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形而上の書庫  作者: 明星
6/9

殺人 HE

ニュースキャスターが淡々と読み上げていく。

「…昨日未明、神代市のアパートで、夫婦が殺害されているのが見つかりました。

この事件で、警察は本日、隣の部屋に住む大学生、朝霧 誠容疑者(21)を殺人容疑で逮捕しました。現場には夫婦の幼い長女がおり、保護されていましたが、命に別状はないとのことです」

画面に、無機質なテロップが流れる。

【隣人トラブルか 殺人容疑で大学生を逮捕】

ニュースキャスターが続ける。

「捜査関係者によりますと、朝霧 誠容疑者は容疑を認めており、動機についてこう話しているということです」

画面が切り替わり、警察署から出てくる、表情の抜け落ちた若い男の映像が映し出される。

無数のフラッシュ。

怒号のような質問。

若い男、朝霧 誠はボサボサに伸ばした長い髪で目元を隠しており、その真意は計り知れない。

【朝霧 誠容疑者の供述】

とテロップが表示される。

「隣の部屋から聞こえる、子供の泣き声に我慢ができなかった」

それ以上でもそれ以下でもないかとでも言うように、テロップの言葉は無機質に思えた。

偉そうな肩書を持つコメンテーターが難しい顔をして言う。

「現代社会の歪みが凝縮されたような、痛ましい事件ですね。近隣とのコミュニケーションが希薄になる中で、本来なら地域で支えるべき子育ての音が、彼にとっては攻撃的な『騒音』としか認識されなかった。自分本位で、あまりに身勝手な動機と言わざるを得ません…」


……テレビの中の見知らぬ誰かが、僕のしたことをそう呼んだ。

身勝手な動機、と。

それは確かに間違いではない。

でも、本当のことでもない。

本当のことは僕と、救われたあの少女だけが知っていればいいと、僕は思っているのだ。


僕の人生は、いつからか、いつまでも空っぽだった。

目的もなく大学に通い、意味もなくアルバイトをして、誰かと深く関わることもなく、ただ息をしているだけの毎日。

例え僕がこの世界から消えても、きっと誰も気づかないだろう。

そんな、いてもいなくても誰に何の影響も与えない、無力な存在だった。

そんな僕の日常に、唯一突き刺さってきた「現実」が、隣の部屋から聞こえる少女の泣き声だった。

一般的に世間の人々が眉をひそめるのは、親の怒声や、子供の火がついたような泣き声だろう。

僕もそんな「騒音」は好きじゃない。

だけど、本当の地獄は、もっと他にあったのだ。

極めて静かに行われた行為の後の、死のような静寂。

その静寂を、注意深く聞いていると、壁の向こうから伝わってくる、ひっ、ひっ、と、途切れ途切れに空気が漏れる音。

しゃくりあげるのを必死に堪え、自分の存在そのものを消そうとしている、小さな呼吸。

それは、助けを求めることを諦めた者の音だった。

魂が、自らの声を殺す音だった。

その音を聞くたびに、僕は自分のことのように感じた。

誰にも気づかれず、世界に存在しないかのように、息を潜めて生きている。

壁の向こうの少女と僕は、同じだと思った。

そして、僕の空っぽだった心の中に初めて、一つの感情が芽生えたのだ。

「この音を、止めなければならない」

それは、僕の人生で初めて生まれた、明確な「目的」だった。

あの子を僕と同じ世界から救い出す。

そのためなら、何でもできる。

初めて、自分の「生」というものを実感した。

僕は、計画を立て始めた。

夫婦の生活リズム。

ゴミ出しの曜日。

アパートの構造。

何の感情も持たない空っぽだった頭で、必死に考えた。

それは、僕にとって生まれて初めての、情熱だったと言えるのかもしれなかった。


その夜、いつもの僅かな音のあと、ついに「声にならない声」さえも聞こえなくなった。

僕は、限界だと思った。

今日がその時なのだと、悟った。

ベランダを乗り越え、隣の部屋へと踏み込む。

その後の記憶は、不思議と鮮明だ。

とても晴れやかな気分で、恐怖も、罪悪感もなかった。

空っぽだった僕が、生まれて初めて、世界に対して起こすアクション。

僕はただ、僕の「目的」を、淡々と遂行した。

許されざるべき者を、絶対的な正義のもとで叩き伏せる。

僕はその行動に快楽さえも覚えたのだ。

全てを終えた後、僕は部屋の隅で震える少女の前に、静かにしゃがみこんだ。

「もう大丈夫。もう、大きな声で泣いていいんだよ」

少女は、ただ僕の顔をじっと見つめていた。

僕が望んでいたような、はっきりとした意思表示はなかったが、それでも少女は安堵の表情を浮かべているはずだ。

僕は、部屋を出なかった。

警察が来るまで、ただそこに座って、少女が怯えないように、静かにそばにいた。

僕の目的は、逃れることではないからだ。


その後僕は逮捕された。

動機については世間が望む通りの、しかし真実ではない言葉を告げた。

「子供の泣き声に、我慢ができなかった」と。

僕は2人を殺害したことで、無期懲役の判決を受けた。

刑務所の冷たいコンクリートの壁に囲まれた生活。

それは、僕が以前暮らしていた、空っぽの世界と何も変わらなかった。

だが、今の僕は、もう空っぽではなかった。

僕は誰かにとっての特別になれたのだから。

誰にとっても無害な、空気のような存在ではなくなったのだから。


数年後、僕は刑務所内で、一冊の雑誌に載っていた小さな記事を見つけた。

それは児童養護施設で暮らす子供たちの特集だった。

その中にあった一枚の写真。

そこには公園のブランコを思い切り漕いで、空に向かって、満面の笑みを浮かべている少女がいた。

それは僕が救った、あの女の子だった。

その写真を見た瞬間、僕の目から、涙が溢れて止まらなくなった。

それは生まれて初めて流す、温かい涙だった。

僕の人生は、この場所で終わる。

いずれ誰からも忘れられ、壁のシミになることすらできず、いつか消えていくだけの、無価値な人生。

でも、僕はこの世界に、たった一つだけ、確かな「爪痕」を残すことができた。

それは一人の少女の笑顔。

僕が、空っぽの人生の全てと引き換えにして、守り抜いたもの。

あの少女にとっての、ハッピーエンド。

そしてそれは同時に、無意味だった僕の人生にとっての、唯一にして最高の、ハッピーエンドだった。

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