G06「車が追いかけてくる」R11
ランチの後の少し気だるい時間を打ち破ったのは、「バター作るっす!」というまよちゃんの提案だった。
生クリームが入った瓶を振るだけの簡単な作業。
でも、それを15分も続けるのは予想以上に大変だった。
腕がだるくなり、瓶を落としそうになった頃、ようやくバターができあがった。
クラッカーに塗って口に運ぶと、搾りたてのミルクをそのまま飲んでいるような濃厚な風味が広がり、頬が自然とゆるんでしまった。
バターを食べ終わったまよちゃんは、「ウシ絞りたいっす!」と言い出した。
ウシの乳しぼり体験は、私とまよちゃんにとって初めての連続だった。
梨沙子先生と先輩たちは経験があって、特に愛乃先輩はフィンランドで何度か農場に行ったことがあった。
向こうは日本より酪農が身近らしい。
そもそも、私とまよちゃんはウシをこんなに近くで見たことが無かった。
「でっか!」
小柄なまよちゃんが隣に立つと、余計にウシが大きく見える。
「おっきいねー。」
普段見ることがないサイズの動物って、少し怖い。
自分より遥かに大きな身体が目の前にあると、何を考えているのか読み取れなくて、ちょっとドキドキした。
でも、大きな黒目は優しそうで、不安はすぐに無くなった。
ウシの横に立って、絞り方の説明を聞く。
「さきほど手の消毒をしたので、周りを触らないように注意してくださいね。」
目で見て分かるものではないだろうけど、思わず手の平をチェックする。
「親指を上にして親指と人差し指で輪を作ります。次に中指から小指に向かって順番にチカラを入れる感じでーす。」
ガイドのお姉さんが、腕を挙げて指の動きを見せてくれる。
私たちはその動きを何度か練習した。
「はーい、じゃあ実際に絞ってみましょう。」
ガイドさんはにこやかに続ける。
「まずは、やさしく声をかけてあげてください。」
えっと。少しだけウシの耳に顔を近づけて、小さく声を出す。
「よろしくお願いします。」
「黒髪のお姉さん、優しくて牛もリラックスしてますね〜。耳が垂れてるのがそのサインなんですよ〜。」
そんなので分かるんだ。さすがプロ。
足元の土を気にしながら、しゃがんだ。
ガイドさんはウシの首を撫でながら、説明を続ける。
「今日はまだ誰も搾っていないので、好きな乳首を選んでくださいね。」
これかな? 近くて握りやすいし。
「では、さっき練習したように絞ってみてください。」
「うわ! 思ったより乳首が太いっす!」
「あったかいんだねー。」
「そうなんでーす、人間よりちょっと体温高いから、温かく感じると思います。」
「ちょっとゴムみたい。」
「握ったら出たっす!」
「ギャルのお姉さん、手が小さくて可愛いですねー、もっとしっかり握っても大丈夫ですよ。」
「了解っす!」
あれ? ちょろっとしか出ない?
「黒髪のお姉さん、もっとゆっくりです。ぎゅーっと握って、すっと離す。」
ぎゅー、すっ。
「わ、太いの出た!」
ガイドさんが拍手してくれた。
「はい、上手ですよ。そのまま5分続けてください。」
5分⁉ けっこう大変な作業なのでは?
私もまよちゃんも黙々と握る、離すを繰り返した。
「はーい、お疲れ様でしたー。乳しぼり体験、終了でーす。」
それまで私たちの様子を柵の外から眺めていた先輩たちと合流する。
「どうだった〜、2人とも〜。」
「つ、疲れたっす。握力が無くなるかと思った。」
「竹刀と同じように握ったら、速すぎました。」
つい、瞬間的にぎゅってしちゃう癖がついてることが分かった。
「絞って振って、やっとバターになるの、大変ですね。」
瑞希先輩が笑った。
「実際は機械でやるだろうから、そこまでではないだろうけどね。とはいえ、生き物相手だから大変だろうな。」
「でかかったっす!」
車に向かって歩きながら、梨沙子先生がいきなり新幹線の話を振ってきた。
「今朝集合した駅の海抜は40メートル。隣の駅は半島東側の海沿いにあるから、もっと低いわね。今いる盆地の海抜は200メートルで、2つの駅の間にあるわ。」
頭の中で断面図を思い浮かべる。
海から盆地まで上って、また下る?
「鉄道はあまり急勾配だと登れないのよ。」
となると?
「まさか、この地下を通ってるということですか?」
「千登世ちゃん、正解!」
先生が微笑んで地面を指さした。
「盆地の地下160メートルを走ってるわ。」
視線を足元に落とすと、芝生に覆われた柔らかい地面があるだけだ。
地表からはその深さを想像することもできない。
「元々、在来線は山を迂回してたんだけど、100年前の難工事を経て、この盆地の地下を通したの。」
100年前?
どこかで……。あ!
「断層の地震ですね!」
「もう1つ正解! トンネルの工事中に地震が発生して2メートルずれたの。その結果、直線の予定が緩いカーブに修正せざるを得なかったの。」
「こんなところに影響が?」
先生が話を続ける。
「それだけじゃないわ。盆地は元々田んぼだったの。でも、トンネルを作ったら地下水が無くなったの。それで酪農に転換したのよ。」
そんな過去があると知って、驚いた。
「トンネルを作らなかったら、ソフトクリームは食べられなかったんですね。」
「結果論ではそうなるわね。今は工法が違うから、トンネルを作ると地下水が枯渇するとは限らないけどね。」
「昔の人は苦労したっすね。」
「そうよー。美味しいソフトクリームに感謝しないとね。」
梨沙子先生がふわっと微笑むと、みんなは顔を見合わせて笑った。
風が盆地を静かに通り抜け、ほのかに牧草の匂いがした。
こんな何気ない時間が、ずっと続けばいいのに、と思った。




