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第三章‡剥ぎ取られた雛の殻‡

 第三章 ‡剥ぎ取られた雛の殻‡

(⇔or bloodshed.)



      6.孔谷透


 翌日。

「んー、ねーむーい……」

「仕方ないだろ。律先輩直々に呼び出されたんだから」

 休日の朝八時ごろ。俺とみつきは、部室を訪れていた。

「律先輩、いますか?」

 軽くノックしたけれど、返事はない。少々の違和感を感じながらも、スペアキーで鍵を捻り、ドアを開けた。



     ※


 回想。

『でもさ。クーヤの理想が高いのはわかったけど。仮にそんな子が現れたとして――クーヤは、その子を好きになれるのかな?』

 翡翠は、尋ねるというよりからかうような声色で聞く。

「……そりゃあ……なれるんじゃないか?」

 まだ見たことはないからなんとも言えないけど。

『みつきちゃんは?』

「みつき? ……ああ、確かに」


 他にはないものがあること。

 受け入れる価値があること。

 受け入れてくれる余地があること。

 地球人であること。

 人殺しではないこと。

 

 確かに、彼女は――翡翠の、遠辺翡翠の双子の妹、遠辺みつきは、条件に一致する。

「……そうだな。あいつなら、好きになれるかもしれない」

『無理だよ』

 即答だった。

「またかよ。……ああ、確かに俺は、他人に対して感情が湧かないかもしれない。お前に言わせれば興味もないのかもしれない。でもそれって誰だって多かれ少なかれそういうものだろ? 今は駄目でも、時間が経てば少しずつ気持ちってヤツが芽生えてくるさ」

 多分。

『そうかもしれないけど……でも、いきなり愛情っていうのはハードルが高すぎない? 卵を割らずに中身を食べるのくらい難しいよ?』

 ……というか、不可能だろ、それ。

「……感情に、簡単も難しいもあるか」

『あるよー。人を恨んだり嫌いになるのは簡単だけど、人を好きになるのは結構難しいの』

 理由がいるからね、と付け加えた翡翠の声は、彼女らしくない淡々とした抑揚のないものだった。

『でもまずクーヤは、他人に興味を覚えるコトから始めないとだね。そうだねー……誰かに何かスゴいコトをしてもらうとかどう? なんだったらわたしが』

「遠慮しとく」

 即答だった。


     7.孔谷透


「――ハ。確かに、凄いことだけど、さ……」

 まさか、ここまでとは。

 律先輩、気合入れすぎです。

「………………」

 部室の中央。

 辻宮律は――モノになってもなお、天秤を保っていた。

 昨日と寸分変わらぬ――否、一手進んだ局面の、将棋盤を前にして。

 昨日と変わらぬ服装で、昨日と変わらぬ体勢で、昨日と変わらぬ凛然さをたたえて――しかし。

 その腹には、不似合いな銀色のナイフが。

 冗談のように。/冗談のようだ。

 まるで、一繋がりの創造品(モニュメント)。/まるで、一夜限りの悪夢(ナイトメア)

 彼女はそこにいて、/彼女はそこに亡い。

 顔色さえ変えずに、/景色さえ眺めずに、

 目を瞑っている。/死を綴っている。

「――律、せんぱい」

 閉じたドアに寄り掛かって、平衡感覚を確かめる。

 驚きはない(・・・・・)。けれど、不可視の衝撃に身体を殴られたようだった。

「律っちゃん先輩!」

 隣にいたみつきが、弾かれたように律先輩に――否、だったモノに駆け寄る。気づけば、彼女は小さな赤い池の真ん中にあった。

「くーや! 保健室長さん呼んできて!」

 みつきの叫び声が妙に遠く聞こえる。

 だから、無理だって……。

 ソレはもう、終わった後のモノだろう?

 せめて――せめて、静かにしておいてやれよ。

 もう、そっとしておいて「早く!!」

 乾いた張りのある音。

 一呼吸遅れて、焼け付くような痛みに、頬を叩かれたのだ、と気づいた。

 見れば、みつきは瞳いっぱいに涙を溜めて、体を震わせ、今にも崩れ落ちんばかりだった。

 ――それでも、まだ。

 辻宮律の生を、諦めていない顔だった。

「――悪い。行ってくる」

「うん」

 部屋を飛び出したのはいいけれど、保健室は別棟の一階だから、ここからだと大分距離がある。校内での携帯電話の使用は禁止されていないけど、俺は持っていない。まぁいざとなれば翡翠が、

「――って、そうか。翡翠、聞こえるか?」

『なーに?』

 ……やはり、聞こえていた。どうも、この校舎で――否、この学校で発生した全ての音は、彼女の聴覚から逃れられないようだった。あるいは、別棟の地下部室周辺なら大丈夫かもしれないけど……。

「……律先輩が、死……にかけてる。誰でもいいから、保健室関係の人を連れてきてくれ。あと、五十瀬先輩にも」

『死にかけてる? 死んでる、の間違いじゃなくて?』

 ……やっぱりそうか。

 彼女は、学校中に存在するあらゆる音を拾い集める。

 ならば、律先輩の心音の有無など、手に取るようにわかるのだろう。

「……それでも一応、さ。頼むよ」

『うーん、いいけど……』

「後で時間作るよ。二人きりで」

『♪』

 瞬殺だった。……現金なやつ。


 戻ると、みつきは血だまりの中でうずくまっていた。腹部から下が赤にまみれた律先輩は池から離れた床に寝かされていて、それだけなら、それだけを見れば、彼女はまだそこにいるようだった。

「……呼んだよ。そのうち来る」

「……っ、ひっく、ふぁっ、うぅうう…………!」

 赤い水面に落ちる波紋が、弔いの雨。

 胸を締め付けられる悲痛な泣き声が、鎮魂歌(レクイエム)

 震える彼女のぬくもりが――最後に感じた、人間の温かさ。

 およそこの世界にある最上級の葬送式を以て、辻宮律の死没は受理された。

「――っは……」

 不覚にも。

 感情だなんて上等なモノ、とっくにおかしくなってしまっていた筈の俺でさえも。

 この光景には――羨望を感じずにはいられなかった。

 なんて――なんて、うらやましい。

 もし俺が律先輩で、みつきが来るまで意識を保てていたなら。

 間違いなく、笑って逝けただろう。

 間違いなく、安らかに逝けただろう。

 ……帰納法にしろ演繹法にしろ、人は必ず死ぬというのなら。

 ――きっと、ヒトは死んでこそ己が人間であることを証明する。

 その幕切れを、こんな形で迎えられるなんて。

「……ありがとうございました、律先輩」

 どうか、そっちでもお元気で。

 俺も、そのうちいきますから。


     8.葉月茂花はづき もか


「……っ」

 私がその場所に着いたとき、既に全ては終わっていました。

「……どうも」

「……っひっ、ひぅっ、ぅっ……」

 一人――じゃなくて二人の前には、胸の前で両手を組んだ少女の姿があって。その顔は蒼白というよりも、あらゆる穢れが祓われた後のように、高潔に見えました。

「……失礼しますね」

 イヤな臭い――何回経験しても慣れない――のする小さな池をよけて、少女の元へ。……腹部の傷の深度を見る限り、どうしようもなく手遅れだったけど、僅かな希望に縋って、呼吸、瞳孔、発熱、動脈を淡々と調べていきます。

――でもやっぱり、少女は、もう。

「…………」

 息を呑んで私を見守る二人に、少しためらってから、無言で首を振りました。

「……そう、ですか」

 少女を運んでくれたんでしょうか、制服を血塗れにした男子の声――孔谷さんが、静かに呟いて、頭を下げました。もう一人の方は、みつきさんは何も言いませんでした。

「……ここからは、私の――私たちの管轄です。この子は、私たちが責任を持って保護します。……それで、いいですね?」

 ……言わなきゃいけないことですけど、目の前でたった今親友を――この世界では、何より大切なもの――失った彼女たちの気持ちを思うと、胸が痛みます。

 私は。こんな犠牲を出さないためにここにいる筈なのに。

 またひとつ、何もできずに大切なものを失ってしまった――。

 と、その時、

「律っ!!」

 大きな音と共に、一人の男子が現れました。このオーバーコートと斑鳩さんに似た不良っぽい目つき、でも何故か存在感のない彼は――確か、彼女の恋人さん……名前は五十瀬さん、でしたっけ。

「おい、孔谷! みつきでもいい! 教えろ、何があった!!」

 私を無視して、――他の誰も目に入らないというように、五十瀬さんは物言わぬ少女を抱き締めました。でもその抱擁は一方的なものでしかなくて、少女は力なく首を傾げました。

 それでも五十瀬さんは、少女に残っている魂をひとつ残らず慈しむように、しばらくそうしていました。……私に、二人の間を別つ権利があるわけもなく、彼がゆっくりと体を離すまで、目を伏せていました。

「……孔谷。後は頼む」

 壊れ物を扱うよりも丁寧に、五十瀬さんは少女を床に横たえ、最後に額に軽く口付けすると、すぐ後ろでその一部始終を眺めていた――呆然としているというよりは、観察していると表現した方がしっくりくる無感情の視線で――孔谷さんの肩を拳で軽く叩きました。

「先輩は?」

「当然――殺戮鬼に、復讐だ」

 ――殺戮鬼?

 それって、今巷を騒がせてる連続殺人犯のこと――?

「ちょ、ちょっと待って下さい! 事情は知りませんけど、その、復讐なんて、そんな――」「わかってますよ」

 私の言葉を穏やかに遮って、五十瀬さんは自嘲気味に苦笑しました。 

「……いや、実際はこれっぽっちもわかってないかもな。律との約束――開始一分で破るわけだし」

 ……そこにどんな葛藤と苦悩と逡巡があったんでしょうか。

 五十瀬さんは、せめて涙だけは流さないように、不自然なくらい目を細めて、笑顔でいようと努めながら。

「でも、無理みたいだ。例えどんな姿形になっても、彼女がどう思ったとしても――五十瀬正義は、辻宮律を愛してる」

 そう言ってから、五十瀬さんは場の沈黙にいたたまれないものを感じたのか、少し顔を赤らめて照れを隠すように頭を掻きました。

「……柄じゃないな、ったく。……死体は、見晴らしのいいところにお願いします。こいつ、高い所好きなんで」

「あ……は、はい」

「それじゃ」

 五十瀬さんは軽く頭を下げて、早足で部屋を去りました。

「……相変わらず、身内を疑わないんですね……」

 壁に寄りかかっていた孔谷さんが、ぽつりと呟きました。――その言葉を吟味して、私はようやくことの次第を少しだけ理解しました。

 少女――辻宮さんの死因は、多分ですけど、多量の出血によるもの。

 ナイフを腹部に刺したのが彼女自身か、それとも別の誰かかは指紋鑑定をしてみないとなんとも言えないけど、少なくとも五十瀬さんは殺戮鬼さんの仕業だと思った。……そういうことなんでしょうか。

「じゃ、後はお願いします。俺は、みつきを休ませてくるんで」

「あ、はい。保健室なら、比奈ちゃんか初音さんがいると思います」

「どうも」

 孔谷さんは、行くよみつき、と軽く声を掛けて、和室の中央で眠る少女に一瞥も一礼もせず、演劇を見終えて満足して帰る客のように、二人で退場しました。


     9.遠辺みつき


 鏡に映るわたしは、あかいあかい血に塗れて、寂しそうに笑っている。

 出血は両目から。頬を伝う生々しい赤が、まるで血でできた涙みたい。

 もうすぐ光を失うだろう瞳が捉えるのは、もうひとりのわたし。

 立ち竦むもうひとりのわたしは、何かを必死に叫んでいる。

「………! ……で! ………んで!」

 ……なんて言ってるんだろう? 耳を傾けてみると、少しだけ音が大きくなった。

「……なんで! 俺は、俺はそれでも遠辺のこと――」


「――もう遅いよ。あなたにとってのわたしは、今ここで死んだんだから」

 ああ、わかった。

 これはそう、わたしが生まれた日の――――



「――っ!」

 滅茶苦茶に抗って、無理やり夢から逃げ出した。

「……あたま、痛い……」

 この夢を見たときは、いつもこうだった。

 覚えのない記憶、感触のない映像。

 まるで、自分の中に知らない人が居座っているような気持ちの悪さに、律っちゃん先輩の綺麗な死に顔が重なって、地球がぐるぐる回って胃の中にあるものを吐き出しそうになる。

「大丈夫? ひどい顔してる」

 横からの声で、ようやくそこに人がいることに気づいた。

 意志の強さを感じさせる切れ長の眉。凛とした双眸が、どっちが病人なのかわからないくらい心配そうにわたしを見つめている。ちょっと見ただけだと肩に掛かるくらいの長さの短髪だけど、よく見ると腰の後ろから束ねられた髪がのぞいていて、相当の長髪であることが分かる。

「えっと……」

「あ、ごめんごめん。わたし、比奈。朱野原比奈あけのはら ひな。保健委員じゃないけど、葉月先輩に頼まれてお留守番中なのです」

「へ、へー、そうなんだ」

 すごく屈託のない笑顔で、比奈ちゃんは笑う。普段のわたしならすぐ仲良くなれそうだったけど、体調不良のせいか、あんまり上手に調子が合わせられなかった。

「でも、まだ横になってた方がいいよ。なんかもー……なんていうか、魂が半分抜けちゃっているみたいな顔してるもん」

「あ、ははは……」 

 ……わたし、そんなひどい顔してるのかなぁ。

 魂が抜けてるみたい、かぁ……。

「――あ」

 ――そこで、ようやく。

 律っちゃん先輩の死を、直視した。

「…………あ、は、はははは…………」 

 そっか。

 あのひとは、もう。

 いつも厳しくて時々優しかった、凛々しくて時々かわいかったあのひとは。

 もう、この比奈ちゃんみたいに、笑うことができないんだ――。

「……ごめん。ちょっと、ひとりになりたいかな」

 なるべく平気を装って、律っちゃん先輩にしかられないように、精一杯の笑顔を作って言った。

「……うん。気分が悪くなったら、言ってね」

 きっと見抜かれてるけど、比奈ちゃんは何も言わずに席を立ち、カーテンを閉めてひとりきりにしてくれた。

 ……そういえば、一人きりの寂しさを感じるのは久しぶりだ。

学校にいるときはいつもくーやが一緒だし、くーやがいないときは律っちゃん先輩やいっせー先輩が構ってくれた。だから孤独を感じることはなかったし、笑顔が絶えることもなかった。

 でも、今はひとりぼっち。

 ひとりはいやだ。ひとりになると、すぐに悲しくなって、泣きそうになる。わたしというカタチを保てなくなる。

「……くーやの、ばか」

 わたしたちは、二人で一人なのに。仮にも病人を放っておいて、一体どこに行ってるんだか。

 色んな感情がごちゃまぜになって、少しぼんやりしてきたから、涙をこぼさないように固く目を閉じて、布団を頭の上まですっかり被って、ひとまず考えるのを止めることにした。

 ……神様がいるなら。せめて今だけは優しくしてくれてもいいのに。


      ※


「犯人は誰だ?」

『殺戮鬼』

 即答だった。

 ……別に、俺の人生が誰かによって書かれた一編の小説だなんて言うつもりはないけど、万が一推理小説か何かだとすれば、台無しだと思った。

「……でも、だとしたらおかしくないか? 律先輩は女なのに」

『そう?」

 殺戮鬼は男しか狙わない。

 それはヤツがフェミニストという理由からだけではなく、単純に男の方が戦い甲斐がある人間が多いのと、

“『だってあの子、アルカちゃんにぞっこんだもん。初めての人は彼女がいいってさ。かーわーいいー』”

 過去の翡翠の話によれば、確か、彼にはお目当ての女子がいるんだったか。

「ところで、アルカさんについて、教えて欲しいんだけど」

 還界或華かえら あるか

 異端を狩ることで正常側であろうとする審判部に相対するように、

 異端を屠ることで異端中の異端であろうとする黙祷部の長。年は確か、俺より年下。識別称号、《白いあくま》。由来は、日光あるいは月光を浴びて白銀に光る、ウェーブの掛かったボリュームのある銀髪から。ちなみに、あくまがひらがななのは、命名部部長曰く「……大人の事情」だとか。

『んー……いくらわたしでも、心の中までは聴けないしなー。書類上の情報以上が欲しいんなら、伊賀奇さんに聞いたほうがいいかも』

 明らかな嘘だった。

 意識しえない生理現象は、時として本人すら把握していない自己を浮き彫りにする。

 要するに――……話すのが面倒だ、ってことらしい。

 この気分屋め。

「伊賀奇先輩、ねぇ……」

 あの、みつきがお気に入りの偏屈オヤジ、か。

 個人的には、進んで関わり合いになりたいタイプじゃないんだよね……。

 裏表のある人間は、好きでも嫌いでもないけど、少し鬱陶しい。

『それにあの人、葉月先生と、……あー、うー、その、アレな関係だから、色々聞かせてくれると思うよ』

「……なるほど」

 危うく忘れかけていたけれど――律先輩の死因は、決して事故や自然死じゃない。

 誰か、あるいは彼女自身が、俺の貴重な盟友を、いとも簡単に停止させた。

「……伊賀奇先輩は、いつものとこ?」

『うん』

「わかった。それじゃ、」

『あ、待って!』

「?」

 珍しく、翡翠が声を荒げた。

『……その前に、みつきちゃんのお見舞い、して』

「………………」

 ――ふむ。

『いいけど。……嫌いじゃなかったっけ?』

 この双子姉妹、何故かお互いに近寄らないようにしている節がある。理由は両者の性質上という意味でわからなくもないけど、何か、他にも原因があるような気もする。

『キライだよ。大っキライ』

 即答だった。

 彼女らしくなく、最も彼女らしい、純正な悪意がそこにある。

『でも、クーヤにお見舞いしてほしいの。そうしないと……あの子がここにいる意味がないから。だから、お願い』

「……?」

 彼女はそれきり、何も言わなかった。


      10.孔谷透


 少し迷った結果、翡翠の忠告通り、保健室に行くことにした。果たして、みつきは額だけを出してすやすやと寝息を立てていた。

「……この分なら、大丈夫そうだな」

 ゆっくりと立ち上がって、仕切り代わりのカーテンを閉めて、頭を切り換える。

「あ……もういいの?」

「うい。図太いヤツで助かります」

 やたら長い髪を一つに纏めた、ボーイッシュな感じの恐らく同年代の女の子が、声を掛けてきた。

 俺が答えると、女の子は何故かパチクリと目を丸くし、しばらくフリーズしていたけど、やがてポン、と大げさに手を叩いて、神妙な顔つきに変わった。みつきと似て、感情表現が著しい子なのかもしれない。

「……図太くなんかないと思う」

「え?」

 女の子は、なんとはなしに真っ直ぐ俺を見据える。

 僅かに接近する、強い意志を感じさせる琥珀がかった二つの眼球。

 まるで、心の奥底をのぞき込むように。 

 ――否。

 まるで、自分の奥底をのぞかれることが怖くないように。

 ――おいおいおい。

 おいおいおいおいおいおい。

 この子、本当に人間ですか?

「泣いてたよ」

 異星人は、自分が不当な扱いを受けたように、怒っている。

 怒っている。

 ああ。なんて、人間らしい。

 しかし、今気になるのは、それ以上に。

「みつきが?」

 あの、みつきが?

 たかだか――人間が一人、死んだくらいで?

「……悲しくないの? キミは」

「なんで?」

 思わず、語調が強くなっていた。

 そんなの。

 いつだってどこかで起こってる、当たり前の日常だろうに。

「……目、閉じて」

「うん?」

 言われた通り目を閉じ、一拍の間があって、


「――歯ァ喰いしばれクソ外道がァぁあああああああああッ!!」


 轟音。

 天井、蛍光灯が目の前に。ロケットのように頭が先端、回って回って口から鼻血。

 訳もわからず暗転する意識の底で、ぼんやりと思った。

 ――すいません。ここ、保健室DEATHよね?


「…………はっ!」

 目が覚めた。

 ということはつまり、先程まで睡眠ないし意識を失っていたんだろう。

「オ、オハヨウゴザイマス……」

「お……」

 見覚えのある長い長い髪の女の子が、ぎこちなく話しかけてきた。

 ……はて。何か、彼女を見ていると激しく逃げ出したい衝動に駆られるんだけど。

「で、でもよかったー……顔に傷とか残らなくて」

「顔に……?」

 というか、そもそもなんで俺はベッドの上にいるんだ?

「なぁ、聞きたいんだけど……」

「ナ、ナンデスカ?」

「なんで俺の腕、動かないのかな?」

 さっきから試しているんだけど、右腕が棒切れのように動きません。

「え」

 女の子は、慌てて俺の右腕をつかむと軽く叩い「痛っ! ちょ、本気マジ痛いからっ」

 おお、我ながら珍しく狼狽ろうばいしている。さすがの俺でも、生命の危機に瀕しているときぐらいは人間らしくなるものらしい。

「ごごご、ごめんなさいっ!」

「謝るくらいなら叩かないでよ……」

「そ、それもそうだけど、えーっと、つまり、……」

 顔を俯けて、彼女らしくもなく――というほど知り合った仲じゃないけど――口ごもる女の子(というか、まだ名前聞いてなかったな……)。

「ところで名前何?」

「ふえっ!?」

 何か言おうとしていたのか、不意を突かれたらしく女の子は奇妙な声を上げて狼狽してから、火照る顔を冷ますように手をパタパタさせた。

「あ――そっか。そうだよね。改めてこんにちは、わたし、比奈。朱野原比奈」

「ふーん。俺、孔谷透」

「うん。葉月先輩から聞いてる」

「…………」

 多分、みつき→伊賀奇先輩→葉月先生→朱野原のルートを辿ったんだろう。俺はそこまで有名人じゃないし。

 って、そうだ。みつきの見舞いも済んだし、気は進まないけど、伊賀奇先輩に会って、事件に関する情報を集めないと。

 せっかくの一大事件だしな。

 僅かに芽生えた興奮がせない内に、情報を集めないと。

「介抱ありがとな。俺、もう行くわ」

「え? ちょ、ちょっとちょっと……」

 清潔なベッドのすぐ横に綺麗に並べられていた上履きを履いて、左腕に力を込めて立ち上がる。……よし。片腕だけでも、右腕はスタンガンを浴びているような激痛が走るくらいで、それほど支障はないな。そういえば、大分昔に素手でガラス割ったときの傷は、まだ跡は残っているものの、一応塞がってるみたいだった。まぁ、そんなもんだよな。

「待ってってば! せめて固定しないと悪化しちゃうよ!」

「……別に、」

「いいから座る!」

 いささか乱暴に両肩を抑えられて、しぶしぶ回転式の椅子に座る。衝撃が右肩から腕まで伝わってきて、軽くブラックアウト寸前だった。

「……確かに悪化するな」

 このままもめてると。

「もぉ……他人だけじゃなくて、自分にも興味ないんだね、キミ」

 朱野原は、手際よく右腕を吊ってくれる。意味もなく、将来はいいお嫁さんになりそうだ、と思った。もっとも、この世界に外の法律や道徳なんてものは干渉し得ないので、将来と言わず今この場で結婚を申し込む手もある。でもまぁ、……律先輩と比べると、スタイルがなぁ。

「……何?」

 怪しい視線に気づいたのか、不思議そうに眉を潜める朱野原。どうしてなかなか、カンも鋭いらしい。

「いやいやいや。むしろ逆」

 身の危険を感じて、話を戻すことにした。

「逆?」

 感情はないけど、興味はありありなんですよ。

「例えば、そうだな……朱野原に彼氏がいるかとか、すごい気になる」

「カ――い、いないよ、そんな人……(ボソボソ)伊賀奇先輩には、葉月先輩がいるし……」

「じゃ、付き合わない?」

「付き――?」

 包帯を巻く手を止めて、三秒ほど言葉の意味を頭の中で消化しているように硬直してから頷いて、

「――ごめんなさい。わたし、好きな人がいるから」

 朱野原比奈は。

 俺の適当極まりない告白に、真剣を以って答えた。

「バッサリー」

 空いた左手で額を押さえ、天井を仰ぐ。

 なんてこった。

 マジ、好きになりそう。

「……はい。できたよ」

「さんきゅー」

 処置の終わりを宣言したものの、朱野原は、恥ずかしさが残っているのか、目を合わせてくれない。仕方ないので下から覗き込んでみたものの、右から見れば左に、左から見れば右に顔を逸らされてしまい、ひどく楽しかった。

 おお。楽しいなんて言葉が、上っ面だけでもこんなに自然に出るとは。

 やっぱり、惜しいなぁ……。

「どうしてもダメ?」

「……うん。ダメ」

「土下座しても?」

「うん……」

「結婚からでいいから」

「ハードル上がってるよ……」

「じゃ、友達から」

「それなら……うん、いいよ」

「よろしく、比奈」

「ひ――ひな?」

「友達なんだし、呼び捨てくらいは」

「……そうだね。よろしく、透」

「わお」

 素敵な笑顔だった。

 俺の強引な誘いに一向に気分を害した風もなく。

 新しい友達ができたことへの喜びと、少々の照れを絶妙に混じり合わせて。

 俺には一生体現出来そうにない、素敵な笑顔だった。


「保健室、レベル高いよな……」

 元祖大和撫子な葉月先生といい、猫々ナースな初音ちゃんといい、新発見、人間値測定不能な比奈といい。

 みつきのお見舞い、ある意味大正解だったな。不謹慎だけど。

「後で識別称号聞いとかないと……」

 彼女をより深く理解するために、あの囲いたがり羊飼いに。

 それはさておき、現在地、新聞部室前。

 部屋の主は、識別称号《道化(クラウン)》、あるいは《詭弁王(フェイクオール)》。

 命名部長の語彙力を以ってしても、一語では捉え切れなかった異色人間。

「すいませーん。伊賀奇先輩、いらっしゃいますー?」

 長短強弱を付けた何度かのノック。

 意味もなく、モールス信号でSOSを発信。

「へぇ、君にしてはなかなかウィットに富んだ挨拶じゃあないか。いいよ、入りたまえ」

「……どうも」

 やっぱり、衰えることなく、最速思考の持ち主だった。


 相変わらず面白い声帯だね、というよくわからない歓迎の言葉を無視して、俺は事件のあらましを伊賀奇先輩に話した。

「で? 何から聞きたい?」

「じゃ、まずは犯人から」

 この人相手に駆け引きは不可能。何を聞きたいか、ではなく、何から聞きたいか、と尋ねる彼は、間違いなく俺の質問を全て先読みしている。あるいはそう思わせることが彼の手なのかもしれないけど、生憎俺はその手の心理戦は面倒だから、開始一秒で白旗を揚げた。

 果たして、伊賀奇先輩はあからさまに失望した風に悲しそうな顔になった。

「おやおや……つれないね。久しぶりに《会話》ができると思ったのに」

 そりゃあ、あなたにとっちゃ普段の会話なんて予定調和に過ぎないんでしょうけど。

 そんな退屈な能力。こっちは、羨ましくともなんともないんですよ。

「……何か言いたそうな顔をしているね」

「別に。ただ、世の中ギブアンドテイクですよね」

「へぇ? じゃあ、僕が情報を提供してあげる代わりに、君は僕に等価分の何かをくれるっていうのかい?」

「《猫屋》のクレープ爆弾を二つ。バルサミコス味で」

「――OK。なんなりと聞いてくれたまえ」

 効果は抜群だった。ちなみに《猫屋》は頭に二匹の白猫と黒猫を載せて調理を行うという、衛生上とても問題ありげなクレープ屋だ。付け加えるならば、あの店の商品は主に食用ではなく戦闘(投擲)用に使用されることが普通で、あの斬新かつ新鮮な味に自我を崩壊されずにいられるのは、世界広しと言えど無類の甘味好きなこの人くらい――あるいは調理者本人だけだろう。もっとも、あの味を甘いと評するには相当な覚悟とライフポイントを必要とするだろうけど。

「しかし、犯人、犯人ねぇ……初手としては無粋極まりない質問だと思わないかい? 初手で地球は丸い説を使って玉で王を取るぐらい無粋だよ」

「例えがコアっていうかマニアックですね……いいじゃないですか、お互いの合意があれば」

「まぁいいんだけどね……ここでアッサリ解答を出してしまうと僕の出番がなくなってしまうから、茂花君がくれた簡単な情報から説明しよう」

 チッ…………長くなりそうだな。

「何か言ったかい?」

「いえ別に?」

「ふぅん」

 ぬぅん。


 伊賀奇先輩の婉曲かつ抽象的な説明を要約すると、以下の通り。

 律先輩の死亡推定時刻は、俺とみつきが死体を発見したのと同じ日の午前7時頃。死因はナイフに刺された部位からの出血多量。俺たちが現場を去った後、さすがは元新聞部副部長の葉月先生、唯一の出入り口であるドアを始め、外部とあの部屋とを繋ぐ全ての怪しい箇所をチェックしたそうだが、ドア以外は完全に施錠されていたらしい。俺は、スペアキーを使って鍵を開けて入室した訳だから、つまり――

「――密室殺人事件、ですか」

「分類するならね」

 全く……このご時世にしては、オーソドックス過ぎる響きだ。

 午前七時とは、生徒が学校に入れるようになる時間だ。時間に厳格な律先輩は恐らく一番にあの部室を訪れ――

「君の――正確には翡翠君の通報を受けて茂花君が到着したのが八時半。つまり犯人は、君たちが部室を訪れるさらに前に部室に踏み入り、辻宮律を殺害した。そういうことだと思うかい?」

「ですかね……」

 含みのある問いに、適当に相槌を打った。

「というか個人的には、そんなチャチな密室よりも現場に置いてあった将棋の方が気になるんだけどね。君、再現できるかい?」

「はぁ……できますけど」

 そんなことよりって、律先輩じゃないんだから……。

 俺の複雑な心境をよそに、そりゃ結構、と伊賀奇先輩は上機嫌そうに机の中から初期配置に並べられたマグネット将棋を取り出し、俺に渡した。

「……用意いいですね」

「何、どちらにせよ一局ご指導願うつもりだったし、ね」

 先輩の方が強いですけどね……。

「えーっと、ここがこうなって、この角が成ってて……」

 記憶を掘り起こし、律先輩最後の対局、その圧勝図を再現する。

「おや、初手からは並べてくれないのかい?」

「最初から見てたわけじゃないんで」

 やがて、局面は接戦――どころか一方的な侵略による略奪を繰り返して終盤戦へ。五十瀬先輩の陣は完全に崩壊し、対する律先輩の陣は傷一つ……否、たった一つの歩に入り込まれているけれど、それ以外は理想形の布陣だ。

「へぇ……これはまた、なかなか楽しい展開じゃあないか。次はこっちの、瀕死君側の番だろう?」

「はい」

 さすが――一目でわかるか。

「律先輩が死んだ前の日の時点での彼女と五十瀬先輩との対局は、ここまでです。で、当日は一手だけ進んでました」

「ふぅん」

 造作もなく、白磁のような繊細で長細い指が孤立する歩を掴み、パチリ、と一歩進んで歩と成った。

 ――その手こそが。この圧倒的な劣勢を覆す、唯一無二の鬼手だった。

「――正解です。さすがですね」

「そりゃ、これしかないからね」

 攻めっ気のある指し手なら誰でもわかる、と当然のように伊賀奇先輩。そういえば……五十瀬先輩だって弱くないのに、こんなにも一方的に負けているのは、あるいは、律先輩との対局を長く楽しみたいという気持ちの表れだったのかもしれない。

 でも彼女はもういない。

 彼女は、辻宮律は、二度とこちらに干渉できないどこかへと昇華された。

「また一人、惜しい指し手を失ったね」

 彼女の死ではなく、自分の楽しみが減ったことをのみ嘆く伊賀奇先輩。

「そうですね」

 適当に相槌を打って、薄暗い部室の奥を注視する。さっき気が付いたんだけど――先輩の後方に、何かがいるような気配がする、ような……?

「ところで孔谷君、君はこれからどうするつもりなのかな?」

「……答えてくれそうにないので、自力で収拾をつけます。差し当たっては――」

 殺戮鬼VS正義の味方、その顛末を見届けないと。

「助ける気はないんだろう?」

「――それが何か?」

 鋭い指摘だった。声に出してもいないのに、的確にこちらの思惑を読んでくる。

 しかしまぁ、その通り。

 どちらが勝つかに興味はあるものの――その結果、どちらかがどうにかなってしまうことについて、感想はない(・・・・・)

「いや、別に。ただこのままじゃあ、ちょっと戦力差がありすぎるんじゃないか、と思ってさ」

 それは確かに。

 前回の勝負は、先の将棋同様、試合とさえ呼べないお粗末なものだった。

 しかも今回の土俵は殺し合い。どれだけ怒りに我を忘れたところで、あの人を嫌いになれない正義の味方に、人は殺せない。

 ――否。既に死んだモノでさえ、殺せやしない。

 だからこそ、その突出した優しさが、彼をここに呼んだんだから。

「とは言っても、俺や伊賀奇先輩が手伝っても役に立たないんじゃ?」

 むしろ邪魔?

「いや、君がピンチになったらみつき――いや、今は翡翠君(・・・・・)だったっけ?彼女が助けてくれるからね。それはそれでアリじゃないかい?」

「そんなことしたら、学園崩壊レベルの争いになっちゃいますって」

 嘘か真か、翡翠の後ろには生徒会執行部の誰かの影がちらほらあるとかないとか。

 まぁもっとも、もう崩壊してる感は否めないけど。

「そこで、だ。切り札として、彼女を貸してあげよう」

 すぃ、といつ動作したかわからない洗練された流れで、伊賀奇先輩は席を立つ。

 その後ろには。


「――――…………にゃあ」


 見覚えのある、装飾に乏しい漆黒の聖服。

 どうして今までこんな輝きに気づかなかったのか――限りなく銀色に近い白髪は、光一筋と差さないこの場所にあってもなお、静謐な光沢を帯びて。

 腰を浮かせた正座のような姿勢で床に座り込み、恨めしげにこちらを上目遣いに見上げる三白眼は、強い意志を秘めた猫じみた黄金色。

 還界或華かえら あるか

 識別称号《白いあくま》。朽木先輩の後を継いで黙祷部長を担う強者。

そこまでは、俺の情報と一致する。

 ただ、特筆すべきは。

 ただ、注目すべきは。

「……え、そういう趣味?」

「あっはっは。いや、どちらかといえば僕の趣味さ」

 そのボリュームのある髪の上に、不似合いな――否、異常なほどしっくりくる謎アイテムが。

「茶色か黒か迷ったけれど。やっぱり、或華君は白と黒だよね」

 黒を基調とした、三角のカマボコを二つ付けたカチューシャ――まぁ、俗にいう猫耳が、しっかりと載せられていた。

 …………。

 ………………。

 ………………………………。

 ……いや、アリだけどさ。

 うん。

 OK。

「ええと……」

 いまいち事態がつかめないので、伊賀奇先輩に視線で助けを求める。

「仔細の説明は面倒だから割愛するけれど、彼女にはいくつか借りがあってね。そうだな――君の中で事件が解決するまで、彼女を好きに使っていいよ。少年誌に掲載できる範囲なら」

「な――ちょ、ちょっと待ちなさいっ!」

 反論の声を上げたのは、くだんの還界(確か同年代だったので呼び捨てることにする)。やってられないとばかりに猫耳に手をかけ、

「三十三対十七」

 伊賀奇先輩が、何かの結果を呟いた。

「――私を存分に行使しなさい、孔谷。最大限の結果で応えてあげるわ」

 見事な豹変だった。

 ……まぁ、何はともあれ頼もしい援軍を得た。機械装甲+ロケットパンチ装備の熊を素手で倒せる彼女なら、あの殺戮鬼相手でも引けを取らないに違いない。

「えーっと、還界?」

「或華さんでいいわ。呼び捨てされるの、嫌いなのよ」

「……或華さん?」

「何?」

 妥協しているような軽視されているような、微妙な譲歩だった。面倒なので、内心ではそのまま還界で通すことにする。

「じゃ、行こうか。神斜がどこにいるかわかる?」

「ええ。大方の予想はつくわ」

「そりゃ結構。それじゃ先輩、不幸があればまた」

「最後に一つ」

 とても自然な呼び止めで、危うく部屋を去りかけた。

「何ですか?」

 振り返った先、いつの間に用意したのか、最初から置かれていたのか、冷めたココアをひとすすりした伊賀奇先輩は、俺のほうを見ようともせずに、


「――月まで行けば、君の身の丈は変わるのかい?」


 五十瀬先輩が逆転しかけた局面に、とどめを指す至高の一手を放ち。

 なんでもないことのように、誰かに対して呟いた。


 即座に翡翠のところへ向かいたいところだったけど、雨が降ってきたので遠足は中止になった。理由は簡単、雨の日の彼女はひどく機嫌が悪いからだ。しかし恐らく神斜は近いうちに彼女に接触するだろうから、少なくとも明日の午後までは捕まらないように、そして、少なくとも明日の午後までは、神斜と五十瀬先輩が衝突しないよう情報を操作してくれるよう翡翠に頼んで、みつきを連れて学校を後にした。

 理由は簡単。

 俺が(・・)そんな面白(・・・・・)そうな事態(・・・・・)の顛末を(・・・・)見届けられないから(・・・・・・・・・)


 天をうっすらと覆う切れ目のない雲から、断続的にこぼれ落ちる透明色。

 ぱたぱたと乾いた地面を潤す音の連なりに、しかし俺はなんの感慨も湧かず、みつきにとってはこれは音楽だ。

「いい天気だね」

 雨だけど、とみつきは笑む。彼女にとって悪い天気とは雷鳴の聞こえる天気のことで、俺にとっていい天気とは心が動かされそうになるほど極端な天気を指す。

「そうだね」

 ズレているといえば――普遍の塊であるみつきでさえも、だからこそ、ズレているのだろう。

 あれだけ泣いていたみつきは、今はもうすっかり立ち直っているように見える。でも恐らく、まだ律先輩の死を引きずっているだろう。一般人が肉親を失ったくらいには、喪失感に囚われているに違いない。他人を心から家族同然に思えるその姿もまた、最も人間なみつきらしいものだった。

 ともあれ。

 一つの傘に寄り添う俺たちは、二人で一人。これまでは、俺が一方的に付きまとっているだけで、みつきは一人でも生きていける。そう思っていたけど。今日のことから――主に比奈の発言から――考えるに、案外、彼女はもろい存在なのだ、と知った。

 車の通ることの方が珍しい横断歩道で、俺たちは意味もなく信号待ちする。みつきは目を瞑り、俺にとっては雑音でしかない雨音に耳を澄ましている。寒さにかじかんだ唇が奏でるリズムは、滑らかに空に舞い上がり、誰かの耳元に届くだろう。

 注意して聴いていなければ掻き消されてしまうほどのか細い旋律に耳を傾けながら、濡れて光沢を帯びたアスファルトに生まれた水たまりを見つめる。

 想起するのは、律先輩だったモノが作った生の沼、あるいは死の池。

 その中に沈んでも尚、終点に埋没しても尚、彼女に一点の穢れもなく。

 だとしても、彼女さえ完璧な人間にはほど遠い。 

 高潔ではあったけど。

「……俺が言える立場じゃないけどさ」

 人間の域にさえ達していない俺には。

 あるいは、人間という枠組みから逸脱してしまった俺には。

と。

「あ……猫」

 信号はまだ赤だったけれど、みつきは不意に走り出す。彼女が向かった先に目を凝らすと、狭い路地の間に一匹の猫が倒れていた。

 降り注ぐ雨は、当然のように彼女を避ける(・・・・・・)

 みつきは、泥にまみれて動かない迷い猫を、ためらいもなく胸に抱いた。

「…………」

 外から迷い込んだ、というのはありえない。恐らく、《猫屋》――飲食物を取り扱う店でありながら猫のたまり場と化している、衛生環境が気になるクレープ屋――の一匹だろう。あの店が儲かっているかは微妙だし、食べ残しのゴミを漁ろうにも絶対的に人口が少ないこの世界では難しかったんだろう。

 路地裏でひっそりと生涯を終えた薄汚い猫。否、だったモノ。

 それは、一度世界から拒絶された俺たちの未来に似て。

 だからこそ俺は、みつきと同じようにその猫を見て、やはり何一つ、感じなかった。

「……ごめんね」

 誰に向けた謝罪か、みつきはそう呟くと、猫の死骸を雨の当たらない場所にそっと横たえ、最後に頭を撫でた。

 その背中には、潰えた生に対する未練も憐憫も羨望もなく。

 ただ、全てを許容するような、包み込むような、慈愛と呼ぶには人間すぎる優しさがあった。

 願わくば――俺が最後に見る光景に、このみつきのゆるしがあればいい。

 柄にもなくそんな感傷に浸るような気分を偽装し、晴れることのない空と向き合い、苦笑を作った。


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