G02「家がカラフル」R01
「んー、地学準備室って左?」
B棟に入ったところで、悩んでしまった。
まよちゃんが壁の案内図にダッシュ。こっちを振り返って、にんまり。
「右っす! 間違いないっす!」
ハイタッチ。笑顔になる。
私たちの教室は、A棟の2階の西側。
同じ階でつながるB棟には専門教室ばかり。その先には、講堂と自転車置き場。
A棟の南側にはグラウンドやテニスコート。
部活が始まったら、教室まで声が届きそう。
学校の周りは林や畑で囲まれていて、車の音はほとんどしない。
「吹奏楽部の演奏も問題ありません。」と先生が言っていた理由が、ようやく分かった。
右に曲がって、キョロキョロしながらおしゃべり。
窓から射し込む光が床の白線を真っすぐ伸ばし、その上を靴底がコツコツと鳴る。
ほんのり漂うワックスの匂いに、まだ新しい校舎の空気を感じた。
「高校ってホント広いよね。」
「見学の時もガチで迷子になったっす。真宵、方向音痴の天才っす!」
「それ、才能じゃないと思う。」
そう言いながらも、肩をすくめて笑っていた。
「世界大会に出られるレベルっす!」
……イヤだ、そんな世界大会。選手がみんな迷子なんでしょ?
B棟の突き当たりが近付いても、地学準備室が見つからない。
「右だったよね?」
「無いっすねー、反対だったかも。」
ゴクリ。なるほど、これが世界を狙える実力……。
結局、渡り廊下を左に曲がった先だった。化学室と化学準備室を通り過ぎた3つ目。
ドアには『地学準備室』の白いプレート。
その下に楕円形の木製プレートがぶら下がっている。
マグネットのフックとチェーンで吊り下げられた、可愛い世界地図、モルワイデ図法だったかな?
真ん中に『地理研究部』と彫られている。
さらに下には、メッセージアプリ風の勧誘ポスター。
『地理研究部(通称・じおげ部)は部員を募集中で〜す』
『優しい美人の先輩が手取り足取り教えま〜す♡』
『地理研究部のおかげで試験で満点連発!』
『感謝しかありませ〜ん!』
まよちゃんはそのままの姿勢で、私はちょっと腰を落としてポスターを見て、思わず顔を見合わせる。
「美人の先輩はホントっすね。」
「手取り足取りって、ホントかなあ?」
「それ、信じていいやつっすか? うさんくささ満点っすね。」
「じゃ、入って確かめてみよっか。」
ドアの向こうから、かすかに歌うような声が聞こえてきた。外国語?
まよちゃんと顔を見合わせる。どうやら、部屋の中の誰かがしゃべっている。
耳をすませると、聞いたことのない響きがリズムを刻んで流れてくる。まるで呪文だ。
ノックする手が、緊張で途中で止まる。
もう一度と思った瞬間、その声がぐっと近くなって、ドアがスーッと開いた。
「テルヴェトゥロア〜!」
外国語? フリーズする。
「えっ?」
「はえっ⁉」
プラチナブロンドの先輩が、ふわっと笑って眼鏡越しに覗き込んできた。
部活紹介ではメガネしてなかった気が、と思った瞬間、奥から声。
「こら、あいの! いきなり分からん言葉であいさつするなって。」
声は低めだけどよく通り、本気で怒っているというより、呆れたような響きだった。
あいのと呼ばれた先輩はペロリと舌を出す。
「えへへ、びっくりさせちゃった? 『テルヴェトゥロア』は『ようこそ』って意味なのよ〜」
先輩の桜色の柔らかそうな唇が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
その声は日本語なのに、音の高低がほんの少し波打っていた。まるで海を渡ってきた風のように、やさしく揺れる。
ステージ上では遠くて分からなかったけど、瞳は澄んだ青みがかったグレー。
北欧の空を切り取ったような、吸い込まれそうな不思議な色。
先輩は少し腰をかがめて、滑り落ちた金髪を耳にかけ、ウットリしてしまった私とまよちゃんに小声でささやく。
「『美人の先輩はホント』なんて嬉しいわ〜」
「す、すいません、聞こえてるなんて思ってなくて。」
「あ、そのっす、えっと、ホンネしか言ってないっす!」
真っ赤になって、しどろもどろのまよちゃん。
先輩はフフっと小声で笑い、もう一度ささやく。
「美人って言われて気分が悪いヒトなんていないのよ〜?」
あ、ダメだ、心の中のイケない扉が開く音がする。
部屋の奥からの一声が、甘い夢から私たちを引き戻した。
「遠慮しないで入って。見学だよね?」
あいの先輩が「おいでおいで」と手招き。
「なんか、おとぎ話みたいっす。」
「うん、もうどうにでもしてって気分。」
ふわふわした気分。夢の中を歩いているような。でも、それが心地よいのか、ちょっと怖いのか、自分でも分からなかった。
まるで知らない国の駅前に立って、地図もガイドもないまま路地に足を踏み入れるような、そんな心細さとワクワクが入り混じっていた。
掌にはうっすら汗がにじみ、喉が少し乾く。
足は軽いのに、胸の奥だけが妙にざわついている。
それでも、扉の奥で待っている何かを知りたい好奇心と、引き返した方がいいかもしれないという小さな警戒心が、心の中でせめぎ合っていた。
最後に好奇心がほんの少しだけ勝って――私たちは、扉の中へと足を踏み入れた。




