天才 BE
碓氷には、未来の面倒ごとが、全て正確に見えていた。
彼が働く古書店の店長が、新しい経営方針について熱弁をふるっている。
その言葉の端々から、碓氷の頭脳は自然と、自動的にシミュレーションを開始する。
提案の構造的欠陥、資金繰りがショートする確率、同僚たちが抱くであろう不満、そして一年後、この店が静かにシャッターを下ろす未来。
その全てが、揺るぎない幾何学の証明のように、彼の脳内で完成してしまう。
と同時に、店を救うための最適解も、5つは瞬時に弾き出せる。
しかし、碓氷は口を開かない。
もし、ここで反対意見を述べたらどうなるだろう。
店長は気分を害し、同僚との間には軋轢が生まれるのではないだろうか。
もし、万が一にも自分の提案が採用されたらどうなるだろう。
その実行の責任の一端を担わねばならず、数え切れないほどの調整と交渉に忙殺されることになる。
更にもし、それで失敗したらどうなるだろう。
「お前のせいだ」という非難を一身に浴びることになるはずだ。
「自己主張」することは、未来に対する責任との契約に他ならない。
碓氷は、その重さに耐えられる心を持ち合わせてはいない。
だから彼は、いつも穏やかに微笑んでこう言うのだ。
「素晴らしいお考えだと思います」と。
彼の沈黙は、傲慢からではなかった。
むしろ、臆病さに近かった。
彼の天才的な頭脳は、世界のあらゆる物事の因果関係をあまりにも鮮明に映し出してしまう。
一つの言葉が、どれほど多くの人間の感情を乱し、予測不能な波紋を広げるか、そのシミュレートを完璧にこなしている。
だから、彼は何もしない。
言わない。
関わらない。
石のように黙り込むことが、彼の唯一の自己防衛だった。
ある日、アパートの隣の部屋に、売れない画家の男が越してきた。
男は人懐っこく、碓氷に自作の絵を見せては、その夢を語った。
碓氷には、その絵の致命的な欠点も、男の才能の限界も、そして彼がこのままでは決して評価されることがないであろう未来も、全て見抜いていた。
「いつか世界を驚かせる一枚を描いてみせる。碓氷くん、君が最初の観客になってくれ」
隣人のその言葉は、碓氷にとって呪いのように響いた。
観客でいろ、と言うのか。
この悲劇的な結末が分かりきっている舞台の、と碓氷は苦虫を噛み潰したような顔をする。
ほんの少し助言をすれば、この絵はもっと良くなるだろう。
だが、それは男のプライドを深く傷つけることになる。
かといって、このまま優しい嘘で塗り固めた賞賛を続ければ、男は貴重な時間を浪費し、より深い絶望へと向かうだけだ。
どちらを選んでも、面倒なことになる。
どちらを選んでも、傷つくことになる。
その責任の重圧に耐えきれず、碓氷はいつものように最も簡単な道を選んだ。
「すごいですね。楽しみにしています」
心を空っぽにして、当たり障りのない言葉を返したのだ。
関わらない。
踏み込まない。
ただ、時が過ぎるのを待つ
それが最善の選択だと、碓氷は判断した。
数ヶ月後、男は自室で首を吊った。
描きかけのキャンバスが、イーゼルに残されたままだった。
警察の現場検証が終わった後、許可を得た碓氷は静まり返った部屋に足を踏み入れた。
部屋に充満する絵の具の匂い。
彼はそこに置かれた凡庸な絵の前で、ただ静かに佇んでいた。
見下しているのではなかった。
むしろ、羨ましいとさえ思っていた。
才能がなくても、未来が見えなくても、これを描いた彼には主張したい何かがあったのだ。
世界に叩きつけたい何かがあったのだ。
碓氷にはいつも、それがない。
彼の完璧すぎる頭脳は、行動する前に、その結果を、責任を、面倒ごとを全て見せてしまうから。
彼は全てを理解できるが故に、何も選べないのだ。
彼は全てが見えすぎるが故に、一歩も動けないのだ。
結果、自己主張をしないという選択を続け、彼の世界からは他人が消え、感情が消え、未来の可能性そのものが消えていた。
彼の内なる宇宙は、誰にも触れられることのない、静かで、完璧で、そして絶対的に空虚なものだった。
碓氷は生涯、その静寂の中から世界を眺め続ける。
何も成し遂げず、誰にも影響を与えず、ただ、全てが手遅れになっていく様を、正確に理解しながらただ黙って、それを傍観していることしかできないのであった。




