第六章‡原初へ到る鍵、或いは――‡
第六章 ‡原初へ到る鍵、或いは―― ‡
(⇔Good night)
15.孔谷透
それは、凄絶というには神聖過ぎる終焉だった。
空から槍のように落下する殺戮鬼を、一瞬の躊躇も必要とせず抱擁した限りなく銀髪に近い白髪を持つ少女。
血飛沫は放射線状に舞い上がり、彼女の顔に身体に、まるで処女を失った証のように粛々(しゅくしゅく)と降り注ぐ。
儀式めいた邂逅は、誰が望んだものなのか、誰が仕組んだものなのか。
言うまでもなく。
史上最悪の、極悪人によるものだった。
「……翡翠。いるんだろ?」
『なーに?』
小鳥が歌うような軽やかさで、いつも通り返答が帰ってくる。
「お前……」
憤慨だなんて強い感情を抱けない俺には、続けるべき言葉が、見つからなかった。
いや……むしろこれは、俺にとって望んだ結果に近いと言えば近い。
だが――この後に及んでも、俺は。
何一つ。本当に何一つ。何一つ何一つ何一つ何一つ何一つ何一つ何一つ何一つ何一つ何一つ何一つ何一つ何一つ何一つ何一つ何一つ何一つ何一つ。
怒りも悲しみも驚きもましてや喜びも、憐憫も焦燥も憤慨も慨嘆もましてや狂喜も、何一つ浮かんで、こなかった。
その瞬間――悟った。悟ってしまった。
俺はもう、壊れてしまったモノなのだ、と。
『本当に、そうかな?』
「……え?」
意外と言えば意外、必然と言えば必然に。
俺の思考に異議を申し立てたのは、遠辺翡翠だった。
『ねぇ。最近のクーヤって、ほんの少しだけど、楽しかったり悲しかったりしたこと、あったよね?』
子供を諭す親のように、翡翠が優しく語り掛けてくる。
「……ああ」
例えば、律先輩を看取るみつきを遠くから眺めていたとき。
例えば、朱野原比奈と話していたとき。
例えば――遠辺翡翠と、話していたとき。
ここ最近は、ほんの少しだけ、人間らしさの欠片に触れる機会があった。
でもそれは、部屋の隅に落ちていたパズルの一ピースを見つけたようなもので。
とてもじゃないけど、俺の中の人間が完成するには、ほど遠い。そもそも全てのピースを集めたところで、完成した一枚の絵になるかどうかが疑わしい。
『じゃ、逆に考えてみて。普通の人だったら何か感じるだろう場面で、クーヤが何も感じなかったことも、あったよね?』
「……ああ」
例えば、貫いた俺自身。
例えば、五十瀬正義と神斜大地の決闘。
例えば、雨の帳、捨てられていた猫の末路。
例えば――ついさっき通り過ぎた、五十瀬正義の死体。
何も感じませんでした、の一言で済まされる筈もない出来事で。
俺は、何も感じませんでした。
『うん。――さて問題。この二種類の結果が起こった状況には、決定的な差があります。それはどこでしょう?』
「状況の差、だって……?」
何を聞かれているのか、よくわからないんだけど。
『じゃあヒント!』
早い気もするけど。
『みつきを先にわたしのところに来させて、クーヤは五十瀬先輩を見てきて。それが――最初で最後の、ヒントだよ』
答え合わせは屋上で。
そう言って、翡翠は通話を絶った。
「……なんだって?」
「……わたしにも聞こえてたよ。くーや、どうする?」
いつになく他人行儀な目で、俺を見据えて、みつきは微笑む。
彼女は、この不可解な提案に対して、完全に選択を俺に任せていた。
「俺は……」
半信半疑ながらも――翡翠の提案に乗らない理由はなかった。
だって、駄目で元々なんだから。たとえば翡翠がみつきと二人きりになりたいとか、その程度の意図で俺に嘘をついているとしても、それはそれで興味深いし。
「……いいのか?」
念のため、みつきに尋ねる。
遠辺みつきと遠辺翡翠。
最善と最悪の両端にあって、どこか根底で似通ったもののある双子。
彼女たちの仲は、同属嫌悪以上の計り知れない何かが原因で、あまり芳しくないはずだけど。
「うん。それでくーやが救われるなら」
清々しいほどの即断だった。
その笑顔は、一片たりともいつもと不変の、普遍の笑み。
「わかった。それじゃ、行ってくる」
だから、安心した俺は、みつきを置いて駆け出して。
それがあるいは、みつきの笑顔を見た、最後の瞬間だった。
そのときの彼女の心情を――俺は、恐らく一生理解できないだろう。
全てが終わった後。他人と他人がわかり合うことなんて不可能で、でもそれ故に――なんて当たり前の事実を嫌っていうほど思い知らされてきた俺は、今更のように心から思った。
16.遠辺翡翠
時計塔の中腹には不自然な突起があって、まるで獲物消化中の蛇みたいな趣になっていて、そこがわたしの住処だった。
こぽこぽと気泡を建てるチューブの入った清潔な水槽を泳ぐ、色鮮やかな熱帯魚。画面を二分割できる大型テレビの先に散乱する、大量のゲーム機器。ソフトの種類は、わたしという都合上、大体が音ゲーかRPG。使い込まれた木製のちゃぶ台を挟む形で置かれている、二人は寝転べる太さのソファー二つ。
「服、サイズ合うかな……」
嫌な想像をしてまった。まぁそのときはそのとき、唯先輩かアリスを呼び出して、貸してもらおう。聴いている限り、みつきちゃんが後どのくらいで来る設定になっているのかはわからないけど、クーヤが来るのにはまだ時間があるだろうし。
バスタオル一丁のまま、乾きかけの髪をドライヤーで温めつつ、衣裳部屋へ。クーヤのあらゆる希望に応えるために用意した、女の子にはイマイチよくわからない趣味の服のコーナーを通り過ぎ、クーヤと会う(この)日のために取っておいた、至って普通の制服に着替える。
これを着るのは何年ぶりだっけ。
「えっと、みつきが生まれてからだから……」
大体一年前くらいかな?
ちょっと胸周りがきついのは、嬉しい痛みというコトで。
一年の時を経て、腰まで届くくらいに長くなった髪。それが、わたしがクーヤを待った時間を表す、目に見える証。
わたしには見えないけど。
制服のポケットから、入れておいた大きなハサミを取り出す。右手で髪を掴んで安定させて、左手でハサミを開く。後ろ手で切る形になるけど、わたしには関係ない。
「さよなら、遠辺翡翠」
迷いはなかった。
バサリ、と重さを感じさせる音を立てて、散乱する髪。
「後で、掃除しなきゃね」
全てが終わった後で。
ともあれ――これで準備は整った。
これまで感じたことない至福の瞬間への期待に、思わず身を震わせる。
「待ってたんだよ……ずっと。クーヤ」
透明な殻の向こうからの彼の告白を、断腸の思いで断ったその日から、大体一年。
彼とわたしを隔てるものを排除するための舞台はようやく整って、もうすぐ全ては完結する。それが彼にとっていいことなのかどうかは、価値の重さを考えることを捨ててしまったわたしにはわからないけど。
――今迎えにいくよ、クーヤ。
わたしは、ずっと待ってたんだから。
わたしが、わたしに戻る日を。
17.孔谷透
そういえば、みつきと出会ったのは、今から丁度一年前くらいのことだっけか。
どんな機会があって知り合ったかは、よく覚えていない。多分、その前から交友があった翡翠が紹介してくれたとか、そんな理由だったんだと思う。確か、俺が初めてみつきと対面したとき、彼女もそこにいた気がするから。
それにしても――今更ながら、ふと思った。
みつきは、なんでここに送られてきたんだ?
異端者を世界から隔離する、《I》 というシステム。
この国を最深部から操作しつつも、決してその正体を悟られることのない黒幕組織(組織かどうかすら不明なところが、巧妙極まりない)。
具体的な選別法はともあれ、俺が今まで《学園》で遭遇した人たちは、確かにどこかしら歪んでいた。
みつき以外は。
「訊くわけにもいかないけどさ……」
興味は尽きないけど、さすがにね……。
「で……五十瀬先輩、か」
五十瀬正義。《普通真人間》。目立った特徴のない優しい人。
ただ、彼の優しさは、それだけしかないせいで、突出しすぎてしまった。人を憎めないくらいに。
恋人を殺した殺戮鬼さえも――本当に、憎めなかったんだろう。
だから、返り討ちにあった。
……翡翠が伝えたいことも、その辺りにあるんだろうか。
《答え合わせ》。彼女はそう言った。
「全く……落ち着かないよな」
自分より自分を詳しい奴がいる、っていうのは。
彼女の答えが、俺の真実とは限らないけど。
俺が今出せる答えよりは、より正答に近いだろう。
神斜大地は、森守深澄は、いつの間にかいなくなっていた。
残された還界或華だったモノの残骸は、ひどく綺麗だった。
心臓だけを、まるで初めからなかったように抜き取られていた。惜しむらくは返り血が彼女の顔を穢してしまっていることだけど、それはこれからいくらでも改善できる失策だろう。少なくとも、あの殺戮鬼はそう考えているに違いない。
処女作を作り上げた彼には、最早歯止めなど存在しない。己が欲望のままに狩り尽くし貪り尽くし、無人の荒野でその生涯を哂い、自らを終えるだろう。僅かばかりの羨望と共に、そう思った。
そして、屋上と校舎を隔てる鉄扉に寄りかかる五十瀬正義と対面する。
――瞬間。
尋常を遥かに超えた既視感に、胃から這い出るものを抑えきれなくなる。
「な―――ハ、グ、ェ」
混乱。
意味がわからない。意味に意味を喪失する。
五十瀬正義は――腕を組み、胡坐をかいて、座り込んでいた。
あのとき、律先輩と将棋を指していたときと、全く同じ格好で。
深々と突き刺さったナイフの位置は、いうまでもなく律先輩と同じ腹部。
再現というには――余りにも同一すぎる模倣。
あたまがおかしくなりそうだ。
だって、これはあり得ない。存在してはいけない光景だ。
何故なら――――
「ッは、はぁっ、はぁっ……ふぅ……」
ここ最近見た死体の中でも、予想外だったという点で、一番の衝撃だった。体の中身が空っぽになるくらい汚物を廊下に撒き散らし、腐臭と死臭が交じり合って更なる吐き気を催してくれる。白熱した思考は思うように凍らず、納得のいく回答を求めて勝手に虚数域の海で試算を始める。
だけど――そんなことをするまでもなく。
俺は、全てを理解していた。否。理解させられていた。
考えるまでもなく、世界最悪のお人好し(スケープゴート)に。
この殺人に、計算はなく。
純粋に純一に純朴に純真に純正に純然に、感情のみに起因する行為なのだ、と。
感情は、人間の中でも最も尊ぶべき普遍で。
俺がずっと見続けていた、とある少女の原風景。
「――そういう、ことか」
唇を強く噛み、意識を覚醒させる。
俺というカタチの欠陥。それを埋める最大の鍵となる彼女は。
時間軸を一年前へ。全ての始まりと俺の終わり、その先端を回顧する。
俺の欠落とみつきという平満。遠辺みつきと遠辺翡翠、二人にして一人の点対称。殺された二人の恋人と、満たされた二人の恋人と、殺されるべき一人の恋人。無感動と有感動の境界線を分かつ引き金の解。
「……わかったよ。全部、わかった」
あるいは、今までの俺の停滞は、この答えを導き出したくなかったが故の凍結だったのかもしれない。
それでも。
気づいてしまったからには――決着は、つけなければならない。
他ならぬ彼女が、それを望んだからには。
俺が、人間になるために。
最後の殺人を、始めよう。