殺人 HE
ニュースキャスターが淡々と読み上げていく。
「…昨日未明、神代市のアパートで、夫婦が殺害されているのが見つかりました。
この事件で、警察は本日、隣の部屋に住む大学生、朝霧 誠容疑者(21)を殺人容疑で逮捕しました。現場には夫婦の幼い長女がおり、保護されていましたが、命に別状はないとのことです」
画面に、無機質なテロップが流れる。
【隣人トラブルか 殺人容疑で大学生を逮捕】
ニュースキャスターが続ける。
「捜査関係者によりますと、朝霧 誠容疑者は容疑を認めており、動機についてこう話しているということです」
画面が切り替わり、警察署から出てくる、表情の抜け落ちた若い男の映像が映し出される。
無数のフラッシュ。
怒号のような質問。
若い男、朝霧 誠はボサボサに伸ばした長い髪で目元を隠しており、その真意は計り知れない。
【朝霧 誠容疑者の供述】
とテロップが表示される。
「隣の部屋から聞こえる、子供の泣き声に我慢ができなかった」
それ以上でもそれ以下でもないかとでも言うように、テロップの言葉は無機質に思えた。
偉そうな肩書を持つコメンテーターが難しい顔をして言う。
「現代社会の歪みが凝縮されたような、痛ましい事件ですね。近隣とのコミュニケーションが希薄になる中で、本来なら地域で支えるべき子育ての音が、彼にとっては攻撃的な『騒音』としか認識されなかった。自分本位で、あまりに身勝手な動機と言わざるを得ません…」
……テレビの中の見知らぬ誰かが、僕のしたことをそう呼んだ。
身勝手な動機、と。
それは確かに間違いではない。
でも、本当のことでもない。
本当のことは僕と、救われたあの少女だけが知っていればいいと、僕は思っているのだ。
僕の人生は、いつからか、いつまでも空っぽだった。
目的もなく大学に通い、意味もなくアルバイトをして、誰かと深く関わることもなく、ただ息をしているだけの毎日。
例え僕がこの世界から消えても、きっと誰も気づかないだろう。
そんな、いてもいなくても誰に何の影響も与えない、無力な存在だった。
そんな僕の日常に、唯一突き刺さってきた「現実」が、隣の部屋から聞こえる少女の泣き声だった。
一般的に世間の人々が眉をひそめるのは、親の怒声や、子供の火がついたような泣き声だろう。
僕もそんな「騒音」は好きじゃない。
だけど、本当の地獄は、もっと他にあったのだ。
極めて静かに行われた行為の後の、死のような静寂。
その静寂を、注意深く聞いていると、壁の向こうから伝わってくる、ひっ、ひっ、と、途切れ途切れに空気が漏れる音。
しゃくりあげるのを必死に堪え、自分の存在そのものを消そうとしている、小さな呼吸。
それは、助けを求めることを諦めた者の音だった。
魂が、自らの声を殺す音だった。
その音を聞くたびに、僕は自分のことのように感じた。
誰にも気づかれず、世界に存在しないかのように、息を潜めて生きている。
壁の向こうの少女と僕は、同じだと思った。
そして、僕の空っぽだった心の中に初めて、一つの感情が芽生えたのだ。
「この音を、止めなければならない」
それは、僕の人生で初めて生まれた、明確な「目的」だった。
あの子を僕と同じ世界から救い出す。
そのためなら、何でもできる。
初めて、自分の「生」というものを実感した。
僕は、計画を立て始めた。
夫婦の生活リズム。
ゴミ出しの曜日。
アパートの構造。
何の感情も持たない空っぽだった頭で、必死に考えた。
それは、僕にとって生まれて初めての、情熱だったと言えるのかもしれなかった。
その夜、いつもの僅かな音のあと、ついに「声にならない声」さえも聞こえなくなった。
僕は、限界だと思った。
今日がその時なのだと、悟った。
ベランダを乗り越え、隣の部屋へと踏み込む。
その後の記憶は、不思議と鮮明だ。
とても晴れやかな気分で、恐怖も、罪悪感もなかった。
空っぽだった僕が、生まれて初めて、世界に対して起こすアクション。
僕はただ、僕の「目的」を、淡々と遂行した。
許されざるべき者を、絶対的な正義のもとで叩き伏せる。
僕はその行動に快楽さえも覚えたのだ。
全てを終えた後、僕は部屋の隅で震える少女の前に、静かにしゃがみこんだ。
「もう大丈夫。もう、大きな声で泣いていいんだよ」
少女は、ただ僕の顔をじっと見つめていた。
僕が望んでいたような、はっきりとした意思表示はなかったが、それでも少女は安堵の表情を浮かべているはずだ。
僕は、部屋を出なかった。
警察が来るまで、ただそこに座って、少女が怯えないように、静かにそばにいた。
僕の目的は、逃れることではないからだ。
その後僕は逮捕された。
動機については世間が望む通りの、しかし真実ではない言葉を告げた。
「子供の泣き声に、我慢ができなかった」と。
僕は2人を殺害したことで、無期懲役の判決を受けた。
刑務所の冷たいコンクリートの壁に囲まれた生活。
それは、僕が以前暮らしていた、空っぽの世界と何も変わらなかった。
だが、今の僕は、もう空っぽではなかった。
僕は誰かにとっての特別になれたのだから。
誰にとっても無害な、空気のような存在ではなくなったのだから。
数年後、僕は刑務所内で、一冊の雑誌に載っていた小さな記事を見つけた。
それは児童養護施設で暮らす子供たちの特集だった。
その中にあった一枚の写真。
そこには公園のブランコを思い切り漕いで、空に向かって、満面の笑みを浮かべている少女がいた。
それは僕が救った、あの女の子だった。
その写真を見た瞬間、僕の目から、涙が溢れて止まらなくなった。
それは生まれて初めて流す、温かい涙だった。
僕の人生は、この場所で終わる。
いずれ誰からも忘れられ、壁のシミになることすらできず、いつか消えていくだけの、無価値な人生。
でも、僕はこの世界に、たった一つだけ、確かな「爪痕」を残すことができた。
それは一人の少女の笑顔。
僕が、空っぽの人生の全てと引き換えにして、守り抜いたもの。
あの少女にとっての、ハッピーエンド。
そしてそれは同時に、無意味だった僕の人生にとっての、唯一にして最高の、ハッピーエンドだった。




