最終章‡終わり始まる物語‡
最終章 ‡終わり始まる物語‡
(⇔I do not like you. But,I love you.)
20.孔谷透
少女は、あの日のように半没の夕陽を背に、不安定な足場の上に臆することなく佇んでいる。
その表情は穏やかで。二度と光を映すことのない瞳は、真っ直ぐこちらを見据えている。
俺が世界で一番好きだった眼光は、すっかり失われていた。それは一年前、彼女が俺を拒絶した確かな証だった。
「……待たせたね。随分と」
うん。ホント、待ちくたびれたよ。
少女は、他に形容するあらゆる言葉もなく、微笑んだ。
この場所こそが俺の原点。彼女こそが俺の始点。
「なぁ――」
――ちょっと待って。せっかくだから、初めからにしようよ。
俺の言葉の先を感じ取ったのか、少女は僅かに慌てたように俺を制した。
「初めから……っていうと?」
辻宮律から始まって、わたしで終わるまでの道のりだよ。
少女は、物語を読むように答えた。
なら、そうしようか。
律先輩には、色々迷惑を掛けたしな。
一つ目。
辻宮律。
「と言っても……別に、不思議がるほどの事件でもないだろ?」
一番自然な解釈が、単純に正解なんだから。
本当に簡単な話だ。現場は密室で、二つある鍵の一つは殺された律先輩が持っていて、もう一つは俺が持っていた。それだけで、説明は充分だ。
「そうだな……強いていえば、律先輩は本物だったよ。それは感動した」
優先順位を違えないという辻宮律は。
一局の将棋に賭けられた五十瀬正義の命を、迷うことなく自らの命より上位に置いた。
タイムリミットまでに、伊賀奇先輩のように逆転の手を思いつくことはできなかったけど。刻々と抜け落ちていく血を完膚なきまでに思考から排除したあの潔さは、彼女にしか出せない神域だった。
それで、何か感じるものはあった? と少女が問う。
「ああ。危うく惚れそうだった」
それは危ないね、と少女は笑った。
そして二つ目。
五十瀬正義。
「しかし、五十瀬先輩は……なんていうか、不憫だよな。結局最後まで、個人として見てもらえなかったなんて」
誰でもよかったわけじゃないよ、と少女は言った。
ある程度俺に近い人である必要があったのだ、と。
「範囲で指定してる時点でもうなぁ……」
俺に、最後の発見をさせるためのお膳立て。
蛇足として、犯行手口を同一にすることにより、犯人が単独犯と思わせるための殺人。
「伊賀奇先輩辺りなら一発で気づくと思うけど」
大丈夫だよ。あの人は理解しても解決しないから、と少女は微笑む。
その通りだ、と思った。
そして最後。
俺自身。
難問といえば――これが一番の難問にして最大の鬼門だった。
そもそもの大前提。俺が《I》に選定された理由は、決して心が欠落しているからではなく。
――わたしがくーやを拒絶したあの日から、くーやはくーやを拒絶したんだよね。
遠い昔を懐かしむように、少女は言った。
その通りだった。
目の前の少女に、俺が想い焦がれた彼女に否定された俺は。
俺にとって理想の偶像を、この孔谷透の中に作り上げた。
だから――俺がみつきと行動しているときに感じた俺の感情は、みつきのものとして処理された。
喜びも怒りも哀しみも楽しみも。
その奇異にして異端な逃避法こそが、俺が持つ最大の歪み。
故に、その識別称号を《透明な殻を嘆く雛》。
この世に生を受けてなお、一度たりとも世界と交わることのなかった遠い遠い領域外。
そんなことをしても。俺がここにいるという事実は、ちっとも変わらなかったっていうのに。
“「――月まで行けば、君の身の丈は変わるのかい?」”
今更のように、神託めいた伊賀奇先輩の先見の言を思い出す。
一体あの人は、あの時点でどこまで知っていたのか。どこまで理解していたのか。
なんにせよ――やはり、できることなら近づきたくない、怪物じみた人だった。
「今ならわかるよ。あれだけ俺を好きだった遠辺が、あれだけ遠辺を好きだった俺を断った理由が」
それは、俺から逃げ場を奪うため。
人間として――終わりを始まらせるための、一番最初の作業。
遠辺みつきを幻想した俺は、それ以降の人生を、自らの手で自らの足で自らの意思で、費やしてかなければいかなくなった。
突然大海に放り出された蛙のように面食らった俺の心は、感情を欠落させることで防御策としたけど、そんな歪みが長く続くわけもなく。みつきがいなければ、俺は一ヶ月と持たず壊れてしまっていただろう。
「だから、みつきには感謝してる。……たとえ原因が、ある意味で彼女にあったとしても」
翡翠に鍵として利用され、俺に盾として使用され、それでも彼女は笑顔だった。
ずっとずっと、俺にとっての理想であり続けてくれた、最後の俺自身。
本当に感謝しています。
だから、もう。
あなたを苦しめることを、止めようと思います。
「……もういいだろ? 始めよう」
最後に、お願いしてもいいかな?
くるりと背を向けて、初めて俺から視線を外した少女は言った。頷くことで答えた。見えなくとも、彼女には関係ない。
ややあって、少女は紡いだ。
――遠辺みつきを、嫌いにならないで。と。
21.《遠辺 》
遠辺みつきを、嫌いにならないで。
ひどく人工的な括られた世界を眼下に、わたしは言った。
それは、とても身勝手な懇願で。卑怯で愚かな女なわたしらしい、子供みじたものだった。
純粋潔白な《彼》を陥れ、わたしたちと同じ位置まで引き摺り下ろしし、あまつさえその手を真紅で穢した。
渇望していた《彼》の告白を躊躇なく断り、《彼》の求めるものをこの手で永遠に葬った。
傷つくと簡単に壊れてしまうから何重にも張り巡らせられた防護壁の中にいた《彼》を誘い出し、殻を剥ぎ取った。
罪深さで言えば、わたしほど罪深い人間はきっと他にいないだろう。
だから、わたしは――
「大丈夫だよ。それだけは、絶対にない」
返答は力強く。
《彼》は、決してわたしたちを否定しないと、断言した。
それは、殻の内にいることから来る自信とは違って、剥き出しの彼自身の言葉だった。
本当に? わたしは、声の震えを抑え切れずに、最後の糸に縋る罪人のように哀れみを誘うだろう表情で聞く。
「ああ」
《彼》は一旦言葉を切り、世界をぐるりと一望した。その瞳に相変わらず強い光はないけれど。全てを包み込むような優しさが、心臓の鼓動を示すように灯っていた。そう、感じ取れた。
「……たくさんの人たちを見てきた。たくさんの意思と希望があって、その全てが報われたわけじゃなかったけど。その全てが美しかったわけじゃなかったけど」
――他人を求めるその心に。嘘なんて一つもなかったよ。
俺がそうであるように。
それが、この一年、世界を生身で感じて得たたった一つの答えだ、って。
それだけは確かめた。それだけで充分だ、って。
《彼》は、爽やかな笑顔で、わたしの不安を吹き飛ばした。
「だから。……人間にすらなってなかった俺は、ここから人間を始めようと思う。この世界で一番、人間らしい行動から」
《彼》が地面と水平に伸ばした左腕の先には、明確な決意を秘めた漆黒の拳銃。標準はわたしの心臓。
わたしはゆっくり目を閉じて、その瞬間を待ちわびる。
「……ありがとな。一年間、待ってくれて」
ううん。そっちこそ、ありがとね。
一年間、わたしを想い続けてくれて。
《彼》が苦笑する声が、最後に聞こえて。
わたしは、これ以上ない安堵に笑顔になる。
それは、世界で一番醜く儚い物語の終幕に安堵して、笑顔になる。
それは終わりから始まり、始まりに終わる物語。全てがそうであるように、始まり、そしていつか終わる刹那より短い素敵な夢。
だけど、きっと大丈夫。どんなときだって、物語の価値は、長さなんかじゃなく、一瞬の輝きで決まるものだから。二度と別たれることのないわたしたちの物語は、他のどんなものよりも――
「おやすみ。みつき」
一瞬、間があって。
始まりと終わりを告げる空砲が、ハッキリと世界を壊した。
どこから話せばいいものか……。
えっと、結論から言うと、全ての混乱の始まりはこの章の前にエピローグを投稿してしまうという空前絶後のミスから発生しました。あれ、なんか急な展開だなぁと思った方、本当に申し訳ありません……orz 今は直しましたので、ご安心をば。
あ、という訳でもう一話あります。今度こそエピローグに続きます。