第一章‡箱庭には二匹の小鳥‡
第一章 ‡箱庭には二匹の小鳥‡
(⇔One funny day)
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孤独と書いてヒトと読み、
一人と書いてゼロと読む。
――これは、俺がヒトになるまでの初めの一歩。
1.孔谷透
色褪せた記憶を手繰り寄せ、最古の足跡を思い出す。
到達したのは、世界の天辺。小さなこの手を伸ばせば、きっと太陽に灼かれるだろう。
目の前には、一人の少女。逆光で表情がうまく読み取れない。怒っているようにも、悲しんでいるようにも、あるいは、喜んでいるようにも、見える。
俺の問いに対し、少女は全く予想外の返答を寄越した。それこそ、天地が逆転したような、信じていたもの全てが嘘だったような、世界が初めから反転していたとでも告げるような、物語が終わりから始まるような、明確な拒絶だった。
呆然と立ち竦む俺に、少女は握手を求めるように手を差し伸べた。その二指は、世界を潰した証として、茜色の黄昏よりなお赤い血糊に濡れている。
風は吹けども無音の世界の中、不意に、彼女の唇が形を変える。
無造作に作られた、この世全ての価値を重ねても到底届かない美しさ。
そして彼女は。
二度と忘れようのない一節の旋律を、穏やかに紡いだ――
「……くーや、どうしたの?」
気づけば、少女の顔が頭上にあった。
「別に、何も」
思考を中断して、現実感を取り戻す。丁度一段落ついたところだったから、腹立たしさは感じなかった。
固くなった首をほぐす。一面に広がる、所々に綿飴を乗せた群青の壁。眩しくて直視できない太陽は、しかし少女――遠辺みつき(とおのべ みつき)の背を擦り抜けて、目覚めを促すべく陽光を放出してくる。
「みつきこそ。今、授業中だろ?」
何故ここがわかったんだ、とは聞かない。屋上に上ってすぐの梯子の先にあるここは、屋上の真ん中に聳え立つ、後から取って付けたような時計塔が日光を遮ってくれるお陰で快適に睡眠を取れる、俺の特等席だから(生憎、今は角度が悪いみたいだけど)。本当に見つかりたくないときは、他の場所を選ぶ。
「もうお昼休みだよ。今日は久しぶりの部活だから、くーやがいないと寂しいな」
……俺がサボるのを見越して、釘を刺しにきたらしい。いい判断だ。
「別に、俺がいなくても問題ないだろ?」
「うん」
……あっさりと即答された。少しげんなりする。みつきは、俺の心中を知ってか知らずか、無邪気な笑顔になる。
「でも、いないとわたしが寂しいよ」
「……大丈夫。行くよ」
何を言う気も失せてしまった。
不定期に開かれる、部活とは名ばかりで、実質的な活動は皆無に等しいただの集会。
だけど、いつも通り活動内容が陳腐なものであっても、あそこにいるメンバーはあらゆる意味で――例えば、俺の推測の範疇を越えた行動を取ってくれる点――貴重なので、部長風に言えば、価値はそれほど下がらない。問題なのは、あくまで刺激値。
俺が乗り気でないのを悟ったのか、みつきは耳元に顔を寄せて、囁いた。
「ちょっと大きな話題だってさ」
へぇ。
それは、また。
その情報のせいか、はたまた悪戯っぽいみつきの表情のせいか、心拍数が少しだけ早くなった。
「放課後また会おう、みつき」
……別に動揺を隠すためではないけれど、みつきから体ごと顔を背けて、俺は再び眠りについた。
《学園》。
この学園は、外部の人間にはただそう呼ばれる。その存在意義が他のものとは全く異なるので、特別な名称を付ける必要がないからだ。
広大な敷地、最新鋭の設備、破綻した規律、和気藹々とした空気。
そういった点から評価するならば、俺たち世界から外された逸脱者たちにとって、ここは正に理想郷だろう。
しかし。
俺からすれば――そしてあるいは他の少数の《生徒》にとっても――、ここもまた緩慢な地獄以外の何物でもない。
「――救われないな」
誰に言うでもなく呟いた。
特に意味はなかったので、当然、何の感慨も湧かなかった。代わりに、言葉を後追いした思考が、救われない人間がいるとすれば、希望のない人間がいるとすれば、それは間違いなくお前だろう、と冷徹に断言した。
時計塔に住む、大嫌いな少女が言うように。
「希望、ね……」
改めて考えるまでもなく、俺に一番相応しくない言葉だ。
始まりがあるから終わりがある。仮定が条件が定理があるから結論を導ける。
――ならば。
そもそも何も発生させることのできない俺に、結果なんてありはしない。
人気のない、長い廊下を闊歩する。窓の外では、野球やらサッカーやら、名前も知らない同胞たちが高校生らしい青春真っ盛りな部活動に勤しんでいた。自我を保つための上辺だけの馴れ合いとはいえ、笑い合い励まし合う彼らの姿はとても人間らしくて、羨ましい。
ふと気づくと、窓に映る薄い自分とぼんやり見つめ合っていた。衝動的に拳を突き出し、鼻っ面を貫く。
高く澄んだ音がして、俺が割れた。
「もー、駄目だよくーや!」
少し声を荒げて、一緒に歩いていたみつきがぺちり、と俺の額を叩く。全く痛くなかったけど、心が少し晴れた、気がした。
「つい」
自分を壊してみれば、何か感じるかと思って。
結果はいつも通り。冷たい沈黙が、目の前を通り過ぎる感じ。
痛覚はある。けれど、それに伴う一切の感情が、浮かんでこなかった。
「清掃部の人呼んでこなきゃ……くーやも来るんだよ?」
「俺も?」
意外だ。
「当たり前でしょ! 何を始めてもいいけど、後始末はしなきゃいけないの!」
当然だ、と彼女は言った。
なら、それが当然であってほしい、と思った。
「……わかった。みつきがそういうなら、そうする」
何も始まらない俺は、熱を感じる赤い右手を軽く振って、廊下にぽたぽたと痕跡を残しながら行き先を変更した。
処理を済ませて、本来の目的地へ。
和に統一された部室の中央には、針金細工の聖像があった。
その性質上耐久性に乏しく、しかし設計が余りにも完璧なのと、整備士が余りにも熱心なせいで、いつまで経っても解れることのない完成品。無駄な意匠を一切省いた機能美には、感嘆の念を抱かずにはいられない。
もっとも――そんな感傷すらも、俺には無縁なんだけど。
「辻宮先輩。ご無沙汰です」
古式ゆかしい和室の中心に正座するソレは、女性だった。作品名を辻宮律。着用する義務のない制服を文句の付けようがないくらい完璧に着こなしている。短く切り揃えられた流麗な曲線を描く髪は、人間的な温かさよりむしろ機械的な無機質さを伝えてくる。瞳孔は角膜の色と同化し、どこに焦点を合わせているのかを判然としない。まるで、彼女がただ観測し、計測し、裁定するだけのモノであることを象徴するようだった。
畳の上に凛、と正座するその姿は、初見から今まで、彼女というカタチが揺るがずにいることの何よりの証明だった。まるで――彼女だけが、時間の枠組みから外れているような。否、というよりは意識的に逆らっている、と言ったほうが近いだろうか。
故に、識別称号を《逆行天秤処女》。
何人たりとも侵すこと叶わぬ、人智未踏の絶対空域。
……まぁ。最近は少し、彼女とは別の意味であんまりにも真っ直ぐな人間のせいで、少しずつながら人間味を帯びつつあるんだけど。
もったいない。
「――孔谷ですか?」
こちらを一瞥し、当然のことを辻宮先輩は尋ねる。
「はい」
「二分の遅刻です」
唇だけを動かし、不満ではなく、事実だけを口にする。彼女の中では、俺に対する怒りではなく、俺の価値を下方修正する作業が行われているだろう。これ以上株を下げると、ただの紙切れと同等に扱われかねない。
「すいません。道端に落ちてたおばあちゃんを拾ってました」
駄目元で自己弁護開始。案外、この人にはこの手の嘘が通用しやすい。確率的にどれだけ絶望な主張であれ、とりあえずは事実かどうか真面目に検討してくれるからだ。
「…………その人の素性は?」
「聞いてません。助けるので精一杯でした」
「あなたがその人を発見したとき、その人はどのような事態に陥っていたのですか?」
「口からタコスが溢れてました。購買の」
「……どう対処しましたか?」
「代わりに食べました」
「…………どうなりました?」
「ハチミツレモンの味がしました」
「……その人は助かりましたか?」
「はい。お礼に本場スペイン仕込みのフラメンコを披露してくれました」
「……証言に矛盾はありませんね」
マジですか。
「……あなたの言葉が本当か嘘か判断するには、情報量が不足していますので、今回は不問とします。今後は特別な事情がない限り、遅刻は控えるように」
「どうも」
助かった。
さすが、学園一嘘を見破れない女。
あるいは、興味がないのかもしれない。彼女にとっては、俺が遅刻したという、その結果が全てだから。
「みつきさんは?」
「さぁ。俺は知りませんけど」
「そうですか」
上履きを脱いで、畳に足を踏み入れる。辻宮先輩の横顔が向かう先には、安物の将棋盤が置かれていて、ついでに、存在感を感じさせない対戦相手がいた。
「あ、五十瀬先輩」
「……存在感が無くて悪かったな」
五十瀬正義先輩は、いたく傷ついていた。案外ナイーブな性格らしい。どうでもいいけど。
まず目をひくのは、光沢を放つオールバックの髪型。切れ長の眉と横幅のある鋭い双眸は、意図しなくとも相手を威圧する。彼が愛用する厚みのあるオーバージャケットは、部屋の隅で衣紋掛に掛かっていた。彼自身自分の影の薄さを自覚しているらしく、せめて外見だけは最大限派手になるよう苦心しているのが切実に伝わってくるけれど、残念ながらまだ工夫が足りないようだった。
さすが、《空気真人間》。
と、辻宮先輩の細指が盤外の駒を捕らえ、二本の指の背と腹で器用に挟み込み、鋭い音を立てて盤上に打ち込んだ。五十瀬先輩の顔がさらに渋くなる。
「……現状、私の相手になるのはあなたか伊賀奇創兵くらいのもので、本音を言えば少し、食傷気味です」
局面は、彼女の素朴で辛辣な事実に裏づけられるように、壊滅的だった。
五十瀬先輩の陣形は原型を留めぬほど崩され、守られるべき王は丸裸で敵陣の真っ只中。一方、辻宮先輩の王は臣下により磐石に守られ、戦場を遠巻きにして余裕綽々といった感じだ。
要するに、格が違う。
一手一手の価値の高さを競うゲームで、彼女に勝つのは困難を極める。
ふむ……でも、ここでこうすればなんとかなる、か……?
気づきにくいけれど、逆転の兆しを窺わせる手が、なくもなかった。
「……投了を薦めます」
しかし、今の一手により、もはや形勢は覆らないと確信したのか、純粋に時間削減のため、軍門に下ることを進言する律先輩。五十瀬先輩も異論はないようで、
「……律。今日はここまでにしよう」
投了ではなく、一時休戦を申し入れた。
「……それは投了ですか?」
表情を曇らせる辻宮先輩。相手の不甲斐無さよりはむしろ、曖昧な態度を不快に感じたらしい。
「……そんなことより、例の件のが大事だろ。何せ、人命に関わる問題なんだからな」
言い訳がましいことこの上ないけれど、後半の穏やかではない台詞に気を取られる。――人命だって?
しかし、我が敬愛する厳格な裁判長は、
「そんなことより、既に決している勝敗を先延ばしにするのは納得いきません!」
遠い誰かの人命よりも、近い勝負の決着を上位と判断した。
「……おいおい」
人間大好き五十瀬先輩、さすがに呆れ気味。どうでもいいけど、この二人の恋人関係が何故一年も続いているのか甚だ疑問だ。裁定と博愛じゃ、根本的に価値観が合わないだろうに。
「大体正義、あなたは何故性懲りもなく私に勝負を挑んでくるんですか!? 鍛錬を積んできたならまだしも、現段階のあなたと私では万に一つの勝算もないことは明らかです!」
「いや……律にだって間違いはあるだろ。なら、根気よくやればきっと勝機はある」
「間違える!? それは私の実力を信じていないということですか! 第一、敵に同じレベルまで落ちてきてもらおうという魂胆が気に食いません! 男なら私の場所まで登ってくるくらいの漢気を見せなさい!」
おお、珍しい。クールビューティーが顔を真っ赤にして怒ってらっしゃる。
対して、五十瀬先輩は悪い点を取った答案について母親に言い訳する子供のように口を尖らせ、
「なんというか……ぶっちゃけるとだな、別に、勝たなくてもいいんだ」
「――は?」
絶句する辻宮先輩。
「……勝負してるときの律が、一番好きなんだ」
脈絡もなく。
とんでもなく真顔で、五十瀬先輩は呟いた。
「な――――」
スイッチ点火三秒前。
その言葉を理解するのに、たっぷり三秒の時間を掛けて、
「――あ、あなたは一体何様のつもりですかーーっ!!」
辻宮先輩は、一種の錯乱状態に陥った。案外不意打ちに弱いんだよな、この人……。
と、先輩は征服の袖口から折り畳み式の銀杖を取り出し、顔を真っ赤に染め、本気で己が恋人に向けて振り下ろした。
「おっと」
五十瀬先輩は、何事もないかのように軽く回避。杖の勢いは止まらず、将棋盤どころかそれを乗せる机までもたやすく貫いた。今時こんな純情な人も珍しいけど、被害総額は現在6ケタに届くか届かないかといったところだ。部費にだって限りがあるので、自重してください部長。
……仕方ない。嵐が去るまで、後輩らしくお茶でも用意していよう。
「こんにちわー。ってあれ、どうしたの?」
タイミングよく、みつきが帰ってきた。
「ま、いつも通りさ」
肩を竦めて答えてから、お茶の準備を再開すると、みつきは二人のリアル鬼ごっこを眺めて「ふーん」とあうんの呼吸で状況を理解し、俺の作業を手伝ってくれた。
のんびりと雑用する俺たちを尻目に、不毛な争い――というか一方的な攻撃――は続く。
「不純です! 不潔です! 不謹慎ですーーっ!」
「お、俺は本当のことを言っただけだ! というかそれは洒落にならないからしまえって!」
まさに痴話喧嘩、ただし危険度は紐なしバンジ―ジャンプといい勝負。
本当に、綱渡りのような関係の二人だった。
台風は無事通過しました。
「……コホン。孔谷。最近の新聞は見ていますか?」
咳払いを一つ、冷静さを取り戻した辻宮先輩は洗練された手つきでお茶をひとすすりしてから、うって変わって真剣な面持ちで俺たちを見据える。取り繕え切れていないのはご愛嬌といったところか。五十瀬先輩のせい……もといおかげで、彼女という天秤は少しずつ人間味を帯びつつある。それが俺にとっていい傾向なのかどうかは、言うまでもない。
閑話休題。
「ええ、まあ」
適度な刺激は日々の糧。新聞部が運んでくるニュースは、それなりに暇潰しになる。もっとも、内容がこの学園で起きた事件なのだから、そこいらのものよりは面白いに決まってるんだけど。
「それじゃあ、その中で一番興味を惹かれたのは?」
「《白いあくまVSクマくん三号改》」
黙祷部期待の新人が、とうとう熊殺しの称号を得た伝説の一戦だ。
「……どうも、あなたの価値観は理解できません」
「はぁ」
そんなこと言われても。
「今日の一面にもなってたろう。《殺戮鬼再び現る、被害これで五人目》と」
「あぁ……ありましたね、そんな話も」
確かに、それなりに興味をそそられる話ではあるけど。
一方的というのは、少しスリルが足りない。
結果がわかり切った勝負なんて、吟味するに値しない。
「それがどうかしたんですか? あれだけ派手に暴れ回ってたら、いい加減審判部やら執行部に《保護》される時期でしょう?」
この学園を正常の機能させるための最後の砦、あるいは治安の守り手。
規律を遵守させることを目的に動く審判部と、
生徒会長の意にそぐわない行為を働く生徒を御する生徒会執行部。
いくらこの学園の中でさえ抜きん出た存在でも、ここいる以上、彼らには敵わない。
「それが、今度の手合いはこれまでの比ではないらしいです。ついに先日、懸賞金が掛けられました」
「懸賞金?」
そこまでの――そこまでの、異常者なのか。
過去の記録を振り返ってみても、懸賞金が掛けられるまで増長できたのは三人に満たない。
しかし、これまでだろう。
懸賞金が掛けられたということは、学園内全ての人間を敵に回したということ。ここにしかいられない俺たちにとって、事実上の死刑宣告。
「……成る程。つまり、今日の議題は」
「ええ。元々いつか手を出そうとは思っていましたが、こうなった以上、事態は一刻を争います」
辻宮先輩は、音もなく立ち上がり、制服の袖口から、彼女の腕の長さほどある長杖を再び取り出し、
「――それでは。秩序を乱す不逞の輩に、せめて刹那の救済を」
銀細工を思わせる透徹の音色で厳かに宣言し、罪人に罪状を言い渡す裁判長のように、長杖を机に突き出した。
で。
律先輩は非常に単純明快な策を用意していて、計画はあっさりと完成した。けれど、さすがに日も暮れかけていたし、天候も不安定だったので決行は翌日ということになった。
「それにしても……律先輩、よくやるよな……」
その内容は、誰にでも思いつくけれど、誰一人実行しそうにない類のものだった。まず第一に相手を信用することから始まっているのだから、諸葛孔明もビックリの戦略だった。無節操な外聞や真偽の定かでない噂を判断基準として認めないところは、彼女らしいと言えばらしいけど。
敵を信じるだって? なんて――なんて、人間的な発想。
今にも降り出しそうな薄墨色の空を見上げながら、思う。
遥か向こうに聳え立つ、無機質というには威圧的過ぎる巨大な塀を視界の端に納めながら、思う。
隣を歩く、淡々と変化する背景の一挙手一投足に一喜一憂する少女――遠辺みつきの柔らかな手を握りながら、思う。
果たして、俺は人間なんだろうか、と。
もちろん、生物学的な意味で括るならば、疑う余地はないけれど。
形だって生存可能環境だって繁殖方法だって、一般人となんら変わりないけれど。
恐らく最も生物と無生物とを隔てる要因となるであろう《感情》というものが、一切合財欠けている俺は。
昔からこうだったわけじゃあ、なかったはずだけど。こんな歪な性質になってしまったのは、いつからだったろうか?
「くーや? ねぇ、聞いてる?」
「ん。聞いてるよ」
「うそ」
少しむくれたような表情で、俺の鼻先に指を突きつけるみつき。微風が耳の上で一つに纏められた彼女の髪を悪戯っぽく愛撫し、滑らかな曲線を描く。
「うん。うそだ」
隠しても仕様がないし、みつきは嘘が嫌いなので、正直に認める。細い指は俺の鼻を優しく押し、変形させた。例によって憤りは感じなかったけど、理不尽だと思った。
「もー。みんなといるときはそうでもないのに、なんで二人きりになると無視するの?」
いや、無視してるわけじゃないんだけど。
むしろ俺にとって、一番心地よい時間だ。
学校の帰り、みつきと同じ道をのたのたと歩く。
何一つ感じない非人間な俺と、一切に喜怒哀楽する超人間な彼女。
識別称号《透明な殻を嘆く雛》と、《普通、普遍、故に至高原石》。
最先端と最後端。始まらない異常と終わらない正常。混じり得ない単一と分かち得ない全一。どこにもいない無痛と、どこにでもいる鈍痛。
それが俺と彼女の立ち位置の違いであり、こうして二人が一緒いられる要因なのだ――と言ったら、きっと彼女は怒るだろう。
笑うべきときに笑えて、怒るべきときに怒れて、泣くべきときに泣ける。
別段特別な性質を持ち合わせているわけではなく、ただ正道を積み重ねただけで構成された彼女は、当然のように怒るだろう。それができる人間だから。
本当に――本当に、本当に、羨ましい。
だから俺は、彼女と一緒にいれば何か変われるんじゃないかと思って、努力を続けているつもりなんだけど。
成果、上がらないよな……。
やっぱ、救いないのかな、俺?
「そんなこと、ないよ」
……呟きが、聞こえていたらしい。悲しみを込めた声で否定したみつきは、不意に俺から手を離し、いつもの道を外れて小さな公園に入った。無言で後に続く。彼女は遊具に駆け寄るでもなく、公園の中央にゆっくりと移動し、まるで舞台の役者のように、くるり、と振り向いた。
「――孔谷透! あなたはわたしを信じますか!?」
突然の言葉。
思わぬ事態に、思考が数秒停止した。
答えは――考えるまでも、ないっていうのに。
「ああ。信じるよ、みつき」
世界で一番人間らしいお前を、孔谷透は信じています。
だって、お前を疑うんなら。世界で一番人間らしくないこの俺は、一体誰を信じろっていうんだ――?
「なら大丈夫。わたしは、遠辺みつきは――孔谷透は普通の子だって、とっても普通な人間だって、知ってるから」
励ますでも慰めるでもなく。
まるでそれが当たり前のように、言うまでもなく必然のように、繰り返すまでもなく当然のように、揺るぎようのない事実のように。
それは、根拠もなければ突拍子もない、宙に浮いた信頼だった。
そのあまりの儚さに、そのあまりの尊さに、彼女を直視できなくなる。
本当――なんて眩しいんだ、彼女は。
人を疑うことを知らず、傷つけられた過去は数えるまでもなく無数。
それでも変わらない姿勢は、いみじくも命名師が称したように、何人たりとも歪めること適わぬ原石なんだろう。
加工されることのない、始まりに始まり終わりが終わらない至高少女。
その普遍であり柔弱であるが故の強さに、俺は憧れて。
だから俺たちは、二人で一人だった。
今までずっと。
そして、これからも。
そう、思っていた。
第一章です。
実は、あらすじに登場する《I》というシステムは、本編の中ではほとんど語られなかったりします。まぁ、《箱庭》の中の人たちには関係のない話ですし。
そんなこんなで、続きます。