシアは両手いっぱいに力を込めて、アマリースへ横薙ぎを振るう。それは今繰り出せる精一杯の一撃である。しかし、想定していたはずの手応えはいつまで経ってもおとずれない。
レウシアは自身の振るった刀の軌道を確認する。そこでこの軌道上にアマリースが存在していないことに気がついた。もう一つ先程と異なる点に気がつく。
少し先に見覚えのない壮年の男性が立っている。黒を基調とした燕尾服に身を包み、肩にアマリースを担いでいる。アマリースは抵抗はおろか、意識がないようにぐったりしている。
レウシアは狐に摘まれた気分に戸惑い、焦燥する。
「お主はなんじゃ!?」
レウシアは誰なのかではなく、何なのかと問い質す。あの一瞬でアマリースをレウシアから引き離し、さらにアマリースを気絶させている。そんな芸当、何に出来よう。
レウシアの横薙ぎに隙があったとは思えない。レウシア自身の感覚で絶対必中の一撃だったはずだ。それなのに何故。
「威勢の良いお嬢さんですね?」
「私ですか? そうですねぇ、しがない執事めにございます。それ未満でも、それを越えることもございません」
笑みを浮かべながら、一礼。レウシアを嗜めつつ、自己の紹介を終える。
「お主、アマリースとはどういう関係じゃ」
レウシアは刀を握る手を緩めず、壮年の自称執事を正面から目線を逸らさない。眼前の男のことは何もわかっていない。どうしてここにいるのか、どうやってレウシアとアマリースの間に入ったのか、それはどちらも刹那にも満たないほどの間である。気を抜くことはできない。
「いや、しかし、よろしいのでしょうか?」
「何がじゃ?」
彼の一挙手一投足を見逃すまいと、レウシアは目の前の男から目を離さない。しかし、彼には動きはなく、彼は口だけを動かす。
「そこで倒れている青年。そろそろ、絶命しそうですが」
「ッ」
レウシアは咄嗟に反射的に横目で葉の姿を確認してしまう。たったそれだけの隙で彼とアマリースは姿を消してしまった。そして、レウシアと葉しか居なくなったこの空間で声だけが響く。
「この勝負は私たちサイドで預からせて頂きます。誠に恐縮ですが、これにて失礼致します」
「小癪な…」
そして、レウシアは葉に駆け寄る。レウシアの持つ治癒術を掛けながら声を掛ける。
「ヨウ!…ヨウ!」
葉の傷は塞がり始め、出血は完全に止まる。レウシアは葉の胸に耳を当て、心音を確認する。そこには微かではあるが鼓動がある。どうやら一命は何とか取り留めたようだ。
「ほぅ…」
レウシアは安堵の息を漏らす。葉への治療は今もまだ続いている。しかし、まだ葉は目を覚まさない。無理もないであろう。致死量に近い出血である。アマリースの斬撃がそれ程深くなかったことが幸いした。
「しかし、あやつらは何者なんじゃ…アマリースは兎も角として、もう一人のあの男…」
「最後に『私たちサイド』といっておったから、アマリースの仲間なのじゃろうか、それとも…」
レウシアは襲撃者の分析をしていると抱きかかえている微かな命から反応がある。
「う、うぅ…」
レウシアに一時間ほど抱えられた状態のままだった葉である。葉は目を覚ますと驚く。
「う、うぅ…レウ、シア?」
「おはよう。まったく無茶しおって」
レウシアは安堵の表情を浮かべそう言う。そして、葉はアマリースは!と聞き返す。レウシアは首を振りながら
「あやつは撤退した。しかし、新しい問題が生じてしまった」
そのまま葉が気を失ってからのことを説明する。説明を終える頃には葉は自足できるほどには回復していたので、ふたりで家路に着くことにした。
レウシアに怒られながらの家路となっている。さらに叱責の声は葉の背中から聞こえている。理由は簡単だ。葉がレウシアを負ぶっているのだから。パペットといっても身の丈ほどの重量はある。
葉の体力が回復するのと反比例してレウシアは疲弊し、倒れそうになったからだ。レウシアに負荷を掛けすぎていた。彼女のキャパシティは既に越えていた。アマリースとの戦闘、そして葉の治癒、この後者が主な原因らしい。
「どうしてあんな道をつかったのじゃ」
「何故、もっと早くわらわを呼ばんのじゃ」
「今回はたまたま助かっただけじゃ」
エトセトラ、エトセトラ。葉も全てを黙って聞いている。しばらくして
「そんなんじゃから…」
その後が続かず、葉の肩にコテン、とレウシアの頭に重量が加わる。
「すぅ」
と、葉の耳に寝息が掛かり、あまり心地よくはないが、不思議と不快ではなかった。
問題が残っている。今の葉を見ると数多の説明責任を菊乃から要求されるに違いない。
「何故、こんな遅い時間になっての帰宅なのか?」
しかし、これはなんとでも言い訳できそうだ。
「何故、おにいちゃんの服がそんなズタボロなのか?」
そうなのである。葉の身体はレウシアの治癒によって傷はないものの、服までは修復することができなかった。パンクミュージシャンよろしくのダメージの利きすぎた格好となっている。もちろん、葉の普段着のイメージからは程遠い。
かといって時間が時間のために営業中のアパレルショップはなく、代えの服を調達することもできなかった。
「何故、レウシアちゃんがおにいちゃんに負ぶわれてのご帰宅なのさ?」
これが葉に今想定できる範囲で一番答え辛い質問である。レウシアはきっと葉に召還されるまで家で菊乃と留守番をしていたはずだ。菊乃からすればいつの間に外に出て、どこで何をしていたのかということ。しかも今の状況だと菊乃はレウシアから事情聴取することができない。この説明が一番厄介なのは間違いない。
「どうしたものかなー?」
葉はそう言って空を仰ぐ。すると、空から月に照らされた輝く雪が降り始めだした。
「こんなときについてないなー」
少女を背負った青年は一人、誰に言うでもなく呟き、歩を進める速度を速めて自宅に急ぐ。結局、菊乃への丁度いい、いいわけを見つけることは叶わないまま玄関にたどり着く。
夜はさらに深まり、玄関には照明が点いていなかった。さすがの菊乃も待ちくたびれて眠ってしまっているようだ。これは葉にとって好都合である。
玄関の鍵を開けて引き戸を出来るだけ静かに細心の注意を払いスライドさせる。家に入ってからも引き戸を閉じることに集中し、家の内側を背を向けて、引き戸のほうを正面にして閉じる。しかし、ここで葉は大きすぎる過ちを犯してしまうのだった。
急に、一気に辺りが明るくなる。それは一瞬のことで、まるで玄関に備え付けてある照明のスイッチを誰かがオンにしたようなそんな例えが相応しいように思う。否、そのものだったのである。
「何時だと思ってるのかな?おにいちゃん」
そこには笑顔という仮面を被った鬼がいる。
「いや~、何時だろうな~。おにいちゃんは今日時計を忘れてしまって時間がわからないよ。時間に囚われない男。それが樫木葉こと君のおにいちゃんさ」
「菊乃は本当に時間が聞きたいわけじゃないよ!」
「はいっ!」
葉はあまりの剣幕に身体ごと反応する。それに最後の日本語使い方間違っているし、とさりげなく訂正されてしまう葉である。
「ちょっと!おにいちゃん!」
「はい、なんでございましょうか?菊乃様」
「バカなこと言ってないで。レウシアちゃん顔真っ赤だよ」
「え?」
葉はレウシアの顔を肩越しに確認する。
「おい、レウシア」
レウシアは先程の寝息よりも少し息が弾んでいる。
「菊乃、レウシアちゃんのお布団敷いてくるから、おにいちゃんはレウシアちゃんの身体が冷えないようにとりあえず居間に連れて行って。エアコン効いてるから」
「わかった。レウシア、もう少しの辛抱だからな」
お布団の準備が出来たら呼びにいくから、と菊乃はレウシアの部屋に向かって走り出す。葉は安静にレウシアを居間まで運んで、背から下ろし、自身の着ていた上着を掛け布団代わりにする。
「なんで気づいてやれなかったんだ」
葉は自分の腿に自身で制裁を入れる。考えてみれば、レウシアの今の状態は想像に難くない。魔力を消費しての戦闘、魔力を消費しての葉の治癒、そしてこの外の気温。この3つを考慮して、考えれば当たり前といっても過言ではない。
これは葉の過信と過失である。それはレウシアの万能さへの過信とそれ故の過失。どこかでレウシアにそんな心配はないという自分勝手な驕りと未熟な自分を責める葉。そこに、廊下から菊乃の声がする。
「おにいちゃん、準備できたよ」
ああ、と葉は応える。
「ちょっと動かすぞ。レウシア」
返事はないが先程よりも顔が紅潮している様子が見て取れる。小刻みに息も荒い。葉はレウシアを抱きかかえてレウシアの部屋へと向かう。
「少し落ち着いたね」
菊乃はホッ胸で撫で下ろして言い、
「あとは俺が見ておくよ。菊乃は先に休んでくれ」
葉はレウシアを真剣な面持ちで見つめている。
「…でも……わかった。それじゃあ、おにいちゃんお願いね」
葉はあぁ、とだけ短く応えて、それだけ。菊乃はレウシアを起すまいと静かに部屋から出て行く。