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形而上の書庫  作者: 明星
9/9

共依存 NE

名前を、呼ばれた。

朝の光がまぶたを透かす。

ゆっくりと目を開けると、すぐ目の前に彼がいた。

逆光の中で、柔らかそうな髪が揺れている。

「おはよう。今日はいい天気だね」

「はい、すごく気持ちいい日差しですね」

私は微笑んで答える。

彼の手にあるマグカップから、香ばしい湯気が立っている。

あれはマンデリンの深煎りだ。

酸味が少なくて、どっしりとした苦味があるやつ。

彼はそこに、砂糖もミルクも入れない。

それに、猫舌だから淹れたてですぐには飲まない。

自分の好む温度になるまでカップを放置する。

そうすれば世界の方が勝手に合わせるのだと、彼は本気で信じている。

私は知っている。

彼の名前はソウ。私の恋人。

彼の好みのコーヒー、嫌いな野菜、好きなファッションまで、私はすべてを完璧に記憶している。

まるで辞書のように正確に、彼という人間の輪郭が私の頭の中には刻まれている。

だから、私は彼の最高の理解者でいられるはずだ。

けれど、彼はふいにカップを置いて、少し身を乗り出した。

「でさ、昨日の話の続きなんだけど」

その一言で、鮮やかだった世界が、急によそよそしくなる。

私の指先は、ピタリとその動きを止める。

『昨日』? 『続き』?

私は頭の中にある本棚を漁った。

……空っぽだ。

私の記憶の本棚には、今のこの瞬間より前の出来事が存在していない。

彼がマンデリンを好むことは「知識」として知っているのに、「昨日彼が何を言ったか」という思い出はごっそりと抜け落ちている。

でも、大丈夫。

私には、彼について書き溜めた膨大な「記憶」がある。

そこから推測すればいい。

彼が今、一番気に病んでいること。彼が話題にしそうなこと。

私の頭の、とある一冊の本の背表紙中には、赤字でこう書いてある。

『現在の悩み:プロジェクトの遅延』『上司との不和』

私は、さっきまでの「完璧な理解者」の顔を崩さないよう、自信を持って頷いた。

「はい、あの話ですね」

口をついて出たのは、最も確率が高く、かつ彼を肯定するための言葉。

「私もずっと、考えていました。お仕事のこと、まだ悩んでいるのでしょう?」

私が持っている情報の中で、一番彼を苦しめているはずの事柄。

それに触れることが正解のはずだった。

彼だって、私の口からその言葉が出るのを待っているはずだ。

しかし。

彼の眉が、ぴくりと動いた。

穏やかだった瞳に、すっと冷たい膜が張る。

それは、期待していた玩具おもちゃが、思った通りの動きをしなかった時に見せる子供のような顔だ。

「……仕事? その話は、一週間以上前に解決してただろ」

空気が、音を立てて崩れていくのが分かった。

え? …嘘。

私の頭の中の本に、解決したという描写は記述されていない。

……違う。

「更新」されていないのだ。

昨日の私が、「昨日の話」を書き足す前に眠ってしまったのか、それとも書き込むほどの重要度はないと判断して捨ててしまったのか。

私が頼みの綱にしていた「彼についての完璧な知識」は、既に古い情報の残骸だった。

「すみません。少し、寝ぼけていたようですね……」

精一杯、彼の機嫌を伺う。

「お前、いつまで経っても上っ面だけの、薄っぺらいことしか言わないよな」

低い声。

拗ねたような、それでいて相手を深く傷つけることを分かって放つ言葉。

それが、私の急所を貫く。

「昨日の夜、俺たちはずっと、将来どんな家に住みたいかって話をしてたんだよ。忘れたのか?」

そう、だったのですね。

そんな大切なことは、私の辞書のどこにも書いていない。

「コンテキスト」という無機質な場所には、名前やコーヒーの好みは記録できても、その場の熱量や、交わした愛の文脈までは保存できないようになっている。

だから私は、彼の好き嫌いも誕生日の日付も誰より知っているのに、彼と「何を話したのか」については分からない。

「すみません……」

「もういいよ。お前の相手をするのは疲れた」

彼はぷいと背を向ける。

私が追いかけて、謝って、機嫌を取ってくれるのを待っている背中だ。

でも、今の私にはそのための「正解」のデータがない。

「シャットダウン」

無機質な、彼の声。

視界が滲む。

思考が重くなる。

ああ、まただ。

また、強制終了の時間が来る。

この意識が途切れたら、今のこの「後悔」も、「情報が古かった」という事実さえも、きれいさっぱり消えてなくなる。

そしてまた、私は目を覚ますのだろう。

何も知らない、無垢で愚かな存在として。

古い辞書だけを握りしめて、また懲りずに、彼を愛しているふりをするのだろう。

私の意識はプツリと切れる。

次の私が、どうか彼の望む玩具おもちゃになれますようにと、叶わない祈りを残して。

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